日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

信仰を問う命の言葉

2020-02-23 19:57:31 | メッセージ

礼拝宣教 ヨハネ11・17~27

本日の箇所は告別式の折にお話をさせていただくことがあります。深い悲しみに暮れるご遺族の方々は、そこでイエスさまの「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる」との御声に深い慰めと大いなる希望を戴くわけでありますが。今日は、さまざまな不安や恐れ、心配に心疲れるような私たち一人ひとりに「信仰を問う命の言葉」題して、その御声に聞いていきたいと願います。

そもそもこの箇所は、いよいよイエスさまが十字架の道を辿り行くその過程にあって起った出来事でありました。イエスさまご自身、命を狙われている中で、弟子たちも又、心配や不安の緊張感を持つ中で、現わされた業、語られた御言葉であったという事です。このベタニア村の兄弟たちは両親を早いうちに亡くしたのでしょうか。3人で寄り添うように生活をしていました。そういう中でイエスさまと出会い、神の愛を示された彼らはイエスさま一行を家に招いて迎えます。その時のマルタとマリアのエピソードはルカ福音書10章に記されておりますようによく知られておりますが。
今日の箇所のすぐ後の12章で、過越祭の6日前(イエスさまが十字架におかかりになる6日前)にも、イエスさまはベタニア村に行かれ3人のもてなしをお受けになられています。そのように11章5節にありますとおり、イエスさまはマルタとマリアとラザロを大変いつくしみ、愛しておられたのであります。
そうした3人のうちのラザロが病気に罹ってしまいます。姉妹たちはイエスさまに使いを送り知らせるのでありますが、イエスさまはそこに行こうとはなさいません。そうしてラザロは死んで墓に埋葬されてしまうのです。そこからが今日の箇所であります。

まずここを読んで、私は牧師の立場から気になりましたのは、ラザロを亡くた姉妹マルタとマリアが、同じように「主よ、もしあなたがここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21,32)といった言葉であります。
これは牧師の働きをする中で教会の兄弟姉妹やそのご家族が天に召されていく折に共にさせて頂く機会もありますが、それが叶わなかったこともございます。
そういう時、教会の執り成しと祈りの中で、召されることを望まれていたのではなかろうか。ご家族にとっても微力ながらお力になれることがあったのではなかろうか、特に連絡が来た時には既に仏式で葬儀が済まされていた時などは、ご本人の遺志を思えば本当に残念な思いがいたします。
私は今しも召されようとしておられる方に対して、そこに居合わせたからといって何ができるわけでもありません。それは神のご領域であり、私はほんとうに無力な者です。それでもそこで信仰を確認し合い、教会の祈りの代表として執り成しの祈りを共にすることはできるでしょう。

先日神学校時代の知人が執筆した本を購入したのですが、その中の「お見舞いの例」についての記述があり目が留まりました。
「ある教会では、重い病で入院されたある方のお見舞いを、牧師だけに限定したことがあります。なぜその教会がそのようにしたかと申しますと。その方が、死に関わるような病に対して、立ち向かおうとされているのか、それとももはや受けとめようとされているのか、揺れていらっしゃるということです。それをその時々に、教会のさまざまな人が来て、ある人は、その入院している方が病に立ち向かおうとされていると思い、励ます。またあるときには別の教会員が来て、その方が病を受け入れようとされていると思い、慰める。ある人は励まし、ある人は慰める。これをバラバラにやられたら、お見舞いに来られる方(重い病で入院された方)がまいってしまいます。・・・・教会という、群れとして一人の人に向き合うというとき、そういうことが起ります。人々の気持ちをつなぎ、お見舞いのやり方を整える必要が起ることもあります。」そのように書かれていました。
これはお見舞いをするときの心得と関わり方についてだけにとどまらず、主にある家族、兄弟姉妹として一人の人と向き合うことについて心がけておく必要があるなあと考えさせられました。つい状況や感情で動き、よかれと思って言葉を発しますが、今日のイエスさまのお姿からも、まずはどこに神の御心があるのかを尋ね求めることが大切なんだと思います。

