ぶちょうほうの画(え)日記(一語一画(え))

亭主「ぶちょうほう」の身の周りのいろいろな風物を「画(え)日記」ふうに綴っています。

5/26 御堂山・相楽山・砥神山 その5(最終):砥神山から下りて、車を置いたとよおか湖に戻る

2015-06-06 07:28:47 | 草花
このシリーズ最終記事になります。
御堂山・相楽山・砥神山と歩いてきましたが、砥神神社奥宮の参道になっている、長くて急な石段を下りて、一般道に出た後は、その道を歩いて、駐車位置まで戻ります。

車に戻ってから、山中で出会ったご夫婦から、一箇所だけササユリが咲いていた・・・という情報を得ていましたので、それを確認しに行きます。

ソクシンラン ↓

こんなところに・・・・と言うような場所でソクシンランを見ました。


辞世の石碑 ↓

石碑に「こんとんをひらきて今や天地の始発のときと祈り行くなり  庄平」とあります。
ネット上で調べてみると 影山庄平という人のことで、この方は大正-昭和時代前期の国家主義者。
明治19年2月14日に愛知県豊橋に生まれ。神職となり、大正4年神道興徳会を創立。
大正11年に大道宣布準備のためにこの砥神山に入山し、七年に及ぶ山籠をしたそうです。

昭和14年長男正治と大東塾をおこし、19年塾長代行となる。終戦直後の20年8月25日東京代々木練兵場で塾生13名とともに自決。60歳だったそうです。この辞世はそのときに遺されたものです。

自決の地・代々木練兵場あとの公園内に石碑が建っていて、それには
「大東塾十四烈士自刃の処の碑文」とあり、以下のものがしたためられているそうです。

昭和二十年八月二十五日早暁 元代々木練兵場の一角なる此の処に於いて 塾長代行影山庄平翁以
下十八歳の少年に至る十四名の大東塾々生 古式に則り一斉に壮烈極まりなき割腹自刃を遂げ 以て
大東亜戦争の大難に殉じ祖国再建の尊き人柱に立つ

共同の遺書は
「清く捧ぐる吾等十四の皇魂誓って無窮に皇城を守らむ」とあるそうです。



参詣道を下っていく ↓

荷物運搬用のモノレールと、ステンレスの手摺に挟まれた、石段の道を下っていきます。



揚荷装置 ↓

モノレールにこれを跨がせてありました。神社に運ぶ物資をこれで運び揚げるのですね。


ヤブジラミ ↓

花は見ませんでしたが、ヒッツキ虫と化した実はありました。なるほどシラミのように着いてきますね。


害獣避けフェンス ↓

出口はフェンスでがっちりと囲まれています。


出入り口 ↓

開けた扉は必ず閉めてください・・・・・と人の世の常識が書かれています。


下山地点 ↓

水利施設のすぐ脇に下りてきました。


ヨウシュヤマゴボウ ↓

つぼみが着き始めています。


張り巡らされたフェンス ↓

この辺りでも、鹿の被害が広がっているようですね。


ウツギ ↓

日当たりの良い道路際で、ウツギの花を見ていきます。


みかん畑 ↓

蒲郡は中京圏で有数の、みかん産地です。


遠望峰山 ↓

四月に歩ききらなかった遠望峰山が、前山の背後に見えています。


コバンソウ ↓

終着間際で、道端にコバンソウが出てきました。


ドクダミ ↓

こういう草が出てくると、もう平地と違わなくなります。


ダムサイト ↓

車を置いた場所に着きました。


湖面 ↓

とよおか湖の湖面を見ます。 このあと車に乗って、ササユリを見に行きます。


ササユリ ↓

車道脇で、確かに一輪だけ咲いていました。


ササユリ ↓

今年の初花は白みの強いものでした。 これを見てから帰路に就きます。
コメント (4)
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