私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている 34

2008-10-30 13:53:19 | Weblog
 このシリーズ「吉備って知っている 10」で、兄媛の兄、御友別命が吉備津神社のどこにもお祭りされてないと話しました。
 実は誤りなのです。私の認識不足だったのです。「御友別命」はちゃんと堂々と吉備津神社にお祭りしてありました。
 本殿の後ろにある「本宮社」に子の仲彦と一緒にお祭りされていました。この本宮社にお祭りされている神々はこの親子二人を除いては、後は、総て、孝霊天皇に関係した大和人々です。吉備津彦命の父母兄弟です。
 このことに視点を当てて、古代吉備国を考えている学者もおります。それによりますと、もともと吉備王国を作って支配していた大和に負けないぐらいの首長がいたのです。その中心人物が御友別命ではないかというのです。また、この人の御墓こそが造山古墳であるというのです。その宮が吉備津神社だと。中には、温羅こそが御友別命だと言いきる人さへいます。
 この御友別命とその子仲彦(なかつひこ)(香屋臣の始祖です)の二人が本宮社に祀られています。本来は、この二人を祭ったお宮であったのが、後から、吉備の国を支配した吉備津彦命の父の孝霊天皇、姉の倭迹々日百襲姫命(やまととひももそひめ)などを付け加えて、さも昔から祀っていたのだ、こちらが本物だ、こちらの方がありがたいのだ、と人々に思わしたのではないかと思います。
 要するに、今は吉備津彦命をお祭りしているのですが、元々は吉備の首長(もしかして温羅かも)を祭っていたのではと思われます。それが、雄略天皇以降大和の中に組み込まれてしまい、吉備の首長の名が消されて、代わりに大和の天皇の力を誇示する吉備津彦命がこの宮に印されたのではないでしょうか。それまでの首長が鬼という悪者にされ追いやられ、吉備津彦命という大和の力がお祭りされたのだと思います。
 それでも、当時の吉備の人たちは、悪者にされた吉備の神々を忘れませんでした。ちゃんとお宮の中に残したのです。
 本来、温羅は悪鬼ではない、吉備の古来から崇拝されていた神だったのです。この人々の心に残る吉備一族の首長としてのこの崇拝尊敬が大和にとっては一番邪魔になることなのです。
 そこで、大和の支配者は、人々から崇拝されていた吉備の支配者を悪人にでっち上げたのです。獰猛なる人々の敵である悪鬼に変身させたのです。でも、吉備の人々は、この温羅の恩を忘れなかったのです。だからこそ、吉備津神社の中にわざわざ鬼であるにもかかわらずお祭りしたのです。
 もしかして、今、吉備津彦命の御陵とされる中山の山上にある中山茶臼古墳も、温羅の御墓かもしれません。

 「語部」が吉備国など特別な国だけにあったというのも、大和が日本を統一するために、大和の都合がいい物語を作り、その土地の人々に信じ込ませ、支配を確実にするための手段だったのかもしれません