日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

平和の君誕生の預言

2014-11-30 13:54:11 | メッセージ
宣教 イザヤ章9章1~6節      

キリスト教会歴では本日から「世界の救い主御子イエス・キリスト」のご降誕を待ち望んで過ごすアドヴェント、待降節に入りました。又、本日は世界宣教をおぼえての「世界祈祷週間」の礼拝として捧げられています。バプテスト女性連合が主にこの働きを担ってまいりましたことから、今日は女性会の方々のご奉仕によって礼拝プログラムが進められています。
クリスマスを迎えていくこの時、世界中のすべての人々の救い主としてイエス・キリストがお生まれになられたことに感謝しつつ、この福音を私たちの身近な方をはじめ、すべての神に造られた人々に伝え、証し、分かち合っていくように私たちは招かれております。今日はそのために世界宣教の働きに遣わされている方々をおぼえて祈り、その働きのためにささげていきたいと願っております。

本日はイザヤ書9章より「平和の君誕生の預言」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
まず、この9章の預言が語られたのは、北イスラエル王国が強大なアッシリア帝国の勢力に撃ち滅ぼされた、そのような時代でありました。8章の終わりに「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが云々」と記されてありますが。北イスラエルに属したゼブルンとナフタリの地はアッシリア軍に占領され、植民地とされ「闇の中を歩む民」「死の陰の地に住む者」とされたのです。一方南イスラエルのユダの国の人々もまた、いずれそれが自分たちのこととなるのではなかろうか、という恐れと脅威にさらされる危機的状況でありました。

この預言者イザヤは当時のアハズ王のもと宮廷に祭司として仕えていたのですが、このアハズというのがいわゆる悪王でして、アッシリアに神殿の宝を贈物として助けを乞いたり、シリアから異教の祭壇と祭祀とを輸入し、神さまが厭われるような事をことごとく行い、ユダの民の心が主の愛から迷い出てしまうような状況を招いていきます。

イザヤはユダの人々の行く末を案じ祈る中、本日のこの預言のメッセージを受けとっていくのです。そういう背景の中で悪王といわれたアハズ王に代わってその王位を継承し即位したのが、その子ヒゼキヤでありました。ユダの人々をアッシリアの脅威から解放し、大いなる力をもって敵を打ち破り、民を導く新しい王が到来したとイザヤは期待し、この預言の言葉を人々に語っていったのかも知れません。

実際ヒゼキヤは王に即位してすぐに民がイスラエルの神に立ち帰るために「宗教改革」を行います。高き所を取り除き、石柱を破壊し、アシュラ像を切り倒し、異教礼拝をユダの中から徹底的に排除します。それがユダの国を再建し堅固にすることになると考えたからです。真の神さまに依り頼んでいくことにこそ力があると、信じたからです。

しかしヒゼキヤはその後アッシリアの勢力に対抗していくため他国と軍事的同盟を結ぼうとします。けれどもそれは神の御心ではありませんでした。主はイザヤを通して、そのような世の権力や人の力を杖として寄りかかるのではなく、主なる神ご自身を頼みとするように促されます。
8章12節13節で、主はイザヤを通してこう言われています。
「あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。」

しかし結局南ユダはエジプトと軍事同盟を結び、それが結果的にアッシリアを強く刺激することとなり、遂にすごい勢いでアッシリア軍がユダに攻めのぼってくることになるのです。
そこでヒゼキヤは和平を願いアッシリア王に膨大な宥めの貢物を贈るのでありますが、アッシリアの王はそれを受け入れず、ユダを滅ぼし尽くすことを伝え、ユダは危機的状況に追い込まれます。そこでヒゼキヤは主なる神に向かって叫び、祈り訴えますと、主はイザヤを通してその祈りを聞かれたことを告げられます。彼はこの事態に及んで主の信仰を呼び覚まされ、主に心から祈るのですね。
すると、イザヤを通して語られたとおり、ユダを破壊しるため目前まで迫っていたアッシリア軍は、アッシリアに急遽起こったアクシデントによってユダから撤退していくのであります。こうしてユダの平和は人の力や策略、武力によるのではなく、主なる神ご自身の御計らいによって守られるのであります。

本日の9章3節以降に、「彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を、あなたはミディアンの日のように折ってくださった」とありますが。それはかつて士師、神の勇士ギデオンが敵を打ち破りイスラエルに解放をもたらした日のことで、民に解放をもたらすのは主なる神ご自身であられるということをいっているわけです。
「地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく、火に投げ込まれ、焼き尽くされた」。ユダの壊滅的危機を救ったのは軍事同盟を図ったり、権力おもねる世的力ではなく、主なる生ける神であられるのです。


はじめに申しましたように、イザヤは南ユダに平和をもたらす立派な王を期待していました。その中で5節以降にある啓示を神から示されます。
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」。

