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函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

昭和の名曲「心のこり」

2020年12月27日 14時28分33秒 | えいこう語る
▼戦後廃止された道徳教育が、近年義務教育で復活した。それは時の政権(シンゾウ)が、教育現場に押し込んだのだ。

▼一般的に道徳は、国家平安のために必要な要素として、無批判的に受け入れられている。「道徳なき社会」は、無秩序だと考えられるからだ。

▼しかし、世間の常識に反し【シンゾウの嘘】を、特捜が不起訴にした。それは道徳に詳しくなくても、道徳に反する行為だと誰もが考えている。

▼道徳心なき当時の総理が、義務教育に道徳の教科化を行ったのは、不道徳極まりない行為だ。そうであれば特捜はもちろんだが、文科省も道徳ある組織とは言えない。

▼つまらないことを言うようだが、公然と博打を重ねる検事総長候補や、イジメよる子供の自殺を、何ら解決できない校長がいる社会は、道徳が行き届いていないということだ。

▼人間なんて、所詮地球環境ばかりでなく、人間環境を悪化させる、悪魔に過ぎないのではないかと思うことがある。そう考えるのも「表現の自由」の範疇らしい。

▼そんな、曖昧な存在の人間が生きてゆく手段に【棚上げ論】?がある。自分のことを棚に上げるという「言論の自由」も、憲法で保障されているからだ。

▼表現の自由は憲法で保障されているとしても「シンゾウの嘘」は、絶対容認できない。なぜ「偽証罪」に問われないかを、道徳の時間で生徒に討論させてほしい。

▼「道徳の教科化」とは、そんなディベートがあって、実効性を増すのではないかと考えるからだ。ハーバード大の、マイケル・サンデル教授の授業スタイルを、取り入れてもらいたいものだ。

▼「天皇制は学校に残っている」と感じることがある。同じ教員なのに、校長が特別偉く感じるからだ。校長が「学校の天皇」であってはならないからだ。

▼なぜこんな「棚上げ論」をぶちまけるかと言えば、昨夜の夢にシンゾウが現れて、私が「やめて―」というのに、大音量でカラオケを歌い始めたからだ。

▼この結末は最後に書くが、シンゾウの18番の歌に、私の脳もシバレ、柔軟性を失ってしまったからだ。そこで少しは頭の解凍を試みてみる。

▼道徳とは【ある社会でその成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般的に承認されている規範の総体。法律の様な外面的強制力を伴うものではなく、個人の内面的原理。今日では自然や文化財や技術品など、事物に対する人間の在るべき態度も含まれる】広辞苑。

▼「道徳の教科化」とは、子供時分から国家が容認する道徳の基準を、強制的に教え込むということだ。義務教育とは、国家そのものを支える洗脳機関ではないか。

▼となれば「嘘つき総理」というレッテルが張られた、シンゾウの教育改革は、納得がいかない。主権在民の国で、総理が嘘をつくというのは、一番道徳心に欠ける行為だからだ。

▼さて「棚上げ論」を主張してばかりだと、自分の心も、ちょっぴり痛む。そこで「シンゾウのカラオケのことだ。

▼先日亡くなった作詞なかにし礼・作曲中村泰士の名コンビの曲。細川たかしの「心のこり」を何度も歌っていた。

▼♪私バカよね おバカさんよんね
  うしろ指 うしろ指 さされても♪
何度もかみしめながら歌っていた。歌慣れているのか結構上手だった。

▼ふと思い出したことがある。この曲名「心のこり」は、当初「私バカよね」だったという。シンゾウはそのことを知っているのだろうか。

▼ということで、今日のテーマが、シンゾウ不起訴による、国民の「心のこり」となった次第です。


     道徳を肴の酒はまずい
              三頭下