日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

主の過越しの犠牲

2020-08-30 18:43:35 | メッセージ

礼拝宣教   出エジプト記12章1-28節 


① 「100年前から何を学び、活かすか?」
先日私は、2人の知人を介しての資料や記事から、100年前に世界で大流行したイン
フルエンザ(スペイン風邪)について知る機会がありました。この疫病によって世界で
は数千万人の命が奪われたというのです。日本では総人口の約3割が罹患し、実に25
万7千3百6人が亡くなられたことを知り、生まれていなかった私にとってたいへん驚
きでした。第1次世界大戦のさなかであったことも状況を深刻化させたようですが。そ
ういった中、当時の日本政府は「流行性感冒予防心得」なるものを出したそうです。そ
れが実に100年後の新型コロナウイルス禍の感染症対策とほぼ変わらないものであ
るようです。今後コロナ感染症の第3波4波が来るとも予想されていますから、「検査
と医療体制の充実や自粛や休業を要請する法的整備やそれに見合った補償等の施策を
国政として進めて頂くことが急務」と、過去の歴史から何を学んだのかが問われている
という内容でした。
こういった過去の歴史を知り、思い起こすことから、何を学び、どう今に生かしていく
かということがとても大事なことなんだと、改めて思わされます。


② 「主の過越し」
さて、8月より旧約の出エジプト記を読んでいますが、この3600年も前の出来事か
ら私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。
先週のモーセとアロンの記事から、今日は「主の過越し」の記事となりますが。
その間、モーセとアロンを通して主なる神さまは、モーセとアロンを通してファラオに
警告なさったとおり、エジプトに「血の災い」「蛙の災い」「ぶよの災い」「あぶの災い」「疫病の災い」「はれものの災い」「雹の災い」「いなごの災い」「暗闇の災い」を行われます。しかしファラオは神を畏れるに至らず、その心はかたくなになるだけでした。
ファラオはイスラエルの民を解放することなく奴隷としてしいたげ続けたのです。
そこで遂に主がファラオとエジプトに直接手を下されるかたちでなされたのが、この
「主の過越し」の御業でした。
それは11章4節にありますように、「真夜中頃に主ご自身がエジプトの中を進まれ、
その時エジプト中のすべての初子が撃たれて死んでしまう」というものでした。これは
エジプトの全土に及ぶものであり、そのままではイスラエルの民のすべての初子も撃た
れてしまいます。そこで主はイスラエルに災いが及ぶことがないために、主の裁きがそ
のイスラエルの家々を過ぎ越していくための備えをするようにと、主はイスラエルの民
にお命じになられるのです。
先ほど読まれたとおり、それは「家族ごとが食べるのに見合う傷のない雄の一匹の小羊
もしくは山羊を用意し、それをイスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、
その血をとって、小羊を食べる家の入口の2本の柱と鴨居に塗り、その夜のうちに肉を
火で焼いて食べる」ということです
又、「酵母を入れないパンと苦菜を添えて食べる」。さらに「それを食べるときは、腰に
帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる」ということでありました。
出立の声がかかれば、すぐにでもエジプトを出立する身支度をしておくということです。
酵母入りのパンはエジプト人の主食でした。エジプトにはそのパン焼き工場が盛んであ
ったようです。酵母入りのパンを焼くには発酵させるための時間がかかったのでありま
す。まあ、出エジプトに際しては、酵母入りのパンを作る時間などがなかったとか、そ
のまま旅にもっていく場合、酵母の入っていないパンの方が腐らず長期の保存ができた
ということがあったようですが。肝心なのは、この酵母の入っていないパンが代々に亘
って、この主の過越しの出来事の記憶とされていく、ということです。
続けて主は13節後半からこう仰せになります。「これが主の過越しである。その夜、
わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を
撃つ・・・あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たな
らば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の
災いはあなたたちには及ばない」。
ここで主の過越しと、犠牲の血を塗る意味が語られます。
その夜、ファラオよりも力あるお方がエジプトを訪れその全土を行き巡られるのであり
ますが、イスラエルの共同体も例外ではありません。彼らはエジプトの至る所に増え広
がり、ファラオの労働力として移住させられていたのです。
そこで主はイスラエルの共同体には、主の過越しと、犠牲の血を塗る意味を語られます。
この血は主の守りのしるしでありました。主なる神が「傷のない小羊の犠牲の血」が門
柱と鴨居に塗られるのをご覧になり、その家々を通り越されるのです。
一方、主が直接手を下されるこの災いによって、ファラオの初子をはじめ、エジプトの
国のすべての初子と家畜の初子すべては撃たれ、失われることになるのであります。
それまでの9つの自然界の災い、また疫病といった災いもそれはファラオやエジプトに
とって確かに大きな問題とはなりましたが。それでもなおファラオは自らの力を誇示し、
その心はかたくなであり続けました。9章30節でモーセが言うように、「ファラオも
家臣も、まだ主なる神を畏れるに至っていなかった」のです。
しかし、この自分の初子が災いに遭い、失ってしまうという事態に、さしものファラオ
も自分の力では及ばない力があるということを思い知らされ、心砕かれるほかなかった
のであります。彼にとっては得体のしれない「主」という存在に、大きな恐怖を感じた
のでありましょう。そうしてイスラエルの民が荒れ野で、「主に仕える」ことを許可す
る(12章31節)こととなるのです。


