日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

語り伝えよ、主の御言葉

2012-11-25 13:36:19 | メッセージ
宣教 ヨエル書2章18節~3章5節 

今日はまず収穫感謝を覚えての礼拝をささげておりますが。教会の緑地に、今年も夏はびわやいちじくが小さな実をつけました。日当りがよくない事や選定をしていない事もありましたけど、びわは結構おいしく戴くことがきました。今は柿が実をつけ、柚が実ってきました。例年大きな渋柿がなるのですが、今年はそれに加え小さい甘柿が沢山実りました。思いがけない神さまの恵みです。今日は皆さまも果物や野菜を主に捧げるために持ってきてくださっていますが、加えてその教会の柿もいくつかお捧げしました。教会の緑地は日あたりがいいとは言えませんが、いつかもう少し整備し、また農園のようにできるといいなと思っています。

さて、入院中のT姉のために日毎お祈りくださりありがとうございます。先週火曜日、姉が入院している病院を訪ねましたところ、病室のベットを少し傾けて起こした状態で、静かに目を覚ましておられる姉の姿を見て、大変驚かされました。ただ主に感謝と賛美を捧げ、祈りました。重篤の状態は抜けられたようですが、まだ意志疎通が困難のようです。お連れ合いの方が、「表情が少しずつよくなってきている感じ」とおっしゃっていました。
彼は姉が入院して以来ずっと食べ物が喉を通らなくなって気力も減退しきっていたのですが、1週間前にご飯を口に入れたところ、もどされたそうですけれど。その時喉の奥に詰まっていた何かがポンと取れ、抜けたような状態になり、そのすぐ後、ご飯2膳をいっきに食べることができた、ということを話してくれました。それからというもの、食欲と気力が少しずつ快復してきているということでした。ほんとうに不思議なことが起こるものですね、とお連れ合いとお話しをしていたのが先週の日曜日でした。そういう出来事を経ていく中で姉の目覚めも与えられているという事に、私は主のお働きを思わずにいられないのです。期待と希望をもって主に祈ることの大切さを学ばされます。私たちにはそれぞれに問題課題が山積しています。又、大きなビジョンがあります。兄弟姉妹の篤い祈りの結集を、今後ともよろしくお願いいたします。主はその祈りを聞いておられます。

さて、本日は特別な礼拝ですのでテーマ説教として聖書箇所を自由に選んでもよいところですが、聖書教育の箇所ヨエル書をそのまま用いさせて頂きました。
先程読んで戴いたところから、今日は「語り伝えよ、主のみ言葉」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
先に、世界祈祷週間のアピールが今年はパワーポイントを使いて大変分かりやすく具体的に女性会よりなされました。私たちも世界宣教と様々な奉仕のため、まさに本日の宣教テーマ「語り伝えよ、主のみ言葉」のとおり、その働きのために祈り覚え、また私たちの献身の思いを献金としてお捧げしてまいりましょう。本日の午後2時からルワンダ国際ミッションボランティアの佐々木さんの帰国報告会が堺教会で行われます。時間が作れる方はぜひお出かけください。又タイの日高宣教師の帰国報告会は来年の3月第1日曜日の午後から、関西黎明教会で行われます。今から予定に組んで戴けるといいかと思います。

本日のこのヨエル書は旧約聖書の小預言書の一つであり、あまり読む機会の少ない書かと思いますが。その中で知られていますのは、ヨエル書3章1節の「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る」とのみ言葉でありましょう。これは、聖霊降臨の折に使徒ペトロが説教した中で、引用された聖句であります。ここで重要なことは、主なる神さまは御自分の霊をすべての人に注がれたということであります。
私たちにとりましては、イエス・キリストの大きな犠牲のみ業と約束によって、その聖霊降臨がもたらされました。今や、主の御救いによって全世界の人々にこの大いなる恵みがもたらされました。
しかし、神さまの霊がどんなに注がれても、それを知ることがなければ、又心を閉ざしてその霊を受けとっていかなければ、神の恵みやみ業を知る事、経験する事はできません。

ヨエル書は1章2節、3節には次のようなことが記されています。
「老人たちよ、これに聞け。この地に住む者よ、皆耳を傾けよ。あなたたちの時代に、また、先祖の時代にも、このようなことがあっただろうか。これをあなたたちの子孫に語り伝えよ。子孫はその子孫に、その子孫は、また後の世代に。」
私は、このところにヨエル書全体のテーマが示されているのではないのか、と思わされたのであります。

