宣教 イザヤ章9章1~6節
キリスト教会歴では本日から「世界の救い主御子イエス・キリスト」のご降誕を待ち望んで過ごすアドヴェント、待降節に入りました。又、本日は世界宣教をおぼえての「世界祈祷週間」の礼拝として捧げられています。バプテスト女性連合が主にこの働きを担ってまいりましたことから、今日は女性会の方々のご奉仕によって礼拝プログラムが進められています。
クリスマスを迎えていくこの時、世界中のすべての人々の救い主としてイエス・キリストがお生まれになられたことに感謝しつつ、この福音を私たちの身近な方をはじめ、すべての神に造られた人々に伝え、証し、分かち合っていくように私たちは招かれております。今日はそのために世界宣教の働きに遣わされている方々をおぼえて祈り、その働きのためにささげていきたいと願っております。
本日はイザヤ書9章より「平和の君誕生の預言」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
まず、この9章の預言が語られたのは、北イスラエル王国が強大なアッシリア帝国の勢力に撃ち滅ぼされた、そのような時代でありました。8章の終わりに「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが云々」と記されてありますが。北イスラエルに属したゼブルンとナフタリの地はアッシリア軍に占領され、植民地とされ「闇の中を歩む民」「死の陰の地に住む者」とされたのです。一方南イスラエルのユダの国の人々もまた、いずれそれが自分たちのこととなるのではなかろうか、という恐れと脅威にさらされる危機的状況でありました。
この預言者イザヤは当時のアハズ王のもと宮廷に祭司として仕えていたのですが、このアハズというのがいわゆる悪王でして、アッシリアに神殿の宝を贈物として助けを乞いたり、シリアから異教の祭壇と祭祀とを輸入し、神さまが厭われるような事をことごとく行い、ユダの民の心が主の愛から迷い出てしまうような状況を招いていきます。
イザヤはユダの人々の行く末を案じ祈る中、本日のこの預言のメッセージを受けとっていくのです。そういう背景の中で悪王といわれたアハズ王に代わってその王位を継承し即位したのが、その子ヒゼキヤでありました。ユダの人々をアッシリアの脅威から解放し、大いなる力をもって敵を打ち破り、民を導く新しい王が到来したとイザヤは期待し、この預言の言葉を人々に語っていったのかも知れません。
実際ヒゼキヤは王に即位してすぐに民がイスラエルの神に立ち帰るために「宗教改革」を行います。高き所を取り除き、石柱を破壊し、アシュラ像を切り倒し、異教礼拝をユダの中から徹底的に排除します。それがユダの国を再建し堅固にすることになると考えたからです。真の神さまに依り頼んでいくことにこそ力があると、信じたからです。
しかしヒゼキヤはその後アッシリアの勢力に対抗していくため他国と軍事的同盟を結ぼうとします。けれどもそれは神の御心ではありませんでした。主はイザヤを通して、そのような世の権力や人の力を杖として寄りかかるのではなく、主なる神ご自身を頼みとするように促されます。
8章12節13節で、主はイザヤを通してこう言われています。
「あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。」
しかし結局南ユダはエジプトと軍事同盟を結び、それが結果的にアッシリアを強く刺激することとなり、遂にすごい勢いでアッシリア軍がユダに攻めのぼってくることになるのです。
そこでヒゼキヤは和平を願いアッシリア王に膨大な宥めの貢物を贈るのでありますが、アッシリアの王はそれを受け入れず、ユダを滅ぼし尽くすことを伝え、ユダは危機的状況に追い込まれます。そこでヒゼキヤは主なる神に向かって叫び、祈り訴えますと、主はイザヤを通してその祈りを聞かれたことを告げられます。彼はこの事態に及んで主の信仰を呼び覚まされ、主に心から祈るのですね。
すると、イザヤを通して語られたとおり、ユダを破壊しるため目前まで迫っていたアッシリア軍は、アッシリアに急遽起こったアクシデントによってユダから撤退していくのであります。こうしてユダの平和は人の力や策略、武力によるのではなく、主なる神ご自身の御計らいによって守られるのであります。
本日の9章3節以降に、「彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を、あなたはミディアンの日のように折ってくださった」とありますが。それはかつて士師、神の勇士ギデオンが敵を打ち破りイスラエルに解放をもたらした日のことで、民に解放をもたらすのは主なる神ご自身であられるということをいっているわけです。
「地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく、火に投げ込まれ、焼き尽くされた」。ユダの壊滅的危機を救ったのは軍事同盟を図ったり、権力おもねる世的力ではなく、主なる生ける神であられるのです。
はじめに申しましたように、イザヤは南ユダに平和をもたらす立派な王を期待していました。その中で5節以降にある啓示を神から示されます。
