主日礼拝宣教 エレミヤ23章1-6節
本日は「まことの牧者」と題して主の言葉から聞いてまいりましょう。
先ほど読まれました23章の前の22章のところには、エレミヤが主の言葉をユダの王らに語られた言葉が記されております。2節以降「ダビデの王座に座るユダの王よ、あなたもあなたの家臣も、ここの門から入る人々も皆、主の言葉に聞け。主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え、寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。・・・もしこれらの言葉に聞き従わないならば、・・・この宮殿は必ず廃墟となる。」
さらに、エレミヤは主の言葉を語ります。13節以降「災いだ、恵みの業を行わず自分の宮殿を、正義を行わずに高殿を建て、同胞をただで働かせ、賃金を支払わない者は。・・・あなたの目も心も不当な利益を求め、無実の人の血を流し、虐げと圧政をおこなっている。」
本日23章の冒頭においては、エレミヤは「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは。」と言っていますが。この「牧者」とは誰のことでしょう。私も牧師とか言われる身なので人事ではありませんが。
古代ユダヤ社会は神の戒めと律法からなっており、宗教指導者と社会的指導者が強い結びつきをもっていました。本来ならば彼らは自ら神の御心に生きて、それを示し、民も又、神の御心を聞いて実践するなら神の平安と祝福を享受することができたのです。ところが彼らは神の御心に反し、おのが道に従ったため滅びに向かっていくのです。
今もまさに、エレミヤが主の言葉を語った時代と同様の事が世界のいたるところで起こっています。権力の暴走、戦争、搾取、収奪、無実の人の血が流されています。時代は変わろうとも神に背を向けた人間同士の争い合い、奪い合いは尽きることがありません。唯、主の言葉に聞き、従って生きるところに平和と正義があることを信じます。
今日の週報の巻頭言は、聖書教育誌10月号に記載されました西南学院大学神学部教員、金丸英子さんの言葉(一部)を紹介させていただきます。
「バプテストは『バプテスト』教会を建てるために始まったのだろうか。聖書が教えるように、首長でも宗教官僚でもなく、キリストだけを首(かしら)に戴く「キリスト」の教会を望んだのではないか。その時、復活の主との出会いの経験と神の言葉を信じる聖書への信頼だけを拠り所にし、伝統や慣習の古き衣を脱ぎ捨てて、歩み出した。バプテストの先達は、神の前に自らの足らざるを知らされていた。だからこそ、復活の主を見上げて共に生きる在り方を聖書に求め、交わりを育もうとした。そのために体制(宗教体制も含め)と相入れず、権威におもねることを「是」としなかったため疎まれ、排除された。しかし、個の内面の自由に枷をかけ、異なる声を黙らせて均一化する全体主義的な力や目論見に対しては、立場や利害を超え、時には神学や宗教の違いをさえも超えて、文字通り身を挺して「否」を唱えた。それがバプテストとしての信念、バプテスト教会の使命と信じたからである。この信念は、「自分の目で聖書を読み、自分の頭で考える方」へと私たちの背中を押し、「自分の声を取り戻して、自分の言葉で語るように」と励ます。他者にもそう励ます。そのミッションを帯びていきたいものだ。神と人とに対しても、自分自身に対しても。」
含蓄のある言葉だなあと拝見させていただきました。どのような時代、又どのような状況におかれても、神を畏れ敬い、人を真に生かす主の言葉に聞き、生きるところに真実の正義、平和があると信じます。自らを戒めるとともに、神の正義を祈り求める存在として私たちは招かれているのです。
さて、牧者といえば「羊飼い」ですね。詩編23編には、よく私たちも知っていますダビデ王の詩、賛歌が記されています。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」
ここでダビデ王は、主御自身が私をいつも養い育て、危険なものからも共にいて守り、助けてくださる真の羊飼である、と歌います。ダビデはこの主に信頼し、依り頼んで生きたのです。主を愛し、信頼し、主の御声に聞き従って、王としての務めを果すことができたのです。
ところがダビデの子であったソロモン王の後の王たちは、律法を読み直し宗教改革を断行したヨシュア王を除けば、大半の王は主の言葉に聞き従おうとはしませんでした。彼らは2節にあるように、羊の群れを散らし、追い払い、顧みることをしません。
22章にありましたように、「恵みの業を行わず自分の宮殿を、正義を行わずに高殿を建て、同胞をただで働かせ、賃金を支払わず、目も心も不当な利益を求め、無実の人の血を流し、虐げと圧政をおこなっていた」のです。王たちは権力に自分の基を置き、私利私欲のために働いていたのです。
それは祭司や預言者という宗教的指導者たちもそうでした。彼らも自らの立場を守るための御用学者、偽宗教家でした。主の言葉に聞き従うのではなく、王におもね、自らの地位をいかに築くかに心を囚われていたのです。王や宗教的指導者たちは、自ら進んでよい羊飼いとなることはありませんでした。彼らは自分たちの利益や安泰を図ることに心と思いがあったために、主の言葉を聞く耳を持たなかったのです。やがてユダの国、王や指導者たちは滅び、裁きを身に受けることになります。しかし、主はただ彼らが滅びることを望まれたのではありません。本心から立ち返って生きることを願っておられたのです。