3節の「これを語り伝えよ」というのは、先に起こった主のいなごによる襲撃と干ばつによる荒廃のことです。それは地の実りの産物の枯渇、不作を招き、家畜、畜産をも根底から揺るがす事態でした。食糧不足、飢饉に脅かされたのです。けれども、やがてさらに厳しい事態が起こる。「全能者による破滅の日、主の日が来る」と、神の審判をヨエルは人々に伝えるのであります。
しかし預言者ヨエルは、もし老人たちが主の救いに与った恵みの民として、心から主に立ち帰り、向き直り、子どもや孫たちに徹底して伝えていくなら、主ご自身も「思い直されて」ユダヤ全体に憐れみもって臨んでくださるだろう、と訴えかけます。
「危機的滅びの状況を前にしていたユダヤの人々が、そこで何に聞き、如何に生きるか」が根底から問われます。今を生きる私たちも様々な危機的な問題に直面することがあるでしょう。ユダヤの人々が根底から問われたこと、「何に聞き、如何に生きるか」。それはまさに私たち自身に問われている事柄でもあるのです。

2章12節、13節でヨエルは次のように語ります。
「主は言われる。『今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け。』 
当時のユダヤの民は主への悔改めや訴えを強く表現するのに、衣の首もとを持って前の切り込みのとこからガッと裂いたのですね。しかしそういう形だけの、あるいはただ感情的な悔改めでなく、主が「心を引き裂け」と言われるような、心の底からの悔改めをもって主に向き直って生きてく、そのことが真に求められるのです。
まことに望みをおいて祈り、それを聞いていてくださる主がおられる、そういう関係性の中に生き生きとした信仰の実りがもたらされていくのです。ほんとうに心強く、ありがたいことであります。

さて、2章18節にユダヤの民が、主に真に立ち帰ったその時、「主は御自分の国を強く愛し、その民を深く憐れまれた」とあります。主はその民を深く憐れまれ、「穀物とぶどうとオリーブを送り、飽き足らせよう」と約束してくださるのです。

今日は収穫を覚えての礼拝でもありますが。今、私たちはお店に行けば、きれいに並べられたあらゆる国々の食物を手にすることができますが。これらの実りの収穫は人間の労働や功績だけで言い表すことができません。大地のすべての実りは、生ける天地の創造主であるお方によってもたらされるものであることを忘れるわけにはいきません。この収穫の主に、感謝を心から捧げ、祈り、依り頼んで生きる人は、恵みの何たるかを知っており、幸いであります。そのように生きる人に天からの恵みのマナは決して尽きません。日々主に立ち帰って生きるところに、主の祝福と実りが与えられるということを今日も又、おぼえていきたいものです。

最後になりますが、入院中のT姉の目が覚められた日。姉が以前アンケートで選んだ愛唱聖句を見つけ読み、祈って病室をお訪ねしたのですが。そのガラテヤの信徒への手紙5章16節にこう書かれてありました。「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。」
これは、今私たちの教会に、そして私たち一人ひとりに主が語りかけておられるみ言葉であるということを、ほんとうに強く実感いたしました。本日のヨエル書3章1節「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。」 今や、主イエスさまを通して私たちにも注がれ続けている主の愛と霊の導きに従って生きてまいりましょう。置かれた状況は如何に厳しくとも。
3章5節「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」、「シオンの山、エルサレムに逃れの場がある」。このシオンの山、エルサレムとはイエス・キリストのみ救いであります。やがて来たりたもう終末、主の日において、このみ約束が成就することを待ち望みつつ、霊の導きに従う日々をあゆんでまいりましょう。
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主を尋ね求めて生きよ。

2012-11-18 11:47:32 | メッセージ
宣教 アモス書5章21節~27節 

アモスという人物については、1章1節に「テコアの牧者の一人であった」と紹介されています。彼はエルサレムの北部ガリラヤ地方の農村テコアに生まれ、羊や牛を所有して飼い、又イチジク桑を栽培する富裕な農民であったとされています。彼が動物の群れをおっているところを主は預言者として召し出されました。それは北イスラエル王国のヤラベアム王の時代、大きな地震が起こる2年前に、王と民に対して主の審判を預言するために立てられたのであります。
この北イスラエル王国とヤラベアム王の時世は物質的に繁栄し、軍事力の拡張を繰り返していました。しかしその一方で貧富の差が広がり、繁栄の陰で社会的弱者や貧者は搾取され、不正が行われていました。イスラエルの裕福な人々は、その現状を見過ごして自分たちは恵まれている、祝福されていると、主の祭りに出て捧げものをし、主の集いに出ては賑やかに讃美していたのです。そういうイスラエルの王や人々に対して、アモスは主の言葉を伝えているのです。

本日の聖書の小見出しに、「祭りにまさる正義」とつけられていますが。これは祭りよりも正義が優っている、と聖書は語っているのでしょうか? 確かにそのように読み取れないこともないでしょう。けれども、この5章の本来のテ―マは、祭りか正義かというニ者選択を迫っているのではなく、「お前たちの祭りとは何か」ということが問われているのであります。つまり、本来、「主の祭りとは何か」「礼拝とは何か」という本質が見失われていないかどうかということが、語られているのです。