イザヤはヒゼキヤ王こそ相応しい指導者であり、ユダに平和をもたらすものであると期待します。確かにヒゼキヤはユダにおいて貴重なよい王の部類に入る立派な人物であったでしょう。けれどもそれがどんなに立派な人だったとしても、ここで示されるような真の平和を実現する者とはなり得ません。なぜならその平和とは、1節にありますように」、ユダの人々だけでなく、アッシリアに支配され屈辱を味わっているゼブルンの地、ナフタリの地、遠く異邦の民にまで及ぶものであるからです。南ユダという限定的な場所での平和なのではなく、異邦人のガリラヤにまで及ぶ平和。それはいわば全世界にもたらされる平和であります。
「闇の中をさまよう人々は大いなる光を見、死の陰の地に住むような者の上に、光が輝く」、そのような解放と救いをもたらす君が与えられる。これは時を超え、世界に発せられる壮大なスケールの預言なのであります。
そしてこのイザヤ書9章の預言の言葉は、イザヤの時代から実に700年の時を経て遂に、イエス・キリストの誕生によって実現されていくのであります。


イエスさまは、ユダの中心地エルサレムの中ではなく、異邦人の地ガリラヤから伝道を開始されました。マタイ福音書4章14節以降には、「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大いなる光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」と今日のこのイザヤ書が引用され、イエスさまご自身、カファルナウムに住んでそこを拠点に、異邦人のガリラヤやその周辺で神の国を宣べ伝えられたのですが、それはこのイザヤの預言が実現されるためであった、と記されています。
イエスさまの時代のガリラヤの地に住む人々は、都エルサレムを中心にしていたユダヤの人々からは異教の地、異邦人の地と呼ばれ、神の救いから外れた人々として差別と偏見の目でみられていました。しかしイエスさまは神の国とその解放と救いの福音をこのガリラヤの地に住む人々の間に住まわれ、そこからから福音を宣べ伝えられていったのであります。
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」。
本日はアドヴェント第一節と世界祈祷週間をおぼえての礼拝を捧げておりますが。先程日本バプテスト連盟からアジア、アフリカの地に派遣されている宣教師の方々や主の和解と救いの福音を伝える具体的な働きのご紹介がありました。
私たちのバプテスト連盟がアジアの諸国に宣教師や働き人を送ったり、様々な活動を支援するのは、ただ一方的に押し売り的伝道をするためではありません。
そこには、日本がかつてアジアの近隣諸国を戦争によって侵略し、植民地下してあたえた計り難い苦痛やその行為への深い悔改めを派遣の地において表明し、イエス・キリストにある平和と和解の福音を共に分ち合っていくことにあります。そのためにシンガポールやインドネシア、それと一昨年までタイにも宣教師や神学スタッフを派遣しています。又、さらに遠く主の愛を分かち合うべく、インドのプリ子どもの家は貧困のために教育が受けられない子どもたちのための支援の輪であります。アフリカのルワンダには国際ミッションボランティアとして佐々木和之さんが派遣され、キリストにある平和と和解の尊い働きが積み重ねられてきております。この10月からはカンボジアに宣教師が派遣されました。又、BWAidc世界バプテスト連盟救援委員会との協働の働きも尊いものです。これらはまさに、「平和の君」であるイエス・キリストによって、闇の中をさまよう外ない私たちが光を見、光によっていのち輝く者とされた証しであり、主イエスが今も全世界の平和の君、インマヌエル、共におられる主としてその体なる教会に生きて働かれているしるしであります。これからも共にキリストの平和と和解の御業のために祈り、その働きに与っていきたいと願うものです。

同時に、世界というのは、私たちの身近なところにおいて地道にイエス・キリストの光を灯していくことでもございます。沖縄にある問題や福島をはじめ被災地の現状。身近な家族、友人や知人、近隣や地域の中で、悩み苦しみ、助けを必要としている方がおられます。主イエスはそのところにも「正義と恵みのみ業」がもたらされことを願われ、その働きを私たちに託しておられるのです。
私たちは時に問題の大きさに無力さを感じ、自分の小ささを嘆きそうになります。けれど、マザーテレサさんは次のような名言を残されました。
「大切なのか、どれだけたくさんのことをしたかではなく、どれだけ心を込めたかです」。
主イエスは事の大きい小さいではなく、そこに込められた愛と献身を喜び祝し用いてくださるお方なのです。このクリスマスに向かうアドヴェントの時期、福音の祝福が世界の至るところでより一層豊かに分かち合われますように、平和の君イエス・キリストの御名によって祈ります。さあ明日から12月です、ここから遣わされてまいりましょう。
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新しい天と地の創造