3節「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない。」
主はこのようにその救いの回復と希望を語られるのです。それは人の知恵など到底及ばない神のご計画でありました。
4節「彼らを牧する牧者をわたしは立てる。」
なんと主御自身が、群れを散らされたところから集め、ダビデ王の時代のような繁栄を取り戻してくださるというのです。それは神を畏れ敬い、神の御心を行うことによって真に喜びに生きる社会、又世界の訪れです。この主の回復の言葉を語ることができたエレミヤの胸中は、心に覆っていた嘆きと悲しみの闇に光が差し込んで来る思いであったのではないかと想像いたします。
主は言われます。5節「見よ、このような日が来る。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。」
主は回復のための神の直接的な介入者として「正しい若枝」を起こされるのです。
この「若枝」(ネツェル)については、預言者イザヤも同じ言葉で預言しました。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず。耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い。この地の貧しい人を公平に弁護する。」(イザヤ11:1-5)
この「正しい若枝」は、神の義による統治を実現する神の知恵と知識の霊がとどまる王です。
その「王」の名は「主は我らの救い」と呼ばれる、とも言われます。名は体を表すといわれますが。それは「救いをもたらす王」であるということです。又、この「救い」は「正義」という意味をもつ言葉であることから、「正義の王」であるということです。しかしその時代の王や指導者たちも「正義のために」ということを口にするのであります。それは時に都合よく曲げられ、すり替えられ、社会的に弱い立場の人たちを見捨てていったのです。
預言者イザヤはそれに対してこの若枝である王は、目に見えるところによって裁きを行わず。耳にすることによって弁護することなく、弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護される、と語りました。人を偏り見ることなく正しい裁きをもって導く指導者、しかもいつくしみをもって弁護する「救いの王」「正義の王」を起こすと神の約束を語っているのです。
捕囚となった者も、また廃墟と化したエルサレムに取り残された者も、深い絶望感に陥っていました。しかし彼らはそういう中で、主が預言者イザヤ、又エレミヤを通して語られた「救いの王」「まことの王」の出現とその正義による民の回復に望みをおき、それぞれの地で生き抜いたのではないでしょうか。それから70年近くの後、政権はペルシャの王キュロスの手に渡ります。神はキュロスを用いてその神の約束を実現します。ユダの民は捕囚からの解放、そしてエルサレムへの帰還、さらに神殿の再建といった神への信仰復興へと導かれていくのです。
神を畏れ敬うリーダーが神に立てられ、神の愛に立ち返ることを通して、神の律法と礼拝の大切さを再確認することができたユダの人々が神の民として生きる時代が訪れるのです。しかしそれは決して平たんな道のりではありませんでした。その後も神に逆らう勢力は神の民を圧迫し、非常に厳しい迫害の時代が訪れます。再び「救いの王」「正義の王」を待ち望む切実な神への祈りが捧げられ、それが時代に翻弄される神の民の支えと希望になっていきました。そしてその後、ローマ帝国の支配と圧政、その傀儡政権の時代の最中において神の約束、「正義と恵みの業を行う」イエス・キリストが誕生されるのです。イエスの弟子たち、そして私たちキリスト教会はナザレのイエスというお方のうちに、この預言者エレミヤの言葉が実現していることを見て、信じているのです。
ヨハネ福音書10章10節「わたしが来たのは、羊が命を受けるためである。」11節、14節「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」28節「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」
それは十字架の死と復活を通して実現されました。さらに聖霊の降臨による偉大なお働きを通してもたらされたのです。
「主は我らの救い」「主は我らの正義」「主はまことの牧者」。この主に導かれる私たちも、主の正義と恵みの業がこの社会に、又世界に行われますよう祈り努めてまいりましょう。
礼拝宣教 エレミヤ書10章1~16
今日の宣教箇所、エレミヤ書10章1節~16節は一言で言えば偶像を拝むな。頼るな。真の神に信頼し立ち返りなさい。ということですが、私たちには関係がないことばのように聞こえるかも知りません。私たちは偶像を拝んだりしないからです。また私たちはまことの神様を知っています。私たちが信じている神様は天地万物を造られた創造主であり、私たちを愛して救うために、ご自分のひとり子さえも惜しまず、十字架の死に引き渡された愛なる神様であることを信じているからです。だからと言って本当に関係がないことでしょうか。
皆さんもご存知であるように偶像というものは木や金、銀で作られた目に見えるものだけではないからです。
さて、私たちは7,8、9、三ヶ月間礼拝で創世記を学びました。
