私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

震度5程度の地震か

2011-05-28 09:44:43 | Weblog

 此の時の地震の震度についてですが、家屋の倒壊はなく、只、落ちてきた屋根瓦によって死傷者がおびただしく出たというのですから、大体、震度五程度のものではなかったかと思われます。それに対して方丈記にある「ないふる」と記された京都を襲った地震は、家屋の倒壊に伴う火災等も発生しているので、七程度の神戸を中心とした兵庫県南部の地震と同程度の震度があったのではないかと推定しています。

 今回のような震度九何て希有な激震の地震ではなかったにせよ、この文政13年の城戸千楯が記録した地震は、その後の余震はについても、今回のような規模ではないにしても、次のように、相当長く続いたと記されています。

 「・・・・・・さて、打ち続きて暮れ時より夜に至り、只ドウドウと世間鳴動して、最初のほどにはあらねど、動りつづけて三日曙の頃に至りて少しおたやかなりぬれば、皆々少し人心ちになりぬれど、猶ドウドウと何方ともなく鳴動止まず。此の二日の夜の京中大道に畳を敷板にならべ、飲食等此所にて皆相したためたり、種々の浮説まじなひ等、又は盗賊の噂等かまびすく、町役の人々は火事装束にて夜廻りをし、火の元大切の事申合す。・・・・・」
 
 と書かれています。
 
 家の中だと、何時、揺り戻しがあるか分からず、人々の大方は畳を道に出して寝たというのです。食事もその道でしたのでしょうか。「相」とありますから、お互いさまだと一緒になって食事を取り合っただろうその光景が見られたというのです。
 此の事は、今回の東北地方大地震でも、あの神戸の時でも同様な行動が生まれていたのです。と云う事は、日本の歴史が始まった時ぐらいから「災害にあったのはお互い様だ。みんで助けあって生きて行こう」という相互依存の社会が出来上がっていたという事です。他の外国の国では、決して、見られる事が出来ない日本独特な特色をもつ社会構造だと思われます。見知らぬ人とでも安易に結びつく事が出来る社会の横の絆の深さだろうと思われます。

 又、千楯は、今ではすたれてしまったのですが、地震の時に、当時の誇り高い文化の中心地「京都」でも行われていた、誠に奇妙奇天烈な風習も書き残してくれています。現代社会では考えられないような風習があったと云う事も分かります。