2014-11-23 16:11:00 | メッセージ
礼拝宣教 イザヤ65章1~25節      

今日は収穫感謝の礼拝を守っております。ここに様々な大地の実りがささげられていますが。これらすべては神さまの豊かな創造の御業によってもたらされた恵みの実りです。こうして糧に与ることのできる幸いに感謝をささげると共に、人類は神さまの創造の御業を管理していく者としての役割を託されていることを謙虚に又厳粛に受けとめおぼえます。

さて、先週は讃美と証しの礼拝でしたので、通常でしたらカリキュラムにしたがいイザヤ書56章1~8節を読むところをとばしまして、今日の65章の箇所から御言葉を聞いています。イザヤ書は大きく3つに分けられるのですが。まず1章~39章の南ユダ王国の崩壊前後のイザヤ自身による預言の箇所、それから40章~55章のバビロニア捕囚とその崩壊と解放期の第二イザヤの預言の箇所、さらには56章~66章のバビロニア捕囚よりエルサレムへ帰還を果たし、その後崩壊していた神殿の再建時代の第三イザヤの預言の箇所と、そのように3つに区分され、イザヤ書全体は300年以上の時代を網羅しております。
先週の箇所と本日の65章は第三イザヤの預言で、その舞台は帰還の地エルサレムとユダであります。
50年というバビロニアでの捕囚の時代は遂に終わりを告げますが、この半世紀には世代の交代もあったでしょう。崩壊後バビロニアを治めたペルシャ帝国の比較的寛容な政策のもとにあって、住みなれたバビロニアに留まる人々もいた一方、故郷への思いを胸に神の民としての自覚の中でエルサレムに帰還する人々がいました。その中には、バビロニアで生まれ育ったユダの2世3世の若い人たちもおり、彼らにとってはエルサレムが逆に外国のように思えたことでしょう。
いずれにしろ、ユダの人々がエルサレムに帰還してそこで見たのは、荒れ果てたエルサレムの姿でありました。戦乱後50年経過してもエルサレム神殿は倒壊したままの状態で、街はいまだ荒廃し、生活も一向に厳しい状況であったのです。そこには又、捕囚にもされず取り残され、細々と命をつないできた人々とその子孫、さらに外国人や先住民もおりました。そういう人々と共存していくことはまた大きな問題でした。

さかのぼりますとユダの捕囚後、捕囚の民たちの間では『イスラエルの民と都エルサレムを再建する』という強い機運が高まり、遂に帰還した後には、律法学者エズラや総督ネヘミヤが捕囚の地で編まれた律法を民に啓示し、それを守ることを重視しました。
例えば、「外国人」と結婚していた者を強制的に離婚させ、それに従わない者には「神の民」から追放を命じ、確固たるイスラエルを再建するためにユダの民の純化政策(排外政策)が強化されていくのです。
しかし先週の56章の箇所にもございますように、第三イザヤでは、人格を否定されていた異邦人も宦官も、主は招かれ、その教えを守り聴き従う者に、「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す」と宣言しておられるのです。

まずその先週の箇所を受けて、本日の65章1節~25節を読んでいきたと思います。
この65章全体には「救いの約束」という見出しがついており、旧約聖書の中でも極めて新約聖書的な「主の愛と救い」の約束について記されています。
ここにはユダの民、イスラエルの人々は主の愛とその恵みを軽んじ、神ならざるものを拝し、その上自らを清い者として人を分け隔てしていたのです。しかし主は、その2節で「反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に 絶えることなく手を差し伸べてきた」と語ります。
この65章の「主の愛と救い」の約束が旧約聖書の中でも画期的ですばらしいのは、その差し伸べられた主の愛の手が、ユダの民、イスラエルの人々だけでなく、神がお造りなったすべてのものに開かれているということです。それはまさしく新約聖書の福音を先取りするメッセージであります。
主はイスラエルの民であろうとなかろうと、主の愛と救いを受け入れて主に立ち返る者を招かれ、「わたしの僕」と呼び、祝福なさるのです。

使徒パウロはローマの信徒への手紙10章20節で、このイザヤ65章1節を引用して、今や排除され、差別されてきたあらゆる人々、又、主を見出し得なかった異邦人や罪人のもとに、「主の愛と救い」がイエス・キリストによって訪れたことを語っています。
そして同時に、その恵みに対して思い上がることなく、むしろ畏れをもって主の慈しみと厳しさを思いその愛にとどまり続けることの大事さを説いています。
本日のイザヤ書で神に逆らい続けているのは、異邦人ではなく、神に選らばれ立てられてきたイスラエルの民であったことが示されていますが。神の恵みと豊かな導きを得ながらも、感謝をもって応える歩みを忘れ、主の愛と救いを無益なものにしていたその姿を思うとき、使徒パウロが語ったように、神の慈しみにとどまり続けることの大切さを思わされます。いつも新鮮な気持ちで救いの御業を見上げていたいものですね。

