私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

経済学者永忠

2009-12-21 17:21:19 | Weblog
 天樹院様の御口聞きがあったと思われる幕府からの4万両の借入金を使って、藩は窮乏者の救済に当たります。
 「民の二三度に及びて、米銭を受ける者有、如何にして改べき」
 と、役人が言うのをお聞きになった光政侯は
 「困っているのだ、幾度なりとも与えよ」
 と。言われたのです。

 役人の中には、それをいいことに私しする不届き者まででうに及び、永忠が、新たなる貧民救済方法として採ったのが「社倉法」であったのです。その方法はすでに山崎闇斎の指導のもとに会津藩では実行されていましたが、我が岡山が二番目です。
 この方は中国の朱熹が考案したと言われている貧民救済法です。
 此の方法と言うのは、領主から米4百石を借りて、朱熹が住んでいた土地の民に2割り当ての利を取って貸し、秋には4百石を領主に返し、その利息2割分をを不作の時の救援米として蓄える方法です。

 この社倉法を、永忠は、まず、光政侯に図ってから、綱政侯(1千姫の孫です)に答申しています。
 その資金として、永忠は、藩主綱政候にお願いして、姉(光政候の長女)奈阿姫の湯沐銀?(多分化粧料)1千貫を借りて米2万石を買い入れ、社倉を起こして、毎年わずかな利息で持って領民に貸与して、その利子を貯めて時難の急を救うために考え出させた政策です。数年後には、元利を返済して、なお2万石の米を蓄えるまでになったと言う事です。
 経済学者としても、此の永忠は一角の人物であったことは分かります。