日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

切なるとりなしの祈り

2013-05-27 12:33:07 | メッセージ
宣教 イザヤ書36章1~37章7節 

先週はOさん、Yさんが共に88歳のお誕生日を迎えられ、私たちにとっても本当に感謝なことでございましたが。TVニュースをつけますと80歳の三浦雄一郎さんが80歳でエベレスト発登頂に成功されたということで驚かされると同時に年齢に捉われない生き方に大変励まされました。日本の社会全体がそうであるように、教会も確かに高齢化が進んでいますけども、ご高齢の方がたがその人生経験を通してお証しを戴けることは私たち教会の宝ですね。又、ヨエル書には、聖霊のお働きによって「老人は夢を見る」とございます。いくつになりましてもビジョンをもって生きる幸いは主からの大きな賜物であります。モーセがイスラエルの民のために主から召命を受けたのも99歳の時でした。主の御力は偉大であります。

本日はイザヤ書の36章~37章にかけての長い箇所ですが、ここから「切なるとりなしの祈り」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
若干15歳で南ユダ王国を統治していたヒゼキヤ王は、真実に神を畏れ敬う信仰のあつい王でした。彼はアッシリアの外国から持ち込まれた偶像を焼き払うなど、まことの主なる神への信仰を打ちたてる宗教改革を行いました。そのヒゼキヤ王の働きには、王が物心ついた頃から彼を教育し、とりなし祈ってきた「神の民」と呼ばれる人たちの存在がありました。祈り手、とりなし手の働きは、表には見えませんが、それは歴史に働きかける神の御手を動かす力があるのです。主はどんな時代も、正義と平和を祈る民の声に耳を傾けてくださいます。
私たちも日本、またわが町大阪が神にあって正しき道に導かれていきますよう、とりなし祈り続けなければなりません。それは他ならぬ私たち自身の命と生活に返ってくることだからです。
聖書に戻りますが、そのようなあつい信仰をもったヒゼキヤ王でしたが、アッシリアからの侵攻が次第に激しくなると恐れと不安に襲われ、力をもつ近隣諸国と安全保障の同盟関係を結ぼうとします。ヒゼキヤはバビロニア、次いでエジプトと密約の同盟関係を結び、アッシリア帝国に対する布石を敷いたのです。その折に、預言者イザヤは主のみ言葉を次のよう語っています。
30章15節「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力があると。しかし、お前たちはそれを望まなかった。」
ヒゼキヤ王は人の知恵や世の力に依存しようとしますが、それは神の御心ではありませんでした。主は「まずわたしに聞きなさい」「何よりもわたしに信頼していなさい」とおっしゃるのです。
しかし、ヒゼキヤの心配は尽きず不安は募り、神ならざる力に頼ろうとします。そうしてこのイザヤの預言どおり、エジプトは何の助けにもならず、36章にあるようにアッシリア軍がユダに攻め上って来、ユダのとりでの町はことごとく占領され、遂にエルサレムは包囲されて、陥落寸前に追い込まれるのです。ヒゼキヤ王がユダ王国を統治して14年目の起元前701年のことでありました。

そうして本日の箇所に至るわけでありますが。
アッシリア王はエルサレムに特使らと大軍を送り、降伏を迫るのであります。
彼らはヒゼキヤ王の家臣らに「なぜ頼りにならないエジプトに頼っているのか。ただ舌先だけの言葉(薄っぺらな政治的交渉など)が戦略であり戦力であると信じているのか」と、言います。又、エルサレムの城壁にいるユダの民にも聞こえるように、これみよがしにユダの言葉で、「主がわたしに『この地に向って攻め上り滅ぼせ』とお命じになったのだ」と言って民の信仰をくじこうとします。「ヒゼキヤにだまされるな。彼らはお前たちを救い出す事はできない」と王への信頼をも損なわせようとします。「ヒゼキヤはお前たちに、『主は必ず我々を救い出してくださる。決してこの都がアッシリアの王の手に渡されることはない』と言って主に依り頼ませようとするが、言う事を聞くな。アッシリア王と和を結び、降伏せよ。そうすれば飲む物食べる物に不自由はしない」などと言葉巧みに民を惑わそうとするのであります。