創世記から今日のエレミヤ書まではかなり距離があります。これから、その間のイスラエルの歴史、その聖書の物語の流れを大まかに、覚えていきたいと思います。それによって、今日のエレミヤ書の御ことばの背景を理解することで神様の切実な思いが私たちの心に響いてくるのではないでしょうか。
創世記は旧約聖書の重要人物であるアブラハム、イサク、ヤコブとヨセフの物語でした。創世記の最後50章26節で「ヨセフは百十歳で死んだ。彼らはヨセフをエジプトでミイラにし、館に納めた。」で創世記の記事は終わります。
それではその後ヤコブの一族イスラエルの運命はどのように展開していたのでしょう。アブラハムに約束された祝福のもととなる運命を背負って生きていくイスラエルは、思いもよらない彼らの波乱万象の歴史が本格的に始まります。ヨセフもその兄弟たちもまたその時代の人々もみな死んでヨセフの知らない新しい王がエジプトに起こり、彼らの立場は一変します。奴隷のように扱われます。その理由は増え続ける彼らの民の数と彼らの強さに恐れたからです。ここで神様がアブラハムに約束された御ことばが実現されていることに心を留めたいと思います。あなたの子孫を星のように、海辺の砂のように、数えきれないほど、おびただしく増やすということと、あなたの子孫は自分たちのものでない国で寄留者となり、奴隷になって、彼らは四百年間苦しめられる。という神様の計画のなかで預言通りになっています。ここで、私たちは神様の語られた御ことばはその通りになることを覚えたいと思います。それと、神様はご自分の民を苦しんでいるまま放置される方では決してありません。
出エジプト記2章23節~25節まで読みますと、「それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。イスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。」と書いてあります。そこで神様はその民をエジプトから救い出すために先立準備された者、ミデヤンの地で羊を飼っているモーセを呼び出し遣わします。モーセを通して全能の神様の方法でエジプトから連れ出したご自分の民を今度は荒野で養い律法を与え神様の民として、生きる道を教え訓練をします。
レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記の内容をみますと、神様はイスラエルに異邦人の中で選民として、どう生きるべきかを徹底的に教え込みます。してはならないことと、しなければならないことを事細かく、念入りに教えます。神様の厳しさがここにありますが、その厳しさは子どもの幸せを願って止まない父の愛が根底にあるからです。神様の厳しさを知ればしるほど、私たちは神様の愛の深さ、その哀れみを覚えられます。本当の意味で十字架の恵みの深さが覚えられます。
創世記50章24節でヨセフが死ぬ前兄弟たちに神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。と言ったように、イスラエルは40年間荒野で生活を経てやがて約束の地カナン地に入ります。神様は荒野で彼らにエジプトから連れ出してくださった神様だけに信頼し、頼り、仕えるように訓練させましだが、彼らの信仰はこのカナン地でどうなっていくのでしょう。モーセの次の者ヨシュアによってカナンの地を征服しその地に定着し始めたイスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、主がイスラエルに行われたすべでのわざを知っていた長老たちの生きている間は主に仕えたと書いてあります。
士師記によれば、その後に主を知らず、主がイスラエルのためにされたわざも知らない他の世代が起こって主の前に悪を行い、バアルに仕えます。彼らはエジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、彼らの周りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、主を怒らせます。
イスラエルの歴史はこういうことの繰り返しでした。列王記に記録されているようにほとんどの王たちは偶像崇拝と周りの強い国に頼るだけではなく、あらゆる悪を行い、神様の前に不信仰の罪を犯します。その度に神様は預言者を遣わし、悔い改めて立ち返るように警告をします。繰り返し、繰り返し、哀れみの神様は忍耐の限りを尽くし預言者の口を通して警告しても、彼らは聞きませんでした。
その預言者の一人エレミヤも、今日の聖書箇所で国の滅亡を前にして悲痛な思いで神様から頂いたことばを伝えますが、彼らは頑なに聞きませんでした。
結局、ソロモン王の後、北イスラエル王国と南ユタ王国、二つに分断された国は、北イスラエルはアッシリアに捕虜になって連れて行かれます。ユタ王国はバビロンの捕囚になって連れて行かれます。
預言者たちの預言通りに彼らは裁かれました。しかし、裁きは裁くだけで終わりません。主は愛する者を懲らしめるという御ことばがあるように、裁きは神様の愛から出たもので、悔い改めて救われることを前提とした建設的なもので、そこには希望があります。
