私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

慈悲

2011-05-16 11:16:24 | Weblog

 かって、五木寛之さんは、その講演の中で、「慈悲」に付いて次のように語られています。

 「仏教には『慈悲』と云う言葉があります。『慈』とは励ましであり、ヒューマニズムであり、希望であり、明るく、近代的でなじみやすい。しかし、『悲』は慰めであり、思わず知らず発するため息、うめきのような感情であり、本能的で、古めかしく、前近代的だとして、戦後の日本は目をそむけ、排除してきたのではないか」として、この『悲』の感情をきちんと受け止めるこころを持つ事が大切だとお話になられました。

 又、広辞苑では、『慈悲』について、「仏が衆生に楽を与えるのを慈、苦を除くを悲という」と、あります。

 この「慈悲」と云う言葉を揮毫した犬養毅の色紙を持っています。それも、あの5・15事件の直前に書いていただいた木堂の最後の揮毫です。

                         

 昨日の「不躁」の掛け軸よりも、大層柔らいと云うか、何となく慈しみ深さが思われるような筆さばきが感じられます。「木堂七十八叟」と云う字と相まっって、調和のとれた、誠に、ほれぼれするような見事な書だ、と、思っています。私の自慢のお宝です。
 なお、私は、この字こそが、近頃一段と、最も、木堂の木堂らしい字ではないかと思えて仕方ありません。
 また、この色紙の字を見ていると、「話せば分かる」と、呼びかけた海軍の青年将校にたいして、期せずして、人には「慈悲のこころ」が大切だよと、その事前に語らっているかのようさえ思われるのですが。

 毎年五月十五日には、必ず、床の間に掲げて、陰ながら木堂の遺徳をしのんでいます。

 

 なお、昨年の(2010)の5月15・16・17日にも、木堂に付いて、同じような内容で書いていますのでご覧いただけると幸いです。


この漫画、誰か分かりますか?

2011-05-15 13:07:04 | Weblog

 この漫画、誰だかお分かりですか。

             

 

 大正14年(1925年)加藤高明内閣の時に逓信大臣であった犬養毅の漫画です。此の時、既に70歳でした。その途中で大臣の職を辞し、独り富士見高原の山荘に引きこもり、そこで静かに余生を送ります。でも、世間はそれを認めません。次の総選挙の時に、地元岡山の支持者たちが、勝手に立候補させて、勝手に当選させてしまうのです。70歳になっても、当時の日本では、まだ、その人物を国際的にも国内的にも政治の舞台に無理やりにでも引っ張り上げなくてはならないほどの特異な人物だったのです。それだけ当代に希有な人物だという証明にもなります。
 備中庭瀬て生まれています。

 このようにして、彼は、いやいやながらでも政界に復帰させられます。そして、又またいやいやながらに、今度は政友会の総裁にまでならされます。さらに、そのいやいやは続きます。そして、ついに、昭和6年には内閣総理大臣に任命される羽目になります。いやだいやだの人生行路の末日が近づいている事にも気が付かずにです。この時、当の犬養の頭髪は薄く真っ白でしたが、斎藤実盛よろしく黒く染めて総理に就任したという逸話まで残っています。
 その彼が翌昭和7年(1932年)5月15日、そうです、今日、総理官邸で海軍の青年将校の為に暗殺されます。その事件が5・15事件なのです。
 「話せば分かる」と云う言葉はあまりにも有名です。しかし、彼がその死ぬ間際になって行った言葉の、その言葉の出所をお知りのお方はいないのではないかと思われます。どうでしょう。

 私は彼の書を一幅持っています。その中には次のような文言は書かれています。

        

 

 「心静則衆事不躁」と。
 これは「心静かにして、ゆっくりと話し合いをすれば、そん何ワイワイ騒ぎたてる事はなく、総てのものは解決できますよ。話し合う事が大切だ」。
 と、云う意味なのだそうです。
 これこそ、彼の最期の言葉、「話せば分かる」の元になった原典ではないでしょうか。