さて、続く17節以降には、「新しい天と新しい地の創造」が語られます。いわばそれは第三イザヤの最高潮ともいうべき「喜び躍る」ほどの希望が語られているのです。

18節「代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍る者として その民を喜び楽しむものとして、創造する」。
ここには新天地におけるこの上ない歓喜と祝福が満ち溢れています。そこではもはや、「泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことはない」。又「若死にする者はいない」「無駄に労することもなく」「生まれた子を死の恐怖に渡すこともない」のです。

実はこれらの悲しみや苦しみ、又恐怖や不安は、ユダの人々がその捕囚の生活の中で体験したことであったのでしょう。しかしもはや主が創造される新天地においては、彼らはその子孫と共に主に祝福された者の一族となる、というのです。

私たちの生きている世界もまた、ほんとうに様々な悲しみ、苦しみが闇を覆っています。又、私たち自身もそのような悲しみや苦しみを日々体験することがあります。しかし主は24節にありますように、「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え まだ語りかけている間に、聞き届ける」と語りかけ、活ける神さまとの生きた関係の回復を与えてくださるのです。

さらに25節、ここには「新しい天と地」の世界観が啓示されています。
「狼と小羊は共に草をはみ 獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても 害することも滅ぼすこともない」。

それは世の常である弱肉強食の非情な世界ではなく、平和と共存の世界観であります。同様な記述がイザヤ書11章にもございます。それは来るべき「平和の王」について語られている箇所ですが。狼と小羊とが仲良く共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べる。そのような平和の共存を実現するメシア・王がやがてお出でになる。
その預言の言葉は時満ちて遂にイエス・キリストのご降誕とその御業によって始められるのであります。この新しい天と地の創造はまさしくコロサイ1章17節に「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」と記されていますように、この救いの主、神の御子イエス・キリストによって起こされ完成へと向かっているのです。今や私たちも、その神による新しい創造の業にあって喜び楽しみ、喜び躍る者として招かれているのです。

先日、来年1月に上映される「サン・オブ・ゴット」の試写会があり一足早く観ることができました。この映画はヨハネ福音書をベースにした「神の御子イエス・キリスト」のご生涯の物語でありますが。当時ユダヤ社会がローマの支配下に、さらにその下にあったユダヤの権力者、さらにその下で苦しめられる民衆という社会情勢の中で、主イエスがローマの権力のみならず、ユダヤ教指導者の権力によって、さらに民衆の暴力的暴言によって死に引き渡されていくのです。しかしイエスさまは最後までその権力に対して同じように立ち向かおうとはなさいません。 ローマ総督ピラトは「おまえは王なのか」と尋ねますが、主イエスは「わたしは真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た」と答えられるのです。主イエスは世の権力と戦うために来られたのではなく、神の愛と救いの真理を証するために来られました。それにも拘わらず、その神の愛を受け入れようとせず、頑なに拒む人の罪によって十字架につけられてしまうのです。けれども主はそのような罪深い人間、反逆するような者のためにも神の愛とゆるしを示し、神に執り成されたのです。それはまさに本日のイザヤ書65章2節で、主が「反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に 絶えることなく手を差し伸べてきた」と同様、主イエスはそのようになさったのであります。
十字架の苦難と贖いの死による真の平和の訪れ、「神の国の到来」を現わすために主イエスは私たちの世に来られたのです。その平和の福音は「新しい天と地を創造」する神の愛の力なのです。

最後に、今日は収穫感謝の礼拝ですが。主イエスはこの全地に新しい創造の業が豊かに実を結んでゆくため、「地に落ちた一粒の麦」となられました。その実に与って生かされている私たちも又、最終的には完全なかたちで訪れる新しい天と地を待ち望みながら、実りをもたらす働きへと、主の愛と救いの喜びを携えつつ、今日もここから遣わされてまいりましょう。
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不条理な苦難

2014-11-09 15:09:17 | メッセージ
礼拝宣教 イザヤ53・1~12       

本日11月第二主日はバプテスト福祉ディです。日本バプテスト連盟に関係のある福祉施設の働きを祈り、覚えていく日となっております。私どもの教会では、長年京都のバプテストホームと重症心身障害児者施設久山療育園に寄付を送っておりますが、他にも幾つかの福祉施設もございます。それらの福祉施設の事業をとおしてキリストが共に生きておられる、その思いと働きが今後も地域社会に根ざし広がっていくように、ご一緒に祈り支えたいと願っています。

さて、本日はイザヤ書53章の「苦難と死の主の僕」の箇所から御言葉を聞いていきます。この箇所は先週読みました42章の「主の僕」の箇所と共に、イザヤ書の中で最も新約聖書的だと言われております。それは、まさにここにイエス・キリストの十字架の苦難と死による「罪の贖いと救い」が指し示されていると、読めるからであります。

