私の町 吉備津

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悟道人

2011-05-21 09:44:39 | Weblog

 筆敬氏から「おめえは、でえれえ、ひつけえのう」と言われるかもしれませんが、もう少々江漢が写楽だという私の論拠をお示ししますので宜しく。

 言わずもがなだとは思いますが、この「ひつけえ」という岡山弁は、「ひつこし」という古語がその形を今にとどめた珍しい形の方言です。真偽の程は定かではないのですが、こんな例がたくさん残っている所は、京都からの同心円上にある岡山と名古屋だと聞いております。なお、この方言は、現代語の「しつこい」に当たる言葉で、「同じ事を何回ともなくくどくど言う」という意味です。

 さて前置きはそれぐらいにして於いて、その論拠を出します。それは、「悟道人」という言葉がキーワードになります。この言葉に付いて、江漢は、あの春波楼筆記に、次のように書いています。

 「古より悟道人幾たりもあり。名の聞えたるものは、真の悟道人にあらず。天竺釈迦は・・・・・・、孔子は・・・・死後に名を揚げたり。真の悟道人は、無極の人と云ひて、名もなく音もなし」
 と書いています。
 
 と、いうことは、江漢も自分で、この真の悟道人、即ち、人の道を十分に悟る人、だと自負していたのです。人としてのあり方を十分に知っている人、後世の人が評するだろうその評価をも省みないで、ひたすら自分の生きざまをま正直に貫いて生きた人ではないかと思われます。名を残すなんて、そんな思いはこれっぽっちもなかったのではないでしょうか。まして、如何に人々からちやほやされたって、本道でもない、当世流行りの浮世絵作家の写楽だなんて、しゃらくさくって、人にしゃべるなんて事は、決してするような人ではなかったと思われます。何せ、自分は真の悟道人だと思っていたのですから。江漢は、無極の人で、何処に居るとも知られないで、名も無く音もなしの人生が理想だったからです。

 

 こんな事を考えて行くと、どうしても写楽を江漢にせずにはおかれないような気がするのですが。

 どうも、余りくどくど書いていますと、「ほんまに、おめえはひつけえぞ。ひっこめ」と、筆敬氏でなくても言われそうです。あと一回だけで最後の江漢を書いて終わりたいと思っています。