 5・15事件の日ですので、特別に犬養毅に付いて書いてみました。
 


斎藤十郎兵衛が本当に写楽か

2011-05-14 20:40:40 | Weblog

 何か写楽は斎藤十郎兵衛が、その人であるかの如くのNHKの報道ですか、「ちょっと待てよ」と云う感じは否めません。東洲斎写楽の東・洲・斎の斎・東、それで斎藤になるではないか、だから写楽は斎藤十郎兵衛だというのです。こんな説に出逢うと、無性に腹立たしくなるのが、吾、欠点であるという事は重々承知で、次なる見解を試みたいと思います。

 江漢は、ある時こんな愚痴をこぼしていました
 「・・・・日本の山水富士をはじめ、名山勝景を写真にして阿蘭陀の法を以て蝋画に画き・・・・需むる者多し、然るに之を求むる者は、皆上方中国筋の人なり。奥州の人は、一向に是を取らず。愚直なる事かくのごとし」
 と云うのです。

 江漢描くヨーロッパ風な蝋画、即ち、西洋の油絵は上方など西日本の人たちは、頻りに買ってくれるが、江戸や東北地方の人は一向に見向きもしないというのです。そこで、江漢もやっぱり江戸ッ子です。そうなると「よっしゃ、買わぬのらら買わしてみしょう ほととぎす」と、思うたのかどうかは知りませんが、兎に角、彼のプライドが許さなかったのだろうと思うのです。そこで熟慮に熟慮を重ねた結果、考えついた名前が、この「東洲斎写楽」であったと思うのです。
 
 「東洲」ですが、日本の東の国の人々よ、呼びかけていると思います、次に「斎」ですが、これは「斉」であったのではないかと私は推理しました。「東の国々に住んでおられる方々よ。一斉にお考えくださいな」と、呼びかけるために作った造語だと思うのです。「斉」ではあまりにもその意味が直接的過ぎますので、あえて「斎」と云う字を使ったのではないでしょうか。、江漢が考え出した名前です。斎藤の「斎」では、決してありません。
 「日本の東の国の人たちよ。誰もかれも。歌舞伎俳優の顔を真実を写した私の画を見て存分に楽しんでくださいな。」
 と、いうメッセージを兼ねて、自分の絵に付いて、もう少し関心を持つべきだと呼びかけて、誰でもが分かる歌舞伎役者の似顔絵を、それまでの手法とは異なった大胆な構図を使って発表したのではないかと思うのですが??
 何回でも言いますが、ずぶの素人が片手間に描けるようなそんな素人っぽい画ではありません。堂々とした計算しつくされた絵ですよね。写楽の絵は。

 たった10カ月間の制作でしたがその初期には人物を大きく一人だけ描いていたのですが、2,3か月後になると、その絵の傾向が変わって行きます。男型と女方の二人の人物が一枚の絵の中に登場してきます。(NHK)。
 では、どうして、江漢は、いままで一人しか描いていなかった画の中に、違う二人の人物を一枚の浮世絵の中に入れるようになったのでしょうか?????

 是については明日にでも。


江漢というお人は

2011-05-12 20:05:38 | Weblog

 もうこの辺で江漢については、終わりにしたいと思っていたのですが、彼の晩年に書き残した「春波楼筆記」を紐解いて行きますと、それを読むに従って、この江漢という人の魅力と言いましょうか、人間としてのその奥深さがにじみ出ているようで、もう少々、私の町吉備津からは遥かに遠ざかってしまうのですが、彼の人物の大きさというか、その人間性を追求してもいいのではないかと思い書きなぐっていきたいと思います。

 これを読んでおりますと、彼が、当時の日本人の人間観をいかに見ているか、それを読みとる事が出来る文章に出逢います。それからご紹介します。
 
 江漢が「写楽ではないか」と言った関係上、先ず、それに関して、(その3)とでも言いましょうか、それからご紹介します。それは、今の時代なら一つの小品さへ何百万円という値段が付くと思われるのですが、あの円山応挙に付いて書き残しています。