ここで「礼拝」でなく「祭り」と書かれているというのには、意図的なものがあるように思えます。礼拝は一言で言えば、まず主の御前に出てひれ伏し、主を拝することです。一方祭りは、救いの記念日には違いありませんが、どこか人の側の満足感や高揚感を味わうための要素が強いような印象があります。前の4章などを見ますと、罪を犯しては、いけにえや献金を捧げ、また同じように罪を重ねる。あるいは感謝の献げ物のパンを大きく見せるために、ふくらし粉を入れるようなことをしたり、「今から私は献げ物をするぞ」と大声で触れまわったり、そういうことを好んでなしているイスラエルの人々に対して、主が嘆きの言葉を語られているのです。

24節は「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」と、よく知られる御言葉でありますが。それはどういう意味でしょうか?
正義といえば、人間の倫理や道徳、又思想に立ったところから善悪を見極めていくものでありますが。しかしその正義は、先回の宣教にも触れましたように、数の多さ、権力によっていとも容易くねじ曲げられてしまうものであります。政治の力や宗教も、ややともするとそういった過ちを起こすものです。数や力の論理で正義や平和のためといって戦争や経済侵略が繰り返されてきたというのが、残念ながら世界の歴史でありましょう。
ここで聖書の言う正義とは「公義」とも訳される言葉です。それは、主なる神が私に何を求めておられるのか主を尋ね求めて聞いて行く時に、そこで示される主への応答のことであります。それはまずどこまでも、主と私との一対一の交わり、関係の中から起こり、「主を尋ね求める」ことに始まるのです。

本日の21節~23節ですが。ここでは、主とイスラエルの民との関係が、「わたし」と「おまえ(たち)」と非常に近しく語られております。ここで対立しているのは「祭り」対「正義」ではないのですね。祭りか正義かという問題ではなく、主である「わたし」と「おまえ(たち)」の問題であるのです。それは5章4節、6節にあるように「わたしを求めよ、そして生きよ」「主を求めよ、そして生きよ」。そこにあるのです。
聖書は、そのように「あなた」は主である「わたし」と一対一で向き合っているのか、と問いかけます。あなたは主を喜び、誇るのではなく、自我を喜ばし、誇るために祭りを行っているのではないか、ということなのです。

当時の北イスラエルの比較的裕福な人たちについて、少し考えてみたいと思います。
この時代ははじめに申しましたようにある意味、国は繁栄し豊かな時代であったといえますが、その一方で5章10節以降を読みますと、「彼らは町の門で訴えを公平に扱う者を憎み、真実を語る者を嫌う。」12節「お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り、町の門で貧しい者の訴えを退けている。」
まあこのように、特別な祭りや礼拝では「目立って捧げものをし、賛美を賑やかにしている」人たちであったのに、しかし日常においてはこのような事を繰り返していたのです。
祭りや礼拝が日常生活と大きく分離していたのです。

私はこの10節の「公平を扱う者を憎み、真実を語る者を嫌う」とあるそこを読んだ時、主イエスさまが全きお方としてこの地上にお出でになったにも拘わらず、人々から憎まれ、嫌われ、十字架にまでつけられたお姿が思い起こされるのです。まことに人間の罪の深さを、それは示しています。
現代の社会においても、過ちを正して語ろうとする者、事実を語る者が疎んじられ、迫害を受けるような現実がありはしないでしょうか。子どもの世界でさえ「いじめをやめさせようとしたら逆にいじめの標的になった」ということがあるわけです。

さて、モ―セの律法に基づき、行われた祭りや礼拝はそもそもどのようなものであるかと申しますと、それは「かつて、奴隷の状態であった貧しく小さくされたイスラエルの民の訴えを主がお聞きくださり、その隷属から救い出してくださったことに感謝し、捧げものをなして応えていくためのもの」であったのです。
イスラエルの民はその先祖が受けた主の大いなる恵みと憐れみを子子孫孫に伝えるため記念の日として祭りを設けてきたわけです。いかに自分たちが弱く小さな民であったか。しかし主はその弱く小さな者に御目を注ぎ、慈しみをもって導き出して下さった。何の功もない民を。
このことが祭りと礼拝の原点であるのです。それはまた、主の恵みと憐れみを受けた者が、苦しみや痛みの最中にある人を顧みていく出発点でもあります。
アモスの時代の北イスラエルの富裕な人々は、形のうえでは祭りごとと礼拝を捧げていたものの、その本質のところでは主の顧みと御憐みに与っているという霊的な驚きや感動といいましょうか、そういう霊性が枯渇していたのですね。かつての自分たち民族の苦しみ、痛みを思い起こすことすらできなかった魂の状態。その霊性が鈍くなり、ほんとうに渇ききっているということさえ彼らは気づくことができなかったのかも知れません。それでは、隣人同胞の痛みや叫びに耳を傾けることなどできません。それどころか、主に敵対し逆らうような状態に陥っていたのです。皮肉なことに、その後彼らは侵略を受け捕囚となり「主の御言葉を聞くことのできない飢え渇き」を経験することを通して、預言者の言葉を思い起こし、真の悔改めへと導かれることになるのでありますが。