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」。
イザヤはヒゼキヤ王こそ相応しい指導者であり、ユダに平和をもたらすものであると期待します。確かにヒゼキヤはユダにおいて貴重なよい王の部類に入る立派な人物であったでしょう。けれどもそれがどんなに立派な人だったとしても、ここで示されるような真の平和を実現する者とはなり得ません。なぜならその平和とは、1節にありますように」、ユダの人々だけでなく、アッシリアに支配され屈辱を味わっているゼブルンの地、ナフタリの地、遠く異邦の民にまで及ぶものであるからです。南ユダという限定的な場所での平和なのではなく、異邦人のガリラヤにまで及ぶ平和。それはいわば全世界にもたらされる平和であります。
「闇の中をさまよう人々は大いなる光を見、死の陰の地に住むような者の上に、光が輝く」、そのような解放と救いをもたらす君が与えられる。これは時を超え、世界に発せられる壮大なスケールの預言なのであります。
そしてこのイザヤ書9章の預言の言葉は、イザヤの時代から実に700年の時を経て遂に、イエス・キリストの誕生によって実現されていくのであります。
イエスさまは、ユダの中心地エルサレムの中ではなく、異邦人の地ガリラヤから伝道を開始されました。マタイ福音書4章14節以降には、「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大いなる光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」と今日のこのイザヤ書が引用され、イエスさまご自身、カファルナウムに住んでそこを拠点に、異邦人のガリラヤやその周辺で神の国を宣べ伝えられたのですが、それはこのイザヤの預言が実現されるためであった、と記されています。
イエスさまの時代のガリラヤの地に住む人々は、都エルサレムを中心にしていたユダヤの人々からは異教の地、異邦人の地と呼ばれ、神の救いから外れた人々として差別と偏見の目でみられていました。しかしイエスさまは神の国とその解放と救いの福音をこのガリラヤの地に住む人々の間に住まわれ、そこからから福音を宣べ伝えられていったのであります。
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」。
本日はアドヴェント第一節と世界祈祷週間をおぼえての礼拝を捧げておりますが。先程日本バプテスト連盟からアジア、アフリカの地に派遣されている宣教師の方々や主の和解と救いの福音を伝える具体的な働きのご紹介がありました。
私たちのバプテスト連盟がアジアの諸国に宣教師や働き人を送ったり、様々な活動を支援するのは、ただ一方的に押し売り的伝道をするためではありません。
そこには、日本がかつてアジアの近隣諸国を戦争によって侵略し、植民地下してあたえた計り難い苦痛やその行為への深い悔改めを派遣の地において表明し、イエス・キリストにある平和と和解の福音を共に分ち合っていくことにあります。そのためにシンガポールやインドネシア、それと一昨年までタイにも宣教師や神学スタッフを派遣しています。又、さらに遠く主の愛を分かち合うべく、インドのプリ子どもの家は貧困のために教育が受けられない子どもたちのための支援の輪であります。アフリカのルワンダには国際ミッションボランティアとして佐々木和之さんが派遣され、キリストにある平和と和解の尊い働きが積み重ねられてきております。この10月からはカンボジアに宣教師が派遣されました。又、BWAidc世界バプテスト連盟救援委員会との協働の働きも尊いものです。これらはまさに、「平和の君」であるイエス・キリストによって、闇の中をさまよう外ない私たちが光を見、光によっていのち輝く者とされた証しであり、主イエスが今も全世界の平和の君、インマヌエル、共におられる主としてその体なる教会に生きて働かれているしるしであります。これからも共にキリストの平和と和解の御業のために祈り、その働きに与っていきたいと願うものです。
同時に、世界というのは、私たちの身近なところにおいて地道にイエス・キリストの光を灯していくことでもございます。沖縄にある問題や福島をはじめ被災地の現状。身近な家族、友人や知人、近隣や地域の中で、悩み苦しみ、助けを必要としている方がおられます。主イエスはそのところにも「正義と恵みのみ業」がもたらされことを願われ、その働きを私たちに託しておられるのです。
私たちは時に問題の大きさに無力さを感じ、自分の小ささを嘆きそうになります。けれど、マザーテレサさんは次のような名言を残されました。
「大切なのか、どれだけたくさんのことをしたかではなく、どれだけ心を込めたかです」。
主イエスは事の大きい小さいではなく、そこに込められた愛と献身を喜び祝し用いてくださるお方なのです。このクリスマスに向かうアドヴェントの時期、福音の祝福が世界の至るところでより一層豊かに分かち合われますように、平和の君イエス・キリストの御名によって祈ります。さあ明日から12月です、ここから遣わされてまいりましょう。