エレミヤ書29章:11~14節にこう書いています。耳に慣れた御ことばかも知りません。「わたしはあなたがたのためにたてている計画をよく知っているからだ。―主の御告げーそれはわざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを探し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。-主の御告げーわたしは、あなたがたの繁栄を元通りにし、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々とすべての場所から、あなたがたを集める。-主の御告げーわたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」
このところから教えられることは、―現実は厳しく暗く思われることがあっても、物事を肯定的に前向きに考えて現実から逃げたりせず、疑わず、恐れず、私たちを救ってくださった神様に、全面的に信頼して、どんなときにも希望を持つ大切さです。
今日創世記後出エジプト記からエレミヤ書のところまで簡単に話しをしました。
それでは本文エレミヤ書10章1~16まで所々を読ませていただいて結論に入ります。「イスラエルの家よ。主があなたがたに語られたことばを聞け。異邦人の道を見習うな。国々の習わしはむなしいからだ。そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ。主よ。あなたに並ぶ者はありません。
あなたは大いなる方。あなたの御名は、力ある大いなるものです。主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のために稲妻を造り、その倉から風を出される。ヤコブの分け前はこんなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。その御名は万軍の主である。」アーメンです。
今日の御ことばは、その時代の選民として神様に結ばれたイスラエルの人たちに向けられたものでありますが、今日私たちにも、また広くはすべての人にも共通のメッセジーであります。
人は神様の恵みによって信仰が与えられ、救われていなければ、霊的に盲目状態です。救われて霊の目が開かないと、何でも信じる価値がないものでも、いとも簡単に信じてしまいます。何の力もない。わざわいも幸いも下せないものを恐れたりします。私たちも経験してきたことではないでしょうか。
もし、この場に神様を知らない方がいらっしゃいましたら、これだけは覚えていただきたいと思います。主イエスキリスト以外にどんな宗教にも罪の赦しと救い、永遠の命のことばはありません。それに肝心な人生の指針がありません。
人々は誰もが幸せな人生を願います。ここで覚えたいのは、神様も私たちが幸せであるように、誰よりも願っておられることです。そのために、私たちに救い主御子イエスキリストが与えられています。私たちに御ことばが与えられています。天地万物を造り、私たちを救ってくださった真の神様に信頼して、その御ことばに従うことが、私たちの人生を最も価値ある豊かなものにしてくれます。
イスラエルは自分たちをエジプトの奴隷から救ってくださった神様を忘れました。捨てました。と書いてありますが、私たちは、御子イエスキリストの血の対価を払ってご自分の子どもにしてくださった父なる神様をどんなときにも忘れず、信頼していきましょう。この世のものに頼らず、自分に頼らず、まことの神様だけに頼って生きていきましょう。
最後にイザヤ書55章1~3節までの御ことばをもって今日の宣教を終わらせていただきます。
「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために、労するのか。
わたしに聞き従い、良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。」
2024年10月20日 橋本知映
主日礼拝宣教 エレミヤ7章1-11節
先週の礼拝からエレミヤ書が読まれ、その1章のエレミヤの召命の記事より御言葉を聞きました。その後の2章~6章では南ユダの人々の罪に対する指摘と、悔い改めなければエルサレムの都は陥落し、滅びることになるとの警告が、語られています。さらに5章にはエルサレムの陥落した民の様相が描かれていますが。その1節「エルサレムの通りを巡りよく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか正義を行い、真実を求める者がいれば、わたしはエルサレムをゆるそう。」と神は言われますがそれを見出すことができません。31節には「預言者は偽りを預言し祭司はその手に富をかき集めわたしの民はそれを喜んでいる。」このように地方からの巡礼者をいわば食い物にする人々の姿があります。さらに6章13—14節「身分の低い者から高い者に至るまで皆、利をむさぼり預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民に破滅を手軽に治療して平和がないのに、『平和、平和』と言う。彼らは忌むべきことをして恥をさらした。」このように南ユダの現状は神の前に惨たんたるものであったのであります。
立派な神殿が築かれた都エルサレムは、大国の脅威にさらされながらも一見平穏に映ります。けれども神さまの目にはすべてが明らかです。人々は神への背信によって戒めを破り、危機的状況であるにも拘わらず偽預言者や祭司たちは「平和、平和」と人々に偽りの平安を語っていました。