 「京師に応挙と云う画人あり。生は丹波の笹山の者なり。今日に出てゝ一風の画を描出す。唐画にもあらず。和風にもあらず。自己の工夫にて、新意をだしければ、京中之を妙手として、皆真似して、甚だ流行せり。今に至りては、夫も見あきてすたりぬ。・・・・・・・」

 と書いて、その画風について特別の評価まではしていません。
 「見あきてすたりぬ」です。もうほとんど顧みる者はいないとさへ評しているのです。「妙手」。そうです特別な技を持つ者として、単なる絵描きの職人としか評価しか与えていないのです。描いている物の心髄にまで到達した画ではない。単なる、つまらない絵に過ぎないとさへ酷評しています。その持つ技におぼれてしまっている絵になってしまっていると評論しているのです。現代の彼への評価とは格段の差でしか評価していません。あんまり高くは買ってはいなかったのです。形式化され過ぎているかのように受け止めていたのではないでしょうか。
 大変面白い見方だと思われます。彼応挙の絵を、こんな風に見たのは、当時の日本に置いては、彼の他にはいなかったのではないでしょうか。

 ものをものとして見て、その本質を描くにはいかなる技方を用いるべきか深く研究しているように思われます。応挙的ではない、写楽の画そのものではないかと思えるような思いが、この文章からも伺えますが、どうでしょうか??????


写楽は江漢だ?その2

2011-05-11 09:34:32 | Weblog

 こんなへんてこりんなテーマで、書いてみたのですが、反響が大きく、といってもわたしのブログに於いてはという事ですが、昨日のアクセスランキングが、なんと数年ぶりですが閲覧数818PV、訪問者数は186IP、順位は9941位になりました。

 そんな数字を見て、天にも昇る心地がして、ついつい有頂天になり、「いい気なもんだ」という事は、十分に分かりきっているのですが、あの筆敬氏に何と言われようと、私の江漢の写楽説を書きなぐってみます。よろしく。

 さて、話がとんでもない方向に進んでしまったのですが、その江漢説をもう片方の面から探ってみることにします。それもまた、「春波楼筆記」からです。

 「画は、貴賤共に好むものにて、別けて彩色すれば、俗眼に入りやすし・・・吾日本にて、始めて工夫したる事は一つもなし

 と書いて、日本の絵は総て、唐の描き方の真似で、日本独自の絵というもの「一つもなし」、と断言しているのです。更に、江漢は、続けて次のようにも言っています。

 「画の妙とする処は、見ざる物を直に見る事にて、画は其物を真に写さざれば、画の妙用とするところなし

 妙とは一体何を言うのでしょうか?
 それを探るための、先ず「見ざる物」について考えてみました。「見ざる物」とは、只、その物の形や色だけを写し取る事ではなく、その本質、それ自体の中には見えない奥に潜んでいる美しさ、を写し取らないと画とは言い難く、其物の「真」、即ち本質、を見てそれを写し取らなくては駄目だと、江漢は説いているのです。単に形や色を其れなりに写すのでななく、自分の心の奥の目を以て描かないといけないと、訴えているのです。妙用とは、非常に優れた作用、働きです。
このように考えて行くと、結局、「妙」とは、自分の心で見た真だと江漢は考えたいたのではないでしょうか。

 本質が見えてない画は画ではない、そんな物は、今までの日本には一つもない。だから、私がその本隋を見せてやる江漢は写楽になって「画」とは何ぞやという事を、人々に見せたのだと思います。結果的にどうなったのかは、ご存じの通り、その原因など一切不明のまま、名前と共に、10カ月という短期間で、忽然と世の中から消し去ってしまわせるのです。春信のように。

 そんな事をお考えくださって、次の絵をご覧ください。私の偏見に満ちた主観的考察?からですが、江漢の写楽なりと考える元になる物です。それが画なのです。

 