先週の礼拝では、救い主であるメシア像が「僕」の姿として示された42章を読みました。その救い主・メシアの像は、いわゆる世の「王」や「支配者」のように、又権力によって民衆の上に君臨するような存在ではありません。このメシアは僕、仕える者として民を導き、「傷いついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく 裁きを導き出し、確かなものとする」のです。それは、世の常識を覆す神さまのご計画でありました。
しかし本日のイザヤ書53章のメシア像は、さらに人の思いもよらない姿であります。彼には「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」と、いわゆる外見的な美しさや魅力はいっさいありません。カリスマ性の片鱗も感じさせないどころか、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」と、聖書は語るのです。
ここにはあらゆる人の苦しみが書き連ねられています。「軽蔑され」「見捨てられ」「無視され」て肉体的、又精神的「痛み」や「傷」を負い、さらに「病」からくる苦しみを受けている。それはどれほどの苦しみでありましょうか。

先週は、ショッキングなニュースが世界に流れました。安楽死を認めているアメリカのある州で、脳腫瘍を患う若い女性が、尊厳死を宣言したその予告どおり医師の薬投与によって自らいのちを絶ったのです。ご本人にとっては苦しみ悩み抜いて追い込まれた末に選ばれた判断であったでしょう。賛否両論ございますが、考えさせられる問題です。以前あるホスピスの医師のお話を伺う機会がありました時、がんの患者さんには4つの出現する苦痛があり、それが重なり合う層となって患者さんにのしかかっているということを伺いました。一つは「身体的・肉体的な苦痛」。二つ目は、不安やいらだちといった「精神的苦痛」。三つ目は経済的な問題、仕事上の問題、家族内の問題といった「社会的苦痛」。その上に、さらに生きる意味や目的への懐疑、死への恐怖、自責の念に苛まれる「魂の苦痛」がのしかかってくるというのです。
特に末期のがんの患者さんが抱える魂の苦痛は深刻です。医療にも見捨てられたように思い、こんなになって、生きてもしょうがない。わたしの人生は一体何だったのだろうか。どうせ死ぬんだから、頑張ってもしかたがない。わたしだけがなぜこんなに苦しまなければならないのか。わたしが悪いことをしたから、こんな病気になったのか。そういった思い。さらに、家族ともう二度と会えなくなるのか。周りに迷惑をかけたくない。死んだら私はどうなるのか。そういった恐れから生じるさまざまな苦痛を負われているということです。自分が存在している意味や価値の喪失。生きている目的や意味の喪失。家族や隣人との別れという喪失感からくる魂の苦痛。そのような患者さんの身心における苦痛をできるだけ緩和し、ご自分のいのちと死を見つめ、魂の平安を得てやすらかにその時を迎えられる援助をするのが、ホスピスの働きであります。本日はバプテスト福祉ディですが。このような苦痛というのは実は他にも難病の方、心身障がいを抱える方、又いわゆる後期高齢者で介護が必要となられた方々にもございます。福祉施設の事業体は、そこに福音的働きを具体的に表していくため日夜仕えておられるわけですが。さらに突き詰めれば、これらの苦痛は私たち一人ひとりの内に多かれ少なかれ常に潜在的にある苦痛、又課題だといえましょう。

イザヤ書53章に話をもどしますが。
この「苦難の主の僕」は、人のそういったあらゆる苦痛や苦悩を自ら体験している方であるということであります。4節を読みますと「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と」「あぁ彼は罪深いから神の怒りに打たれたのだ」「あんな生き方をしてきたから罰を受け苦しんでいるのだ」と人は思ったのですが、いや、実はそうではなかった。私たちのいやし難い病んでいるような状態、人の力ではどうすることも出来ない解決のしようがない痛み、それを彼は担った、負ったのだ、ということがここに明らかにされます。
さらに5節には「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とございます。
ここを読みますと、主の僕の負われた様々な苦難は、彼自身が犯した罪や咎の結果なのではありません。それは6節にありますように、民が神の愛と祝福の道をはずれ、それぞれ的外れな方向へ向かって行ったのですが、神はそんな民の犯した背きと悪い行いすべてをご自身に負われたのです。その主の僕は先のところで読みましたように、身体的な苦痛を負っていました。そればかりでなく、軽蔑され、見捨てられ、無視されるというといった精神的苦痛、さらに民の間で呪われた者のようになるという魂の苦痛・霊的苦痛を負ったのです。そのような苦痛に「刺し貫かれ」「打ち砕かれた」主の僕。聖書はこの主の僕の受けたあらゆる苦難は、人の罪と咎の贖いのためであったと語ります。

