私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

一寸の光陰軽んずべからず

2009-12-13 20:53:05 | Weblog
 健康が回復された漢文先生と話していると、かの石碑に書かれている「設社倉」の下りになります。さすが漢文については博学なる先生であったのですが、この社倉についてはあまり詳しくはご存じなかったようでした。
 「その社倉ってなんじゃな」
 と、久しぶりに先生からの質問を受けます。中国の朱熹が作った窮民救済のための制度だと、簡単に説明します。

 「朱熹か。さもあらん、かれほど頭脳明晰な人物も珍しい。ふふん・・・まあ中国の大天才の一人だろう。」
 さも得意然と、朱熹の話が始まります。彼によると、「一寸光陰軽んずべからず」は、この朱熹の言葉だと云うのです。
 こんなことはどうでもいいのですが、近ごろの研究によると、どうもこの「一寸の光陰・・・」と言う詩を作ったのは、朱熹ではないと云う学者もいるそうだがと、彼は胡散臭そうに話されるのです。
  
   少年 老い易(やす)く  學 成り難(がた)し,
   一寸の 光陰  輕んず 可(べ)からず。
   未だ覺めず 池塘  春草の夢,
   階前の 梧葉は  已(すで)に 秋聲。

 此の詩を取り出して
 「階前の 梧葉は  已(すで)に 秋声・・・・これがええんじゃ。分かるかね君。       止めようたって、時の流れちゅうもんは、そげん簡単にゃあ、止められるもんではねえ。空しい限りじゃが、からっぽ同然で、ただ通り過ぎていくのを見ているだけで、人は何にもでけんのじゃ。気がついてみれば、もう秋か、と思うだけじゃ。空しい人生なんじゃ。人の一生はな」
 
 それから、やおら何を思ったのか立ち上がり、又、別の本を取り出しペラペラとめくって、「これを見てみいや」と、差し出します。
 そこには、何かわけがわからんような漢字が並んでいます。
 「こけえ、古人惜寸陰、とあるじゃろうが。古人 寸陰を 惜めると。読むんじゃ。君でもしっとるじゃろう陶淵明の詩じゃ。一寸の 光陰  輕んず 可(べ)からずは、此の陶淵明の詩から引用したのだそうじゃ。・・・それにしてもええ詩じゃろうが、これも。 ・・・、あの朱熹がのう・・・」
 
 と、首をかしげかしげしながら、此の陶淵明の歌を解説してくれました。

 これまた,今日も、少々横道にずれましたが。