③ 「記念として」
さて、今日の箇所で特に心に留めたいのは、14節「この日は、あなたたちにとって記
念すべき日となる。あなたたちはこの日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべ
き不変の定めとして祝わなければならない」。24節「あなたたちはこのことを、あな
たの子孫のための定めとして、永遠に守らなければならない」との、主のお言葉であり
ます。
それは、彼らのために屠られた傷のない小羊の血が家の2本の柱と鴨居に塗られ、その
しるしをご覧になった主が過越しによってイスラエルの民を守られ、救われたという出
来事を思い起こして記念とするためです。そうして小羊を屠って焼き、種入れぬパンを
食べるという行為を通して子どもたち次の世代に、イスラエルの民とその信仰の期限を
なすエジプトの脱出とその意味をきちんと伝え、語り継ぐためであるということです。
出エジプトした世代は、直接それを目の当りにして経験しました。しかし時代が経つに
つれ、恵みの記憶は次第に薄くなっていきます。
そのことをだれよりもご存じであった神は、主の過越しの出来事を祝い、記念すること
を永遠の定めとして、子々孫々守り語り継ぐようにと命じられるのですね。
今もイスラエルのユダヤ教徒の共同体はその祭りの日に、「小羊を屠って焼き、種入れ
ぬパンを共に食べる」とことを通して、神さまが決定的に起こしてくださった大いなる
救いと恵みの出来事を追体験してきているのですね。
主イエス・キリストによる救いの時代に生きる私たちキリスト者は、この「主の過越し」
の出来事を神さまの新しい契約として与えられました。
すなわち、神の御独り子であられる主イエス・キリストは「世の罪を取り除く犠牲の小
羊」として十字架で屠られ、罪に滅びるほかない世界の、私たちの罪をあがなう「主の
過越し」を成し遂げてくださったのであります。
主イエスが十字架におかかりになる前夜、主イエス自らわたしの記念として行うように
と定められたのが、私たちが月の最初の主の日の礼拝の中で守っております主の晩餐で
あります。
主イエスが私たちの罪のために十字架でその御からだを裂かれ、槍で刺されて御血を流
されたことを共に覚えつつ、主の御からだを表すパンを食し、御血を表すぶどうの杯を
飲みます。神の義の厳粛な裁きとともに、主の大いなる赦しの重みと滅びからの解放の
恵みの深さを、私たちはそこで心新たに確認するのです。
そのように、記念として守り続けることは、私たちがその信仰の原点を見失うことがな
いためであり、それを忘れることがないためにとても大切なことなのです。


④ 「礼拝する共同体」
28節に「民はひれ伏して礼拝した」とございますが。
個々人の礼拝は毎日捧げることができますけれども、私たち主を信じる者が共に一つと
ころに集まって共に捧げる礼拝は、主にある兄弟姉妹という交わりの中で捧げる礼拝で
あります。
過ぎ越しの日、神さまはイスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れに羊を屠るように命じ
られました。また、1家族で食べきれない家は隣人と共に頂くように命じられたのです。
あの聖霊降臨を体験した主の群、エクレシアは、共に心を合わせて、祈り、互いのもの
を分かち合っていたのです。(使徒言行録2章43節以降)
共に分かち、共に祝うところに主の恵みの再確認がより深く心に刻まれるのであります。
先週の夜の祈祷会の聖書の学びの折に、コロナ禍もあり今はユーチューブなどで聖書の
御言葉を手軽に聞けるようになった一方で、教会に行く必要がないと思うようになるク
リスチャンたちが増えてこないかというご意見がありました。確かに、いろいろな伝道
者や牧師といわれる方からのメッセージを聞いて励まされるということもあるかも知
れません。
けれども思いますのは、主を信じる私たち一人ひとりが共に集い、共に賛美し、祈りを
合せ、礼拝を捧げ、主の晩餐を守る中で、主の臨在を覚えたり、聖書のことばが生きた
御言葉として響いてきたり、会衆賛美の中で涙が自然にあふれ出るような感動を覚える
のです。今まさにここで、共に集い、共に主を礼拝する中に聖霊のゆたかなお働きを感
じ、ここででしか味わうことのできないものがあるのではないでしょうか。主の交わり
の中に聖霊が豊かにお働きくださるのです。
もちろん様々な事情から礼拝に集うことが困難な方もおられます。そのような方を主は
必ずその求めによって顧み、慰めと励ましをもってお支え下さるでしょう。主にあって
私どものとりなしの祈りが継続されていくことは大切なことです。
今日の聖書の箇所で、主なる神が命じられておられるのは、いつも「主の共同体」とし
て共にその主の命じることをなしなさい、ということであります。
それは後の世代までも、又個々人の生涯においても、主の救いの恵みを覚え続けるとい
う目的があるからです。
コロナ禍のこういった状況下であっても、12章14節にありますように、「この日を
主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」。
それは、新約の時代に生きる私たちにとりましても変わることのない主の祝福の継続の
ための招きであります。その祝福に共に与りつつ、今日の御言葉をもって今週もそれぞ
れの持ち場へと遣わされてまいりましょう。

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モーセとアロン

2020-08-23 20:14:51 | メッセージ

礼拝宣教 出エジプト記6章28節―7章7節 

 

「先週からの続き」

先週は、エジプトで虐げられるイスラエルの民を神が救い出すため、モーセをお立てになる召命の記事を読みましたが。モーセはイスラエルの人々、その民に神の言葉を語るよう命じられるのですが、なかなか首をたてにふることはできません。

神はモーセに「使命に伴うしるし」を見せるのでありますが、モーセはなおも神に、「わたしはもともと弁が立つ方ではなく、全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わし下さい」と、なおも召命から逃れようとします。

そこで神は遂に怒りを発してモーセにこう言われます。

あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている・・・彼によく話し、語るべき言葉を彼に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあって、あなたのなすべきことを教えよう。彼があなたに代わってに語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。あなたはこの杖を取って。しるしを行いなさい」。

 

こうしてモーセは重い腰をあげ、ようやくエジプトに向かうことになるのです。

その途中、神の山(シナイ山)で兄のアロンと出会い、「自分を遣わされた主の言葉と、命じられたしるしをすべてアロンに告げ」、アロンを伴ってイスラエルの人々のもとに向かいます。そうしてイスラエルの人々と長老全員を集めて、アロンは「主がモーセに語られた言葉」をことごとく語り、モーセは民の面前でしるしを行ったので民は「信じた」。また、「主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみをご覧になったということを聞き、民はひれ伏して礼拝した」ということであります。

 

その後の5章ではモーセとアロンが神の言葉を語るためにファラオのもとに出かけ、ファラオに、「イスラエルの神、主が、わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさいと言われたこと」を伝えます。

ファラオが「主とは一体何者なのか。どうして、そういうことを聞いて。イスラエルを去らせなければならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」と答えると、モーセとアロンは「ヘブライ人の神がわたしたちに出現されました。どうか、三日の道のりを荒れ野に行かせて。わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。そうでないと、神はきっと疫病か剣でわたしたちを滅ぼされるでしょう」と、言います。