24節の「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」というその御言葉ですけれども。それはまさに、主の大いなる恵みと憐れみを忘れずに、どんな時も「主を求めて生きる」。そのところに主の正義と恵みの源泉があるのです。その主に応えて生きる時、人は正義と恵みの業を祈り、実現して行く力と情熱を戴くことができるという事であります。

2、3ヶ月程前になりますが。夜回りで92歳の男性に出会いました。先日もお会いしましたが。その方は段ボールを集めリヤカーに積んで運び、業者に持って行って売って生計を立てておられますが。路上での寝泊まり、野宿生活を余儀なくされる毎日です。
先日は八尾から20キロメートルはある道のりを6時間かけリヤカーに段ボールをいっぱいに積み日本橋にお帰りになるところで出くわしました。何んと100キログラム以上はあるような段ボールを積んで引いて行かれるとのことです。その前日は雨に降られ途中高架下で一泊されて戻って来たところ、ということでした。
その方がまたとってもよいお顔をされているんですね。92歳とはとても思えないくらいしゃきっとしておられ、まだまだ自分は働けるのでこの仕事を続けたい、ということをおっしゃっていました。「下着や靴下など必要なものがあれば言ってください」とお尋ねすると、「ありがとうございます」と丁重にお辞儀をなさるのですが。何だかこちらの方が恐縮してしまいました。人間らしく生きることは単におかれた状況や立場によってはかられるものではないんだ、それが人間の尊厳というものかも知れませんね。その方を見ていると、つくづくそう思います。
今、世界中に、そして日本中に、生死に係るような厳しい状況におかれた人たちが数知れずおられます。ほんとうにそのような人たちが忘れ去られるような事がないように祈り、とりなしていく働きが求められていることをひしひしと感じます。

本日アモス書から御言葉を聞いた私たちですが。主の恵みと憐みに対し、驚きと感謝を日々新鮮に抱いていることは信仰生活の基盤であります。日々、アメージング・グレース。「驚くばかりの恵みなりき」というその思いこそが、私たちを正義と恵みの業へと押し出してくれるでしょう。たとえ小さく思える働きであったとしても。
「主を求めて生きる」者の日常の中に、主は共に働く恵みの業を実現させてくださるのであります。

今の時代は政治・経済・環境問題と、どこをとっても不安と心配が尽きないような世の中です。「何を信じていいのか分からない。」そのような時代の中で私たちも、又生きています。先週は衆議員が解散しましたが。国会の空白を作る非常に無責任な解散で、大震災と原発事故被災者の方が、自分たちのことが置き去りにされたという嘆きの声をあげておられました。今何とか踏ん張って生きている人たちが、置き去りにされ解散が政争の具にされたとしか言い得ません。まさにその不安や心配を解消してくれるかのような強い力、カリスマ性のある者が支持され、そして神ならざるものが神のように拝まれていく世相が簡単にできあがってしまう危うさをも一方で禁じ得ませんが。

そのような時代にあっても、主イエスの十字架と復活の福音を受け、その御救いと希望を戴いていることを、かたく信じてあゆんでまいりましょう。また、私たちに届けられた福音が、教会の主にある兄弟姉妹、そしてそのご家族、友人や知人、又地域の方々のもとにも届けられ、喜びと希望となっていくことを切に祈り、実を結んでいくようにつとめていきたいものです。福音の豊かさと主の御業に期待と希望をもってまいりましょう。
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神の方向転換

2012-11-11 17:35:26 | メッセージ
宣教 ヨナ3章1節~4章11節 

①「隠された神のご計画」
本日は先程読んで戴いたヨナ書3章から4章より「神の方向転換」といういささか刺激的な題をつけさせて頂きましたが、この所から御言葉をご一緒に聞いていきたいと思います。
先週は1章より「神から逃れるヨナ」の場面を読みましたが。北イスラエルにとって宿敵ともいえるアッシリアのニネベ行って、御言葉を語れと言われたヨナでしたけれども。それとは正反対に向かう船に乗って神から逃げ出します。しかし主によって起こされた大嵐を静めるため海に投げ出されるも、2章のところでは、神が遣わされた大魚に呑まれてその腹の中に3日3晩滞在することになるという、何ともおとぎ話のようでありますが。まあそれが本当に起こったのか寓話であるのかはさておき、このヨナ書に込められた聖書のメッセージを受けとることが大事です。
そのようにして命を救われたヨナでありますが。大魚の腹の中で感謝と悔い改めの祈りをささげます。神から逃れることに平安を見出そうとしていたヨナは、逆に神の御手のうちに生かされていることに真の平安、魂の憩いを見出したということを、その祈りから読み取ることができます。まさにヨナは、放蕩息子の物語のように、神のもとに立ち帰り、そればかりでなく生かされている意義を見出し、それを果たしていく決意を表明します。
そのヨナに主の言葉が再び臨みます。「大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」
それはヨナが初めに受けた召命と同じ言葉でありました。一度は逃げたその同じ召命。それを再び受け取り直して、今度は主の命令どおり直ちにニネベに行き、「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」と宣言するのです。神のもとに立ち帰ったヨナは、直ちに神の言葉に従っていきます。