何が偽りかといいますと、神の御心を尋ねようとはせず、気安く主が守って下さる、主の神殿があるのだからエルサレムは大丈夫と安価な恵みを語り、祭りごとを行って富をかき集めていたのです。繫栄した社会に浸ってきた民衆の心は神から離れ、民の指導者たちの言葉に喜んで聞き従っていました。それは耳触りの良い言葉であったからです。権力者や富裕層は自分たちの生活のために地方の人々や外国人たちを搾取し、私腹を肥やしていました。風紀は乱れ、神ならざるものを崇拝する偶像礼拝がはびこっていました。孤児や寡婦、寄留の外国人は虐げられ、無実の人の血が流され、神ならざるものが崇拝される世の中。それは神さまの目には悪と映りました。
さて、エレミヤが主の言葉を語った人々は、「主を礼拝するために神殿の門を入って行くユダの人々」でした。エレミヤはその人々に向けて、「主の言葉を聞け」と訴え、「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」と主の言葉を告げます。
人々が荘厳で立派な神殿にお参りに行くようなことをいくら形式的に行ったとしても、神は喜ばれませんでした。神が望んでおられたのは、悔いて改める心、砕かれた霊でした。かつて先祖たちを滅びの国から導き出し神の民としてくださった主なる神への真の悔改めと感謝、その生きた交わりを神は待っておられたのです。いくら神殿に出入りしても、神の前に改まった人生の歩みにつながらないのならば、それは虚しいものでしかありません。
まあ人々はおまじないのように「主の神殿、主の神殿、主の神殿」と言っていたようですが。この言葉はかつて先の預言者イザヤの時代、南ユダの国がバビロン帝国の王の進攻に遭い、町がことごとく占領され、最後に残ったエルサレムも包囲されるのですが。しかし神はその王の心を変えさせて、エルサレムとその神殿だけは残ったのですが。そのところから生まれた言葉でした。
南ユダの指導者はじめ民衆は、自分たちの神の前におけるふるまいを認めようともせず、もはや迷信のようにそれをただ唱えていたのです。偽預言者たちが「主の神殿、主の神殿、主の神殿」と唱えればエルサレムは「神がおられ、神殿があるから我々も滅びることなどない」との不滅神話となったのです。
けれども、それは主なる神さまに対する信仰ではなく、神殿という建物に対する盲信でありました。神殿は神ではありません。よく「〇〇神社は〇〇のご利益がある」とか、最近は「〇〇パワースポット」とか言うそうですが。神殿が何か救いや平安を保証してくれるのではありません。
その神殿が建てられた時ソロモン王はこう祈りました。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」(列王記上8章27節)
神殿もこの私たちの教会堂も、それを神聖なものとされるのは神さまご自身です。神殿そのものを信仰の対象として神格化することは、神さまがお嫌いになられる偶像崇拝です。
それでも私たちが共に集まりますのは、主の日(日曜日)に礼拝を捧げ、水曜日には祈祷会で聖書を学び、祈り合う。神の前に信仰が確かなものとされ、共に主の救い、福音を喜び分かち合うためです。それは又、日常生活で心疲れ、重荷を抱えている中で霊的にガス欠にならないように魂に霊の油を給油する貴重な時であるからです。ただ「主の神殿」と唱えても、そのように神の前に出るのでなければそれは虚しいものです。
さて、この当時、礼拝するためにソロモンの神殿の門に入いることができる人たちは限られていました。預言者や祭司をはじめ、主にエルサレムの権力者や富裕層たちでした。
エレミヤは神殿の門をくぐることのできた人々に対してこう告げます。5-6節「この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。」
神は彼らに正義を求め、呼びかけておられたのです。
ところで主イエスは、「神殿から商人を追い出す」いわゆる「宮清め」と言われる記事(マタイ21章他)で、「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところがあなたたちは、それを強盗の巣にしている」とあります。これは預言者イザヤ(56章7節)、そしてエレミヤが取り次いだ主の言葉(エレミヤ書7章11節)を用いて、主イエスは宮きよめをなさったのです。
神殿の境内には遠方から礼拝を捧げるために大変な旅をして来た巡礼者から、ささげ物などを高額な値段で売りつける商売人や両替商。場所代や出店の権利をまきあげる宮仕えがいました。主イエスは「わたしの父の家を強盗の巣にしている」とお叱りになり、その台をひっくり返し、神殿から彼らを追い出しました。この場面の主イエスの行動は実に激しく厳しいものでありました。
神殿は祈りの家、神の前に立ち帰って自らの行いを省み、悔改めとゆるしの宣言に与って、その感謝をもって御心に生きようと方向転換する、そのような場であることを明らかにされるのです。
先の5章の「エルサレムの通りを巡りよく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか正義を行い、真実を求める者が」と、主がエレミヤに問いかけた言葉を読みましたが。主の神殿の門をくぐる人たちに本当に求められていることは、彼らが目を覚まし、神に立ち返って不正や搾取をやめ、隣人愛をもって神の平和を追い求める生き方でした。しかしいくら神殿の門をくぐっても彼らの日常は不義に満ちていました。
ところで、神殿の時間と日常の生活とが切り離されている様子を「サンデークリスチャン」と言うそうですが。聖書の言葉を開くものの、その場限りに終わって日曜日の礼拝に出席していれば大丈夫、安心だ、という安全神話になりますと大変です。