さて、ヒゼキヤ王はそのようなアッシリアの挑発に対しどのように向き合ったでしょうか。
アッシリア王からいずれ近々降伏せよ、との使者が送られて来るに違いないと予見していたヒゼキヤ王は、予め家臣たちに相手の巧みな心理戦に応じて「答えてはならない」と戒めていたのです。

家臣たちは王に聞き従い、どんなにひどい暴言や愚弄するような言葉を浴びても「押し黙ってひと事も答えなかった」と、あります。彼らもアッシリア王の特使の態度と言葉に悔しさと耐え難い思いがあったでしょうが。衣を裂きながらも、しかしその屈辱に耐え、動揺する思いを押さえながらヒゼキヤ王のもとに来て、その言葉を伝えたのであります。

もしここでヒゼキヤ王の家臣らが、相手の挑発に乗って反撃していたなら、敵の思うつぼ、恐らくすぐにでもアッシリア軍がエルサレムに攻めのぼり、ユダ王国は完全にアッシリアに侵略されていたかも知れません。エルサレムの人びとは神に訴え祈る機会を失い、エルサレムの都と神の民の信仰は滅びることになったでしょう。
しかし、ヒゼキヤの家臣たちの忠実さと忍耐によって、その最悪のシナリオは免れたということができます。ともすれば感情的になり、怒りを露わにののしり合うところに、私たち人間の弱さがあります。
昨今拡大の様相を強めて来ている近隣諸国との様々な軋轢もそうでありましょう。挑発的な先導者やそういった情報に惑わされない冷静さをもって忍耐強く対話をもって打開を見出していくことが求められています。
主イエスは言われました。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は剣によって滅びる」。主は、私たちに如何にあるべきかをいつも示しておられます。私たちもまた、主に信頼し、その教えである愛と忍耐をもって、感情に振り回されるのではなく、主がそうなさったように、祈り心をもってとりなしていくことで真の勝利を勝ち取っていきたい、と願うものです。

本日の37章でありますが。その冒頭に「ヒゼキヤ王は高官たちの報告を聞くと衣を裂き、あら布を身にまとって主の神殿に行った」とあります。彼は真っ先に主の神殿に行き、神の人、預言者イザヤのもとに遣いを送り、イザヤの助言と祈りを乞います。
彼はイザヤに、「今日は苦しみと、懲らしめと、辱めの日、胎児は産道に達したが、これを産み出す力がない」と、その心境を露わにします。ユダ・エルサレムに臨みつつある大きな危機に打ち勝つだけの力がなくなっていることを嘆いたのです。そして、エルサレムに残された者たちが何とか守られるようにとりなし、祈ってほしいと、イザヤに求めます。
ヒゼキヤ王にとってイザヤの存在は如何に大きかったことでしょうか。このように祈り、とりなしてくれる存在が身近にいることはどんなに心強いことでしょう。私たちにとりましても、祈り、祈られる存在が与えられているのは大きな主からの賜物であります。あまりに問題が大きく思える時、疲れを覚え気力さえ奪われる時、祈りの友が私を助けます。私たちは背後にあって祈ってくださる方がたの祈りによって神さまへの信頼を呼び覚まさされ、苦境を乗り切ることができます。互いにとりなし、祈り合うことによって、共に神の民として生きることができるのです。

さて、このようなことがあってとりなし祈ったイザヤはヒゼキヤ王に伝えます。
6節、「主なる神はこう言われる。あなたは、アッシリアの従者たちがわたし(主なる神)を冒涜する言葉を聞いても、恐れてはならない。見よ、わたしは彼(アッシリアの王)の中に霊(おそれの霊)を送り、彼がうわさを聞いて自分の地に引き返すようにする。彼はその地で剣にかけられて倒される。」