では、この主の僕によって何がもたらされたのでしょう。
ここに「彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とございます。主の僕の苦難によって生じるのは、世にある恨みや憎しみではなく、「平和」と「いやし」であるのです。

続いて7節~9節のところを読みますと、主の僕は「民の背きのゆえに断たれたのであり、彼は無抵抗のうちに葬りさられたことが記されています。そして10節にありますように、この主の僕は、主がお望みになった民の「平和といやし」がもたらされるために自らを償いの献げ物となさるのです。彼はその苦難の中にあって民が背きの罪から立ち返り、御赦しの中で、末永く民の子孫が末永く続くことを夢見ます。その断末魔の叫びの中でなお11節にございますように、「彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する」のであります。

今日の宣教のタイトルを私は「不条理な苦難」とつけさせていただきました。
それは11節の「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った」という御言葉から示されたものです。罪のない主の僕が不条理な苦難を負われた。それはまさに、罪と咎を犯して滅びゆくしかない不義なる人間が救い出されていくためのものであり、そのような者が平和を与えられ、いやしに与っていのちを得るためであります。そのためには罪と咎の不義がきちんと裁かれ、清算されなければならないのです。すべての人は意識、無意識に関わらず何らかの罪や咎をもっています。それは何もイザヤの時代のイスラエルの民だけに限ったことでなく、すべての人は神のただしさ、神の義の前にあって不義ある者でありますから、全き裁きの前では滅びゆく他ない者なのであります。
しかし、本日のイザヤ書53章で主なる神さまは、そのような罪と咎をもつ人間が滅びゆくことを決し望まれず、罪(的外れ)の状態から、神を見出し救われる道をお示しになるのです。それは単に人間をゆるすということだけではダメなのです。神さまの「義」が立てられなければなりません。人の不義がきちんと裁かれ、清算されることによって初めて神の「義」が全うされるのです。そのためには、罪のない主の僕が罪ある者の身代わりとなって裁きを受けるほかなかったのです。人には思いもよらない、神の救いの業によってであります。不条理にも主の僕が苦難と死を負うことによって人は神との交わりの回復へ導かれ、魂に真の平和といやしが与えられる。それがイザヤ書53章のメッセージの真髄であります。
本日の「苦難の主の僕」より前の時代に預言されたイザヤ書7章14節には、「わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ」とございますが。それはまさにイエス・キリストが救い主としてお生まになる折に、天の使いが「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む、その名はインマヌエルと呼ばれる、この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」と告げているのです。
イザヤ書の主の僕による救いの御業は、時満ちて主イエス・キリストの誕生によって決定的実現のときを迎えるのです。今や贖いの主は全世界の主として、インマヌエル「我々と共におられる」のです。

最後になりますが。一昨日JR西日本あんしん財団主催「いのちを考える」の連続講演の最終回の聴講に行ってまいりました。今回は上智大学の特任教授でシスターでもある木慶子(ヨシコ)先生からご専門であるグリーフケアのお話をお聞きしました。「グリーフケア」とは大きな悲嘆に襲われている人、主に大切な人を亡くした人に対するサポートのことですが。シスターの木先生は「いのちは愛する力」であるということで、一つのエピソードをお語りになりました。あるご高齢の女性、この方は自称梅干しばばあと名乗っておられたそうですが。この方は先にお連れ合いを亡くしておられまして、しかしそのお連れ合いというのが、この方のご実家の財産を食いつぶし豪遊して家を顧みないような人であったようです。ところで、この方は教会に行っていたんですが、神父さんがこの方にいくら洗礼を勧めても、決して洗礼を受けようとしなかったそうです。ご自分のお子さんやお孫さんには洗礼を受けるように自ら勧めてみな受けられたのですが、なぜかこの方だけは洗礼を受けようとはされなかったのです。それで、ある時シスターである木さんがこの神父さんから「彼女の家にあなた行って洗礼を受けるように話をしてみてくれない」と頼まれるのです。それからシスターはまだ30代の頃で若かったこともあり何度も足を運び洗礼の説得をするのですが、洗礼の話になると上手くかわされてしまうということが続いたそうです。ところがある日遂にこの方が「あんただけに話す。ただしこの話は人には話さない。私が亡くなったあとであるなら人に言ってもいいわよ」とそう言って、シスターに「わたしが洗礼を受けないのは、放蕩の限りを尽くして先に逝った夫は地獄に行っていると思う。私が洗礼を受けて天国に行けば地獄に行った夫を一人にしてしまうことになるの。だから」と、こう話されたそうです。まあ普通だったら、そんなことされた夫だったら地獄に堕ちてしまえというかも知れません。けれども彼女にとってはこういう形で愛する力が「いのち」、グリーフケアになっていたのであります。
この方は、シスターが「あなたがそんなにご主人のことを愛していらっしゃるのなら、そのことを神さまは誰よりもご存じでいらっしゃいますよ」とおっしゃった会話の中で、洗礼の決心へ導かれ洗礼をお受けになられたそうです。
後日談として、この自称梅干しばあさんが天に召されて、シスターはそのご長男さんに、お母様が洗礼を受けなかった時のエピソードを手紙を書いて伝えられたそうです。それから1年が経ってご長男さんからシスターに手紙が届いたそうです。そこには、「母の愛について改めて知る事ができ感慨無量です。本当にありがとうございました」と書かれてあったそうです。