それに対して、ファラオは「お前たちは労働をやめさせようとするのか」「なぜ彼らを仕事から引き離そうとするのだ。お前たちは自分の労働に戻るがよい」と2人を追い返します。

そうして、彼らは怠け者だからそんなことを言って行かせてくれと叫んだといって、イスラエルの人々にさらに過酷な労働、使役を課します。

その後、イスラエルの下役たちは、ファラオのもとへ抗議に出向くのでありますが、ファラオの厳しい対応と命令に愕然とし、そのやり場のない怒りの矛先はモーセとアロンに向かうことになるのです。

苦しい立場に立たされたモーセは、主に「わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません」と訴えるのであります。

それに対して主なる神は、アブラハムからなる契約によって必ず民を導き出し、救い出す、と宣言なさるのです。

 

「モーセとアロン」

そうして本日の6章29節でも神はモーセに、「わたしは主である。わたしがあなたに語ることすべて、エジプトの王ファラオに語りなさい」と重ねてお命じになるのです。

先のこともあってモーセは「御覧のとおり、わたしは唇に割礼のない者です。どうしてファラオがわたしの言うことを聞き入れましょうか」と、また以前のように行き渋るのです。

そこで神は、モーセがエジプトのファラオに語るべきこと、なすべきことについて次のように仰せになります。

「見よ、わたしはファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。わたしが命ずるすべてのことをあなたが語れば、あなたの兄アロンが、イスラエルの人々を国から去らせるよう、ファラオに語るであろう」。

 

先にモーセとアロンがファラオのもとを訪れたときは、この神の約束は語られておりませんでした。ここで注目しますのは、モーセは「神の代行者」、アロンは「その預言者」になるということです。

モーセは「わたしは唇に割礼のない者です」と自ら吐露していますように、言葉の人ではなく、語ることが生来得意ではなかったようです。

しかし、彼は神さまと直接、顔と顔を合わせ、お言葉を受けるという賜物を頂いていました。又、エジプトでの宮廷においてエジプトに関する歴史、文化、慣習などの知識を身に着け、王とも親交があり、王宮の内実に詳しかったのです。

一方、アロンは「そのモーセの預言者」ということで、モーセが語った神のことばを預り伝える役割を果たすのです。アロンはヘブライとエジプトの言葉をうまく受け答えでき、雄弁に語ることができたようです。

この事が示していますのは、モーセもアロンも、まず「神のことばを聞く」ことからすべてが始まっていくということであります。

 

私は礼拝で宣教者として語る役割を託されているのですが。やはり思いますのは、如何に普段から「聖書から聞く」ということが大切かと思っております。

まず、聖書のみから聞いていく。自分の主観や感情に傾斜して聖書を読まない。神のことばである聖書からまず聞くことを心がけています。

又、祈祷会の中で聖書の学びのときが持たれていますが。そこで私は参加されている方々が聖書から聞いたことを、それぞれ聞き合える場があるのが本当に幸いに思っています。

そこで私の一方的な読み方が正されたり、又新しい発見も与えられたりすることも多々あるのです。又、それぞれの方から生活の中で御言葉が生きて働かれる証も頂き、励まされることもございます。

この「神のことばを共に聞く」。それは神が招き導かれる主の共同体に向けられたことばであり、それに連なる一人ひとりに語りかけられる言葉であります。その信仰の生活の基盤はまさに礼拝にございます。

この出エジプトにおいて、主なる神がまずエジプトのファラオに要請したことは何でしたでしょうか? それはイスラエルの民が「荒野で主に礼拝を捧げる」ことができるようになることでした。イスラエルの民が神の民として共に礼拝を捧げ、共に主の御声に聞き、従っていく場を得るためでした。

私どもも今、コロナ禍で一つ所に集まる難しさを痛感しているわけですが。そこで、どのように礼拝の場と時間、何より御言葉を共に聞いていくことが問われています。

 

さらに6節-7節で、「モーセとアロンは、主が命じたとおりに行った。ファラオに語ったとき、モーセは80歳、アロンは83歳であった」と記されていますが。

2人とも80歳を超える高齢のときに、まさにファラオのもとを訪ね、神の言葉を大胆に告げ知らせるのです。

若い時に比べ身体的な老いを感じる年齢であったかと想像しますが、あの強大な権力を誇るエジプトの王、ファラオに会いに行くことができたのは、すべてをおさめ、導かれる主なる神がわたしを遣わされるという信頼がこの2人に共通してあったからでしょう。

この「モーセとアロンは主が命じられたとおりに行った」というのは、単にそれぞれに行ったという意味ではなく、モーセもアロンも主が命じられたことを一緒に心を合せて行ったということです。ここが重要です。

実に主がこの2人と共におられ、彼らを用いられ、その民イスラエルのために御業を行われるのです。

今日の礼拝の始めに読まれましたコヘレトの言葉4章9節、12節をもう一度お読みしたいと思います。

「ひとりよりもふたりが良い。共に苦労すれば、その報いは良い。一人が攻められれば、

ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい」。

この三つ目の糸こそ、主なる神さまなのです。

人は1人で生きることはできません。人と人との交わりを通して生かされているのですけれども、聖書はさらに人と人とが主なる神さまに結ばれて生きるなら、あらゆる状況の中でも力と助けを得る、と約束しているのです。

主にある交わり、共に心合わせていく関係をこれからも大切にしていきたいと願うものです。

 

「神の大いなる御計画」

聖書の記述に戻りますが。

さて、神は続けてこうモーセにお告げになります。

3節「しかし、わたしはファラオの心をかたくなにするので、わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す」。

 

この「神がファラオの心をかたくなにする」という意味は難解です。

神はここでファラオをロボットのように動かして、その心をかたくなにされたのでしょうか? いいえ、ファラオには自分で選び取る意志と、行動する自由があったのです。

ただ神はご存じでした。3章19節には「強い手を用いなければエジプトの王が民を行かせないことを、わたしは知っている」と、神はおっしゃっています。

ファラオにはモーセとアロンのしるしや奇跡が何度も示されますが、しかし神への畏れ、その偉大さを認め、悔い改めることがなかったのです。その心は主に立ち返るどころか益々かたくなになっていくのです。