その後、アッシリアの王はまたも遣いを送って、今度はヒゼキヤ王に対して直に降伏するよう勧告するのでありますが。先と違っていたのは、アッシリアの王が「主なる神ご自身」を冒涜してヒゼキヤの動揺を誘ったということであります。しかし、ヒゼキヤはイザヤの先の預言の言葉、「彼らが冒涜する言葉を聞いても恐れるな」という主の約束を握って真先に神殿に上ります。
ヒゼキヤはアッシリア王の神を冒涜するその手紙を、「主の前に広げ、主の前で祈ります」。
37章16節、「万軍の主よ、あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたこそ天と地をお造りになった方です」。20節、「わたしたちの神主よ、どうか今、わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国があなただけが主であることを知るに至らせてください。」その祈りは天に届き、主はイザヤをとおして次のようにお語りになるのであります。
33節、「彼がこの都に入城することはない。またそこに矢を射ることも、盾を持って向かってくることも 都に対して土塁を築くこともない。彼は来た道を引き返し この都に入城することはない。」
その実際のお言葉どおり、アッシリア陣営に主の御手がくだり壊滅状態になります。逃げ帰ったセンナケリブ王もその息子たちによって殺害されてしまうのであります。
あの軍事力を誇るアッシリア帝国が、小さなユダのエルサレムを落とす事ができず、しかもエルサレムの人びとは剣を手にするまでもなくアッシリア自ら滅んでしまうという実に驚くべきことが起こるのです。こうしてアッシリアの王はその傲慢の種を自ら刈り取っていくことになるのです。

本日は「切なるとりなしの祈り」と題をつけさせて頂きましたが。
教会に与えられているすばらしい宝、それは兄弟姉妹であり、互いにとりなし祈り合えるということです。イザヤ、ヒゼキヤ王、又エルサレムの人びとにとってそうであったように、とりなし祈ることは何よりも私たちにとって大きな力、恵み、平安、喜びであります。
一般的に「とりなす」というのは、不和や争い、叱責など激しく対立する双方の間に立って、その場の気まずい空気をうまくまとめる、と国語辞典は解説していますが。確かに人間的な努力や心遣いで相手に接して関係を回復したり、不和や争っている人の間に立って意思疎通や仲介をしていくことは大事なことではありますけれども、聖書でいう「とりなし」という言葉は、「仲介者」や「仲保者」、又「助け手」という意味をもちます。イザヤ書に記される「苦難の僕」。私たちの救い主は、イザヤ書53章12節で「多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成したのは この人であった」と記されています。私のために十字架の苦難と死という大きな犠牲を払って、神との和解のために仲介者となってくださった主イエスさまであります。まず何よりも、神の御独り子イエス・キリストとその御霊によっていつも執り成されているということを忘れてはならないでしょう。その尊い救いの御恵みに応えて生きる私たちもまた、主のお姿に倣いつつとりなし手として仕えていくことが期待されているのであります。このとりなし手としての務めは、主イエスさまから力を戴かなければ十分になしえないことであります。主に信頼しながら、日々の生活の中で、それぞれが主のとりなし手とされてまいりましょう。
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教会の誕生と使命

2013-05-20 11:09:35 | メッセージ
聖霊降臨・ペンテコステ宣教  使徒言行録2章1~13節 

聖霊降臨によってキリスト教会は誕生し、その使命が与えられました。聖霊は代世の時代を経て、世界に、日本に、そして私たち大阪教会にも臨んでおります。聖霊の御業は真にくすしきものです。
バプテスマをお受けになった主イエスに鳩のようにお降りになった聖霊は、主のうちにあって神の御心である十字架のみ救いを成し遂げられました。それは「神のみ救い」「神のご愛」そのものであるといえましょう。聖霊が降臨したキリストの教会は、その神のご愛、神の御子の尊い犠牲による救いを基に、この地上にあって十字架の御業を伝え、あかしし、分ち合う働きを託されています。

創世記のバベルの塔の記事を読みますと、「世界中は同じ言葉を使い、同じように話していた」とあります。そもそも人類は同じ言語をもち、国や民族が異なっても一つの原語で意思の疎通やコミュニケーションがとられていたということです。にも拘わらず我々こそ優れた文明や思想をもつ民族である、とばかりに権力を誇示し異文明や異民族を蔑すむ勢力が現れてきました。高くそびえるバベルの塔は、そのような人間の高慢な思いの象徴であります。昨今近隣アジアの人たちに対する心無い民族主義的なバッシングのデモが首都圏や大阪でもなされていることに心が痛みます。もとをただせば、同じモンゴロイドであり、同じ地球の住民であり、そもそも神の創造された同じ人間であります。バベルの塔を建てようとした人たちは「天までとどく塔のある町を建て有名になろう。全地に散らされることのないようにしよう言った」とありますが。それは排他主義的な統一の思想、偏狭な民族主義と相通じるものがあります。神さまはそれを憂い民を全地に散らされた、つまりあえて様々な言語や文化をつくることをお許しになったということであります。私たちはその多様性を認め合い、互いに尊重し合うべきなのです。バベルの塔の建設が失敗に終った最大の要因は、それが神さまを抜きにして建てようとしたことにあります。神さま御心を思えば様々な気づきも起こったはずです。祈りのうちに示される配慮や悔い改めもあったでしょう。しかしそこにあったのは、「我々の名をあげよう、我々の力の統一を計ろう」とする人間の企てでした。