大切なのは、主の救いを忘れることなく思い起こし、希望を戴き、感謝と喜びに与ることです。耳の痛い話でも心探られて立ち返って、御心に歩む人を神は喜び迎えて入れてくださいます。
逆に、教会堂から一歩外に出ると、もう神さまとの関りのない別の世界に切り替わってしまうのであれば、それは残念なことです。もしその行動が不正や暴力、又無慈悲なものであるのなら、もはや躓きでしかありません。争いを仕掛けながら人前で十字を切って見せるような指導者の映像がテレビで流れましたが。何よりも主なる神さまはすべてをご存じです。神を畏れ敬う人はその行いも自ずと正されるでしょう。
始めにも申しましたが、この南ユダの時代は大国の脅威にさらされながら、いつ滅ぼされるかわからないような危機に瀕していました。にもかかわらず、偽預言者らは「主の神殿」があるのだから大丈夫だとかたり、礼拝に来る人たちに偽りの平和を告げ、権力者や富裕層の人たちの不正や搾取に対して見て見ぬふりをしていました。
エレミヤは、真の神は義であり聖なるお方であられる、主に立ち返って生きなければ、滅びる」と御言葉をまっすぐに語りましたが、偽預言者たちは「平和、平安」と口にしました。それは一時は民を安心させたかも知れませんが、偽りに過ぎなかったので結局民は悔い改めることなく、結果的に滅びを招くことになります。又、神殿の祭司たちは状況を知りながら神殿参りに来る人々から奉納金を集め保身に走っていました。
偽預言者、祭司、神殿の門をくぐる指導者や裕福な人々は皆それぞれにもたれ合いながら、主の神殿を私利私欲、自分たちの保身の道具として利用していました。その状況をご覧になられた主なる神さまは、「わたし名によって呼ばれる神殿が強盗の巣窟に見える」と言われたのです。それは人から信仰もお金も平和もあらゆるものを奪う強盗という意味であります。どうしてそうなってしまったのでしょう。それは神を畏れ敬う心を忘れ去っていたからです。
本来の「主の名による神殿」とはどのようなところでしょうか。
それはユダの人々にとっても、又私たちにとりましても、悔い改め神に立ち返り、救いの確認を頂いて感謝と喜びに溢れ、神の御心に沿う御言葉を生きる場であります。先にも申しましたように、生ける主は人の造った建物に住まわれる方ではありません。それにも拘わらず神さまは、私たち人間と共にいる決断をされたのです。それが遂に救いの主、イエス・キリストを通して実現されたのです。
ヨハネ福音書1章にはこうあります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」神の生ける言(ことば)。イエス・キリストが人の姿となって来てくださった。だれでもこの救いの主なる方を迎え入れるなら、その人は「神の神殿」(Ⅰコリント3章16節)なのです。神は御独り子イエスさまをお与えになるほどに、罪に滅ぶほかない私たちを愛されています。人はこの神の慈愛を迎え入れ立ち返って生きるところに、人本来の幸いと平和を得ることができるのです。罪に滅びることがないためです。
最後になりますが。エレミヤは神の裁きの言葉を臆することなく示し続けました。世間の人がどう思うか、どう人に見られるかではなく、主の言葉を聞き、誠実に御言葉を伝えたのです。キリスト者も又、人がどうとか、周囲がどうかではなく、主の言葉に聞き従って「これは本当だ」という主の御心を示す者とされているのであります。それは語ることだけに限ったことではありません。語る言葉の少ない方はそのしぐさや存在そのものを通して、「神が生きておられる」ことを示しておられるのです。いずれにせよ、主は私たちの存在を通してその主の御心を示し、表そうとなさっておられます。
主イエスは最も重要な掟についてこう仰せになりました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、あなたの神である主を愛しなさい。」同じように「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22章他)この喜ばしい命の言葉をキリスト者として生きるようにと、招かれています。
今日、私たちも又、「主の言葉を聞け」と、エレミヤを通して主の語りかけを聞きました。実にこの主の言葉とは、神の救いの道イエス・キリストご自身であります。真の幸いに至るイエス・キリストの真理の道を歩んで魂に安らぎを得、本物の平和、シャロームの実現を共に待ち望み、祈り求めてまいりましょう。
礼拝宣教 エレミヤ1章1~12節
本日から約2カ月に亘ってエレミヤ書から御言葉に聞いていきます。
まず、このエレミヤについてですが。彼が預言者として立てられ、活動した時期については1章1節から4節までに記されております。ヨシヤ王が南ユダを統治していた13年目の紀元前626年に彼は主の言葉によって預言者として立てられます。そのヨシヤ王の時代は神の教えと戒めが読み直されたいわゆる宗教改革によって平安と繁栄が保たれていました。ところがヨシヤの子ヨヤキム王の時代になると国民(くにたみ)は主の教えを忘れ逆らい、腐敗していくのです。そして、次のゼデキア王の時代には遂に南ユダ王国がバビロン帝国に滅ぼされ、南ユダ王国、そして都エルサレムはバビロン帝国によって滅ぼされてしまうのです。エレミヤは捕囚の民となる紀元前586年までの実に40年間に亘り、そのような激動の時代を主の預言者として活動したのです。
