光政の言行録を綴った「有斐録」によりますと、承応三年(1646)の秋、備前の国は大洪水に見まわれ、「百姓の艱難はいふ計事なき」と言う有様で、大層困ります。その時、光政は、直ちに、藩の倉を開けて、百姓への救済を行ったのですが、しかし、救援物質が十分でなく、領内の全ての農民を救うことができなかったのです。
それを聞いた光政は
「予が政事(まつりごと)の不善なるに依て、天の戒め給うなるべし。罪なき百姓の此の災にかゝる事、悲みに余りありとて枕食安んじ給はず」
であったと、いうことでした。
此の有様を見た熊沢蕃山が殿の御前に出て申します。
「私に一つの策が有ります。江戸に参りて、天樹院様を通して、公方様(家光)へお願いして、今の岡山藩の現状をお話して頂くと、公方様も『捨て置け』とは申されますまい。幕府より幾らかのお金をお貸し戴けるものと思います」
と言上します。
その足で、直ぐに、蕃山は江戸へ発ちます。蕃山の思惑どうりに事が進み、結局、岡山藩は、金四万両ものお金を徳川幕府から借りることが出来たのです。
「銭にかへて、領内の四方に運びつゝ、分かち与えて救い給う」
と、「有斐録」に書いてあります。
このようにして百姓の窮乏を救うのですが、ある日、百姓救済の任に当たっている役人から、次のような声が寄せられます。
「百姓の中には、困った困ったと云っては、2度も3度も役所に来てはお金やお米を受け取ろうとする不届き者がいる。どうしたらよいでしょうか」
と。
それをお聞きになって、光政侯は、どう仰られたかと、お思いですか?
それを聞いた光政は
「予が政事(まつりごと)の不善なるに依て、天の戒め給うなるべし。罪なき百姓の此の災にかゝる事、悲みに余りありとて枕食安んじ給はず」
であったと、いうことでした。
此の有様を見た熊沢蕃山が殿の御前に出て申します。
「私に一つの策が有ります。江戸に参りて、天樹院様を通して、公方様(家光)へお願いして、今の岡山藩の現状をお話して頂くと、公方様も『捨て置け』とは申されますまい。幕府より幾らかのお金をお貸し戴けるものと思います」
と言上します。
その足で、直ぐに、蕃山は江戸へ発ちます。蕃山の思惑どうりに事が進み、結局、岡山藩は、金四万両ものお金を徳川幕府から借りることが出来たのです。
「銭にかへて、領内の四方に運びつゝ、分かち与えて救い給う」
と、「有斐録」に書いてあります。
このようにして百姓の窮乏を救うのですが、ある日、百姓救済の任に当たっている役人から、次のような声が寄せられます。
「百姓の中には、困った困ったと云っては、2度も3度も役所に来てはお金やお米を受け取ろうとする不届き者がいる。どうしたらよいでしょうか」
と。
それをお聞きになって、光政侯は、どう仰られたかと、お思いですか?