そのまま天地の創り主なる神を抜きに塔の建設がなされるのなら、人類はその傲慢さ、罪のゆえに滅びの道に向かうしかなかったのです。歴史は繰り返すといいますが、人間は何度も天地万物の創り主なる神さまの意に逆らい、地にバベルの塔を築いていくのであります。人の高慢とあくことのない欲望の象徴バベルの塔。あの町より高く。どの国よりも高く。天まで届くほど高く。まあ阿倍野にもハルカスがそびえんばかりに建って、先日などはてっぺんが雲にすっぽり覆われておりましたが。ビルとしては日本で一番高いようですが、これもまあ人間の人間による人間のための塔ということでありますけれども。そのように人間はどこまでも高みをめざし、「2番じゃなくやっぱり1番じゃなきゃあ」といった具合でありまして、古今東西人の企ては相も変らぬものであります。
ところが、いと高きお方であられる神は自ら、時が満ち小さく貧しい姿でこの暗き世界にお生まれになり、そのような罪深き人間の罪を担い、贖うため十字架にかかられ死の極みにまで降られたのであります。底知れない人間の罪の闇に救いの光として降られた主は、信じる者の希望として3日後に復活なさいました。そうして使徒(弟子)たち、又最後まで慕い仕えてきた女性たちにもお姿を現わされてから、再び天に昇っていかれた、と聖書に記しています。

その復活の主イエスが天に昇られる際におっしゃったことについては、使徒言行録1章に次のように記されています。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである』」。聖霊の降臨(聖霊によるバプテスマ)が約束されたのです。さらに、主イエスはこうも言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダとサマリア全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。こう話し終えると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった、とあります。
使徒や婦人たちはその復活の主イエスの約束の言葉を握りしめ、一つところに集まり、互いに心を一つに合わせて熱心に祈っていたのであります。

そしてまさにその主イエスが約束された通りのことが起こる。それが本日の2章の聖霊降臨・ペンテコステの記事であります。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集っていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人のうえにとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と、記されてありますが。

ここでまず心に留めたいことは、使徒たちや婦人たちが主イエスの約束のお言葉をしっかりと握って、心を一つにして熱心に祈り続けていたということです。イエスさまの十字架の出来事からそれ程日が経っておりませんから、自分たちの身に危険も感じたり、不安や恐れもきっとあったに違いありません。又、弟子の中には疑う者もいたということですから、不信を起こさせるような試もきっとあったと思うのです。
しかし彼らは主イエスのお言葉をしっかり握って、互いに心を合わせて熱心に祈り続けたということですね。そこに聖霊が集う一人ひとりの上にとどまり、臨まれるのであります。聖霊は目に見えませんけれども、主の御名によって集うその一人ひとりに神の一つの御霊が降られるのであります。ここに教会の意義があります。聖霊は多様な私たちが心を一つにして主に祈り求めていくところ、すなわち教会に臨まれるのであります。

皆さまも礼拝や祈り会、又讃美を共にささげている時、心の中に感動が溢れたり、胸が熱くなったり、何だか知らないけれど涙が止らなくなったりという体験を多分お持ちではないでしょうか。そこには間違いなく、人間の側からではなく神さまの側からの愛の介入、ご聖霊ご自身がお働きになることを望んでおられるのであります。心を開いてご聖霊による神の愛と慰めを受け入れる時、心は暖められ、平安を得、主が共におられる確信が与えられます。心を1つにして主の霊の力を願い求め続ける時、今も永遠に変わることのないご聖霊が臨んでくださいます。