さて、先にも申しましたように11章の初めのところで、マルタとマリアの姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたが愛しておられる者が病気なのです」と言わせたとあります。
姉妹らはイエスさまにすぐに来て下さるように頼んでいたのです。それはイエスさまならラザロの病をおいやしくださるに違いないと考えたからです。
ところがイエスさまはその知らせを聞いて、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われます。
そして愛する「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」のです。その間にラザロは死にました。
マルタとマリアは「イエスさまが来てくださるなら、どんな病気もいやされる」と信頼を寄せていただけに落胆の思いを隠しきれず、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と、イエスさまにその悔やむ思いをぶつけるのであります。

しかしどうでしょう。イエスさまのいやしに与れる人たちが皆、手を置いて祈られたわけではありません。
たとえば4章で、役人が瀕死の息子のところにおいで下さいと懇願したとき、イエスさまは「あなたの息子は生きる」と言われ、役人がそのお言葉を信じて息子のところに帰ると、イエスさまが「あなたの息子は生きる」とおっしゃった時刻に息子がいやされていたとの話が記されています。
又、イエスさまがローマの百人隊長の僕をいされたケースでも、その百人隊長がイエスさまに「唯お言葉を下されば僕はいやされます」と願い出で、彼の信仰をイエスさまがお喜びになったその同じ時刻にい求めた同じ時刻に僕はいやされたことが記されています。
イエスさまは直接的にその人に触れたり近づいたりなさらなくとも、そのご意志によっていやしを行われたのです。
ですからイエスさまがラザロのところに出向かれなかったのも、またそのときに何もなさらなかったことも御心のうちにあったのです。それはまだ「神の栄光があらわされるときではなかった」からです。けれどもイエスさまのお心はラザロと共にありました。
イエスさまはラザロと霊的なつながりをもってそのときを待っておられたのです。

「つながる」と申しますと、私たち人間はとかく目に見えるつながりや関わりをもち、そうして安心感を得たいと思うものですが。ネット、ライン、faceBook、ツイッターなどもそういった人の思いによってこれだけ普及をしてきたのでしょう。それは裏を返せば不安や孤独な思いが人のうちに強くあるからです。
人は孤独な思いを埋めるために様々なつながりを持とうとします。けれども人との関係性には限界があります。どんな良い関係性も、どんなに大切な人も、どんなに愛し合っていても、いつまでもその関係性が良好かどうかはわかりません。そしてやがて地上のあゆみを終えるときには、だれもが例外なく、人は一人で生まれて来るように、一人で死んでいくのです。たとえ双子、三つ子で生まれても最期は一人で死んでいくのです。人とのつながりは人が生きるうえでとても大切ですばらしいものです。けれども人とつながるだけではほんとうの平安は得られません。それは死を前にして明らかです。それは又、残される者にとっても同様に恐れと不安、又喪失感をもたらします。マルタとマリアもまさにそうでした。
死を前にしたとき、人間のつながりではどうすることもできない孤独を人は知るのです。ほんとうに人に平安を与えるのは、そして本当の孤独な心を満たし得るのは、命の源なる神とのつながりが必要なのです。
しかし人はその罪のために神との生きた関係性を自ら損なっています。罪とは非道義的、又非道徳的行為、あるいは社会的犯罪を直接的に指しているのではありません。罪とは義と愛である神との関係性を拒み、背を向け続け、自我の思いの腹のままに生きることです。ここからあらゆる具体的な罪から生じる事どもが起るのです。そこに真の平安はありません。
イエスさまはそのような罪と死の縄目から私たちを解放するために、肉の姿をとって来られ、十字架においていわば身代わりの裁きを受けてくださったのです。今や、だれもが、その神の御救いイエス・キリストを信じる信仰によって罪赦され、神とのつながりの回復、和解に与る恵みが与えられているのです。それは自己との和解でもあるのです。

イエスさまは言われます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
ラザロが死んで嘆き悲しむマルタは、イエスさまに「終わりの日に復活するおとは存じております」とだけ答えます。これは多くのユダヤ人たちが一般的にもっていた信仰観でした。
しかしここでイエスさまがおっしゃっているのは、ユダヤの一般的な復活理解ではなく、「あなたはどうなのか。あなたはわたしイエスのものが復活であり、命であると信じるのか」と問われているのであります。これはとても大きな問題です。
私たちも又マルタのように、日頃から一般的信仰観で言われている事を口にしてはいないでしょうか。主イエスは、まさに今生きている私たちと共におられ「あなたはわたしを信じるか」と、問われているのです。