この預言者エレミヤの召命については、いくつかの特徴的な面を見ることができます。
それは、まず4節に「主の言葉がわたしに臨んだ」と記されていますように、エレミヤの預言者としての召命は、彼が自分からやりたくて求めたものではなく、又人から与えられたり、勧められたりしたものでもないということです。主ご自身が彼を召し出し、使命を与えた。しかもそれは、昨日今日決まったというものではなく、5節に「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」とありますように、エレミヤが生れる前からなんと主が計画なさり、預言者となるためにエレミヤは世に生れて来たのです。
詩編139編ダビデの詩にはこのような賛歌が記されています。
「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている。秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている、まだその一日も造られないうちから。」
それはエレミヤだけではなく、私たち一人一人もまた、天地万物をお造りになられた主なる神さまが、母の胎内に私を造り、私のことを知ってくださり、ご計画をもって地上に送り出しておられるということです。
私たちがイエス・キリストのみ救いを信じ、新生の命に与ったことも、聖書には「神のご計画によって召された」とあります。「いや、私はそのような者ではない」とお思いになる方もいらっしゃるかも知れません。エレミヤもそうでした。
現代の社会において、多くの人が自分の存在意義を見出すことができず、苦しんでいるといえます。仕事や学問の成績が良いか悪いか。周囲の見た目や、地位や肩書き、お金があるかないか。そういうことで常に計り計られています。この社会ではそれらがあたかも人としての存在の意義であるかのように評されていることが、往々にしてあるのではないでしょうか。
聖書は私たちが存在している意義や価値をそうしたこの世の基準や評価によらず、創造主であられる神さまが母の胎内にいるときからあなたを造り、あなたのことを知っていてくださり、母の胎から産まれ出てからも、あなたと共にいて、この地上の人生を歩み行くものとしてくださるのです。
「青春の日々にこそ、おまえの創造主に心を留めよ。」あなたの若き日に、あなたの創造主を覚えよ」(コへレト12章)と聖書の言葉がありますが。まあ昔とは違うでしょうから70~80歳が青春であってよいわけです。大切なのは、今、この光のあるうちに光の中を歩むように、救いの神をほめたたえつつ、恵みに応えて生きる。その証しの日々に私たちが存在し、生かされている。これが良き知らせ、福音なのです。
主はエレミヤに、5節「わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた」と語られます。
「聖別する。」それは、特別な目的のために取りわけておくということです。エレミヤが清いとか、聖なる者であったからというのではなく、主がエレミヤを諸国民の預言者としてお立てになるために、主自らエレミヤをその使命のために聖別されたのです。
その主の言葉に対してエレミヤはこう答えます。
6節「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者に過ぎませんから。」エレミヤはためらい、自分には相応しくありませんと、何とか逃れようとするのです。ちなみにエレミヤは「若者に過ぎないので、語る言葉を知りません」とも言っていますが。彼は当時少なくとも20歳にはなっていただろうということですから、単に年齢的に若いということではありません。自分のような若輩者にはあまりにその使命は重く大きすぎるという恐れの思いがあったのでしょう。それはエレミヤより少し前の預言者イザヤも主の召命にあたり、「災いだ、わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者」と答えているのです。又、出エジプトのために立てられたモーセも、「ああ、主よ、わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕に言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌が重い者なのです」とやはり答えました。
共通するのは、彼らが聖なる主への畏れを持つ人であったということです。又、その担うべきものがあまりに重く、自分の才能や能力によっては到底務めることなどできないという誠実さからくるものでありました。私なら出来と考えている人は、往々にして高慢と貪欲なために主がお用いになることができないのです。
さて、主はエレミヤに語りかけます。
「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す。」
主も引き下がりません。
ここで大切なのは、「主が共におられる」という確約、約束です。「主が共におられる」ことを頼みとし、杖としていく人を主はゆたかにお用いになられるのです。主はエレミヤを南ユダだけでなく、諸国民の預言者として立つよう任命されます。
そして主はエレミヤに「手を伸ばして、その口に触れ、『見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける』と約束されます。主が必要な言葉を与え、共にいて必ず救い出す。そう仰せになります。