では、モーセやアロンの働きは意味のない無駄なものであったのかといえば、決してそうではありません。主なる神さまが最後的にエジプトに手を下してその栄光を決定的に顕されることの、それは道備えとなっていくのです。

最終的に神は、主の「過ぎ越し」という大いなる審判と救いをもって、イスラエルの民をエジプトから導き、救い出されるのです。

 

最後に、今日の箇所で最も重要なメッセージをここに刻みたいと思います。

それは、5節の「わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人はわたしが主であることを知るようになる」との主なる神さまのお言葉であります。

ここにはイスラエルの民のみならず、エジプトの人々も、その驚くべき主の御業を体験する中で「主を知るようになる」と語られいるのです。

ファラオはかつて、モーセが「主」について語ったとき、「主とは何者か」と問い返しました。彼はまさに神の審判によって、「主とは何者か」という答えを決定的に知ることになるのです。

「エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる」とありますが、このエジプト人とは、広くイスラエル以外の全世界の人々をも示しています。

主なる神を認めず、主への畏れを知らない全世界の人々が、天地万物を造り、すべてを統治し、導いておられる畏れるべきお方、主である神さまを知るようになる、との大いなるメッセージがここに語られているのです。

神は先にモーセをエジプトにお遣わしになられたように、後の新しい契約の時代には御独り子、主イエス・キリストを全世界の救い主として送ってくださり、私たちを罪の滅びからあがない出してくださいました。

まさに、今日の「わたしが主であることを知るようになる」との御言葉は、主イエス・キリストによって今や全世界に実現されているという救いのメッセージなのです。

ここに出エジプト記が旧約聖書の福音書と言われるゆえんがございます。

9章16節にこう記されています。「わたしの名を全地に語り告げなさい」。

それは新約、神さまとの新しい契約の時代に生かされる私どもにとりましては、イエスさまが弟子たちに命じられている神の福音の大宣教命令であるのです。

 

私たちを取り巻く世界において悩みや苦しみはありますが、神の福音に生かされている喜びをもって、御言葉に聴き、主の御心に適った歩みを共々に悔いのないようになしてまいりましょう。

 

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道をそれて

2020-08-16 13:18:19 | メッセージ

礼拝宣教  出エジプト3章1-15節

 

「燃え尽きない柴」

今日の箇所は、よく知られている「燃え尽きない柴」の光景を前にしたモーセと召命のエピソードであります。

モーセは「燃え尽きない」柴を目にした時、「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう」と言った、とあります。

かつてシナイ山に登る機会を得ました時、その山頂で目にしたのは、夜明けと共に日の出の光が山々の草木や山肌を照らし、まばゆいほどの黄金色に映し出された光景でした。それが、私の見た「燃える柴」でありましたが。

このところで肝心なのは、4節にあるように主なる神も、「モーセが道をそれて見に来るのをご覧になった」ということです。

実にこの「道をそれて」という言葉には、モーセのエジプト逃亡からミデアンの地に逃れ、身をおいた40年もの長い道のりが象徴されているかのようです。

 

人の目からすれば、神はなぜもっと早く若い時にモーセを召し出して出エジプトを遂行されなかったのか?と思えます。モーセのミデアンでの40年はあまりに長く、神のお働きがそこにはないようにも見えます。

けれども、そうではありません。モーセが神のご計画のために用いられ、遣わされるには「道をそれて」と言えるような、ミデアンでの40年間の時が必要であったからです。

それは、かの地での出会いや経験、自分を見つめ神への信仰を立て直していく霊的な時間が必要であったのです。

 

人生はよく道にたとえられますが。道には、坂道、下り道、近道、回り道、迷い道、寄り道などいろいろあります。まあ大方の者にとっては回り道をするよりか近道をしたいものです。

神の人モーセでさえエジプトから異邦の地へ逃亡せざるを得なかった折、一体何でこのような目に遭わなければならないのか、思えるような時があったということです。

けれどもその道を歩む中で、彼はエテロやチッポラらと出会いを通じて癒され、育てられ、訓練されるのです。モーセはその地で実に40年という歳月を経る中で、神に遣わされていくために整えられていくのです。

 

「柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない」。その光景は神さまの臨在を顕していますが。同様にモーセがどのような状況、どのような心境で生きてきたとしても、神はモーセと共におられ、その選びと導きは絶えることがないことを、物語っているように思います。

モーセはその光景を「道をそれて」見に行きました。そこで自分の主であるお方と対面し、自分の本来行くべき道を示されるのです。

 

私たちも又、せわしない日常から離れ、自分の主なるお方と対面し、自分の本来行くべき道を確認する時が必要です。

日常からしばし離れ、一歩退き、自己を見つめ直していく信仰の再確認の時が必要だということを、この柴のエピソードは示しているようです。

私たちは時に、こんな日常に意味があるのか、と考えたりするかも知れません。又、祈っているのにどうしてこんなことが起こってくるのか、という出来事に直面することもあります。

偉大なモーセであっても人としてそのように思い悩むことがあったかも知れません。

私たちは今コロナ禍にあって、日常も礼拝も集会も、主にある親睦や交流や活動も、

様々なことが今までのようはいかない、出来ない、思うようにならない事態に直面していますけれども。

しかし、そういったある意味「道をそれて」いるように思える中においても、主である神さまは私たち一人ひとりを見守り続け、燃え尽きることのない愛と恵みをもって導いておられるのです。

この主なるお方の信実に私たちも又、信頼をもって応えていくものでありたいと強く願うものです。

 

さて、神は柴の間からモーセにお語りになります。

「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。

ここで神は、「わたしはあなたの先祖の神である」という彼のルーツについて証言なさっています。

イスラエル人でありながらエジプト人として育ち、そこから追われて異邦の地に寄留者として生きる自分とは一体何者なんだろう。先祖の神とその祝福から除外されたように思える人生。

神さまはそんなモーセに「わたしはあなたの神である」と、おっしゃるのです。

これはどんなにモーセにとって驚きであり、畏れ多いことであったでしょうか。

モーセが「神の顔を見ることを恐れて顔を覆った」とありますが、その衝撃的思いが伝わってくるようです。

 

「モーセの召命」

さて、神はそのモーセを、出エジプトのご計画を遂行されるために次のように召し出されるのであります。

7-10節「わたしは。エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」。

世の力によって虐げられ、苦しみの中で叫び祈る民の叫び声を聞かれる神さまは、その苦しみや痛みを自らのものとして感受されるのです。それだけではありません。神さまは「降って行き」とありますように、その民のおかれる低みへ自ら降られて救いと解放のみ業をなされるのです。その解放と救いのためにモーセをお立てになるのです。

 

しかし、モーセはこの神の召しに対して、「わたしは何ものでしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さなければならないのですか」と否定的に答えます。

いまだ彼の心の奥深い所には、エジプトでの殺害事件や同胞であるはずのヘブライ人から罵られた事がずっとひっかかっていたのです。「わたしは何者でしょう?」「自分のような者がどうしてそのようなことができましょうか?」

同胞からも信用されず、罵られるような自分がどうして同胞を救い出す大任を果たし得ることができるのか?

