日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

教会の土台

2010-01-31 08:24:05 | メッセージ
宣 教 Ⅰコリント3:10-17

パウロは建物を建てあげる建築家を例にしながら、教会を建てあげるということについて述べています。建物を建てる時重要なのは土台をまず据えるということです。教会を建てあげる場合の土台はまさにイエス・キリストであります。どんなに外観的に神々しく見えていても、頑丈に見えても、イエス・キリストという土台がしっかり据えられていないのなら、この世の災いや苦難、試みが襲いかかってきたとき、倒壊してしまうでしょう。イエス・キリスト不在の教会などあるのかと思われるかもしれませんが、イエス・キリストと書かれ表札だけ借りてきて建てられた教会があるのは残念ながら事実です。キリストの名を借りた宗教カルトなどがそれでありますが。そこまで行かなくともキリストの救いと精神がないがしろにされていくのなら教会の土台は白アリが巣くっているような状態といえましょう。
コリントの教会はイエス・キリストという土台が据えられていたにも拘わらず、そのイエス・キリストという土台を無視して、自分たちの考えや主義主張といった他の土台を据えるような事態が生じていたのであります。そこでパウロは、「各々、どのように建てるか注意すべきです」と指摘し、「各々の仕事は明るみだされます。かの日にはそれが明らかにされるのです」と述べます。かの日というのは、最後の審判といいますか、最終的に私たち一人ひとりが人生の旅路を終えて天に帰って神のみまえに立つその時のことであります。その時に、イエス・キリストを土台に据えてなしてきた仕事、働きがすべて明るみにされるのです。いくら世的な業績、功績をなしても、それがイエス・キリストを土台にして建てあげられていなければ、そういった業績や働きは火に焼きつくされ、虚しく消えてしまうことになるというのであります。
「教会の土台」という題で聖書からお話をしていますが。どんな建築物や教会堂もそうですが、土台というのは隠れていて見えません。梁などもそうですが。大事なところというのは見えないものであるということを最後に押さえておきたいと思います。 
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今も語り続ける十字架の福音

2010-01-24 08:14:18 | メッセージ
宣 教 Ⅰコリント2章1~5節

先日祈祷会の聖書の学びの時ですが、「人に自分の思いを伝えるということは本当に難しい」というような話題がでました。相手がしんどいときに、「がんばれ」「大したことなんかない」と言えば、それは逆効果でさらに相手をしんどくさせてしまうことがおうおうにしてあります。又、相手の気持ちを考えず、自分の土俵に相手を引き込んで持論を展開するようなことをしても相手の心には響いてこないでしょう。しかしもし、「自分も相手と同じような経験があるならば」、相手のきつさやしんどさを少しでも理解することができるし、共感をもって相手の話しを聞くことができます。又、相手も、そうなのかと身近に感じ、心を開いて耳を傾けることができるのではないでしょうか。一方的な教えでも単なる同情でもない「共感」。なかなか自分の弱いところを人にさらすのは勇気がいることかも知れません。しかしそれは、「私もまた、あなたと同じような経験をしたよ」との共感から、心を通わすということが起こっていくのでしょう。

使徒パウロはコリントの信徒の人たちに向け、「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵をもちいませんでした」と述べています。この「わたしも」というのは、十字架につけられたキリストのように「私も」、福音を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵をもちいませんでしたということです。さらに、彼は3節で「そちらに行ったとき、わたしも衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」と自らの弱さをコリントの信徒たちのまえにさらけだすようにこう告白します。(新共同訳「も」が欠落)。彼は福音を伝え心通わすには、優れた言葉や知恵や頑張りではだめだということを痛いほど経験し、気づかされてきたのであります。本日の聖書個所は、1節と3節の「わたしも」というパウロの言葉、それがキーワードです。使徒パウロは十字架の福音によって滅びから救い出され者として、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決め」、そのキリストを宣べ伝えました。教会はまさに、この十字架につけられたキリストを証しし、その愛を分かち合うために呼び集められた群であります。そのようにあり続けたいものです。
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自己完結しない、、、続ける信仰