イエス・キリストが私たち救い難い者を救うために、人の苦しみ痛みの極みを知り、体験され、どこまでも私たちと共におられることを選ばれた、ここに私たちは救いを見出します。苦難の僕である主イエスは人の痛みと苦しみをご自分も一緒に担い今も平和といやしを執り成し続けておられます。私たちも又、その主イエスと共に今週の新しいあゆみへと遣わされてまいりましょう。

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見よ、わたしの僕

2014-11-02 15:20:13 | メッセージ
礼拝宣教 イザヤ42・1~9      

今年もはや11月を迎えましたが、私どもの新会堂が建築されて今月で丁度1年を迎えることとなります。新しい教会堂となってから、ほんとうに多くの新たな出会いが与えられていることは喜びであり、感謝です。これからも主イエスの教会になっていく私たち一人ひとりが、主のご聖霊の働きに満たされ、喜びをもって救いの福音を証し、分かち合うものとされていけるようにと祈ります。
昨日は大阪中央バプテスト教会のバザーがあるということを数日前に知りまして、お目当てのキムチを買い求めにいきました。そこでハム主任牧師をはじめ、ハ副牧師、内藤伝道師、さらに和歌山中央バプテスト伝道所のチャン牧師、東中屋伝道師ともお会いし、食品バザーの韓国本場の料理を戴きながら、ひと時お話する機会が与えられました。大阪中央教会は25年前にハム牧師と十人から開拓伝道がなされ教会組織、そして地方連合と連盟加盟を果たされ、現在は300人の教会に成長されています。教会堂が借家の時代はバプテストリーがなくて、大阪教会のバプテストリーをお借りしてバプテスマをさせて戴き大変ありがたかった、とハム牧師は何度もおっしゃるのですが。私どものハートフェルトコンサートの折には多くの応援や献堂式の祝福等も寄せて戴きお世話になっている近隣教会であるのです。その教会が韓国と日本のキリストのかけ橋となって福音宣教の使命にほんとうに熱く、日夜誠実に祈り、仕えてこられているその姿勢には、刺激を与えられ多くのことを教えられます。昨日大阪中央教会のある壮年の方が、クリスチャンとされた者は、自分の救いにだけ留まるのではなく、その喜びと恵みである救いのバトンを次の人に手渡していく役割がありますよね、と熱く語られていたことが心に残りました。大阪中央教会と大阪教会の交流を来年さらに深めていきましょう、ということで帰宅いたしました。

今日のイザヤ書42章は小見出に「主の僕の召命」とつけられています。僕とはどういう立場でしょうか。辞書には召使とか雑用に使われる者とされています。
ここには「主の僕」とありますから、主から仰せつかった事ごとに仕え、果たしていく役割に召し出された人ですね。
この僕が一体誰を指しているのか、ということについては具体的な言及がありませんので、いろいろな説がありますが。
たとえば、ギリシャ語70人訳のイザヤ書42章1節には「ヤコブわが僕、イスラエルわが選びたる者」とあり、それに従えばこの「僕」は捕囚として侵略国に連行され奴隷や僕のように扱われていたイスラエルを指していると読めます。しかし1節で「彼」と呼ばれ、その後の6節では「あなた」と呼びかけておられることからすれば、特定の個人を指しているともいえます。主は捕らわれの奴隷状態のようになったイスラエルの中からご自身の僕選び、迎え、霊を注いでお立てになられた。それが第二イザヤと呼ばれている預言者であった、と読むこともできるでしょう。いずれにしろ、主なる神さまは「主の僕」をお立てになり、捕らわれのイスラエルの人々だけでなく、島々(全世界)の人々の、7節「見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から 闇に住む人をその牢獄から救い出される」というのであります。

