私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

国学者、千楯の記録

2011-05-31 09:49:54 | Weblog

 城戸千楯は、只余震の回数だけではありません、その時々の人々の動きも書いているから興味が余計にそそられるのです。例えば
 
 「三日終日何方ともなくドウドウと鳴動地震やまず、折々大きなるは八九十遍にやあるらん、数は覚えず其度に人々肝にこたえて恐るゝ事世間一統なり。今宵も大道にて夜を明かす、盗賊火附又は重て大地震ゆり侯などゝ、浮説益甚敷物騒なり、二日夜も今夜も近辺の藪を求め、又は賀茂河原東西の野辺へ、出る人も甚おびただしくあり」

 と。
 風評と云いましょうか、あらぬ噂がしきりと流れたという事が分かります。文政13年です。マスコミ等による報道が全くと言っていいほどなかった時代です。噂が独り歩きして、自分勝手な想像がそこら辺りをやたらに飛び交い、「浮説益甚敷物騒なり」のは当然だと思います。京の町中の人々の右往左往した様子が手に取るように分かります、騒動そのものであったのです。
 「此の次は、これ以上の大「ゆり」が来るなどと云う、とんでもない噂までもが飛び交います。当然、身の安全を考えれば、人々が近所の藪をめがけて殺到しただろうことは想像がつきます。さらに、その上に強盗や火付の噂もです。尋常なる右往左往ではなかったと思われます。
 でも、何はともあれ、「命あってのものだね」とばかりに人々が賀茂の河原に押し掛けて行ったのは当然な事だと思います。家屋の倒壊などによる圧死や怪我などにはあいませんもの。まして、現在のように避難場所など指定はなかったのですから。
 
 当時の京の人口は30万ぐらいだと言われています。その内のどれだけの人が河原に避難したのでしょうか、兎に角、河原の両岸はどこも大変な混雑だったと思われます。「甚おびただしくあり」としか書かれてはいませんが。