私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

永忠の逸話その2

2009-12-10 14:28:15 | Weblog
 これも先の「有斐録」から、永忠の逸話をもう一つ取り上げます。

 永忠18歳の時のことです。御眼代の役目を仰せつかります。
 この「眼代」と言うのは「目代」と同じ役目で、本来は、国守の代わりに任国に赴いて執務する私的な 代官を呼んだのですが、永忠が承ったのは「御眼代」ですから、藩主池田光政の代理人になったのです。藩主が出られない会合などに出向いて、藩主の意向等を伝える代理人です。

 ある日、評定所へ出て、公務を終て後、そこにいた多くの人たちは何やかやと雑談話をしていたのだそうです。末席にいた18歳の永忠がです。
 「此所は長咄する座あらず」
 と、誡めたのだそうです。
 それを聞いた、ご重役たちは、「このこわっぱめ、何をぬかしおる」と苦々しく思ったのでしょう。早速、殿のお耳に、「永忠しかじかで、20にもたらぬ者の、余りなる事なり」と、進言したのだそうです。きっと殿より、永忠に、何かご注意を与えてくださるものとばかりに思ってでしょう。
 しかし、光政侯から言われた言葉は
 「余が視る所たがわざりき、思う事憚る所なく言わん者なりと、思いたりしに、果して然りなり」
 と仰せられたということです。

 この「思う事憚る所なく言わん者なり」というくだりは、果たして、複雑怪奇な現代社会であったなら、そのまま素直に受け入れられるでしょうか。無駄の効用と言う例えもあるのです。

 思うに、「此所は長咄する座あらず」とは、今まで平気で打ち続けられているこのような長老たちの悪しき慣習を、ここで打ち破らなければ藩政は決して刷新できないのではと言う強い信念があったからだと思います。「無駄の効用」の大切さはすでにきちんとわかっていたと思われます。そうでなかったなら、如何に信任が厚かろうと「御眼代」なんて役職には、とうてい、任命されなかったと思われます。
 13、4歳の時から、光政侯のお側に常に侍っていて、参勤交代の時にも、側児小姓として従って、江戸城にも上り、種々な見聞を広めて、政治家としての見識も高めているのですから。

 また、その後、光政侯は、永忠を評して、こんなことも言われたと云う事です。
 「彼者はつかいよう悪敷(あしく)ば、国の禍となるべし、才は国中にならぶものなし」
 と。
 
 そんな光政侯の眼力が、以後の池田藩を支えた基となり、その力が後楽園の造園など、綱政侯の片腕として、岡山藩のために数々の尽力を尽すのです。

 幕末の、備中松山藩の板倉勝静と山田方谷と並んで、備洲の「名君のもとに名臣があり」の例えの実例にもなったっています。なお、熊沢伯継も光政侯の名臣であったことには間違いありませんが、伯継についてはは、また、改めて取り上げますので、ここでは名前だけ上げておきます。