さて、ヨナの宣言を聞いたニネベの王とすべての民は5~9節にあるように、徹底的に神に立ち帰り、悔い改めます。ニネベの人々は何とヨナの呼びかけで「神を信じた」というのですね。そもそも神がニネベにヨナを遣わされたのは1章1節にあるように、「彼らの悪が主の前に届いている」からであります。ニネベの人々はその悪というものを自覚していたのではないでしょうか。けれどもそこに神の言葉はなかった、語られていなかった、のであります。彼らの魂は飢え渇いていたのではないでしょうか。先週も言いましたが、「あかんことはあかん!」という父なる神の御声をニネベの人々は必要としていた。むしろ待ち望んでいたのではないでしょうか。世間の多くの人々にとって聖書のことばは取っ付きにくいものだ、と考えてしまいがちですが。実にどれだけ多くの人が神の言葉を必要としているかわかりません。先日の新聞に「あなたの人生に影響を与えた本ベスト10でしたか、その調査結果として聖書はダントツの1位でした。先入観を棄てて様々なかたちで福音を伝え続けることに、期待をもって望むべきなのですね。
ニネベの人々について普通に考えてみますと。一人のイスラエル人ヨナが一日中裁きの言葉を叫んだとしても、このように国中挙げての悔い改めが起こることは想像し難いことです。これは神のみ業以外の何ものでもないのです。
「あと40日すれば、滅びる」というヨナの言葉は、表向きニネベの滅びの宣告でした。
しかし、主のご計画はもっと奥深ところにあったのです。
この「40日」というのは、単に災いや滅び迄のカウントダウンではないのであります。その災いがくだされる前に、40日という時間が与えられているということです。そこに隠された主のご計画があったのです。神は不思議なかたちでヨナを用いて、異邦の王と民の心を揺さぶり、動かされ、ニネベ全体を悔い改めへと導かれたのであります。
そして10節にあるように、「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告の災いをくだすのをやめられた」のであります。ここには「神が思い直された」と述べられておりますが。それは「神ご自身が方向転換された」ということであります。神は異邦の王と民が徹底して悔い改めていったその姿をしっかりと御覧になっておられたのです。
徹底した悔い改めによって、神の御憐みを体験することになったニネベの民。悔い改めるとき、神さまも又、改めて人と向き直ってくださる。そのような和解の福音がここに示されているのです。ここに神の隠されたご計画であったのです。

②「ヨナの怒り」
そうして災いを免れることになった二ネベの都でしたが、ところがです。
4章に入りますと、ヨナにとってそのことは大きな不満となり彼は怒って、主に訴えます。主がニネベに災いをくだされることを思い直されたことが、ヨナには大きな怒りとなったのです。何ともおかしなことですが。ニネベに対する神の怒りがおさまると同時に、ヨナは怒り始めたのです。それは主に対する不満へと突き進んでいきます。主なる神の憐れみとゆるしがニネベの民にも与えられる事に対し、ヨナは不満を露わにし、主に敵対します。
「だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしにはこうなることがわかっていました。」何とまあヨナはこうなることがわかっていた、だから来たくなかったのだと言うんですね。「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみ富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです」と主にありったけの皮肉を込め、訴えるヨナ。それはもう駄々子のようであり、魚の腹の中で3日間祈り、主に立ち返ったあの同じヨナなのかと耳を疑いたくなります。
しかしこれは、信仰生活を営む私たち自身の姿でもあるなあと思わず苦笑してしまいます。ある時は熱心に悔い改め、涙とともに賛美するかと思えば、自分の願いや、それが満たされない不満でひっくり返って駄々をこね主に不満をぶつける。それが人の弱さ愚かさでありますが。
ヨナはニネベの人々から、「おまえは俺たちが滅びると預言していたのに、言っていることと違うじゃないか。おまえは偽預言者だ」と中傷されることを恐れていたのでしょうか。何よりも、ヨナにしてみればイスラエルに敵対する悪の異邦人を主が滅ぼされないことに我慢ならず、許せなかったのでありましょう。

主はヨナに言われます。「お前は怒るが、それは正しいことか」。主はそんな激しいヨナの怒りに対し、「わたしに逆らうのか」とか。「わたしが間違っているとでも言うのか」などとはいわれません。主は頭ごなしにヨナを叱りつけるのではなく、まるですねた子を諭す父親のように、「お前は怒るが、それは正しいことかどうかよく考えてみろ」と促し、静かにヨナに問い返されるのです。
ここで、主は「怒り」の感情自体を否定されていないことがわかります。「怒ることが正しいことかどうか、自らの心に聞け」と問われます。