彼はイスラエル人としての負い目を抱えながら、どうすることもできない弱さと無力感をずっとひきずっていたのです。

 

では、神さまはそのようなモーセに対して何とおっしゃたでしょうか。

モーセ、「あなたこそ適任だから」「あなたにその能力があるから」と、そんなことはおっしゃらないのです。神さまはモーセがどうであるかという事には一つも触れず、12節においてただ、「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」と、おっしゃるのです。

モーセが目の当りにした「柴は火に燃えているのに、燃え尽きなかった」その光のように、どんな時も、どこにいても、神が共におられ、その恵みと憐みは尽きることがない、「わたしは必ずあなたと共にいる」。この神さまの約束が、あなたを遣わすしるしだ、とおっしゃるのです。

「わたしは必ずあなたと共にいる」。それは今や、主イエス・キリストによる新たな約束、新しい契約に生きる私たちに向けて語られている希望のお言葉であります。

インマヌエル、神は共におられるというお約束、それをしっかりと受け取っていくところに、神さまがお造りくださった人間の本来の生きる意義を見出すことが出来るのです。

 

「名を開示する神」

さて、モーセはそこで神にこう尋ねます。

13節「わたしは、今、イスラエルの人のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何』

と問うに違いありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」。

一見、モーセは神の召しに素直に答えたように見えますが、はたして彼らはどうしたら自分を信用してくれるのだろうかということで、まだ神の召命を承諾してるわけでないことが読み取れます。

神はそのモーセに、14節「わたしはある。わたしはあるという者だ」言われます。

そして「『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと、イスラエルの人々に言うがよい」と、おっしゃるんですね。

 

名前を語るときその相手との人格的な関係が生じます。そこに信頼と責任の関係が伴います。名前を語らぬ関係、匿名だとそうはいきません。

神はここでまず、モーセにご自身のお名前を開示なさったのであります。

名乗ることで神は親しく近づかれ、人が神と出会うことができるようになさったのです。

この「わたしはある」については、いろいろな解釈がありますけれども。天地万物を創造し、すべてのいのちの主であられるお方が人と出会われ、「わたしは必ずあなたと共にいる」、共にあるとおっしゃるのです。この主なる神さまが「わたしとあなた」という非常に近しいお方として人と出会われ、共におられるお方としてその名を言い表されるのです。

 

「罪の解決」

モーセは何よりもこの神によって、自らが何者であるのかを確認し、神との和解の道へ招かれているのです。それまでの半生、人を殺めたこと、同胞からの罵りや排斥の言葉に傷つき、父祖の神の祝福から切り離されていたような40年だったのではないでしょうか。それは、自分という存在を取り戻せないまま罪の中に埋没してしまうような人生で終わっていたかも知れません。

モーセとって「私の主」「私の神」との出会いがなかったのなら、彼はおそらく自分が存在している意義を見出すことなく、「自分の罪のうちに滅んでいった」のではないでしょうか。

彼自らが何者であるのかを思い起こさせ、生きる意味を与え、立たしめたのは、「わたしは必ずあなたと共にいる」と言われるお方であったのです。

「わたしは必ずあなたと共にいる」。今、新しい神との契約の時代に生きる私どもにとりまして、「神があなたと共にいる」との約束はまさに、「神我らと共にいます」、「インマヌエル」という名をもって、救い主としてお生まれくださった主イエス・キリストにおいて実現されています。

主イエスは、「わたしはある(あなたと共にいる)ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」(ヨハネ福音書8章24節)と、おっしゃいました。

「わたしは必ずあなたと共にいる」。私どもはこの神さまのお約束によって神さまと和解の道、救いの道が開かれ、新たな人生を生かされていることを今日のみ言葉から受け取っていきましょう。

 

今日は「道をそれて」という宣教題をつけましたが。

私たちにとって道をそれてというような、人生の回り道と思える時、又不測の事態といえるような時があったとしても、燃え尽きることのない柴をモーセが見たように、「あなたに対する愛と憐み、人生におけるご計画は尽きることがない」という神さまの信実に堅く信頼しつつ、共におられる主、イエス・キリストにあって、御言葉の招きに応え、今週もここから歩みだしてまいりましょう。

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神を畏れる人たちの知恵

2020-08-09 14:50:57 | メッセージ

礼拝宣教「神を畏れる人たちの知恵」出エジプト記1:15~2:10 2 平和をおぼえて

 

8月6日広島、そして本日長崎への原爆投下、15日は太平洋戦争の終戦記念日と、戦後75年目を迎えます。本日は、神が創造された「いのち」の尊さを覚え、平和を祈りつつ、礼拝を捧げております。

今年も、御年92歳であられるSさんより、先ほど戦時中に体験されたその貴重なご証言をお聞きすることができました。思い出すのも大変な苦痛でいらっしゃると思います。現在、戦後生まれの人は人口のおよそ82パーセントになったということです。戦争体験のこうした証言を戦争を知らない方々が聞いて、その悲惨を知って、二度と戦争が繰り返さないようにと祈り求め、努めることができますように切に願います。武力や核兵器の抑止力によって真の平和は築けません。憎しみと争いの連鎖は拡がるのみです。戦争の悲惨さを語り継ぎ、恒久平和を掲げ続けることこそ戦争を繰り返さない真の抑止力になっていくと信じます。

 