                        

 

 

 

 

 

 

 

 


写楽は江漢だ? ①

2011-05-10 10:50:49 | Weblog

 こんな放送が昨夜ありました。トルコかどこかで新しく発見された写楽の肉筆画から作者は誰かという永遠の謎にNHKが挑戦した番組でした。科学の粋を利用した調査で、何か歌舞伎俳優の人の作だと決まったような内容の放送でした。では、それで一件落着かとも思えましたが、そうは簡単には扉がしまるわけではなさそうです。
 なぜかというと、絵描きとしての素養も何もない、それこそ、ちょっと絵ごころがあるだけの、ど素人の歌舞伎役者に、あのように人の心に何かを強く訴えるような構図や色使いや、更に、その新鮮さの伺えるような筆さばきが出来るのでしょうか。動きのある指先から頭まで、到底、不可能な事だと思います。ある程度の絵画に対するその素養がなければ描けない事ではないでしょうか。歌舞伎役者は小さいときから歌舞伎の練習で、絵など勉強する暇はなかった筈です。そんな素人に浮世絵などかけるわけがありません。

 そんなことを思うと、科学的な論拠も何もないのですが、私は何だか直感的に、今までの通りに、写楽は、やはり司馬江漢が一番ふさわしいのではにかと思うのです。

 「春波楼筆記」によると、江漢は
 「我が祖先に画を描きし者あるけりにや、吾伯父は、生まれながらにして画をよくする。その血脉の伝はりしにや・・・」と、書いています、狩野古信や宗紫石に学んでいます。
 
 そんなある時、当時、当世の女の風俗を描く事を妙としていた名高い浮世絵師「鈴木春信」が、突然に病死したのだそうです。そこで、江漢は、どうしてかわ知らないのですが、密かに、春信の贋作を書き出版します。それを、江戸の人々は江漢が書いた春信の浮世絵を、江漢が描いたものと誰も疑わずに買っていたのだそうです。でも、自分は春信ではないので心苦しくなって、わざわざ「鈴木春重」として、版を重ねたのだそうです。
 薄物の衣に裸体の透き通るような画が持てはやされたり、また、この頃、婦人髪に鬢さしが使われ始めますが、それを江漢が初めて、絵の中に取り入れた為に、それに触発されて、この簪が多くの婦人たちが使い始め、江戸での流行のさきがけとなったのだそうです。それがために、何か流行の先端を常に先取りする江漢だというイメージが膨らみ、何か若者の道徳観を缺いた無軌道ぶりの元凶にでもなっているような感じさへもたれるのではないかと思い、以後、一切描くのをやめたと筆を折っています。その期間はどれくらいあったのかは知りませんが、とにかく、描く、突然にやめます。

 「吾名此画の為に失はん事を懼れて、筆を投じて描かず」
 その絵が飛ぶように売れていたにもかかわらず、突然に、「筆を投じて描かず」です。自分の名の為には一切を擲つ事など朝飯前の事ではなかったかと思われます。
 だから10カ月ぐらい書いて評判もあまりよくなかったのでしょうか。中には酷評もあったのだと思えます。「そんなら、やめた」とばかりに、あっさり筆を投じたのではないでしょうか。そんなことが出来るのは江漢しかできないのではと思われます。なにせ、当代、第一の奇人変人だったのですから
。 
 これが江漢が写楽ではないかと思える理由の一つです。


吉備津神社春の大祭

2011-05-08 21:44:44 | Weblog

              
 緑したたる初夏の吉備津神社です。今日は春の大祭でした。七十五膳据えの伝統ある祭りの風景が厳かに執り行われました。「七十五」とは備中の各村の数だと言い伝えられております。その村々からのお供え物が神殿に供えられる備中の一宮としての格式のあるお祭りなのです。その昔は、村々から、去年の秋に収穫されたお米が、白米にされてお供えされるのが春のお祭りだと言われています。お盛相(おもっそう)という備え物が主となってお祭りは展開されます。そのお盛相の写真をどうぞ。

