私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている 29

2008-10-22 17:26:50 | Weblog
大津皇子のお話をもう少し。

 686年のことです(書紀の天皇十五年)天武天皇の病状が悪化します。七月十五日だと記されています。天皇から突然の詔が出ます。
 「政(まつりごと)のことは全て大小を問わず、皇后と皇太子とそうだんすること」
 と。病状の悪化した天皇が果たして言ったのかどうかは疑わしいのですが、とにかくこんな詔が出されます。皇后鵜野皇女の指図ではと思われます。これによって大津皇子は政から外されてしまします。
 天皇が九月九日に崩御されます。そして十月二日に突如として、大津皇子は謀反のかどで死罪を言い渡され、翌十月三日に死刑になります。
 その謀反ですが、これも誠におかしげな話が残っています。
 新羅から来た「行心」という何か妖しげな僧が出てきます。
 
 ちょっと横道にそれます。今朝の新聞によりますと、この「妖」という字を「あや」しいと、読んでもいいようになったと書かれていますが、いいわるいを、この大津皇子のようにいとも簡単に決められていいのでしょうか。国語審議会というのも何か怪しげな所だと思いませんか。

 皇子の謀反に加担した30人あまりの捕らわれたのですが砺杵道作(ときのちつくり)だけが伊豆に流された他は全員が罪が許されています。
 そして又詔して「新羅の法師行心は大津皇子の謀反に加担したが、朕罪するを忍びず」とあります。
 どうして、大津皇子に加担した者の内で、この行心だけ、「罪するを忍びず」と特別扱いにしているのか、この事件の胡散臭さが感じられます。皇太子草壁皇子のために、新羅より来朝した妖しげな占い師行心を使って勝手に大津皇子の罪をでっち上げたのではないかと言う人もいます。たぶんそれが正解だとは思います。
 要するに、大津皇子は母の妹、そうですおばさんの鵜野皇女に異母の弟のために殺されています。御年24歳であったという。妃の山辺皇女は髪を振り乱して裸足で駆けて皇子の所に行って殉死します。山辺皇女のその時の物凄さが「殉(ともにしに)めせり」という言葉の中から想像できます。

 さて、日々一歩一歩死へと追いやられていくせっぱつまった大津皇子のなんとも言えない心境を今に伝える歌が万葉集にあります。伊勢神宮の斎宮であった姉の大伯皇女(おおくみこ)とのやり取りからうかがい知ることができます。
 それはまた明日にでも。


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