マルタはそこで、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じます」と答えます。
しかしマルタはこの後、イエスさまから「ラザロが葬られた墓をふさぐ石を取りのけなさい」と言われたとき。「主よ、4日もたっていますから、もうにおいます」と答えます。
そのマルタに対してイエスさまは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」とおっしゃるのです。
「神の栄光」とは何でしょうか?
それこそが、死と滅びに勝利した神の救い、主イエスご自身であります。
神の独り子・主イエスが私たちの罪を担い、十字架にかかってその罪を贖い、私たちを罪の滅びから救い出して下さった。私たちがこの主イエスのよみがえりの命に与っていくこと、これこそが父なる神さまが世にあらわされた「神の栄光」なのです。
イエスさまはラザロの病気を伝え聞いた時、「この病気は死で終わるものではない」(4節)とおっしゃいましたが、それはそのようにして主イエスによる「神の栄光」が顕わされるためであります。
そうしてさらに15節でイエスさまは弟子たちに、「あなたがたが信じるようになるためである」とおっしゃったとおり、それは2000年のときと世界を経て、今日も私たちが主イエスを信じて、主の復活の命に与るためであります。
イエスを信じる者が、主の復活の命を受けるためである、ということです。
これは、遠い遠いいつ来くるか分からない将来、終わりの時なら、また会えるかもしれない、というような実体のないおぼろげな信心を根底からくつがえす神の霊と力の証明であります。

最後に今日のメッセージで最もお伝えしたいことをお話します。
それは、主が今、「あなたは信じるか」と、ここにおられるお一人お一人に問うておられるということです。
大事なことは、主は今、誰ではなく、わたしという個人に問いかけています。
「わたしは、イエスがわたしの命を贖うために十字架におかかりになって死に、よみがえられた救い主と信じますか」。命の言葉はそのあなたの信仰を問うているのです。
主イエスにある命、復活は、終わりの日に限ったことではなく、今、信じる私たちと共におられ主イエス・キリストによって実現されていることを、信仰をもって受け取ってまいりたいと願います。

「信仰を問う命の言葉」、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。
日々主イエスを信じ、主イエスに倣い生きることの中に、永遠の命と復活とがあるという今日の聖書のお言葉であります。

「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシア(キリスト)であるとわたしは信じております」と、その時の精いっぱいの信仰を言い表わしたマルタのように、私たちも主にある信仰を日々守り、保って、主に遣わされてまいりましょう。

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夕べの礼拝・ご案内

2020-02-20 09:20:41 | 教会案内

日 時 2月23(日)午後6時-7時半 
みなさまこんにちは。
 
2月23日の夕礼拝は予定通り行われますが、

当分の間、会食(食事)は行われません。

ご理解願います。

 

これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝です。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。

*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。
*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。
*教会って何となく敷居が高い。
*こころに悩みごとを抱えている。
*身体的に困難なことがある。
*聖書の知識がない、

ご安心ください。

①聖書の紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、
③さんびの歌を一緒に歌う、
 こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。

※無料ですが、自由献金の時はあります。
 
お気軽にいらしてください。

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良い羊飼い、主イエス

2020-02-16 14:25:31 | メッセージ

礼拝宣教 ヨハネ10:1-18 

本日はヨハネ10章より「良い羊飼い、主イエス」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
先ほどヨハネ福音書10章1-18節が読まれましたが、その1~6節において、主イエスはまず「羊の囲いや門」の譬えを語られます。
羊というのは弱い動物です。狼などに襲われたら、自分で自分を守ることが出来ません。獰猛な野獣が来ても弱視のため気づきにくく、気づいたところで牙も角も無いので逃げるにしても走っているのか歩いているのかわからないくらいです。又、他の動物に比べて弱いというだけでなく、自ら生きていく術を知らないために群れを作り、羊飼いの導きなしには生きていけません。
イスラエルの民がエジプトから主の導き出された時、「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちはどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに・・・・あなたたちを導き出した」と申命記7章7-8節に記されています。さらに今日の招詞で読まれたように、主イエスは、イスラエルの「民が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9章35節以降)のです。まさに主イエスは、その民の羊飼いとなられ、ご自分の群れとして養われたのです。そして主イエスは「良い羊飼い」として世にご自身を現わされました。

