礼拝宣教 マタイ25章31-46節
先週は岡山、愛媛と、またしても国内で山林火災が起き、それ程までに日本でも環境問題が悪化していることに改めて気づかされました。同じ頃韓国でも大きな山火事が起こっていたそうですが。風の強い日も増えており、国をあげての山林の保全につとめて頂きたいと願うばかりです。そして先日はミャンマーを震源とする大きな揺れが長く続く大地震が発生したとの報道がありました。ミャンマーはじめタイなど近隣諸国にも被害が出ているようです。礼拝に出席されておられるHさん、Eさん今日来られていますか?ご家族と連絡がとれましたでしょうか?共に祈りましょう。どうか姉妹方のためにもお祈りください。
さて、本日はマタイ福音書25章31—46節より、御言に聞いていきたいと思います。
この箇所は、前の24章の主イエスによる「終末の徴(しるし)」と「人の子は来る」というキリスト来臨の告知を受けて語られたものです。主が来られて正しい裁きをなさると言うのです。
今日のこの「すべての民族を裁く」というエピソードのはじめに、主イエスは、「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そしてすべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」と語ります。
中近東の遊牧民族は羊と山羊を一緒に飼うのが一般的であったようです。羊飼いは一日を終えて夜になると、羊と山羊を分けて、それぞれの囲いに連れて行くのですが。その際、羊たちは群れて行動しますし、飼い主の声を聞きわけて集まり、そのままついて行いますので、囲いにスムーズに入ることができます。ところが山羊は、羊と違いそれぞれが自分の思うままに行動するうえ、自分から集ろうとしないので、羊飼いにとっては大変な作業であったようです。
ここでは羊飼いにたとえられる王なる主は、人びとを右と左に分けられるのでありますが。当時ユダヤの法廷では、有罪者と確定された者を左に、無罪が宣告された者は右に立たせる慣習があったそうです。主イエスはそれをたとえに用いて、「世の終わりに人の子が来て行われる裁き」がどのようなものであるかをお語になります。
まず、王なる主は右側にいる人たちに対して、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸でいたときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と、その行いをほめ、あなた方は永遠の命に与る、と告げます。
しかし彼らは、「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」と、自分たちには心当たりがありません、と尋ね返します。
すると王なる主は、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」とこうお答えになるのですね。
彼らにとっは、飢え渇いている人に食べ物と飲み物をあげたり、旅をしている人に宿を貸したり、裸の人に服を着せたり、病人を見舞い、投獄された人を訪ねることは、日常のひとこまであったのでしょうか。あえてこれをしたという事ではなかったのです。
そのような彼らに主は、実はそれは、「わたしにしてくれたことだよ」、とおっしゃるのです。
主イエスがこのとき言われた、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」とは、当時迫害や貧しさの中で苦闘する主の弟子たちや兄弟姉妹、主を信じている者同志を指していると言われていますが。けれども、それだけとは限らず、私たちが日々日常において出会う、助けを必要として困っている人びともまた、主の御目によれば、わたしの兄弟であるこの最も小さい者であるのです。
トルストイの名作「くつ屋のマルチン」というお話があります。このお話しは今日の箇所がモチーフになっているといわれていますが。
ひとりでくつ屋を営む孤独なマルチンはある日夢の中で、主から、「明日行くから待っておいで」と呼びかけられます。目が覚めたその翌朝からマルチンは、様々な弱さや痛みを抱えた人、悩みを抱えた人と出会います。マルチンはその一人ひとりととにかく一緒にお茶を飲んだり、食事や服を与えたり、悩みを聞いたり、仲介に入ったりしました。そして一日を終えたマルチンは、夢で聞いた主イエスの言葉を思い出しながら、今日主はお出でにならなかったなあーと、その日に出会った人たちのことを思い浮かべていたのです。
そのとき、彼の耳元で、「マルチン、分からなかったのか。あれはみんなわたしだったのだよ」、と語りかけられる主イエスのお声を聞くのです。
このマルチンのお話は、私たちには主がどこにおられるのかは分からないけれども、確かに主は、私たちの日常の中にお出でくださり、弱さや痛みを抱えた人、悩みを抱えた人、腹ぺこで飢え渇いている人のお姿で、私たちに出会おうとされることを物語っているのです。見逃してはならないのは、マルチン自身も家族に皆先立たれ、半分地下室のようなところでひとり孤独に靴の修理をする人であったということです。彼は聖書を読み始めそうして主、キリストと出会うのです。話をもとに戻しますが。
さて、王なる主は、今度は左にいる人たちに言われます。