この神さまがお立てになりお用いになられる「主の僕」。それはどういう人、あるいは人々かと申しますと。2節にありますように、既存の政治的又宗教的な指導者らとは違い人々を権威的に従わせようとはせず、3節に象徴されるように、個々人のいのちと存在を思い見て、裁き(正義ですよね)、それを導き出す。上から何かこうと決めつけるのではなく、導き出して、確かなものとする。そういう者としてこの主の僕の姿が描き出されています。翻って思いますのは、今の時代のリーダーと呼ばれる立場にある人は、何かと声高に相手を威圧的に非難罵倒して、自己正当化しようとする傾向が強いように思えます。それは裏を返せば、民衆に対する不安感や戸惑いと焦りが、強いリーダーシップを過剰に求めているということでしょう。
しかし、神さまが国々の裁き、正義を導き出すためにお選びになるのは、人間、その一人ひとりのいのちを思い見る者なのです。傷ついた葦の茎をもうだめだからいらないと切り捨てたりしない。消えそうな灯を吹き消すように人を排除したりしない。折れそうなら手を添え、消えそうなら両手で包み、冷たい風から光が吹き消されることのないように守られるのですよね。
このイザヤ書の次の章の43章にはこう呼びかけられています。
「恐れるな、わたしはあなたを贖(あがな)う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」主にあがなわれた私たちのことですよね。そしてこうあります。
「わたしの目にあなたは価高く、貴い。」人は世の価値観で人を比べそれで価値あるかどうかを判断し評価いたします。しかし、造り主であられる神さまは「わたしがあなたを贖い、愛するからこそあなたは価高く、貴い」とおっしゃるんです。私という存在をまるごと認め、受け入れてくださるのですね。それこそ真の良き知らせ、福音であり、私たち一人ひとりを生かす喜びと平安の基であります。

さて、42章にもどりましてその4節には、主の僕と、その働きは「この地に裁きを置くときまで、暗くなることも、傷つき、果てることもない」とあります。口語訳の方がさらにわかりやすく、「彼は衰えず、落胆しない。遂にその道を地に確立するまでは」とあります。主の僕は強い意志をもって召命の業を果たしてゆきます。
それは7節にあるように、他ならぬ神さま御自身が、「見ることのできない者の目を開き 捕らわれ人をその枷から 闇に住む人をその牢獄から救い出す」という強いご意志をもって僕を召し出したからです。それらの事どもが実現するため主の僕は「民の契約、ユダの人々のみならず諸国の光」として立てられるのです。
実は、新約聖書のルカによる福音書の4章を読みますと、イエスさまがその公の活動をお始めになるにあたり、会堂で会衆を前にイザヤ書61章の言葉をお読みになられたということが記されています。そこを読みますと、「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えるために。打ち砕かれた心を包み捕らわれ人には自由を つながれている人には解放を告知させるために」と記されています。イエスさまはこのイザヤ書の言葉を会衆に読まれた後で次のように言われました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。つまり、イザヤ書で主なる神さまが油と霊を注ぎ、良い知らせを伝えるために選び立てられたこの「主の僕」の出現は、新約聖書の時代に至って決定的実現のときを迎えます。主の民と島々(全世界)が待ち望んだ主の僕は、力や権威によってではなく、「主の僕」、仕える者としてお出でになるのです

8節には、「わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず わたしの栄誉を偶像に与えることはしない」とあります。
ここには活ける神さまの「栄光」と「栄誉」が宣言されております。
世の権力や勢力といったものは活ける神の前では偶像に等しく、その支配下では人は真の解放も救いも得ることができません。

9節「見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に。わたしがあなたたちにそれを聞かせよう。」
私たち人間が魂の根底から救われるための神のくすしき新しいご計画、それがすなわち世の権力を持った王によるのではなく、神の子が仕える者、僕の姿となってこの世界に遣わされる、という真に驚くべき救いの御業であります。

フィリピ2章にこう記されています。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、その十字架の死に至るまで従順でした。」

救い主であるキリストが人間と同じ者になる、ましてや僕のように仕える者の姿でお出でになるとは、人には考えも及ばないことです。しかし神の救いの業は、僕となられたキリストが人の痛みや苦悩を自らのものとして受けとめ、痛み苦しみまれることを通して愛を示され、救いを実現されたのであります。神の愛のその究極のかたちが、私たちの罪のために磔にされた十字架のご受難と死に他なりません。私たちはその主の僕のお姿を通して、見ることのできなかった目を開かれ、罪の縄目やあらゆる捕らわれからの解放と共に、滅びの闇に住む絶望という名の牢獄から救い出されているのです。

イザヤ書41章9節~10節にこのようにあります。
「わたしはあなたを固くとらえ、地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕、わたしはあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。」

キリスト者、それは主の僕となられた主イエスから救い出された者であります。それは私たち一人ひとりもそのキリストの僕として呼び出され、召し出された者であります。私たちの主は自ら「僕」となって救いの御業を成し遂げてくださいました。この尊い恵みと、主が共におられ、助け支えてくださるとの約束と希望をもって、悩みや苦悩、闘いの多い世にあっても恐れず、たじろぐことなく、主に見出されたキリストの僕として福音を仕え、証し、分かち合うために今日もここから遣わされてまいりましょう。
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