キリスト教会歴では本日から「世界の救い主御子イエス・キリスト」のご降誕を待ち望んで過ごすアドヴェント、待降節に入りました。又、本日は世界宣教をおぼえての「世界祈祷週間」の礼拝として捧げられています。バプテスト女性連合が主にこの働きを担ってまいりましたことから、今日は女性会の方々のご奉仕によって礼拝プログラムが進められています。
クリスマスを迎えていくこの時、世界中のすべての人々の救い主としてイエス・キリストがお生まれになられたことに感謝しつつ、この福音を私たちの身近な方をはじめ、すべての神に造られた人々に伝え、証し、分かち合っていくように私たちは招かれております。今日はそのために世界宣教の働きに遣わされている方々をおぼえて祈り、その働きのためにささげていきたいと願っております。
本日はイザヤ書9章より「平和の君誕生の預言」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
まず、この9章の預言が語られたのは、北イスラエル王国が強大なアッシリア帝国の勢力に撃ち滅ぼされた、そのような時代でありました。8章の終わりに「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが云々」と記されてありますが。北イスラエルに属したゼブルンとナフタリの地はアッシリア軍に占領され、植民地とされ「闇の中を歩む民」「死の陰の地に住む者」とされたのです。一方南イスラエルのユダの国の人々もまた、いずれそれが自分たちのこととなるのではなかろうか、という恐れと脅威にさらされる危機的状況でありました。
この預言者イザヤは当時のアハズ王のもと宮廷に祭司として仕えていたのですが、このアハズというのがいわゆる悪王でして、アッシリアに神殿の宝を贈物として助けを乞いたり、シリアから異教の祭壇と祭祀とを輸入し、神さまが厭われるような事をことごとく行い、ユダの民の心が主の愛から迷い出てしまうような状況を招いていきます。
イザヤはユダの人々の行く末を案じ祈る中、本日のこの預言のメッセージを受けとっていくのです。そういう背景の中で悪王といわれたアハズ王に代わってその王位を継承し即位したのが、その子ヒゼキヤでありました。ユダの人々をアッシリアの脅威から解放し、大いなる力をもって敵を打ち破り、民を導く新しい王が到来したとイザヤは期待し、この預言の言葉を人々に語っていったのかも知れません。
実際ヒゼキヤは王に即位してすぐに民がイスラエルの神に立ち帰るために「宗教改革」を行います。高き所を取り除き、石柱を破壊し、アシュラ像を切り倒し、異教礼拝をユダの中から徹底的に排除します。それがユダの国を再建し堅固にすることになると考えたからです。真の神さまに依り頼んでいくことにこそ力があると、信じたからです。
しかしヒゼキヤはその後アッシリアの勢力に対抗していくため他国と軍事的同盟を結ぼうとします。けれどもそれは神の御心ではありませんでした。主はイザヤを通して、そのような世の権力や人の力を杖として寄りかかるのではなく、主なる神ご自身を頼みとするように促されます。
8章12節13節で、主はイザヤを通してこう言われています。
「あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。」
しかし結局南ユダはエジプトと軍事同盟を結び、それが結果的にアッシリアを強く刺激することとなり、遂にすごい勢いでアッシリア軍がユダに攻めのぼってくることになるのです。
そこでヒゼキヤは和平を願いアッシリア王に膨大な宥めの貢物を贈るのでありますが、アッシリアの王はそれを受け入れず、ユダを滅ぼし尽くすことを伝え、ユダは危機的状況に追い込まれます。そこでヒゼキヤは主なる神に向かって叫び、祈り訴えますと、主はイザヤを通してその祈りを聞かれたことを告げられます。彼はこの事態に及んで主の信仰を呼び覚まされ、主に心から祈るのですね。
すると、イザヤを通して語られたとおり、ユダを破壊しるため目前まで迫っていたアッシリア軍は、アッシリアに急遽起こったアクシデントによってユダから撤退していくのであります。こうしてユダの平和は人の力や策略、武力によるのではなく、主なる神ご自身の御計らいによって守られるのであります。
本日の9章3節以降に、「彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を、あなたはミディアンの日のように折ってくださった」とありますが。それはかつて士師、神の勇士ギデオンが敵を打ち破りイスラエルに解放をもたらした日のことで、民に解放をもたらすのは主なる神ご自身であられるということをいっているわけです。
「地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく、火に投げ込まれ、焼き尽くされた」。ユダの壊滅的危機を救ったのは軍事同盟を図ったり、権力おもねる世的力ではなく、主なる生ける神であられるのです。
はじめに申しましたように、イザヤは南ユダに平和をもたらす立派な王を期待していました。その中で5節以降にある啓示を神から示されます。
