私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている 25 吉備の女傑

2008-10-18 21:58:18 | Weblog
 5世紀の末になって吉備王国は次第に衰退して、ついには没落していきます。それを決定付けたのが星川皇子の事件です。
 この後は吉備の力が全て消え去ったかというとそうではありませんが、幾人かの吉備出身の官僚は大和の政治機構の上でそれなりの活躍の跡は窺うことはできます。
 その一人に吉備上道采女大海(きびかみみちのうねめおおしあま)という女傑がいます。この話を今日はしたいと思います。
 田狭の反逆、星川王子の事件の後、上道の首長は国造にさせられます。ということは、もはや吉備の大王ではないのです。一地方の天皇の小役人にしか過ぎません。 この上道の国造の人質として、女(むすめ)大海(おおしあま)を天皇のもとに貢がせます。この采女を雄略天皇は、さらに、部下の紀小弓という人の後妻に与えています。采女とは天皇の私物なのです。煮ようと焚こうと天皇の自由裁量なのです。自分の意志では勝手な行動はとれないのです。まして、恋愛などといったものは一切厳禁です。
 
 さて、田狭のおこした反乱当時から、新羅も百済も大和というか天皇の元に友好のしるしとして毎年来朝して貢物をしていたのですが、それがなくなり不逞な関係になっていまいました。何度か貢物をするように新羅などに迫るのですが無しの「つぶて」。それを怒った雄略は、この小弓、蘇我韓子、大伴談(かたり)、小鹿火(おかひ)の四将軍に任じて、新羅征伐に向かわしたのです。
 その時、小弓は後妻として天皇より拝領した吉備上道采女大海を新羅征伐に連れて行きます。戦いははかばかしく進まず、夫の小弓も戦いの途中で病死します。多くの四将軍などの日本から派遣した武将も戦死やら内紛やらで倒れ、征伐は失敗し、大海(おおしあま)は病死した自分の夫小弓の屍を抱いて日本に帰り、紀州に墓を造り埋葬します。
 こんな記事が書紀に見られます。衰退没落した後の吉備にも、まだ、このような女傑などの人が出ておりますが、所詮は婀娜花であって、再び、吉備が政治的な脚光を浴びることはありませんでした。
 なお、この采女ですが、日本各地の国造などの娘が天皇のもとに献上されていたのですが、と言っても、どこの国造の娘でもいいというわけにもいかなかったようです。采女が献上された国造は限られていました。大和・山城・伊勢、そして吉備からしか貢いではいなかったのです。それだけ、まだ衰えたといえ、吉備が重要な大和の勢力の中に組み入れられていたという証拠にもなるのです。
 それまでに、山城と伊勢と吉備だけが大和に対して反乱を起こしています。采女と天皇への反乱というか特別強い勢力を持つ国とは何らかの関係がありそうです。