さて、そのエレミヤに思いもよらぬ主の言葉が臨みます。
「見よ、今日、あなたに諸国民、諸国王に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」
預言者エレミヤの生きた時代は、シリアや南ユダを含むパレスチナ地方一体の支配権をめぐり、大国エジプトとバビロンが争う中におかれていました。南ユダはエジプトと安全保障同盟のような関係を結ぼうとしますが、それは神の御心ではありませんでした。神は国民(くにたみ)が立ち返って神に信頼するよう預言者を通して語りかけます。エレミヤはエジプトに頼ればバビロンの反感を買い南ユダの滅びに繋がると王と民に訴えるのです。何だか昨今の情勢にも重なる話のようですが。
しかし、南ユダの国民は聞き入れられるどころか、エレミヤは多くの民から売国奴のようにみなされるのです。それでもエレミヤは主の御言葉に立ち、屈することなく、「主に立ち帰れ、戦争のための同盟に加わるなら南ユダは滅びる」と、警告を強く語り続けるのです。次第にエレミヤに対する非難中傷が激化し、彼の兄弟や親戚にもその被害が及ぶような危機にさらされていきます。
それでもエレミヤは最後の最後まで南ユダの国民に向け、「主に立ち帰らなければ、この国は滅ぶ」と訴え続けましたが。南ユダの王はじめ民はエレミヤの語る主の言葉に聞き従うことはありませんでした。そうしてまさに紀元前586年、主の預言のとおり南ユダの国は陥落してしまうのです。
それは「滅び」としかいいようのないものでした。主の言葉を語った預言者エレミヤの働きは無意味であったのでしょうか。
エレミヤに臨んだ主の言葉をもう一度よく読んでみましょう。
「見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」
確かにエレミヤの語った主の言葉は南ユダの国で現実となり、抜かれ、壊され、滅ぼされ、破壊さ
れました。
しかし、ここに「建て、植えるために」と、あります。崩壊と滅びの中においても、エレミヤの蒔
いた主の言葉は虚しく無くなったのではなく、やがてその来たるべき時、滅亡を免れた残りの人々
の間に主の言葉は芽を吹き、南ユダの国のみならず、世界に実りをもたらしていくのです。その預
言通り長い時を経てエルサレムへの帰還と信仰復興による神殿再建の時が訪れるのです。
11節、主はエレミヤにアーモンド(シャーケード)の枝を指し示して語りかけます。
「エレミヤよ、何が見えるか。」そこにはまだ実りの無いアーモンドの枝だけがエレミヤの目に映ります。
そのアーモンドは枝だけで実りの気配すらありません。アーモンドの木は枯れたように見えるその枝に、ある日突然ピンクの花を一斉に咲かせ、実をつけるそうです。当時の腐敗し滅亡せざるを得なかった南ユダの状況は実りの無いアーモンドの枝のようでした。
しかし、崩壊と共に捕囚の民の厳しい冬を耐え忍んだアーモンドの木が春の訪れと共にその枝に一斉に花を咲かせ、やがてアーモンドの果実を豊かに実らせるように、エレミヤを通して蒔かれた神の約束の言葉は、長い捕囚の民の生活を支え、解放とエルサレム帰還を経て実を結んでいくのです。
主なる神さまは12節にあるとおり、これからエレミヤを通して語られる言葉が成し遂げられるように見張っている(ショーケード)とおっしゃるのです。アーモンドは「シャーケード」、見張っているは「ショーケード」と、どちらも似ていますが。何かニューモラスにも思えますが。アーモンドの実はアーモンドの形が「目」に似ていることから、目にたとえられてもいるそうです。人々が何と悪い時代だ、逆に良い時代だと思っていても、神は見ておられる、見張っておられるのです。南ユダの民は滅びてしまったかに見えました。しかし、エレミヤを通して語られた神の言葉はバビロンから南ユダの民を帰還させ、荒廃したユダの地を植えなおし、信仰の復興がなされるのです。
確かにエレミヤが語った主の言葉は実現いたします。
エレミヤは「涙の預言者」と称されていますように。その生涯は、主の言葉を伝えても同胞の民から拒絶され、行く末を案じては憂い、涙する日でありました。けれどその語った神の言葉はそのエレミヤ自身の名が表すとおり、「主が建てたもう」という復興の実現として結実したのです。希望の種、御言葉を蒔き続けたエレミヤの人生でありました。
最後になりますが、本日は「誕生と使命」という題をつけました。
この世に生まれたのならば、何かを世に遺して人生を終えたいと考える人は少なくないでしょう。内村鑑三氏は「後世への最大遺物」「デンマルク国の話す」(岩波文庫)という本が著され、世の多くの人に読まれ続けています。
それは、当時の若い人たちのみならず、万民にむけても語られている内容であるからです。世で起した業績、地位や名誉、財産を遺せる人は一部でしょうが。すべての人が後世へ残せるものについて内村氏は、「高尚なる生涯」だと語っています。
エレミヤにとっての後世への最大遺物は、彼が命をかけて主の言葉にどこまでも聞き、それを伝えつつ生きていったその神聖にして高尚な生涯でありました。しかし、後世の最大遺物それは、何もエレミヤ、内村氏に限ったことではなく、すべての人びとのうちに主が託しておられることなのです。
それは世に生まれた者誰もは、天から与えられた使命が与えられているのです。私たちひとり一人が何のために誕生し、今を生き、存在しているのかを、今日の聖書の言葉から思いめぐらしつつ、ここから歩みだしていきたいと思います。