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」。
イザヤはヒゼキヤ王こそ相応しい指導者であり、ユダに平和をもたらすものであると期待します。確かにヒゼキヤはユダにおいて貴重なよい王の部類に入る立派な人物であったでしょう。けれどもそれがどんなに立派な人だったとしても、ここで示されるような真の平和を実現する者とはなり得ません。なぜならその平和とは、1節にありますように」、ユダの人々だけでなく、アッシリアに支配され屈辱を味わっているゼブルンの地、ナフタリの地、遠く異邦の民にまで及ぶものであるからです。南ユダという限定的な場所での平和なのではなく、異邦人のガリラヤにまで及ぶ平和。それはいわば全世界にもたらされる平和であります。
「闇の中をさまよう人々は大いなる光を見、死の陰の地に住むような者の上に、光が輝く」、そのような解放と救いをもたらす君が与えられる。これは時を超え、世界に発せられる壮大なスケールの預言なのであります。
そしてこのイザヤ書9章の預言の言葉は、イザヤの時代から実に700年の時を経て遂に、イエス・キリストの誕生によって実現されていくのであります。
イエスさまは、ユダの中心地エルサレムの中ではなく、異邦人の地ガリラヤから伝道を開始されました。マタイ福音書4章14節以降には、「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大いなる光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」と今日のこのイザヤ書が引用され、イエスさまご自身、カファルナウムに住んでそこを拠点に、異邦人のガリラヤやその周辺で神の国を宣べ伝えられたのですが、それはこのイザヤの預言が実現されるためであった、と記されています。
イエスさまの時代のガリラヤの地に住む人々は、都エルサレムを中心にしていたユダヤの人々からは異教の地、異邦人の地と呼ばれ、神の救いから外れた人々として差別と偏見の目でみられていました。しかしイエスさまは神の国とその解放と救いの福音をこのガリラヤの地に住む人々の間に住まわれ、そこからから福音を宣べ伝えられていったのであります。
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」。
本日はアドヴェント第一節と世界祈祷週間をおぼえての礼拝を捧げておりますが。先程日本バプテスト連盟からアジア、アフリカの地に派遣されている宣教師の方々や主の和解と救いの福音を伝える具体的な働きのご紹介がありました。
私たちのバプテスト連盟がアジアの諸国に宣教師や働き人を送ったり、様々な活動を支援するのは、ただ一方的に押し売り的伝道をするためではありません。
そこには、日本がかつてアジアの近隣諸国を戦争によって侵略し、植民地下してあたえた計り難い苦痛やその行為への深い悔改めを派遣の地において表明し、イエス・キリストにある平和と和解の福音を共に分ち合っていくことにあります。そのためにシンガポールやインドネシア、それと一昨年までタイにも宣教師や神学スタッフを派遣しています。又、さらに遠く主の愛を分かち合うべく、インドのプリ子どもの家は貧困のために教育が受けられない子どもたちのための支援の輪であります。アフリカのルワンダには国際ミッションボランティアとして佐々木和之さんが派遣され、キリストにある平和と和解の尊い働きが積み重ねられてきております。この10月からはカンボジアに宣教師が派遣されました。又、BWAidc世界バプテスト連盟救援委員会との協働の働きも尊いものです。これらはまさに、「平和の君」であるイエス・キリストによって、闇の中をさまよう外ない私たちが光を見、光によっていのち輝く者とされた証しであり、主イエスが今も全世界の平和の君、インマヌエル、共におられる主としてその体なる教会に生きて働かれているしるしであります。これからも共にキリストの平和と和解の御業のために祈り、その働きに与っていきたいと願うものです。
同時に、世界というのは、私たちの身近なところにおいて地道にイエス・キリストの光を灯していくことでもございます。沖縄にある問題や福島をはじめ被災地の現状。身近な家族、友人や知人、近隣や地域の中で、悩み苦しみ、助けを必要としている方がおられます。主イエスはそのところにも「正義と恵みのみ業」がもたらされことを願われ、その働きを私たちに託しておられるのです。
私たちは時に問題の大きさに無力さを感じ、自分の小ささを嘆きそうになります。けれど、マザーテレサさんは次のような名言を残されました。
「大切なのか、どれだけたくさんのことをしたかではなく、どれだけ心を込めたかです」。
主イエスは事の大きい小さいではなく、そこに込められた愛と献身を喜び祝し用いてくださるお方なのです。このクリスマスに向かうアドヴェントの時期、福音の祝福が世界の至るところでより一層豊かに分かち合われますように、平和の君イエス・キリストの御名によって祈ります。さあ明日から12月です、ここから遣わされてまいりましょう。