私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

後楽園十勝

2009-12-01 20:44:13 | Weblog
 明治31年(1998)に出た私の持っている雑誌「後楽園真景及詳誌」によりますと、暫軒風・延養亭鶴・栄唱橋・二色ヶ岡花・流店の水・唯心堂月・花交瀑・千入の紅葉・境沢の蓮・慈眼堂の松の10ケ所が「後楽園十勝」と、往時、呼ばれていたと記載されています。
 何故だかよくわ分からないのですが、これらの、それぞれの後楽園の特に優れた景勝の地なのですが、「暫軒風」のように、こう書いて、わざわざ「ざんけんのかぜ」と「の」をいれて読ますのと、「流店の水」のように、初めから「の」と、ひらかなを入れて読ます2通りの読み方をしているのです。なお、これも、誠に、不思議なことなのですが、「栄唱橋」だけは、これで「えいしょうばし」と、「の」の字を入れないで読ませています。
 でも、永山卯三郎の「岡山年通史」を見ますと、総てに、「延養亭の鶴」のように「の」を入れて言い表しています。栄唱橋も例外ではありません。やはり「栄唱の橋」となっています

 まあ、これも岡山後楽園の特色の一つであると言ってしまえばそれっきりですが、そんなものは兎も角も、岡山「後楽園」は、日本三大名園の一つなのです。それだけの規模があるのです。それはなおさら、岡山藩の江戸期の大名の権力の大きさを物語るものだと思います。それだけ外様大名としての威厳をしめす物差しになると思います。考え方によると、「文学文盲短才なる大名」と、評価された綱政侯の徳川幕府に対する眼に見えない仕打ちも、しくは、当て擦りであったのではとも考えられないでもないと思うのですが?

 このように園を一回りして見てきたのですが、この慈眼堂の西には、さらに、池に面して東海道五十三次腰掛け茶屋があります。その西の池の端には、4畳半ばかりの小さな亭「寒翠細響軒」があります。天下の後楽園を一望するには、他を置いてなく、この場所が一番だと云う人もおられるようです。
 更に、此の北側には長さ90間(162m)ほどの細長い馬場が見えます。その一角に「観騎亭」が設けられて、往時、藩主が藩士の騎馬の訓練を謁見した場所だと云われています。
 この馬場の横には、人目をはばかるように一条の溝が、本当に突如と云う格好で現れ、こんこんと水が流れ出て、園内を巡る曲水の水の注ぎ口になっていますいます。どうしてこんなところに溝がと、思うような場所にです。それも突然にです。人知れず馬場の下を潜り抜けた籠り水が、ここに流れ出て姿を現わしているのです。永忠の人知れない工夫が偲ばれます。
 なにやら、ここにも「序破急」を思もわずにはおれません思う。
 「観騎亭」「曲水の取り入れ口」「寒翠細響亭」と、人の内面に懸かる奥深い心理的な美への感動が、ここにも隠されているように思われるのですが????。

 こんな大言壮語するような者は、いまだかっていなかったのではと思いながら書いております。

   ご批判を仰ぎたいものです。