  • 「2人の助産婦たち」

さて、先週の箇所ですが。エジプトの王が国民に「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない」と警告し、エジプト人はそこで、イスラエルの人々のうえに重労働を課して虐待します。

王は自分が抱いた懸念をエジプトの人たちにも持たせ、エジプトの人たちは恐れや不安からイスラエルの人たちを差別し虐待したのです。

「しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がった」のであります。

 

今日のところで王は、事態が思うようにならないことに苛立ち、秘かにヘブライ人の男児殺害を企てます。

これまでの「イスラエルの人」という呼び方が、ここで「ヘブライ人」に変わっていますが。これは、この当時エジプト人がイスラエル人を異邦人と見なし、壁を作り、見下すようになったことを表します。ヘブライ人は、定住地をもたずに移動する遊牧民、寄留者だという偏見と軽蔑を込め、そう呼ぶようになっていたのです。

日本人も戦時中戦後とジャップと軽蔑を込めて呼ばれたり、逆に日本の植民地統治下の朝鮮で、朝鮮名を廃して日本式の氏名に改めさせた負の歴史がありました。

しかし現代においても、差別的呼称をつける風潮というものがあり、SNSで拡散しているというのは大変残念なことです。

 

さて、増え広がるヘブライ人を脅威に感じたエジプトの王は、ヘブライ人の2人の助産婦を呼びつけ、「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男ならば殺し、女の子ならば生かしておけ」と命じます。

ところが、この二人の助産婦たちは、この王の命令に背き、従いません。彼女たちは男の子を生かしていました。聖書はその理由について、「助産婦はいずれも神を畏れていたので」と述べます。

彼女たちは王が怖くなかったとは思えません。王に逆らえば命さえ失う危険があるとわかっていました。それにも拘わらず、王の命令に対して抵抗します。神を畏れていたからです。それは助産婦として日夜、命が生みだされる現場で働いていたからこそ、彼女たちは「命の重さ、命の尊さ、命に優劣などない」「命にヘブライ人もエジプト人もない」「命に男も女もない」「みんなそれぞれが貴い命を神から授かった存在である」ということを、知らされていたのですね。

まさにそれは、命が生みだされるという神の創造の業に日々携わる中で、彼女たちは神への畏敬の念を日々覚えていたからでありましょう。

彼女たちはファラオから、「どうしてこのようなことをしたのか」と問いただされると、「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです」と、まさに機転を働かしてそのように答えます。

 

  • 「3人の女性たち」

ファラオはその後、さらに全国民に向けて、『生まれた(ヘブライ人の)男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ』と命じます。もはや秘密裏にではなく公の政策で、すべてのヘブライ人男児殺害の勅令を発布するのです。

 

そのようなヘブライ人の男児殺害の勅令の中、イスラエルの民をエジプトから脱出させる将来のリーダーとなるモーセが選び立てられていくのでありますが。そのための大きな働きをなしたのが、モーセの母と姉、そして何とファラオの王女という3人の女性たちであったのです。

まず、その母は、「その子がかわいかったのを見て、3ヶ月間隠しておいた。しかし、もはや隠しきれなくなった」とあります。泣く声も大きくなり、いつエジプト人の調査が来るか気の休まることはなかったでしょう。

そして、もはや隠しきれず、何とか命が助かるようにと切に願いながら、母は「パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた」というのであります。母は子供が水に溺れないように祈る思いでそうしました。でも、その葦の籠がどこでどうなるかの不安はいっぱいだったでしょう。

その母親同様、心配でたまらなかったのはその男の子の姉(ミリアム)です。

葦の茂みから弟を案じながら、その様子をそっと伺っていたのです。

そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川を下りて来て、葦の茂みの間に籠を見つけ、仕え女をやってその籠を取って来させる様子を、息詰まる思いで見守っていたことでしょう。

王女が籠の中で泣いているその男の子を見て、ふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言うのを聞いたその子の姉は、葦の茂みの中からファラオの王女の前に出て、「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか」と申し出るのです。いや何とも勇気があるなあと思います。

彼女自身にもどんな危険が及ぶかわからない中、何とか弟を助けたい一心で、このような行動に出るんですね。

一方、ファラオの王女でありますが。

葦の茂みの間に置かれた籠の中の男の子を見たとき、その赤ん坊の様子や産着などを見て、「これは、きっと、ヘブライ人の子ですと言った」とあるように、その泣いている男の子のおかれた状況を察知し、とてもふびんに思ったのですね。

さらに、王女はその子と関わりがあると思われる女の子が突然目の前に現れ、「ヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか」と申し出たとき、その背後にある状況をも察し、「これは何とかしなければ」と心動かされ、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当はわたしが出しますから」と答えたのであります。

 

この王女の行為はまさに、ファラオの「ヘブライ人の男の子を殺せ」との命令に真っ向から背くことでした。この事で父ファラオからどんな仕打ちを受けるかという恐れや不安を王女が持っていたことは十分考えられます。

けれども、この王女も又、先の神を畏れる2人の助産婦たちのように、目の前の命を守らねばという思いが、恐れや不安より勝っていたんだと思うのですね。

赤ちゃんというのは本当に可愛いもんですね。でも、それはただ可愛いだけでなく、王女は、エジプト人かヘブライ人か。男か女かということで、選別することのできない命の尊さを感じ取っていたと思うのです。

彼女はエジプト人の王女ではありましたが、命を創造し、命を生みだされる神への畏敬の念を覚えていたように思えるのであります。

 

  • 「命に優劣はない」

本日の聖書に登場する女性たちは、助産婦であったり、一介のヘブライの女性であったり、又、エジプトの王女であったり、と民族、立場はそれぞれ異なっていますけれども、ただ共通していることがあります。

それは、彼女たちは命の重み、命の尊さ、命に優劣はない、ということを知って、その信じるところから勇気ある行動を示したということです。

そして、それこそが実に神さまの御心を行うことであったのです。

神さまは人の目には見えませんが、そのような神を畏れる人たちに天来の知恵を授けて、御心を行うように導き、その道を守ってくださるのです。

今日の時代においても、命に優劣をつけた悲惨な事件が後を絶たないことは非常に残念なことです。それぞれが貴い命を神から授かった存在であること、その神を畏れる心を持つことが大切かと思います。

 

