私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている 28

2008-10-21 15:00:49 | Weblog
 昨日、禁断の恋をした吉備津采女の「身添へ寝けむ」男はもしかして大津皇子ではないかと書きました。すると、例のお節介家さんから「大津皇子について、更に書け」と命令が届きました。あまり吉備と関係はないのですが書いてみます。
 
 大津皇子は天武天皇の子です。その兄草壁皇子が皇太子で、母は皇后の鵜野皇女(持統天皇)です。大津皇子の母は鵜野皇女の姉の太田皇女です。二人とも天智天皇の同母の皇女なのです。なお、ややこおしいのですが天武天皇(大海人皇子)は天智天皇の弟です。
 大津皇子には一人の姉大伯皇女(おおくのひめみこ)がいます。
 そのころ、朝鮮半島では新羅は強く任那を圧倒していました。その任那を助けるために欽明天皇は兵を朝鮮に進めます。その軍船には中大兄皇子、大海人皇子、太田皇女鵜野皇女も一緒に乗られていました。
 その軍船が瀬戸内海の備前の大伯海(おおくのうみ)を進んでいた時、太田皇女が皇女をお生みになります。その地名をとって大伯皇女と名づけられたのです。
 大伯(おおく)海は今の邑久町(現在の瀬戸内市)付近の海です(661年)。その同母弟が大津皇子なのです。ちなみに、大津皇子は博多の娜(な)の大津で生まれたから大津なのです(663年)。
 
 朝鮮遠征に失敗し、一時は国力の落ちた大和政権も、壬申の乱以後また次第に天武天皇を中心にして国内が安定してきます。
 その天武天皇の皇太子が鵜野皇女を母に持つ病弱であった草壁皇子です。その皇子よりは何事においても才能豊かな弟の大津皇子の方が周りから将来を嘱望されます。そんな大津皇子を、皇后の鵜野皇女は面白いはずがありません。どうにかして我が息子草壁を天皇の位にと思います。

 「懐風藻」によると
 「体格や容姿が逞しく、寛大。幼い頃から学問を好み、書物をよく読み、その知識は深く、見事な文章を書いた。成人してからは、武芸を好み、巧みに剣を扱った。その人柄は、自由気ままで、規則にこだわらず、皇子でありながら謙虚な態度をとり、人士を厚く遇した。このため、大津皇子の人柄を慕う、多くの人々の信望を集めた」
 人であったようです。
 だからこそ、草壁皇太子の母、鵜野皇女(持統天皇)はいろいろと画策して、大津皇子を亡き者にしようとするのです。わが息子が可愛いのです。たとえ姉の子異母弟であっても、大津皇子を殺してしまいたいほど憎くて憎くてしかたがないのです。どうにかしてと思いめぐらせます。母なお愛情でしょうか、我が息子を天皇にしたいのです。
   
   “春過ぎて 夏来るらし 白妙の
            衣乾したり 天の香具山”
 の女性の中に、どうしてそんなに激しい感情があるのだろうかとも不思議に思われます。

 いろいろな思惑が飛び交っている都にあって、こんな素晴らしい皇子との禁断の恋、その大津皇子に迷惑が及ばないように吉備津采女は、せめて「大津」という名がつく楽浪(ささなみ)の浜で静かに身投げしたのだと考えてもいいのだではないでしょうか。