私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

後楽園を一周して

2009-12-02 17:45:08 | Weblog
 後楽園十勝を紹介しながら園の特色を二か月も見てきましたが、ぼつぼつ終わりになりました。
 まとめとして、今までに述べてきた園の総合的な特色をいくつかあげて終わりにしたいと思います。
 
 ①色々な時代を語る施設設備を配備していること
 周の時代(井田)、奈良時代(沢の池の砂利島)、平安時代(曲水や八橋)、鎌倉時代(茶祖堂)、室町時代(大立石・烏帽子岩石)、安土桃山時代(茂松庵・茶祖堂・石灯籠)、江戸時代(平四郎の松・境沢の郡境)
 
 ②斬新なアイデアを取り入れていること
 序破急という、本来は、世阿弥の能楽の美的表現であった意識を庭園の中に導入した。
 
 ③遠州流の回遊式大名庭園であること

 ④岡山藩の迎賓館であったこと

 ⑤馬場などを設けて、藩士の武芸の訓練の場として使用していること

 ⑥藩主が農民の稼穡の苦しさを知るための水田を設けていること

 ⑦延養亭で藩士に儒教の講義を受けさせていること
 
 なお、永山卯三郎の「岡山県通史」によると、当時は、後楽園には門が四つあり、西門が正門で、賓客を迎える時に使い、南門は藩主専用の門です。東門は藩士のための門です。北門があり農民その他の民衆のための門だと、説明したあります。

 北門が本当に存在していたとするなら、此の園は、封建社会にあって厳格な身分制度が敷かれていたにもかかわらず、大名庭園の中に、時には農民など一般の人も入れた事になります。いつどこまで入れたのがは分かりませんが。
 一説によると、一番西側の門を開いて、その周りの、ごく限られた場所だけで入場が許されていたと云う事です。入口近くで、何か夏祭りか何かのお祭りをした時に、近くの農民などが招待されたと云う事です。今みたいに、どこでも、だれでもというわけにはいかなかったようです。後楽園の入口のさわりの部分をチョコっと解放した程度だったらしいのです。真偽の程は分かりませんが。
 
 なお、「後楽園真景及詳誌」には、そのような北門があったとは記されていません。念のために。