さて本日の箇所でさらに注目すべきは、「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」というのです。
聖霊に満たされた者たちは、都エルサレムに巡礼に来ていた様々なお国の人々に対して、それぞれのお国の言葉で、神さまの偉大な業を語ったのです。
先にバベルの塔を建てようとする民に対し、神さまが「直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」と言われ、「民をそこから全地に散らされた」という話をしましたが。その世界中に散らされた民が、エルサレムにおいて何と自分たちが理解できるお国の言葉で神の偉大な業について聞くことになったのですね。それは何もその時だけの話ではなく、今日のこの日も世界中で人種の違いを越えて、同じ神をあがめ、礼拝されているのです。素晴らしいことですよね。
使徒パウロは、「ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法に支配されている人には律法に支配されている人のように、律法を持たない人には律法を持たない人のように、弱い人には弱い人のようになりました。福音のためならわたしはどんなことでもします」(Ⅰコリント9章20節以降)と述べ、それを実践しました。聖霊に満たされた人の愛の働きは実に豊かで自由であります。聖霊降臨の出来事は、新しい愛の言葉が天から下り、互いを理解し合える世界が訪れたことを告げているのです。
現実には確かに私たちは、自分と異なる人のその違いを受け入れられず、理解できず手詰まり状態になることもしばしばございます。けれども聖霊は理解することの困難な中においてもなお先立たれ、働いてくださるのです。ローマ8章26節にあるように「言葉で言い尽せない呻きをもって、聖霊ご自身がそのような者たちのために執り成してくださる」のです。ここに一つ心で祈り合い、共に主に執り成し合っていく場所があり、共に聖霊の豊かな働きを共有することができるのは真に幸いであります。

このように聖霊のお働きは素晴らしいものでありますが、では私たちは具体的にそのお働きを如何に受け取り、応えていけばよいのでしょうか。霊の働きと言いますと、何だか得体の知れない正体のないものを想像される方もおられるかも知れませんが。その点聖書ははっきりしています。そのお働きは「御言葉」を聞くことによって始められるのです。
本日の箇所で、聖霊の働きによる御言葉を聞いた人びとが、さらにペトロのメッセージを聞き、悔い改めと、主イエスによる愛の業を信じ、受け入れるという救いが実現してくのです。
ローマ10章17節には、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と記されている通りです。そのように「聞いて」「受け入れる」ことによって聖書は、その人たちの生き方が変わり、周りの人びとにも福音となる影響を及ぼしていったことが記されています。御言葉の勧めを聞き、それを受け入れて応答してゆく中で、救われていく人びとが起され、日々仲間に加えられていったというのですね。その情景が思い浮かんでくるようですが。

聖霊降臨によって、今日世界中で神の偉大な業を聞くことができるようになりました。信仰を与えられ、主イエス・キリストにあって新しく生まれ変わる人たちがどんどん起こされてきました。そこにキリスト教会の誕生と使命があります。

私たち大阪教会のあゆみは遅々たるものに思えるかも知れません。しかし聖霊のお働きのもと御言葉に聞き、信仰をもって応えてきたことで今日の大阪教会があります
新会堂建設は神の偉大な業を語り伝え、神のご愛と恵みを分ち合う働きのために献げられようとしていますが。この仮会堂の今、聖霊のお働きがお休みになっているかというと決してそうではありません。狭く不自由な場所ながらも教会に初めて来られる方々が現に起され、離れていた方々が礼拝や祈り会にお出でになり、証しがあり、賛美かあります。
目に見える形を超えて、聖霊が豊かにお働きになっているのをひしひしと感じます。この仮会堂での残り6カ月の礼拝・祈祷会、主の交わりをとおして、信仰を与えられ、救われる方々が起こされていくことを期待し、祈りながら共にあゆんでまいりましょう。
 
最後に、「神の偉大な業が語られている」一方で、「『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた」と記されています。
これは教会に自分の意思で行き初めるようになった時や信仰を持つ決心をした時に、直面する試みでもあります。そしてこの異教の地ともいえる日本において信仰を守ることが常につきまといます。あざけられたり、馬鹿にされたり。友情や人間関係がぎくしゃくしたり、危うくなることさえあります。それでも神への信頼、その信仰の確信を損なわずに一歩一歩踏み出してゆくとき、救いの喜びに生きるその姿を見て、信仰が本物であることを認めてくれる人も出てまいります。
たとえあざける反対者がいたとしても、主イエスは言われました。「わたしのために罵られ迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」。又、フィリピ1章29節には、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」とあります。
キリストに従って生きるがゆえに負う苦しみ、悩みや試練も避け難くあるでしょう。しかしそれらの経験をとおして、主への愛と信仰の確信が高められ、強められ、主のものとされていくのです。
聖霊降臨を心から感謝します。
主イエスの十字架の愛と復活の命の言葉に聞き、心一つに祈りつつ、お一人おひとりの上にとどまり、臨んでお働きになり、お用いてくださるご聖霊によって主の恵みの「あかし」を戴いて、今週も力強くあゆんでまいりましょう。
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教会の基礎