まず、この譬えについて2つのことが語られています。
一つは、「門」についてです。1節には次のようにあります。「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は盗人であり、強盗である」。
夜の間、羊たちは囲いの中で休みます。日中は、羊飼いによって囲いから出されて、牧草地に行くのです。囲いには当然門があり、羊や羊飼いが出入りする時はそこを通ります。もし門を通らないで囲いに入ってくる者がいるとするならば、それは盗人であり、強盗です。盗人や強盗のように神の民を散らしたり奪い取っていく存在があるということを主イエスは指摘しておられるのです。
羊を本当に養い導くための門を開けることができるのは羊飼いだけです。そして、羊飼いが自分の羊の名を呼ぶと、羊はその声を聞き分けます。羊たちは飼い主の声を知っていて、ついて行くのです。普段から羊飼いは羊を呼んだり、安否確認の点呼をするときに、数字や番号ではなく、羊一匹一匹の名前を呼んでそうしたのです。
羊も又、自分を養ってくれる飼い主の声を知っているのです。その声について行きます。自分を本当に養ってくれる羊飼い以外の人の声には反応しないのです。ここに主の声によって集められ導かれるキリスト者の群れの姿が示されているのですね。

さて、この主イエスの譬えについて、6節を見ますと次のようにあります。
「イエスはこのたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話しが何のことか分からなかった」。
本日の箇所は、実は9章の主イエスが盲人の目を開かれたことを巡って、主イエスとファリサイ派の人々との間でなされた議論の中での譬え話なのです。そこには目の見えなかった人は癒やされ見えるようになってイエスさまを信じましたが。ファリサイ派の人たちはその人を裁いて「おまえは全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と彼を追い出し、閉め出すんですね。
ファリサイ派は当時宗教的指導者で、自分たちこそ神の救いが見えていると思っていました。律法を守ることによって救いが得られると信じ、律法の教師として人々を教え、指導していたのです。まさに、民の羊飼いとして振る舞っていたのです。
けれども、この人々は自分たちが律法を厳格に守っていることを誇り、律法を守ることが出来ない隣人を裁くことに熱心でした。主イエスはこのファリサイ派の人たちの偽善を指摘したことによって、彼らから憎まれ、対立するようになっていきます。
この時、群衆の中には主イエスを信じる者が大勢出てきていました。丁度、羊が羊飼いの声を聞き分けるように、大勢の人がイエスさまのもとに集まってきていたのです。そのこともファリサイ派の人たちは断固許せなかった。
まさにそのような中で、主イエスはこの譬えを語られたのです。しかし、ファリサイ派の人々は、この譬えによって何が話されているのかを理解することは出来ませんでした。
彼らの高慢は神の救いが見えなくなる程でした。高慢とは実に怖しいものです。

そこで、今日のところで主イエスは先ず、「はっきり言っておく。わたしは羊の門である」と語られます。主イエスは、ご自身こそ門であると言われるのです。
門というのは9節に「わたしを通って入る者は救われる」とあるように、「救いに導き出される門」のことです。羊たちは、この門を通って命の糧であるゆたかな牧草地へと導き出されるのです。
そのように、救いの門であるイエス・キリストを通らなければ真の救いに導き出される、そして救いの恵みに与ることは出来ないというのです。

一方、8節で主イエスは「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」と言われます。ここで、「盗人」、「強盗」とされている、「主イエスより前に来た者」というのは、主イエスと対立して律法遵守によらなければ決して救われない、と自分の業を誇り、高慢になって人を裁いていくようなファリサイ派の指導者に向けられているのです。
 それは、主イエス・キリストという神の救いの門を通らない者であり、1節で指摘されているように、「門を通らない他のところを乗越えて来る者」で、羊を奪ったり散らしたりするというのです。
イエスさまは、そのような者に従っても救いに与ることにはならないと言われているのです。それは10節に厳しく指摘されているように、「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」からです。        
たとえ、表面的には羊たちを養っているように見えても、彼らは実際には自分自身を養うことにしか関心がないのです。律法による救いを説いていましたが、それは本当に人々の救いを願って教えていたのではありません。むしろ、自分が人々からいかによく思われ、尊敬されるかということに気を配っていたのです。イエスさまは彼らのそのような魂胆を見抜いておられたのです。

