この記事では、デヴィッドのサウンド・プロジェクトを紹介。
宇野港でいただいた小さなパンフレットには、
「abandon hope(望みを捨てる)」のタイトルの意味は、ここにあるのだろう。
今会期中は、この「Kiosk」という車両が宇野港周辺を巡り(主にフェリー乗り場と、アートスペース「Una」の間を往復)、車のスピーカーでサウンドスケープ(音の風景)を繰り広げる。チャイムの後、女性が様々な格言を読み上げるサウンド作品で、ハイデガーやバタイユ、ラッセルの詩が港に流れ出す。
この車両は、アラーキーの写真でラッピングされており、物珍しさに写真を撮る人は多いが、スピーカーから、
この車両ではまた、町を歩きながら聞くためのサウンドを収録したピンバッチ型携帯プレーヤーも貸し出してくれる。(デポジット料金として2,000円を払い、プレイヤー返却時に全額返してもらえるシステムだが、金額設定が高いと利用者があまりいないのではないか。)ちなみにこのサウンドは、パンフレットを見ると、
これもデヴィッドによる、「町に共鳴するサウンド作品」の一環らしく、イヤホンから流れる音楽を聴きながら、音と町が一体となった風景を体験することをねらいとしているのだろう。
波止場のボラード(繋船柱)に腰を下ろし、音楽を聴いてみた。
デヴィッドが全部作ったと言われても、きっとわからないだろう。
『錬金術』(1985)や『ゴーン・トゥ・アース』インストゥルメンタル編(1986)以来聞き慣れている感じの環境系音楽で、何か懐かしい感じさえする。
浮遊感漂うシンセサイザー、金属音、人の声(たぶんデヴィッドの声も)、ノイズ、鳥の鳴き声など、たくさんの音が入っている。
それらが、港の波の音、風の声、船のエンジン音、人の足音、話し声といった自然の音、生活の音と混じり合い、いつしか「私」だけのサウンドスケープが形成されていく…。
デヴィッド・シルヴィアンやサウンドアートに関心のない人でも、携帯プレーヤーから流れる音楽を聞き流しながら宇野の町を歩いたり、フェリーに乗って島めぐりをしているうちに、きっと風景の見え方が変わってくることを実感するだろう。
会期中にぜひ多くの人が、サウンドでも現代アートを体験してほしいと思う。
宇野港でいただいた小さなパンフレットには、
“to live without hope is to live in the present.”
I like the state of hopelessness.
Hope really does tend to get in the way.
It takes you out of the present towards an ideal.
To live without hope but without a loss of love for life…
that's a great starting place
It seemes to me.
「生は希望の中にはなく現在の中にある。」
私はこの希望のない言葉が好きだ。実際、希望とはこのようなものだ。
観念に向かえば現在を見失ってしまう。
愛が姿を現すためには、希望が沈黙しなければならない…
それこそが善き始まりではないかと私には思われるのだ。
というデヴィッドの言葉とその訳が書かれていた。I like the state of hopelessness.
Hope really does tend to get in the way.
It takes you out of the present towards an ideal.
To live without hope but without a loss of love for life…
that's a great starting place
It seemes to me.
「生は希望の中にはなく現在の中にある。」
私はこの希望のない言葉が好きだ。実際、希望とはこのようなものだ。
観念に向かえば現在を見失ってしまう。
愛が姿を現すためには、希望が沈黙しなければならない…
それこそが善き始まりではないかと私には思われるのだ。
「abandon hope(望みを捨てる)」のタイトルの意味は、ここにあるのだろう。
今会期中は、この「Kiosk」という車両が宇野港周辺を巡り(主にフェリー乗り場と、アートスペース「Una」の間を往復)、車のスピーカーでサウンドスケープ(音の風景)を繰り広げる。チャイムの後、女性が様々な格言を読み上げるサウンド作品で、ハイデガーやバタイユ、ラッセルの詩が港に流れ出す。
この車両は、アラーキーの写真でラッピングされており、物珍しさに写真を撮る人は多いが、スピーカーから、
真の独創性は、言葉が終わった地点から始まる。(ケストラー)
人は、いつか必ず死ぬということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない。(ハイデガー)
などという朗読が聞こえてくるので、何か怪しいもののように引いていたのが残念だった。人は、いつか必ず死ぬということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない。(ハイデガー)
この車両ではまた、町を歩きながら聞くためのサウンドを収録したピンバッチ型携帯プレーヤーも貸し出してくれる。(デポジット料金として2,000円を払い、プレイヤー返却時に全額返してもらえるシステムだが、金額設定が高いと利用者があまりいないのではないか。)ちなみにこのサウンドは、パンフレットを見ると、
Written and produced by Taylor Deupree
curation:david sylvian
となっていた。NYのサウンドアーティスト・デザイナー・写真家のテイラー・デュプリーが作曲・プロデュースしたものを、デヴィッドが編集したということのようだ。curation:david sylvian
これもデヴィッドによる、「町に共鳴するサウンド作品」の一環らしく、イヤホンから流れる音楽を聴きながら、音と町が一体となった風景を体験することをねらいとしているのだろう。
波止場のボラード(繋船柱)に腰を下ろし、音楽を聴いてみた。
デヴィッドが全部作ったと言われても、きっとわからないだろう。
『錬金術』(1985)や『ゴーン・トゥ・アース』インストゥルメンタル編(1986)以来聞き慣れている感じの環境系音楽で、何か懐かしい感じさえする。
浮遊感漂うシンセサイザー、金属音、人の声(たぶんデヴィッドの声も)、ノイズ、鳥の鳴き声など、たくさんの音が入っている。
それらが、港の波の音、風の声、船のエンジン音、人の足音、話し声といった自然の音、生活の音と混じり合い、いつしか「私」だけのサウンドスケープが形成されていく…。
デヴィッド・シルヴィアンやサウンドアートに関心のない人でも、携帯プレーヤーから流れる音楽を聞き流しながら宇野の町を歩いたり、フェリーに乗って島めぐりをしているうちに、きっと風景の見え方が変わってくることを実感するだろう。
会期中にぜひ多くの人が、サウンドでも現代アートを体験してほしいと思う。