新約聖書の主イエスについての記事を読みますと、主イエスが激しい憤りをおぼえられることや怒られるいくつかの場面がございます。「怒り」というもの自体、これは神が人間に与えられた感情です。大切なのはそれがただ自己中心な怒りであるのか、あるいは不義に対する怒りであるかどうかということです。そのことがヨナに問われているのです。イエスさまが持たれた怒りは人の命を損なう不正や搾取に対するものであり、神の義と憐れみが軽んじられることに対しての怒りでありました。自己中心的な怒りとは全く異なります。囚われた観念や思い込みによって人を裁いたり、排除する怒りには憐れみなど入る余地はありません。主はそこをよく考えてみなさいとおっしゃったのです。

③「主の憐れみ」
しかしそれでも納得がいかないヨナは、ニネベの町はずれに小屋を建て、日差しを避けてそこに座り込み、都で何が起こるかを見届けようとします。つまりヨナは神の上に立って神のなす事を監視しようとしたのです。「神よ、あなたはこうあるべきだ」という高慢なヨナがそこにいました。
すると、主はここでもヨナを叱りつけ糾弾されるどころか、何と「彼の苦痛を救うためにとうごまの木を生えさせ、ヨナの頭上に日陰をつくらせた」のです。するとどうでしょう。「ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ」とあります。まるで子供のようですが。
ところが、主が命じ遣わされたほんとうに小さな虫によって、たった一晩でそのとうごまの木は食い荒らされ枯れてしまいます。また日が昇ると主は、今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられます。ただでさえ暑いのに、ものすごい熱風と太陽の日差しにさらされたヨナはぐったりとなり、「生きているよりも、死ぬ方がましです」と再び怒りをぶつけます。
すると、主は4節でヨナに問われたのと同じように、「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか」と言われます。それに対してヨナは、自分を正当化しようと、「わたしが怒るのは当然です。もう怒りのあまり死にたいくらいです」とつっかかるのですね。
そして主はヨナにこのように言われます。
「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜に生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

この「惜しむ」とは、「憐れみ(慈愛)の目で見つめる」という意味であります。ヨナが一夜で枯れたとうごまの木さえ惜しんで見つめるとすれば、主はどれほどの憐れみと慈愛のまなざしでニネベの都と、そこに住む人々を見つめておられたことか、と聖書は語っているのです。

主のお造りになったこの世界、主はどの国も、どの民族も愛しておられ、立ち返って生きることを切に望んでおられます。また、主はすべての生きとし生けるもの、それは人間だけではありません。地球上の自然界すべての生き物が命与えられた存在として輝いて生きるようにと、その命を追い求め、熱い思いで見つめておられます。主は生きとし生ける一つひとつの命に対してまことに敏感であられます。主はすべての命が主に立ち帰ることを願ってやみません。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ3章16節
実に、主なる神さまは、それ程までして私たちが救いに与って生きることを切に望んでおられます。

④「福音の拡がり」
ヨナ書を2度に亘って礼拝で読んでまいりましたが。ヨナ書には神さまが大風、巨大な魚、とうごまの木、虫、東風にお命じになるという場面等が出てまいりますように、主は世界のすべてのものを造り、治めておられる神であられます。そして神はそれらの自然界の生き物が滅ぶことを決して望んでおられないということです。その神の使命のために私たちも主と共に働き、仕えて生きる者であるのです。

主が世界宣教へヨナを遣わしたのは、偏狭なヨナの心が変えられていくことでもあったということを申しましたが。このヨナ書はユダヤ・イスラエル民族の偏狭さを指摘すると共に、神がヨナを世界宣教へ送ることを通して、神の和解の計画、すなわち福音の拡がりが遂行されていくことが一つの大きなテーマとして語られているのであります。

私はいつも礼拝宣教の冒頭で、「お帰りなさい」と挨拶をいたします。それはここが神の家族、その「ホームベース」であるからです。私たちはこの礼拝で、主をほめたたえ、み言葉に正され、また慰めや力をいただくわけですが。それだけで終わりません。同時に礼拝で頂いた恵みすなわち福音を携えて、私たちがこの地上の生かされているそれぞれの場所に遣わされていくのです。ですから礼拝の最後の祝祷は「いってらっしゃい」という派遣の祈りであるのです。この地上にあって私たちそれぞれが主の福音をもたらす器として用いられ、そのことによって家庭が、近隣が、職場が福音の広がりで満たされていくように祝福を祈り、働き、共に主の福音の豊かな恵みに与っていくために、みなさんお一人おひとりがその召しに与っておられるのです。

主イエスの大宣教命令のお言葉を読んで本日の宣教を閉じます。「全世界に出て行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」この大宣教命令は、私たち自身が、又教会が解放され、ひいてはこの国が、世界が刷新されていくことにつながるのです。祈りつつ、主のみ言葉に聞き従ってまいりましょう。
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神から逃れるヨナ