                       

 このお祭りは、御供殿(お供えするための膳を用意する場所)から長い回廊(約300m)を行列して、神殿まで運ぶ行事なのです。
       

 全国的に見ても大変珍しい行事です。

 

 

 

 


清少納言と紫式部

2011-05-07 20:00:09 | Weblog

 清少納言と紫式部は、何か大層仲が悪かったように言い伝えられているのですが、その事を語る様な事実が、この馬場に関する記事の中に見出せるというのだと、例の筆敬氏からメールが、またまた、届きました。

 彼によりますと、枕草子「第四十九段」では、五月五日に行われる馬場での馬弓射る行事に付いて「ゆかしからぬことぞ。はやく過ぎよ」と、その催しを目の前にして、それに目もくれずに通り過ぎてしまう清少納言の行動が書いてあるのだそうです。
 私は、五月五日の行事に付いて「枕草子」に、こんな段があったなんて氏の御指摘まで、知りませんでした。

 この四十九段での記事があったのを見てとったであろう紫式部は、わざとかそうではないのかもしれませんが、源氏物語の「蛍の段」で、ライバルの清少納言が興味がそそげない野暮ったいとして、その催しを無視して通り過ぎて行った馬場での馬弓の催しを、主人公「源氏の君」に、わざわざ、見学に行かせているのです。馬場の近くに住む玉鬘を尋ねるという事を前提にしているのですが、そのような場面を設定して、その行事を「ゆかしからぬ」、あまり興味がない、いたって下品な、見たくもない行事だと決めつけている清少納言の偏見的な思いに対して、何て情趣の分からない人です事と、暗に攻撃してように見え、なにか、紫式部が清少納言を意地悪していじめているようにも見えるのだがと、筆敬氏からの、聊か、清少納言ビイキのようにも見えるメールでした。

 そんなメールの届いた五月七日です。
 端午の節句は五日で済んでしまったのですが、そんなメールを頂いて、思いたって、急いで我が家の五月飾りを片付けました。これこそ六日ならぬ「七日のあやめか」と思いながらにです。


六日のあやめ

2011-05-06 08:00:25 | Weblog

 昨日、枕草子にある五月五日に付いて書いたのですが、又また例の筆敬さんからメールが届きまいた。彼曰くです。

 「おめえは よう知っとると おもよんじゃろうが、どねえなもんじゃろうかな。清少納言の事を けえてえて あの紫式部の事を かかんちゅうては ねえじゃろうが。やっぱし かかにゃあ おえんのんじゃあねんかのお」

 と、有難い忠告です。
 でも、私は紫式部がこの五月五日の行事に付いて書いているという事は知りませんでした。「紫式部日記」にでもあるのかと思って調べてたのですが、載ってはいません。すると、あの「源氏」の中にでもあるのかなと思い、早速、開いてみます。するとどうでしょう。ちゃんと載っていました。「蛍の巻」にみえました。
 知っておれば書いたのにと思いましたがもう遅いのです。それこそ「六日のあやめ」にはなりますが、今日、五月六日ですが、筆敬氏が、折角、送ってくださったメールです。敬意を表して、源氏物語の中にある「五月五日」と、関係のありそうな部分だけでもと思い書いてみます。お笑いください。

  ・「五日には、うまばのおとどに出で給ひけるついでに、わたり給へり。『いかにぞや。宮は夜やふかし給ひし・・・・」
 
  ・「つねの色もかへぬあやめも、けふはめづらかに、をかしうおぼゆるかをりなども、思うことなくは、をかしかりぬべき御有様ななと、姫君はおぼす・・・」

  ・「      けふさへや ひく人もなき みがくれに 
                     おふるあやめの のみながれん
   ためしにも出でつべきねに 、むすびつけ給へれば・・・・・・・           」

