光政侯が津田永忠と泉仲愛らに命じて造らせた岡山藩学校に、日本には珍しい冸池(はんち)が設置されていました。今もその遺跡は市内中山下にあります。中央に石橋が架けられ半円の池です。 此処で学ぶ藩の子弟は、まず、南の校門から入り、半円形の池、(これが冸池です)の中央にある石橋を渡って学校に入ります。 此の冸池と言うのは、中国古代の高級官僚養成学校の前にある半円形の池のことで、半円の池の中央に石橋がかかっています。この制度を見習って日本でも数は少ないのですが各地の藩校に冸地を造ったのだそうです。半円形の例は、日本でもあまりないようです。江戸の昌平坂学問所辺りにはあったのでしょうかね??
冸地にリンクしてみてください。その中で綱政侯は学問にあまり興味がなかったと書かれていますが、それよりも、此の藩学校(藩校)の運営が藩の財政が逼迫したための処置だと言う事が一番の原因なのです。でも、これは光政候のたってのご希望により存続が決まっています。ただし、財政規模は2分の一に減らしています。何だか今日の政治を見るようではありませんか。やっぱり歴史は繰り返されるのです。