2012-11-04 20:49:59 | メッセージ
宣教 ヨナ書1章1節~2章1節 

本日から2週に亘り旧約聖書のヨナ書から御言葉を聴いていきます。
ヨナ書は不思議な書物です。旧約聖書の他の多くの書物はイスラエルの選びと救いの歴史が記されているのですが、このヨナ書は異教の世界、それもイスラエルに敵対するような国の救いが記されているのです。また、主人公のヨナは巨大な魚の腹に3日3晩のみ込まれていたり、やたら怒ったり、へそ曲りの所があったりします。
どうしてこの寓話のような物語が旧約聖書39巻の中に組み込まれたのでしょうか。このユニークなヨナという人物を通して示される神からのメッセージに耳を傾けたいと思います。
北イスラエル及び、南ユダの歴史は、たえず巨大な周辺の諸国家に脅かされ続けていました。そして遂に北イスラエルと南ユダは滅亡し、人々は捕囚として異教の地に連れて行かれます。そして永い年月を経てようやく捕囚から解放されたイスラエルの民はユダの地への帰還が叶うわけでありますが。そして先週迄読んできましたエズラやネヘミヤらが、主に背いた過去の歴史を悔い改め、主がモーセを通して与えられた律法に立ち帰って、主を畏れて生きるようにと、民を促し、神殿の再建がなされていきました。いわばイスラエルは神の民として国家再建を成し遂げたわけですが、しかしその一方で過剰な選民意識が次第に強くなってきたのです。
それは排他性や独善化につながり、偏狭なナショナリズムへと傾斜していきます。イスラエル以外の異教徒は滅びる外ないという偏狭で急進的な民族主義の形態を強くもっていたのです。
このヨナは、そういった偏狭な教えや信仰を固持していたイスラエル共同体の、象徴的人物としてここに登場いたします。主はそのようなイスラエルをたしなめ、悔い改める者にはたとえ異教徒であっても憐れみと救いを与える全世界の創造の父であられる。イスラエルは先に選ばれた民として、主の救済を告げ知らせるように招いている。それがヨナ書なのです。

さて、本日はヨナ書1章を中心に、「神から逃れようとするヨナ」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
主の言葉がヨナに次のように臨みます。「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。」 
ニネベはかつてイスラエルの宿敵大国アッシリアの首都として栄えた町です。ヨナの使命はこの町に行き、その罪を指摘し、主の言葉を伝えることでした。けれどもヨナはこの主の命から逃れ、正反対のイスパニア(現・スペイン)東部の町タルシシュ行きの船に乗り込むのであります。
「そんな異教の敵国に行くぐらいなら死んだ方がまし」というようなところでしょうか。
ヨナにしてみれば主の目の届かない遠いところに迄とにかく逃れようと必死だったのでしょう。しかし、主が大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりになります。
船員たちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を投げ捨てて、船を少しでも軽くしようとしたわけですが。そういう中、ヨナはまあやっと主から逃れられたという安堵もあってか、船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいました。自分たちの神に向かって必死に祈り助けを求めている異教徒たちの姿と、主から逃げ安堵しているヨナの姿とは何と対照的でしょうか。船員たちは異教徒でありましたが、その姿は敬虔で信仰深いのです。
船長は船底で寝ているヨナのところにきて、「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない」と言います。ほんとうにどちらが信仰者か、宗教者か分かりませんね。
すると、この大荒れは海の神の怒りの原因からくる、誰が怒らせたのかを割り出すためにくじを引こうということになり、それが又、ヨナに当ったというのです。
そこで、ヨナは自分の身の上について、「ヘブライ人で、海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。」と言い、神から逃れようとしてきたことを人々に白状してこう言います。「わたしの手足を捕えて海に放りこめばよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのいせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったからだ。」それは、どこかふてくされているようにも聞こえます。悔い改めの余地もないほどヨナの心は頑なであったのであります。
船員たちは神を畏れてすぐにはヨナを海に投げ込もうとしませんが、しかし大嵐は一向におさまらず海がますます荒れ、襲いかかってきます。すると、何と異教徒の乗組員たちが、イスラエルの神「主に向かって祈った」というのですね。彼らは「ああ、主よ、この男の命ゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。」と祈るのであります。そしてヨナを海へほうり込むと、荒れ狂っていた海は静まり、それを見た彼らは、ヨナが背いた「主を畏れ、礼拝をささげた」とあります。
 頑なにどこまでも自分を正当化するヨナ。敬虔な思いをもって礼拝する異教徒。何だか私たちの信仰の姿勢までも問われる気がいたしますが。