「隠れた神の計画」

ファラオの王女は、ナイル川の湖畔の葦の茂みの間に置かれた、ヘブライ人の男の子が大きくなったとき、その子を養子に迎え自分の子とします。

そしてその子にエジプト名「モーセ」と名付けるのですが。その名前は「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)」というところから名をつけたとありますが。

実はこの「水の中からわたしが引き上げた」の「引き上げた」には、「選び取られた」というもう一つの意味があるのです。

このモーセの名には、ナイル川に象徴される世の力と支配からイスラエルの人々を救い出すために「選び取られた者」という、隠れた神さまのご計画が表されているのですね。

今日の聖書の箇所を通して示されますことは、神さまの救いと解放のご計画は世の力や勢力が如何に強く働こうとも、必ず実現されていくという事です。しかもそれは世の支配と力によらず、神を畏れ、神が生み出す命を尊ぶ人たちを通して成し遂げられていくのです

神を畏れる2人の助産婦、祈るほかないヘブライ人の母と娘、さらに民族や立場の違いを超えて命をいつくしむエジプトの王女を、天地万物を創造され、すべての命の源であられる神が隠れたかたちでお用いになり、その後偉大な救いのご計画実現へ導かれるのです。

私たちは今日の聖書の御言葉から、神さまが神を畏れていた女性たちの背後にあって、生きてお働きになられ、すべてを持ち運んでおられることを知ることが出来ます。主である神への信仰を新たにいたしたいと思います。

今日は「平和を覚えて」の礼拝を捧げておりますが。この平和が脅かされ揺るがされている今、世界の国々に、神を畏れ、命の尊厳を見出し、それを成す人々が呼び起こされますよう切に祈りたいと願います。又、何であれ、指導的立場におかれた方々が「いのち」を生み出される神さまの存在を知り、神への畏れの念をもってその職務にあたられますよう祈り執り成したいと思います。

神の作品として造られた世界に生きる一人ひとりの命と尊厳が守られ、人種、性差、立場、国家間を超えた良好な関係が築かれてゆくことができるよう心から祈り願います。

今年は春先以来、コロナ禍で世界中の人々は先行きが見えず、日常の生活に恐れや不安を抱えながら過ごしています。しかし、私たちは、すべてを御存じであられる、命の主に信頼し、聞き従っていくところに真の救いと解放の恵みがあるということを確信して、主の栄光を仰ぎみつつ、共に歩んでまいりましょう。

聖書「あなたは主を畏れることを悟り、主を知ることに到達するであろう。知恵を授けるのは主。主の口は知恵と英知を与える。」箴言1章5-6節

 

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私たちの出エジプト

2020-08-02 13:39:54 | メッセージ

主日礼拝宣教 出エジプト記1章1-14節 

 

8月に入り、ようやく長い梅雨が明けました。が、九州や東北で、豪雨災害に遭われ、家を失われた方がた。又、生活の見通しがコロナ禍と相まって立たずみに不安を抱えておられる方がたがおられます。一日も早い復旧を祈るばかりです。

又、コロナ感染症がもはや大都市圏だけでなく、全国各地に蔓延拡大している状況です。

そういった中、緊急事態宣言がいつ再び出され、また礼拝や集会を開いて集まることが困難になるかわかりません。

先日新聞のコラムで「コロナと教会」という韓国の教会の情勢を交えたソウル支局の日本人記者の記事に目が留まりました。

「韓国では一時、大統領府が教会だけに正規の礼拝以外の集会や食事の提供を禁止する規制強化政策を発表したが、宗教界からの反発もあり、約2週間でこの措置を解除した。26日、解除後初めての日曜日を迎えた。ソウル市内にあるキリスト教会は自主的に規制を続ける。礼拝に集まった人々はコロナ禍前より少なく、大多数の信徒がオンラインで参加した。『元の日常に戻れるとは限らないから、準備を進めるべきだ』。この教会で聖歌隊を指揮する友人は、自宅でも賛美歌を練習できるように動画を撮影、信徒を対象に公開している。教会に通うより、オンラインを好む人もいる。『画面越しでも感動は伝わるし、むしろよく集中できる』。Tさんは自宅で夫と娘と一緒に、最近好きになった牧師の説教に耳を傾ける。この牧師のいる教会には、まだ一度も行っていない。伝染病流行の度に人々は集い、終息を祈ってきた。コロナ禍はそんな『祈りの場』のあり方にも変化をもたらしている」とあります。

確かにコロナ禍がさらに進んで再び緊急事態宣言になった折にも対応できる、教会の方々向けオンライン礼拝の配信も含め、備えていくことも必要な時期にきているように個人的には思います。まあそのように、今ネットのユーチューブで好みのお話や礼拝まで手軽に見ることができますが。やはり信仰の成長は、キリストのからだなる教会の主にある兄弟姉妹との関りの中で育まれていくものです。折が良くても、又悪くても、人間関係の様々ある中においても、キリストの教えに共に聞き、愛とゆるしの福音に生きる中でキリスト者として立て上げられていくのです。まさにそのために教会があり、その主にある交わりに招かれていることが大事です。

礼拝や祈り会に参加を望まれる方、又、様々な状況から礼拝に集いたくても集うことができない方もいらっしゃいます。共に主の教会に連なる兄弟姉妹として励まし、祈り合う霊的交わりとを築いてまいりましょう。共に祈り合い、励まし合いながら歩んでまいりましょう。

 

さて、礼拝では今日から9月いっぱいまで、出エジプト記から御言葉を聞いていきます。このコロナ禍で世界と教会の状況が大きく変化しようとしていた時、しきりとこの出エジプト記の「疫病やいなごの災い」や「過越し」の記事が思い起こされました。今もそうですが。災いともいえる状況下にあって、いかに真の神に望みをおき、神の御心に聴き、神に仕えて生きるかが問われているように思います。

 

この出エジプト記はイスラエルの民の移動に沿って区分しますと、1-15章が「エジプトからの脱出」。15章―18章が「荒れ野の旅」。19-40章が「シナイ山での神の顕現と契約締結と律法の授与」となります。

記事の紙面としては「シナイでの神との契約」が多くとられておりますが、今回礼拝で読む箇所は、その「エジプトからの脱出」の第1回目ということになります。

この「エジプトからの脱出」の出来事が、単にイスラエルの民の歴史の学びにとどまらず、現代に生きる私たちに向けられたメッセージとして御言葉から聞き取っていかなければなりません。

