私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている 24

2008-10-17 16:47:46 | Weblog
 大悪天皇と異名をとる雄略もその依る年波には勝てず、後半は静かに政ごとを行い国家治まるとあり、62歳で身罷っています。
 雄略が死ぬ(479年)と、吉備下道臣女稚媛は雄略との間に生まれた星川王子を大蔵の官にさせて、兄君や城丘前来目(きのおかさきのくめ)らを従え大王の位につかせようとしたのです。
 雄略は死ぬ前に、大連大伴室屋と東漢直掬(やまとのあやのあたいつか)を呼んで、
 「自分が死んだ後、星川王は腹黒く心麁(こころあら)いことは有名なので、きっと皇太子(白髪王子)を殺して自分が大王になるだろうから、2人して十分心して守ってくれ」
 と頼んだという。その通りになったので、室屋と掬(つか)は直ちに兵を大蔵に遣り、星川皇子、稚媛ら総て焼き殺したのです。
 この大和での異変を知った上道臣たちが船40艘の水軍を遣わしたが、大和に着いたときにはすでに戦いは終わり、星川皇子たちが殺されてしまっていたので、吉備の上道に戻ったのだそうです。
 この時、どうして川嶋・三野・苑・波区藝などの他の吉備諸地域の首長が一緒になって上道臣を助けなかったのかはわからないのですが、統一して吉備の難題を解決できなかったのかということが、その力を弱める一番の原因になったことは間違いありません。
 下道も上道もバラバラびなって強力な大和の勢力に立ち向かったために、ついに吉備全体が衰退していったのです。吉備の諸王がてんでバラバラに大和に立ち向かったも勝つわけがありません。
 この戦いの結果、それまで上道臣が支配していた吉備の山部は完全に大和に取り上げられたのです。この山部というのが製鉄業などの吉備の基幹産業を担っていた部民であったのです。この山部が大和に取り上げられてから吉備の衰退がいよいよ早まり、ついには没落の憂き目を見るに至るのです。
 なお、念のためですが、百済にあった「田狭」に、我が国からから幾多の刺客が送られたことは想像がつきますが、その後の運命はどうなったのか樟媛と共に歴史の中からこれもまた完全に掻き消されてしまっています。「殺された」とはっきり書いてあるものもありますが。

 書紀にだけあって、古事記にはこれらの歴史は一切載ってはいないのです。でも、そのあたりの様子がよくわかる歴史的な手掛かりはいまでも吉備地方にたくさん残っているのです。
 その一つに古墳があります。


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