2010-01-17 08:23:10 | メッセージ
宣 教 Ⅰコリント1:15-25

この箇所は、前の10~17節をご覧になると分かりますようにコリントの教会の中に生じた、「誰が偉いのか」「誰につくか」といったような言い争い・分派争いについて大変心痛めたパウロがその思いをコリント教会の信徒たちにしたためた、そういった箇所であります。
パウロは訴えます。20節「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。」これはコリントの人たちには手痛い言葉です。彼らギリシャ人は哲学を重んじ一般の人々も道端で議論するような文化を持っていました。しかしどんなに探求しても世は自分の知恵で神を知ることはできなかったではないか、というのです。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになった。この宣教とはまさしく「十字架のイエス」です。
人は自分の能力、又人の能力を計り、それに依り頼むとき、自己完結してしまいます。
よくできた、うまくできたで自己を誇ってただ終わるのなら、それは神さまに栄光をかえすことはできません。その結果、誰がやった、誰がやらなかったなどと裁き合いが起こるなら、このコリント教会と何ら変わりません。しかし、どんな時も救いの原点である十字架の言葉なるキリストのみ業を思い、謙遜にされて仕え合うとき、喜びは幾倍にもなり、御霊の実を結ぶことが出来るでしょう。
また、キリスト者の信仰は自己完結しない、、、「続ける」信仰であります。順風満帆な折ばかりでなく、弱さを覚えた時、又落ち込んだ時も、いやむしろそんな時にこそ、十字架にかけられたまいしままなるキリストが、今この私と同じように、いやそれ以上に呻き、痛みつつ、共にいて、執り成していてくださるという救いの現実を実感することができるのではないでしょうか。
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どこを切っても、、、キリスト

2010-01-10 08:00:11 | メッセージ
宣 教  Ⅰコリント1:1-9

1月から3ヶ月間の予定で、Ⅰコリントの信徒への手紙を読んでいきます。この部分は手紙の挨拶にあたります。お正月で年賀状が行き交いしたかと思いますが、まあ賀状の場合は謹賀新年、迎春など挨拶の文言はきまっておりますが、手紙を書くときは冒頭に挨拶の言葉から書きはじめるのが常でしょう。
 このパウロの手紙の挨拶で特徴的な点は何でしょうか。
第一は、パウロがこのコリントの教会に手紙を書き送るとき、彼は「至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めている人と共に」という言葉を書き添えている点であります。つまり、この手紙は単にコリントの教会とその信徒たちだけ、又個人的な関係者だけのものでなく、時と場所を超えた世界の至るところでイエス・キリストの名を呼び求めている人たちと共にある交わりの中で読まれるものであるということです。
第二は、これは他のパウロのローマ、ガラテヤ、フィリピなどの手紙にも共通していることですが、この短い挨拶の文面にキリストが何回出てくるでしょうか。数えると11回も出てきます。パウロの挨拶の特徴は、どこを切っても金太郎飴ならぬイエス・キリストなのです。実はそれがパウロの主文や結語にもつながっているのです。つまり、もうすでにこの挨拶の中にパウロが一番訴えたいこと、どこを切ってもイエス・キリストが中心、ということが盛り込まれているのです。聖書はわたしたちに向け、「生活のどこを切ってもイエス・キリストが出てくるか」と、今日も、明日も、そして今年一年、問いかけています。
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新年に寄せて

2010-01-06 15:00:19 | 巻頭言
元旦礼拝で、2010年の教会標語と聖書(案)を予め提示させて頂きました。昨年は「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」という標語と聖句を掲げてあゆんできました。
今年の標語は「新しいぶどう酒は新しい革袋に」というみ言葉が、導かれるかたちで与えられました。昨年様々なかたちで実りました主のみ業が、さらに豊かにされていくような年でありたいとの祈りの中、「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という標語・テーマを掲げたていきたいと願っています。
2010年がスタートいたしました。今年も主のみ心を絶えず尋ね求めて進む私たちでありたいと思います。今年は特に宣教開始60周年という節目の年にあたります。主の福音伝道のために建てられたこの大阪教会の古きよきものは継承しつつも、新しいことに挑戦し、変えられる必要のあることは、恐れず大胆にチャレンジし、チェンジできるような信仰を主から戴いてまいりましょう。
イザヤ43:19a「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」。期待と希望をもって共どもに主のみ業のために用いて戴きましょう。きっと主は私たちの祈りに応え、新しいことをわたしどもになしてくださると信じます。
最後に、今年一年のみなさまうえに、主の豊かな恵みと祝福が与えられますよう、心からお祈りいたします。
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ごあいさつ&感謝

2010-01-02 17:21:41 | 巻頭言
2010年・あけましておめでとうございます。

昨年も多くの方々に、この大阪教会のブログをご覧いただき、ありがとうございました。今年も、どうぞうよろしくお願いいたします。

まだまだ、キリスト教会の門といいますか、敷居は高いように思います。
少しでも、お時間の許す方、興味のあられる方、どなたでも、このようなブログを訪ねていただけたら嬉しく思います。

今年は私たちの教会が福音を伝えて60周年の節目を迎えます。

いろいろなインフォメーションや発信をし、少しでもお役に立てると幸いです。

それでは、みなさまにとって2010年がよき年となりますよう、お祈りいたします。

平 安



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