  ・「      あらはれて いとどあさくも みゆるかな 
                     あやめもわかず ながれけるの   」

  ・「くす玉など、えならぬさまにて、所所よりおほかり。

  このような五月五日と関わりがある文章が幾度どなく出て来ますので、筆敬氏が言われるように、紫式部も、この端午の節句を相当意識して、此の「蛍の巻」を書きあげたのではないでしょうか。
 なお、又、筆敬氏を煩わせてはと思い、ついでの事にもう少々付け加えておきます。と云うのは、「うまば」についてですが、兼好法師の「徒然草」にも記されています。第四一段にです。

 「五月五日、賀茂のくらべ馬を見侍りしに・・・」
 と。

 ここにある「くらべ馬」と云うのは、当時、京都の上賀茂神社の馬場で行われていた、五月五日の競馬の事だそうです。紫式部は、此の兼好法師が書いている行事を物語の中に入れたのです。

 

 また、「くす玉」と云うのは家の柱などにつるす厄病除け飾り物で、やはり五月五日の行事だったのです。長い「菖蒲の根」を手紙に入れた恋文が送られてくるのも、これもまた五月五日の事だったのです。(枕草子より)

 


端午の節句

2011-05-05 10:02:04 | Weblog

 五月五日、朝から、どんよりとした薄曇りの空の「こどもの日」です。昨日の清少納言の続きではないのですが、なぜかはしらねど、その<第七段>には、五月五日は「曇りくらしたる(もおかし)」と書いています。一日中、曇っているのがよいとは、一体、どう云う算段なのでしょうか。物の本には、「菖蒲の香が早く失せてしまわないようために曇がよい」と説明がしてありますが、そうでしょうかね。五月晴れの清々しい晴れの日が、空を泳ぐ五月幟などを思い浮かべてみても、よりこの日には似つかわしいように、私には思えるのですが????

 さて、その曇りがよいという清少納言の理由を探求すべく「枕草子」に書かれてある、この端午の節句に付いてもう少し読んでみました。(枕草子第三六段)

 『節は、五月にしく月はなし。
 菖蒲・蓬などの薫りあひたる、いみじうおかし。九重の御殿の上をはじめて、いひ知らぬ民の住家まで、「いかでわがもとにしげく葺かむ」と、葺きわたした、なほいとめずらし。いつかは、ことわりに、さはしたりし』

 ここに書かれている様に「いかでわがもとにしげく葺かむ」です。どうにかして沢山の菖蒲を自分の家の屋根や廂に葺こうと誰しもが思うほど、一杯の菖蒲が街中にあふれていたらしいのです。それがこの日の売り物にもなっていたのです。どの家でも競争するように葺いていたのです。貴族だけでなく一般の民家でもです。それが大層見事だと清少納言も言っているのです。この菖蒲の葉が何時までも生々しくて、香りもいつまでも消えず街中に匂い立つには、やはり、晴れより曇り空がよかったのでしょうね。それとともに、菖蒲は水辺植物です。晴れより雨又は曇りの空の気色の方が、何処となく似つかわしいように平安人の間に思われたのではないでしょうか。解説書の意味が、この文を通して分りました。

 次の文に
 「空の気色、曇りわたりたるに、中宮などには・・・・」
 とあり、何処までも、この端午の節句には、やはり曇り空が似合うのでしょうかね。

 この三六段、まだ後が続きますが、あまりにも長いので、このへんで。

 なお、私も、今朝、この文を書いてから、早速に、菖蒲畑に行き、お隣の坊やと私も孫のために「蓬と菖蒲の葉」と採ってきて、それをわらしべで結わえ、一つを屋根に、もう一つは床の間にの活けておきました。それを使って夜は菖蒲湯にでもと考えています。しかし、祝ってやろうと思っている孫どもは、今、大阪方面に旅行しているとかで留守にしております。まっこと、我ながら、親バカならぬ爺バカです。