「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸でいたときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかった」。
彼らは右に分けられた人たちとは異なり、「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話しなかったでしょうか」と、反論します。
彼らは主のためにそういった慈善行為をしてきたという自信と誇りがあったのです。自分たちは神の掟を守り、社会のためにも貢献し立派な働きをしてきたのだから、その行いに当然よい報いがあるはずだといった自負があったのでしょう。
すると王なる主はその彼らにお答えになります。「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」。
先にも申しましたように、「この最も小さい者の一人」とは主御自身なのです。この主イエスは家畜小屋で生まれ、難民や寄留者として育ち、公生涯においてはだれからも理解されず、迫害を受け、遂には十字架に磔にされたのです。罪がないにです。
今レント・受難節ですが。ここでイザヤ53章に開いてみましょう。週報表紙に添付していますのでご覧下さい。このイザヤ書53章には、神の僕(しもべ)である人が、もはや「見るべき面影はなく、輝かしい風格も好ましい容姿もなく、軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」という「苦難の僕」としてのお姿が描かれています。主イエスはまさに自ら、そのような最も小さい者の一人となられました。その6節に「主の羊の群れであったはずの民が道を誤り、まるで山羊のように思いのまま、それぞれの方角に向かって行ったからです」とありますように、5節「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打たれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」。これは私たち自身のことでもあります。」そのことを忘れてはならないのです。
本日のお話で左に分けられた人々は、「主よ、いつわたしたちがそれをしなかったでしょうか」と、自己正当化や自己弁護をしています。しかし、どんなに人前で益と思えるような業績をなしたとしても、偽善は神の前でやがてすべてが明らかになるのです。最後の裁きが臨むそのとき、主の救いを受けている者はみな、「神の御心を生きたかどうか」が問われるのだ、ということをこのお話は伝えているのです。
一方の右に分けられた人たちは、「いつ、あなたに対してそれらのことをなしたでしょうか」と答えています。これは左に分けられた人たちとは対照的です。彼らは常日頃から、飢えていた人に食べさせ、のどが渇いていた人に飲ませ、旅人には宿を貸し、裸でいた人には着せ、病気の人、牢にいた人を訪ねていたのです。
それは彼らにとって自然で、内側から湧いてくるようなものであったのです。彼らは主が自分のために最も小さい者のひとりになってくださったこと。その主のお姿を常に思い起こしているので、直接的であれ間接的であれ、なんらかのかたちで神の御心を、神へ愛と隣人愛に生きていたのです。
今日のこの箇所からの宣教題を、「隠れて居られる神」とつけさせて頂きました。
私たちには主は隠れて居られ、見ることができないように思えます。しかし主は確かに今日も私たちと共におられます。そして来たるべき日には顔と顔を会わせるようにお会いできる日が訪れるのです。主が予告されたように、今世界中でも起こっているような戦争の騒ぎ、方々での飢饉や地震、激しい温暖化や気候変動。そしてキリストを騙る者や偽預言者が大勢現れ、多くの人を惑しています。そして大変残念なことに、その終末の徴として主イエスは、「多くの人の愛が冷える」(24:12)と語られました。
聖書の最も大切な「神への愛」と「隣人を自分のように愛しなさい」との教えは、自分の力や業から生じるものではありません。わたしの罪のためにキリストがその愛によって死んでくださった。この聖書の伝える神の愛こそ、決して変ることのない普遍的な愛なのです。それは今も、十字架の主イエスを通して信じる者のうちに注がれ続けているのです。
最後に、今、世の終りの徴と伝えるような出来事がひんぱつしています。世界的にも不安や緊張感が高まっているようにも思えます。しかし主イエスは、それらのことが起こったとしても「慌てないように気をつけなさい。まだ世の終りではない」と言われました。ただ、いつ「その日」が来るかわからないから、「目を覚ましていなさい」といましめられるのです。
「その日、主はかならず来られる。」その流れのなかで本日の「すべての民族を裁く」エピソードも語られています。私たちは、たとえ明日主イエスが来られるからということで、何か特別なことをしなければならないのではありません。あの靴屋のマルチンがキリストに救いを見出し、日々聖書を読み、祈っていたように、そして日常の中で出会った人を大切にしたように、神の愛・隣人愛に生きる。これが主から受けたことです。「多くの人の愛が冷えない」ように願いつつ、御国の福音が私たちの身近なところから証しされていくことを、主は願っておられます。まず、この礼拝から主のご愛をいっぱいに戴き、主のみ心を行う者とされてまいりましょう。