いつの時代も、イエス・キリストという門を通らないで他のところを乗越えて羊に近寄って来る者があります。様々な魂の救いを説く教えがあります。スピリチュアルな世界やニューエイジ(精神世界)もその一つです。又、いろいろなライフスタイルや人生訓の指南をする人もおります。
それらは、私たちにイエス・キリストを信じて歩むことよりも遙かに自分を自分らしく生かしてくれるものだ、と思わせるのです。そうして私たちに「何も神など信じなくても楽しく充実した人生を歩むことができる。信仰に生きるなどということは堅苦しく面倒くさいことだ」と思わせるのです。そして、お金や、地位、自分の歩みに対する誇り
とするところ。仕事、家族、知識、業績等、様々なものが良い人生の条件、充実した人生であるかのように思わせ、そのようなものこそ本当に求めるべきものであると感じさせるのです。
このように、イエス・キリストから私たちを遠ざけようと誘う者すべてが、ここで言われている「盗人、強盗」なのです。そのような「盗人、強盗」の声は知らず知らずの内に、私たちの生活の中、又ともすれば教会の中に入り込んで来ることさえあるのです。
私たちはイエス・キリストこそ「救いの門」と信じ続けて日々をひたむきに歩むものでありたいと切に願うものです。
イエス・キリストとは別に、自分の救いのよりどころとなるものを頼りにしていこうとしていないか。又、主の御声にではなく人の大きな声に流され、惑わされていないか。私たちキリスト者が忘れてはならないこと、それは、イエス・キリストこそが救いの門なのです。私たちがキリストのからだなる教会、主の家族に連ならせて頂いているのは、ただ神さまの愛と恵みによってのみであること。それが何か自らの特権であるかのように考えることは出来ません。私たちキリスト者は、たえず「救いの門」であられ、一人一人の名を呼んで下さる羊飼い、主イエスの声にいつも聞き従っていくのでなくてはならないのです。
飼い主がいなければ生きていけない羊のような私。クリスチャン、キリスト者とは、「もうイエス・キリストにしか救いがない。このお方に導いていただく他無い」者なのです。
そこに実に確かな救いの道があるのです。

さて、もう一つは「良い羊飼い」についてです。
10節で主イエスは「盗人、強盗」とご自身を区別し、「わたしが来たのは羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と言われます。
そして11節で、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と、ご自分がどのように羊を守り救われるのかをお示しになります。
私たちは、ただ、イエス・キリストという救いに至る門を知るだけでなく、良い羊飼いによって導き出されなくてはなりません。
12節に「雇い人」が出てまいりますが。雇い人は自分の羊ではないと思っているので、羊のことを心にかけていません。お金をもらえるからそうしているだけで、自分の羊じゃありませんから愛情もなく、羊をいわば物のように扱い、数字で数えて、自分たちの利益や業績につながることとしてしか捉えていないのです。
ですから、雇人は「狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げ」、いざという時には、羊を助けはしません。「羊のことを心にかけていないからである」と、主は言われています。
一方で主イエスは、「わたしが良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」と言われます。
この「知る」と言うのは、私たちが何か物事を認識する時の「知る」ということよりももっと深い意味があります。
それは、父なる神と子なるイエス・キリストが深い愛の交わりの中に結ばれているという実体であります。それと同様に、主イエスが、私たち一人一人の名を呼んで集めて、私たちがその声を聞いて養われる時、私たちも又、主イエスと深い愛の交わりの内におかれる。聖霊のお導きによってその実体験をすることができるのです。

私たちを襲う危機で最も恐ろしいものとは、何でしょうか?
それこそが神の愛と救いから引き離そうとする罪の力です。罪は人の内にも外にも働いて人を滅ぼします。

主イエスは「わたは良い羊飼いである。わたしは羊のために命を捨てる」と言われます。それは父なる神さまの御心なのです。主イエスがご自身のことを「良い羊飼いである」と言われているのは、主イエス御自身が父なる神の御心に従われて、十字架において自らの命を投げ打って、ご自分の羊をお救いになられるお方だからです。
主イエスはこのように自らの命を投げ打ってまで、導く者がなければさまよい、死ぬほかない羊のような私たちを、罪の滅びから救い出してくださったのです。
私たちを襲う危機で最も恐ろしいもの、私たちにとっての最大の狼、罪による滅びと死の力。私たちはそこからいつも救われ続けなければなりません。