今日の宣教題を、「私たちの出エジプト」とつけさせて頂きましたが。それは、これから読んでいきます出エジプト記の大きなテーマとなりますことを申し添えて、お話を始めたいと思います。

 

「神の祝福」

まず今日の箇所の冒頭で、「ヤコブと共に一家を挙げてエジプトを下ったイスラエルの子らの名前」が列挙されていますけれども。

そもそも、イスラエルの民がどのような経緯でエジプトに来ることになったかについては、創世記の37-50章にございますとおり、信仰の父祖アブラハムの祝福を受け継ぐヤコブの11番目の息子ヨセフが、兄たちの妬みによって洞穴に落とされ、そこを通ったエジプトへ向かうキャラバンにヨセフは奴隷として売られてしまうのですが。その後ヨセフの夢解きによってエジプトの総理大臣となるのです。その夢に示された大飢饉がいたるところで起こる中、主の知恵の霊に満たされたヨセフはエジプトにおいてその大飢饉に備えた備蓄政策をとってエジプトは難を逃れることができたのです。

そこへ、カナン地方の大飢饉によって穀物を求めてやって来たヨセフの兄たちがエジプトの宮廷を訪ね、総理大臣となったヨセフと面会するのです。ヨセフはそれがかつて自分を妬んで洞穴に落とした兄たちであることは知っていましたが、兄たちは知るよしもなくヨセフは複雑な心情で兄たちの思いを試みます。しかし、結局はその兄たちを許し、父を含めた兄弟たち家族をエジプトに呼び寄せ、生活できるようにしたのです。

 

この時にヨセフがエジプトに呼び寄せたイスラエルの家族の総数は、創世記46章に記されていますが、本日の5節にも記されているとおり70人でした。

その後ヤコブやその息子ヨセフをはじめ、兄たちとその家族の70人は亡くなりますが、その子孫は7節にありますように、「イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた」と、記されているとおりです。

因みに、その後イスラエルの民がエジプトを脱出する時には、男性だけで60万人いたと出エジプト記12章に記されていますことから、女性や子供を含めますと、200万人はゆうに超えていたことでしょう。

この7節の「産み、増し、溢れる(満ちる)」とは、創世記1章28節で、「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ』との、神さまが御自分にかたどって創造された「人」に対する、神さまの祝福のお言葉を思い起こさせます。

神の民が祝福されることは、神さまのご配慮とご計画によることでした。

 

「神を知らない王」

一方、8節にありますように、ヨセフと彼の家族は、当初はエジプトでゆたかな待遇を受けていましたが。そのヨセフや家族の死後、長い年月が経っていきますと、ヨセフのことを知らない新しい王が出て、エジプトを支配するようになるのです。

「ヨセフのことを知らない」とは単に知らないということだけでなく、真の神を畏れ敬うヨセフを知らない、ひいてはその神さまを知らない王、真の神への畏敬の念が欠落していた王、ファラオが出現したということであります。

 

この新しい王は、「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた・・・これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない」(9節)と、国民に警告します。

つまり、エジプト人にイスラエル人に対する敵意や警戒心を抱かせるのです。

真に畏れるべきお方を知らなかった王は、外国人が国内に増し加わることを脅威としてしか認識できず、次週読む予定の箇所では排除、さらに抹殺まで企てます。

そして11節、そのような王の警告を聞いた「エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した」のです。

 

神を知らず、神を畏れない王が招いた、エジプト人によるイスラエル人たちへの一方的な偏見と差別。そこには、その存在を脅威に感じる恐れや不安が根底にありました。

アメリカで白人の警察官が黒人の男性に対して一方的力で暴行し殺害させた事件が全米、いや世界中のニュースとなり、こうした人種差別に対するデモが世界中に拡がっていますが。

こういった背景には、自分と違う相手を知らない。又、知ろうともしない。そこから起こる恐れや不安が偏見や分断を起こすのであります。今のコロナ禍もそうでしょう。世の中の、社会の不安が高まる時、その傾向が増すと言われています。

聖書に戻りますが。

このファラオの抑圧的政策は賢明なものではありませんでした。

なぜなら12節、「しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がった」からです。

先に、「子を産み、数を増し、ますます強くなって国中に溢れた」というイスラエルの民に対する神の祝福の約束の実現について申しましたが。彼らはエジプトの至る所に労働力として送られ、そこでまた子が生まれ、数を増していったのです。神の民に対する約束と祝福は、激しい虐待の中で消し去られるどころか力をもって実現していくのです。

 

「真の礼拝とは」

さて、そのことを知った「エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、イスラエルの人々を酷使し、粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を究めた」(12-14)というのですが。

今回、祈祷会の聖書の学びで聖書教育を読み、知ることができましたのは、この13-14節で「酷使」「従事」「労働」等と訳された原語「アーバド」が5回も記されておりますが、このアーバド、「労働」は、「礼拝」や「神に仕える」という意味もあるということです。

ここでイスラエルの人々は目に見える限り過酷な労働を強いられ、エジプトの王に仕えているように見えます。

けれども、彼らはその魂までは支配されていなかった。過酷な使役を課せられても、彼らは真の神を知っており、その神に仕え続けていたのです。ですから、彼らが虐待されればされるほど、神の祝福によってイスラエルの人々は増え広がったのです。

 

神さまが人を創造された目的は、強権的な力によって人をご自分の思い通りに仕えさせることではありません。神の善い作品として造られた人が、心から神に仕え、神を礼拝してその栄光を現すところにございます。

労働にせよ、何をするにしても、真の主である神さまを心から礼拝し、仕えることにこそ、神さまによって造られたすべての人の祝福と恵みの源なのです。

私たちは日々何に仕えて生きているでしょうか?

日常の仕事、家庭、その生活のすべての領域がアーバド、礼拝、神に仕える生き方に通じます。

 

コロナ禍で今後の礼拝についても先行きが見えませんけれども、どのような状況におかれようとも、私たちの魂はいつも心から主に仕える喜びと感謝の信仰を持ってたゆまず歩み続ける者とされてまいりましょう。

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