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岡山藩学校のきまり

2009-12-23 21:09:16 | Weblog
 昨日「置岡閑谷両黌」と書いたのですが、これは「置岡山閑谷両黌」の誤りでした。おわびします。
 
 さて、寛文9年に開いた此の岡山藩校にも、色々な取り決めがあります。面白そうなので、ここで又寄り道をします。

     「掟」
 1、入学した者は礼儀を正しく文武両芸を習う事。
 1、家中宗子八歳より入学望み次第で入学でき、十一歳になったならば必ず入学する事。(宗子とは、いわずもがなですが、長男です)
 1、生徒は、年の順に座る事。
 1、教室にいる時は一切無言で、対談(おしゃべり)は一切停止すること。
 1、断りなく学校に出入りすること
      
      「法式」
 1、学校に来てからは、自分の席に、直ちに、端座すること。読書は声を出して行う事
 1、行儀作法が善ければ「善事帳」に書付ける事
 1、1ヶ月欠席も遅刻もない時は善事帳に書付ける事
 1、不行儀があれば「不行儀帳」に書付ける事
 1、教授用の衣類の着用の事(この事は後で詳しく説明します)
 1、学業の寄合衆(同級生)が連れだって遊山等は無用の事
 この他、勉強の方法についても細々と注意書きがしてあります。
 それによると、学校で読まなかった書物を読んだ時などには、それを生徒の善事帳に記載すると言う事まで書いてあります。読み物とは、当然、四書五経です。分からない所は、学校の「読書所」で先生に尋ねよとも。
 
 このような決まりを見ると、寛文の昔から、現在のような通知簿みたいな成績表があった事を伺わせます。
 此の藩学校は、主として藩士の子弟(宗子のみ)の教育として行われたのですが、特別に許可を受けたものに限って庶子の入学も許可されていました。品によりと書かれていますが、此の品とはどんなことを意味するのかは不明ですが、品行方正な子弟のみが、特別に許されて入学を許可されていたようです。要するに、いい子だけが入学を許されています。念のために、庶子とは、正妻以外の女子に出来た子供を言います。この学校は武士の為の教育の場であった事には間違いありません。この他、この学校の授業について、現在、学校教育の場で盛んに唱えられている「自主学習」などについても、大いに奨励しているとことも分かります。要するに、この時代の教育は「個性の尊重」にもとずいた教育であったようです。
 しかし、ここでの教育は、士族のためだけの教育で、一般の百姓・町民たちへの教育とは区別されていました。
 一方、士族以外の教育についても、藩主光政侯はその重要さを深く考えていたようです。「教育こそ国を作る基」として、教育を施すことの大切さを感じていて教育政策を取っていたものと考えられます。
 その為には、為政者側の武士階級と言う一部の者だけを対象にした教育だけはなく、非為政者としての民・百姓に至るままでの万人の教育こそをはと、考えられて、その政策を実現されるようにと、藩主光政侯は考えられたようです。
 そこにこそ、藩主としての偉大さを物語る光政侯の一側面があり、それが、又、明治以降の「教育県岡山」の名を高めた基ともななっている事には間違いありません。