私の町 吉備津

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閑谷学校

2009-12-29 17:59:08 | Weblog
 池田章政侯の永忠の遺績碑の「置岡山閑谷両黌」の中の「岡山藩学校」について、あれやこれやと書いているうちに、思わぬ手間をかけてしましました。
 ここらで閑谷校のことについて、又ちょっくら書いてみます。

 寛文6年と言いますから、花畠に設置していた教場が手狭になったために、石山に仮学館を作った時です。
 藩主光政侯が和気郡木谷村の幽谷を巡見されます。この地が非常に閑静で、熱心に学問する場所として好適地だとお考えになられます。即ち、「山水漸閑読書講学」として手習所を建てさせます。これが閑谷学校の始まりです。

 光政侯は水戸光圀侯と同じようにご自分の藩内をよく見回われています。
 有斐録から
 ・赤坂郡に猟し給ひ、それより数日村邑をめぐらせ給ひし時・・・・
 ・御野廻り、御昼休にて、白魚を御吸物に指上げる。・・・・
 ・御野廻りの節、大いなる蜂の巣を御杖にて落し給へば・・・・
 このような「御野廻りの節」と言う書き出しで藩内の各地を見回った事実が述べられています。「御野廻り」とだけ書いてあり、その場所がいずれであるかは不明です。
 この他、その場所がどこかとはっきり明記してある見回りもいくつか見られます。
 御野郡中原村・野殿村・藤野村・難波町御掘・備中松島・和気和意谷・牛窓・平井村等があります。

 その一つ野殿村の御廻の時の話です
 光政侯が師走の20日過ぎ、御野郡野殿辺りを御廻りなされていたのです。その道筋の村で、小さな家を1,2か所で毀していたのだそうです。それを不思議と思われた光政侯がその理由を御尋ねになられます。すると、「年貢が払えないので、家を売り払っているのです」と、答えたのです。殿は直ぐにお城はお帰りになり。その取り壊した家の者に、御貸米を仰せつけになられたとか。
  
 このような逸話からでも分かるように、備前岡山藩主池田光政と言うお方は、水戸黄門様同様、江戸初期の卓越した藩主でもあったのです。物語にはなってはいませんが。

 こんな話も伝わっているのです。百姓をいかに大切にしたか分かります。