私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている 26

2008-10-19 15:38:27 | Weblog
 昨日に引き続いて采女について書きます。

 「秋山の したべる妹 なよ竹の 嫋(とを)依る子らは いかさまに 思ひ居(ま)せか 栲縄(たくなは)の 長き命を 露こそは 朝(あした)に置きて 夕へは 消(け)ぬといへ 霧こそは 夕へに立ちて 朝(あした)は 失すといへ 梓弓 音聞く吾(あれ)も 髣髴(ほの)に見し こと悔しきを 敷布(しきたへ)の 手(た)枕まきて 剣刀(つるぎたち) 身に添へ寝けむ 若草の その夫(つま)の子は 寂(さぶ)しみか 思ひて寝(ぬ)らむ 悔しみか 思ひ恋ふらむ 時ならず 過ぎにし子らが 朝露のごと 夕霧のごと」

「その美しさは秋山の色にも似、そのたおやかさはなよ竹にも似ていると、かねて評判を聞いていたのに、ほのかにしか見なかったのが、今となっては悔やまれる。共に添い寝した夫はどんな思いでいることだろう。長い命であるものを、時ならずも、まるで朝露のように、まるで夕霧のように、はかなくも亡くなってしまった。」
  
 
 これは万葉集にある柿本人麻呂の「吉備津采女死時」歌です。
 采女とは、天皇に献上した地方豪族の、それも吉備や山城など限られた大国からしか送られなかった特別の娘でしす。それだけ教養もあり、その上、美女が絶対の条件になっていました。天皇の私物用に届けられた地方からの特別な贈答品なのです。送られてきた女性にはひとかけらの自由もなかったのです。天皇の命令で動くロボットなのです。自分勝手に行動できる自分はないのです。だから、恋なんか決してできるはずもなく、また、許されるはずもありません。
 この決してできない禁断の恋をした采女が「吉備津の采女」です。
 「手(た)枕まきて 剣刀(つるぎたち) 身に添へ寝けむ」と人麻呂は歌っています。決してしてはならない天皇以外の男と寝たのです。見つかれは男も女もたちどころに殺されてしまいます。そんな累卵の危ない恋をしたのです。恋とはそれぐらい魅力的な男女の交わりでもあるのです。
 吉備津采女の相手は誰だかはわかりませんが、きっと時の若き貴公子であったと思います。時は奈良朝天武天皇の頃ですから、ひょっとして大津皇子ぐらいだと、とても面白い時代小説になるのですが、歴史は何も語ってくれません?
 一切の自由のない吉備津の采女は、苦しんで苦しんで苦しみぬいたであろうその末に、どうしようもなく琵琶湖の川瀬の道に静かに何も語らずに入水して朝霧の中に消えていきました。きっと故郷に帰ってきて死にたいと思ったことでしょう。父母の古里の海を川瀬の道に置き換えて入水して行っただろうなと想像できます。多島の美しい瀬戸の穴海をです。

 
 柿本人麻呂が、この吉備津の采女をほのかに見たのが残念だった、もう少し良く見ておけばよかったと思えるぐらいの美女だったのです。顔、形といった単なる容姿だけでなく、この歌からすると、この吉備津采女は大変な性的肉感的な美女ではなかったかと思われます。
 「したべる」妹を、万葉仮名では「下部留」妹と書いて、若い女性の下半身を想像させるに十分な官能的な意味合いを感じさせ、「なよ」竹はなよなよとした女性の腰つきを思い、また「嫋(とを)依る」子らは捩じれば撓み易くいかにも弾力性のある体全体で吸いつくような感じのすることを表現しているのではと思えます。本当に性的な匂いがいっぱいのする書き振りのような思いがいつもします。
   万葉集って面白いですよ

 ご参考までに万葉仮名で書いてみます。

 秋山下部留妹 柰用竹之 謄遠依子等者(アキヤマノシタヘルイモ ナユタケノ トヲヨルコラハ)・・・・

 大変な美女がいたのです。もちろん今もですが。岡山というところはいいところですよ。