みどりの日

2011-05-04 13:54:37 | Weblog

 今日は「みどりの日」です。誰が名付けたのかは知りませんが、誠に当を得た今日の日を言い現わしている表現ではないでしょうか。そんな「みどり」に付いて、司馬江漢はと、調べてみたのですがありません。
 考えてみますと、5月4日がみどりの日に指定されたのは「昭和の日」が出来てからの事です。それまでは、ただの「国民の祝日」とよばれ、こんな「みどり」なんて特別名称なんて付けられてはいませんでした。それが、平成になってからですが、この日が「みどりの日」と命名されたのです。なんてこの日にふさわしい命名だとはお思いになりませんか。
 「みどり」と云う言葉は初夏の初々しい季節を言い現わすに最もふさわしい言葉です。こんな日を国民の祝日にしている国は他には例を見ないのではないでしょうか??

 さて、この「みどり」ですが、あの清少納言は枕草子の中で、次のように謳っています。
 
 花の木ならぬは
  楓・桂・五葉・たそばの木・檀(まゆみ)・榊・楠の木・檜の木・鶏冠木(かえでのき)・あすはひの木・ねずもちの木・楝の木・山橘・山梨の木・椎の木・白樫・ゆづ     り葉・柏木・椶櫚(すろ)の木。
 
 たそばの木に付いて書いてある中に「おしなべて緑になりにたるなかに」と云う文があり、これ等の木々の辺り一面に広がる緑なす景色を褒め称え、それぞれに、「めづらし」「おかし」「あわれ」しと書いております。
 花を観賞するのではなく、むしろ、木の緑をこそめでるに値する木だと謳っているのです。なお、最初に挙げている「楓」すが、どうもこれは現在で言う紅葉を愛でるあの楓ではないようです。後に出てくる「鶏冠木(かえでのき)」が秋の紅葉を楽しむ楓らしいのです。
 また、彼女はこの「たそばの木」だけを「めずらし」と書いて他の木の「おかし」と区別しています。此の木の持つ特色を、めったにない清新さと受けとめたのです。
 また、五葉ですが。これは松です。

 「松」と云えば、吉備津で、すぐ思い出される人に藤井高尚先生があります。その高尚先生は、この松をこよなく愛されます。それは、日本にある数ある秀歌の中で、新古今集にある
         “ときはなる きびの中山 おしなべて ちとせの松の 深き色かな”
 を、最も、愛されていたからだそうです。
 そのような理由から、高尚先生は、自分の屋敷を「松の屋」と称したり、また、自らを「松斎」と号したりするなど、この松をこよなく愛されていたようです。でも残念なことですが、その松が生い茂っていた吉備の中山から松の木は松くい虫の被害に遭い、現在はほとんど姿を消してしまっています。

 なお、言わずもがなですが、清少納言は枕草子の中で「木の花は」と云う段で、花をめでる木についても書いています。念のためにですが。


大宝令より

2011-05-03 09:56:45 | Weblog

 2011年5月3日、今年の憲法記念日です。朝刊一面には、アサマ・ビンラディン容疑者の殺害が大きく報道されてありました。約41億円もの懸賞金をかけて追い続けてきたのです。10年にも及ぶ長い米国の威信をかけての戦いでもあったのです。それがようやく決着したのです。それにしても、彼に懸けた懸賞金は41億円は一体どうなるのでしょうかね。

 憲法記念日だという事もあって法律的な文章にしたいとも思い、この懸賞金に付いて調べてみました。
 法律も色々ありますが、今日は何か特別な事でもと思い、それで思いついたのが、日本で最も古い大宝律令について調べてみる事にしました。
 此の中には、この懸賞金の制度みたいなものが書いてあったように思いましたので、早速、ページを捲ってみました。すると、ありました。ちょっと面白い条文でしたので、憲法記念日と云う事もあって書き出してみます。興味あるお人はお読み下さい。