2013-05-13 09:49:30 | メッセージ
宣教 エフェソ2章19~22節 

大阪教会新会堂建築がいよいよ具体化すべく起工式及び定礎式を兼ね、主なる神さまに礼拝をお捧げします。新会堂建築に係る中で如何に神さまの導きと支えがあったか、まさに恵みの神さまのお働きと御業をお分かちくださいました。新会堂建築の幻を最初に与えられたのが2008年でしたから、それから5年という年月を経て、10日にはF工務店さんと正式に建築請負契約を結び、今ここに新会堂起工・定礎式を迎えることができました。ここに集われた皆さまもきっと感慨無量ではないでしょうか。

旧会堂の解体工事は予定以上の時間もかかりました。旧会堂のアスベスト除去も地道な作業であったことでしょう。それともう一つは、この旧会堂跡地・新会堂が建てられていく地中に初代会堂を解体した時のガレキがそのまま埋められていたり、又その初代会堂のコンクリートの基礎が残っていたという始末です。通常はそういうものは撤去されておくべきものなのですが、それが残っていたものですから、取り出し、処理していくという作業がなされました。
まあ言って見れば旧会堂は初代会堂解体時のガレキや古い基礎の上に建てられていたのであります。
今回の新会堂建築に当っては、そういうガレキ等をすべて取り除いた上に、杭を打ち、しっかりと地盤を固める基礎を敷いた上に新会堂が建てられていくことになります。
杭が13本必要ということを伺ったとき、結構な杭の数だなあと思いましたが、また何で13本という数になるのか? 12本だったらヨハネ黙示録21章14節に新しいエルサレムについて、「都の城壁には12の土台があって、そこには小羊の12使徒の12の名が刻みつけてあった」と記されてあるように、聖書的だろにとも思ったのであります。又、西洋の多くの高層ビルには13階の建物はないようです。13の階段も控えているところもあり、確かに迷信ではありますけれども、気にはなる数でもあります。
けれども、ユダヤではどうも違うようです。13は「愛」や唯一なる神の「唯一」を意味する数だそうです。又、ユダヤ教では13は、少年が神の前で一人の人として成人する年であり、大人となっていく「責任」を象徴する数だということですね。ユダヤ人は「神の憐れみの13の属性」ということを大切にするそうです。それは出エジプト34章6-7節から、「主、主、神、その神の憐れみ、恵み、忍耐、慈しみ、まこと、幾千代にも及ぶ慈しみの守り、罪と背きと過ちの赦し、罰すべき者を罰する等」の御言葉に神の13の憐れみの属性を読み取ることができるそうです。                           キリスト教の母胎であるユダヤ教では13は聖なる数であるということです。そういう旧約聖書の視点から見ることができれば、13の杭を打つということには意味あることなのかも知れません。それでも気になる方のためにこういう解釈もあるでしょう。13は12とおもだった1の数からなります。12が神の民あるいは12の使徒を表し、1は隅の親石といわれる、この世界の救い主として来てくださった主イエス・キリストを表している。それら13本を杭として、神の教会が据えられていく。

今日の聖書はエフェソの教会に使徒パウロが宛てた手紙ですが、ここでパウロは「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である」と述べています。世には様々な人種や民族の区別がありますが、主なる神に出会い、神の愛に生かされていることを知っている者は、みな聖なる民に属する者であり、神の家族である、というのです。
その神の民、神の家族を形づくっているのが、キリストの教会であります。私たちはこの地上において家族といえば肉親や血縁によるものと考えますが。聖書が告げる神の家族とは、血縁関係を超えた、神の愛に生かされている者たちによって構成される家族なのであります。そこには民族の違い、男女の性差、社会的地位や物質的貧富の差による区分はありません。ただ神に招かれ、神に集められた者によって構成される家族であります。
それはしかし、1日によってなったものではありません。旧約のイスラエルの民の歩みと、その中から全世界の救い主として来られたイエス・キリストの「平和の福音」を通してもたらされた弟子や使徒たち、さらに信仰の先達の歩みによって引き継がれてきた、そのような神の民の系図の延長線上に私たちも又、連ならせて戴いているのです。

