私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

石川遼君張りの好青年 津田永忠

2009-12-09 12:34:04 | Weblog
 後楽園の馬場の片隅に津田永忠の功績を称える石碑が建ってあります。

  昨日は「豊碑」と言う言葉を使ったのですが、また、例の寶亭氏からのお小言です。
 「そげんなむずかしいことばを聞えよがしに言わんと、もっとみやすうにいえばええものを」 
 と。
 それもそうでした。
 
 念のために、この言葉は「その人の功績を称えるために造られた石碑」と言う意味です。


 まあ、それは兎も角として、その石碑に書かれている永忠の功績を中心に、彼の生きざまを数回に渡って見ていきたいと思います。

 津田永忠は、寛永17年、岡山に生まれます。幼少のころから多岐にわたって才能を発揮して、14歳の時、池田光政侯の側児小姓になって仕えています。その間に、余暇を使って書を読み、己を磨き、常に忠を国君に致し、懸命に仕えています。

 こんな永忠のエピソードが残っています。

 永忠が、16,7才のある夜、不寝番をしていた時のことです。 光政が、永忠に
 「今の時計、何時たるや」
 と、お問いになられます。すると、永忠は
 「寝入候てしらず」
 と、お答えしたのだそうです。その夜が明けて永忠が退所したのを見届けられてから光政は
 「ことをなすべき男なり」
 と、独り言を言われたと云う事です。

 藩主光政侯の平生の言動を記録した本「有斐録」に出ています。
 
 
 不寝番ですから、当然、永忠は、夜中には眠ってはいけないのです。いかなる緊急の事態が起ころうとも、それにとっさに対応できる準備をして、お側に侍っていなくてはならないのです。居眠りなどもっての外です。それをこともあろうに「寝ていたから今何時だと分りません」と、平気でしゃあしゃあとでは、ないのでしょうが、永忠は答えたのです。不逞の輩とばかりに、その場で断罪されてもいたしかたない様な不謹慎な勤務です。
 それを「将来きっと役に立つ男になるだろう」と、その不敬としか言いようのない誠に不細工な返事に対して、それを咎めることもなくお許しになった光政侯も人を見る目があったとしか言いようがありません。まあ、それだけ、信頼されていたのでしょう。それまでの永忠の勤務の誠実さからご判断された言葉だったと思います。14歳から御勤めしているのですから、既に3年間もお仕えしています。其の辺りのことをよく観察されていたのだと思われます。
 この「寝入候てしらず」と、申し上げた言葉だけであったら、如何に人を見る目が肥えている光政侯でも、将来役に立つ男になるだろうなんて判断はできっこないと思います。そう言った時の永忠の体全体から発する何とも言えないような柔らかで物悲しいような、相手の人に何かしら己の言っていることを自然に素直に認めさせるような、神様が、特別に、永忠だけにお与えになったとしか言いようのないような不思議な力があったのではないでしょうか。その永忠の力が光政をして
 「ことをなすべき男なり」
 と、言わしめたのです。
 
 自然に醸し出す物腰の柔らかさが備わっていて、それが人を引き付けずにはおかなかったに違いありません。現代に譬えれば、石川遼君張りの好感を持てる人だったのではないでしょうか。横柄な態度などその人柄から探し出そうと思っても決して見つけることすら出来ないような人ではなかったと思われるのです。

 それにしても石川遼君って、好青年ですね。ゴルフなど少しも知らないご婦人すら鳥子にしてしまうものですから。