 大宝律令 「第九巻 第廿八篇 五捉盗給賞条」に出ていました。まずは、その全文を。

 「凡糺捉賊盗者、所徴倍贓、皆賞糺之人。家貧無財可徴、及依法不合徴倍贓者、並計所得正臓、准為五分以二分賞糺捉人、則官人非因撿挍而別糺捉、并共盗、及知情主人首告者、亦賞例」
 と。

 チンプンカンプンです。例の漢文先生とも思ったのですが、これは、いかに物をよく知っている氏であっても分かりはしないのではと思い、図書館の助けを借りて調べました。念のために
 それによると、「所徴倍贓、皆賞糺之人」と云うのは、此の盗賊を捉えた者に賞として2倍の物を与えるというのです。
其の他は
 ・捉えた盗賊が貧乏で何も持ってなかった場合は、盗んだ物の値段の5分2を捉えたものに与える。
 ・密告者には、それ相当の賞与が与えられる。
 こんなことが書かれている条文だそうです。
  

 アサマ・ビンラディン容疑者の発見は、密告者による物でもなし、アメリカの官検による必死の捜査の結果です。日本の大宝令にはない例です。発見して、慎重なる検証により確実性を考慮しての結果だったに違いありませんん。軍隊を動員しての殺害でした。
 そんなことはないのですが、もし、此のビンラディン容疑者殺害について、大宝令が適応されたと仮定するなら、被害者の財産の2倍の報奨金が出るというのですから、65億円と云われる彼の財産からすると相当な額は誰がもらう事になるのかと、他人事ですが、気になって仕方ありませんん?

 一球さんではないですが、昼寝も出来そうもない今日の「憲法記念日」になると思います。

 

 


春波楼筆記も長くなりました。

2011-05-02 08:26:04 | Weblog

 司馬江漢と云う人は江戸期の最初に油絵を描いた画家だというくらいのに意識でしたが、西遊旅譚などその旅行記や春波楼筆記など彼の書物を見ると、その人物の博学ぶりが分かります。東洋を始め当時の文明の先端を行くヨーロッパの事についても随分精通していたようでした。

 その江漢について、これ又、例の通り、暫らく書き続けてまいりましたが、あまりにも長くなりましたので、この春波楼筆記に書かれている最初と最後の文章を取り上げて終わりにしたいと思います。
 まずは、書き出しの一文からどうぞ。

 〇治久しく続きぬれば、美を好み奢に長ずる者なり。奢とはいつ奢るともなく、目にも見えず年のよる如く、いつ老ゆるとも知らず、いつ奢るともしらざる者なり。

 どうお読みになりましたか?

 治、そうです。太平の世の中が長く続けば続くほど、人々はその太平に現を抜かし、つい生活そのものが華美豪奢なものに陥り。知らず知らずのうちに、そなん生活が当たり前になり、自分達が行っている行動そのものが豪奢だとさへ気が付かず、あたかも年を取るのにも気が付かないと同様に、しらないうちに平気でその華美豪車が身に染みてしまっうと、江漢は嘆いているのです。
 それは、あたかも平成の今を指示しているようでもあります。人の性だ。それが当たり前なのだと、日本人は誰しも、大人から子供に至るまで、みんな思っていたのです。より快適な生活が当り前であって、それを阻害するものは総て悪であり。人間様のお通本当に忘れた頃にやってきました。余りにも大きな犠牲の上にこ、人の奢りに気付かされたのです。
 それを見事に江漢は、文化年間に早くも警告していたのです。江漢の持っている先見性というか、「歴史は繰り返す」という事を実証しただけなのです。

 石原さんは言いました。

 「パチンコや自動販売機があんなにいるか」

 と。これも江漢の言う人の「奢り」だと思います。それが奢りと云う事も知らないで。便利なんだから「いいは、いいは」と、総ての国民が踊っていたのです。だれかに踊らされていたわけではないと思いますが。

 このような世の中に暮らすのは
 「誠にたわいない事なり」
 と、書いております。