さて、本日の1章の中には3度も、ヨナが「主から逃れようとした」という言葉が繰り返されています。そこには、敵国であった大国アッシリアのニネベに行くことへの恐れや不安も確かにあったのだろうと思います。が、来週読むことになる4章には、敵国の異教の人たちに神の憐れみが及ぶことが、ヨナにとって到底受け入れ難い、許されないことであったということが書かれています。言うならばヨナにとって神はイスラエルだけの神であり、イスラエルは神の民、選びの民であったのです。自分たちは異教徒や異国の人たちとは違うのだというヨナの偏った愛国心は、異教の人たちに救いがもたらされることを許しません。主は「呼びかけよ」と、おっしゃっているのに、ヨナは頑にその主の前から逃れようと船に飛び乗ったのです。聖書教育にも書かれていましたが、ヨナにとって究極の安心は、ニネベが滅びることにあったのではないでしょうか。

この1章を読む時、ヨナをはじめ、当時いわゆる一般的なイスラエルの人々が抱いていた異教徒や異国の人たちに対する先入観や価値観、又モノの見方や考え方が、見事に覆されていることが分かります。如何にヨナよりも彼ら異教徒や異国の人たちの方がよく神を畏れ敬う者であったか。海が静まったのを見て、彼らは天地万物を支配し、治めたもう主を畏れ、礼拝しました。彼らもまた心の奥底、魂の淵において生けるまことの神、主を求めていた人たちであったのです。それをどこかもうはじめから先入観や偏見の目でもって見下し、神の愛と救いから除外して分け隔て、決めつけていたヨナでありました。

先週の礼拝宣教でもご紹介しましたが。沖縄を知るという人権デーにおいて大正区の「関西沖縄文庫」主宰の金城馨さんのお話をお聞きしましたが。このような事をおっしゃっていました。「正しいことを主張すると対立する。正しいことではなく間違いを正す。正しさを強調すると、大きい方、力の強い者、数の多い方が弱い側、小さい者を同化していく。だから正しさは共有できないが、間違いなら共有することができる。」何よりも沖縄の歴史を重ね合わせてそうおっしゃったのですが。
それは私たちの人間関係においても当てはまることです。自分の主義主張や正しさを押しつけるなら、相手を傷つけ、対立から争いが生じます。しかし間違っていること、おかしなことなら、「アカンもんはアカン。」それを他者と共有していく事はできるでしょう。  
そして金城さんはもう一つ、「戦争と平和は同義語」という事をおっしゃっていました。一般的な常識なら戦争と平和は反対後、対立用語です。けれど平和のためといいながら戦争をする。正義という大義のもとで戦争が実際にまかり通っているのが現実です。力や声の大きい方、数の多い方が判断基準、いわば正義になって、他は間違っていると決めつけてしまうことは非常に危ういことであります。いつの時代も愛国心、正義、美徳、聖戦のかけ声のもと、人間とは言い難いような殺戮や制裁が歴史上数知れず繰り返されてきました。
今の世界や日本の社会状況は、経済は災害や不況で閉塞し、ほんとうに多くの悩みや問題に囲まれ、現在と将来に対する不安や不満がつのっています。そう言う時に、どこか一つにならなければ的なキャンペーンによって、安心と信頼を安易に提供しようとする動きに対して、やっぱり私たちは危機感を持つ必要があります。

さて、本日の箇所に戻りますが。
海に投げ込まれたヨナでありましたが。主なる神さまはヨナを巨大な魚に命じて飲み込ませ、その命を救われました。これは主がヨナの存在を必要とみなされたということであります。彼はニネベに主の言葉を呼びかけるため立てられたのです。主の召しは変わりません。
ヨナという名前はヘブル語で「鳩」を表すそうですが。鳩といえばノアの箱舟が陸地に辿り着いた最初に、水が引き外に降り立つことが出来るかを知らせた生き物ですね。それはまさに神が虹の契約によって約束された平和を知らせるため放たれた生き物であったのです。クリスチャンでなくとも鳩といえば平和を象徴する生き物とされていますよね。そのようにこのヨナもまた、まことの平和・平安をニネベの町に発信していく使者として立てられていくのですね。

海に投げ込まれたヨナは主の深い御計画のなかで命を救われます。3日3晩魚の腹の中におかれ、そこにいなければなりませんでした。彼はもはや逃げようもなく主と一対一で向き合い、祈り続ける中で、主の御憐みに気づかされ、主に立ち帰っていくのであります。
2章10節で彼はこう告白します。「わたしは感謝の声をあげ、いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは主にこそある。」ヨナはまず主の前において整えられていく必要があったのです。
ヨナは主に立ち帰って本当の平安を見出しました。逃げたくなるような現実、逃避したくなるような重荷、しかしどんなに逃げても真の平安は決して得られません。
私どもにとってこの魚の腹の中とは、主の日の礼拝であり、また月に一度の主の晩餐といえましょう。また御言葉と祈りのうちにその力と平安が与えられます。まず、私たちそれぞれ一人ひとり、主の前に意味をもった存在として御前におかれているということを覚えながら、この恵みの礼拝に与り、この礼拝から主の平和の使者として遣わされてまいりましょう。
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