大阪教会は今年で開設62年目を迎えました。アメリカ南部バプテストの尊い祈りと献金によって伝道が開始されてからここに至るまでに多くの牧師と宣教師、そのご家族のお働き、そして教会員の方々の献身的なお働きがあったがゆえに、今日の私たちの大阪教会は存在しています。これから建てられる3代目の教会堂がそうであるように、初代会堂、二代目の会堂もその時代にあってそれぞれの役割を果たして来たのです。
確かに問題点や悔改める面もあり、同じ過ちを繰り返さないという思いをもって進むことが必要でありましょう。しかし私どもはこの今日の大阪教会は先達の信仰者たちの熱い祈りと献身的な働きによって導かれ、守られてきたことに敬意を表したいと思います。

これからも時代はうつり、世代は変わっていくでしょう。しかし教会にはその終わりの時まで決して変わらないもの、動かないものがあります。それは神の言葉であり、その主イエス・キリストです。
12節に「そのかなめ石はキリスト・イエスご自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります」とありますが、かなめ石というのは、当時の建物はどだいが石を組み合わせて作ってあったのですが。かなめ石はそれらの文字通りかなめとなる石で、それがなければ石がうまく組み合わされないわけですから、土台はもろく結果的にちょっとした事で倒れてしまうような建物になってしまうのです。ですから、イエス・キリストは教会の土台であり、かなめ石なのだということであります。教会堂の基に聖書を据えますが。「神の言葉を土台とし、イエス・キリストをかなめ石として据えていく」決意をいつまでも記憶するための体験であります。

ところで皆さまは家や建物を建てるときに何が最も大切だとお考えになるでしょうか。家でも、教会でも確かに見た目というものは第一印象として大きいですよね。今回お世話になっています設計の田邉さんが素晴らしい新会堂の完成イメージ図を作ってくださり、それを戴きました。しおりの表紙に印刷していますが。御覧の通りキリスト教会ということが一目見ればわかって戴けるような教会堂です。これを見ると、ほんとに出来あがるのが楽しみですね。外観は建物にとってその存在をアピールする大きな要素です。
けれども建物にとって一番大事なのは、目に見えていない基礎の部分にあります。
なぜならこの基礎の土台がいい加減で脆弱なら、いくら立派で高級な建物であっても一たび災害にあれば無残に崩れ去ってしまうからです。教会堂は目に見えるところに勝って、今日の話に象徴されますように、何を土台としているのか。見えないところこそ真に重要なことであるということです。それは私たちの信仰であり、御言葉に立つ姿勢や証しと言えるでしょう。

新会堂の建築工事がこれからいよいよ開始されますが。まず13本の杭が打たれと基礎が据えられていきます。それは会堂が完成すると全く見えなくなりますけれども、その13本の杭については先ほど言いましたように、神の「愛」。又「唯一」ただ一つ大切なことを表します。さらに神の前に成人となって「責任」を担っていくことを象徴いたします。そのような気骨をもった大阪教会の新たな歩みとなりますように心から願います。
聖書は「かなめ石、イエス・キリストにおいて、建物全体はしっかりと組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となる」と言うのであります。
さらに22節「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住いとなるのです」とあります。

本日のこの起工・定礎式をとおして、私たちもキリストにあって共に建てあげられ、益々豊かなご聖霊の働きを戴いて神の住まいとされることを志してまいりましょう。キリストのよき香りを放ち、神の愛と恵みを伝え、あかししていくよう私たちは招かれています。
そのための会堂建築です。この大阪教会を通して次々と新しい神の家族が誕生し、神の国の喜びが拡大されてゆくようにと希望をもっております。

末筆になりますが、皆さまのお祈りとお支えを、今後ともよろしくお願い申しあげます。
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起工式のお知らせ

2013-05-10 07:43:42 | お知らせ

日時:5月12日午前10時30分
会場:新会堂建築予定地(旧会堂跡地)にて行います。
   大阪市天王寺区茶臼山町1番17号 日本バプテスト大阪教会

★仮会堂(大川ビル4階)では行われません。

神さまにお祈りかたがた、宜しくお願いいたします。

平安
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