私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている 18

2008-10-10 22:05:25 | Weblog
 吉備下道臣前津屋の不敬事件から話します。
 雄略天皇は、吉備弓削部虚空(おおぞら)を吉備国下道に遣わして、前津屋の政治(まつりごと)の補助をさせていたが、いくら帰るように要請しても、いこうに都に帰って来る気配がないのです。そこで身毛君(みけつきみ)太夫を吉備に遣わしてようやく虚空(おおぞら)を都へ連れ戻すことができます。帰ってきた虚空が吉備下道臣前津屋のことを天皇に話します。
 
 「前津屋はある時、小さな女を天皇に、大きな女を自分に見立てて争わします。小さな女が勝つと刀で殺してしまい、また、ある時は小さな鶏を天皇に、大きな鶏は自分に見立て、その上、大きな鶏の足には金の距(けずめ)までつけて戦わします。それでも小さな鶏が勝つと直ちに殺してしまいます」
 と、申し上げます。
 それをお聞きになった天皇は、前津屋の不敬の心を知り、直ちに、物部の兵士30人を遣わして、吉備下道臣前津屋一族を誅殺してしまうのです。

 これは日本書紀雄略紀に出ている、吉備一族の反乱の物語です。
 でも、いくら強靭な大和の物部氏の兵士であったとしても、たった30人ぐらいを遣わしたところで、巨大古墳を作るほどの力がある吉備の大王を滅ぼすことはできないとは分かってはいますが、日本書紀には簡単にこう書いています。
 なにしろ、当時の吉備は鉄の生産が盛んで、それを利用した強大な武器を持っていたことは確かです。例え、その何千倍もの兵士をもってしても大和がそんなにたやすくは吉備を破れ去るということはできないと思いますが、それ以上のことは書紀には出ていません。もちろん古事記には全く出ていません。
 日本武尊の蝦夷征伐のときの吉備武彦やその後の鴨別命や弟彦命の熊襲征伐や三韓征伐に吉備の副将が活躍したというのも、皆、吉備の鉄の武器、「刀」をあてにした戦術であったと思われます。この「吉備の鉄」の争奪が雄略天皇以降の大和の政治的な課題となったことは確かです。より強力な中央集権的国家を作るには吉備の力が必要でもあるし一方また邪魔でもあるのです。また、吉備の持つ鉄の生産技術を大和が独占する必要もあったのです。そのための大和の強引で卑劣な手段をそれとなしに軽く描いたのではと思われます。