私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

どうして岡山藩学校なの。名前はないの?

2009-12-28 13:09:52 | Weblog
 光政侯は、岡山に藩学校を作り、藩士の子弟(原則的に入学を許された者は宗子だけ)の教育を行います。この学校は、ただ、「岡山藩学校」又は「岡山藩黌」と呼ばれていました。
 大方の藩で見られるような、特別なその藩独自の学校の名前は冠しなかったようです。
 例えば、岡山県で見ると、津山藩の「修道館」、備中松山藩の「有終館」、新見藩の「思誠館」、足守藩の「追琢舎」、庭瀬藩の「後誠意館」などのように、それぞれの学校の特色を現わすような名前を付けています。
 また、会津藩の日新館、長州藩の明倫館、米沢藩の興譲館、水戸の弘道館など、全国的にみても、やはり独自の名前を選んで、各地の藩校には付けてあります。
 
 それなら、どうして、光政侯は「岡山藩学校」と言うだけで、特別に江戸時代という特色を感じさせるような、儒教からでも探し出して、熊沢蕃山もいたのですから、如何にも岡山の学校だと言う事が分かる様な名前を付けなかったのでしょうかね。そこらあたり、何か事情があったのかもしれないと思い、有斐録を捜しましたが、残念ですが、何も書かれてはいません。

 どうもこれも推測の域を出ませんが、光政侯はそんな派手派手しいことが好きではなく、平凡が一番いいのだと、お考えになっていらしたのではと思われます。あの「閑谷学校」と言うのも、閑静な学問にふさわしい土地に立てた学校と言う意味から。静かな谷間にある学校と言う意味の「閑谷学校」にしたのです。別に儒教から取り出した明倫・弘道・有終・日新・修道等と言ったような四角四面の何だか息がつまりそうなま名前は採用されなかったのです。ただ、学問に精を出す場所それが学校なのだ。名前なんかにこだわる様な藩主ではなかったのでしょう。「藩学校」それでよかったのでしう。そこで行われる教育そのものの中身を問うたのだと思います。