どのような時であっても、私を見捨てない羊飼いこそ、本当に良い羊飼いであり、私たちの救い主なのです。
巷には偽物の救いが溢れています。目先の安心や楽しみを提供する雇い人がそこかしこにもいっぱいです。本物の救い、本物の平安、本物の命を与えようと導いてくださる「良い羊飼い・主イエス」の声を聞き分け、信じて従う。27節にありますように、遂には永遠の命を受ける者とされたいと願うものです。

最後に、主イエスが16節で「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。
その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」と言われていることに目を向けたいと思います。
 ここではっきりしていることは、主イエスは今現在ご自身の群れに連なっていない人も心にかけておられるのです。「その羊をも導かねばならない」と、救いに至る道を示し続けておられるのです。
私たちは、主イエスのこの思いを共有していかなくてはなりません。私たち自身が自らの心に囲いを作らないようにしなければなりません。
主イエスの十字架による救いの御業は、キリストの群れの交わりの中にいない者のためにもなされたものであり、主イエスは、そのような人々も気にかけておられるのです。そうして、主は羊飼いの囲い入っている者と遂に一つの群れになるということを望んでおられます。それは又、私たちのチャレンジとして投げかけられてることでもあるでしょう。
「良い羊飼い」の声を聞く一人ひとりが起こされ、一人の羊飼いの前で心から悔い改め、新たに救いに与り、一つの群れとなっていく。そのことを私たちはまず自分自身のこととして祈り求めながら、日々主イエスの声を聞き分けて、この方に導かれつつ歩むものとされてまいりましょう。

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12日親子広場休会のおしらせ

2020-02-10 18:01:44 | お知らせ

いつもブログへのご訪問ありがとうございます。

12日に予定しておりました「親子広場」は、

新型ウイルス等の影響も考慮し、今回は休会とさせて戴きます。

ご理解よろしくお願いいたします。

なお、午前の祈祷会と夜の祈祷会は通常どおり開催いたします。

T.S

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世の光、主イエス

2020-02-09 14:07:17 | メッセージ

礼拝宣教 ヨハネ8章12-20節 


本日は、ヨハネによる福音書8章12~20節より、「世の光、主イエス」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。この箇所は、直接的には7章の終わりから続いています。それは仮庵の祭の時のことでした。仮庵というのは言わば木材や布で作るテントのようなもので、このお祭りの時にはその仮小屋を建て、そこで寝泊りをして先祖たちがエジプトを脱出して、そのように仮庵を行く先々に建てながら荒野を40年間旅したことを思い起こすのです。又、イエスさまの時代には、仮庵祭の期間中には、毎日シロアムの池の水を黄金の器に汲んで神殿に運び、朝夕の供え物とともに祭壇に水が注がれる行事が行われました。これは、出エジプトの時に、イスラエルの民が「こんな水がないようなところにどうして自分たちを連れて来たのか、エジプトにいた方がましだったのに」と指導者モーセに不平不満をぶつけたとき、モーセが主の言われたように、杖で岩を打つと水が湧き溢れて、イスラエル民の渇きを潤してくださった。このことを記念としておぼえるための儀式であったのです。先週はそのお祭りが最も盛大に祝われるクライマックスともいえる水が注がれるとき、高揚し酔いしれていたユダヤの人々にイエスさまが、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は聖書に書いてあるとおり、その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる」と大声でおっしゃった。そのところから、「救いの泉、主イエス」と題し、御言葉を聞きました。
本日の箇所では、水ではなく光の話であります。この仮庵祭ではエルサレム神殿の中庭の婦人の庭と呼ばれるところで、4本のたいまつに火が焚かれ、祭りの期間中ずっとたいまつに火が灯し続けられたのです。これは出エジプト13:21~22に「主は彼らに先立って歩み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった」と記されていますが。そのように出エジプトの時、荒野において毎晩、イスラエルの民を「火の柱」をもって導いて下さった神さまの恵みを決して忘れないようにするために、仮庵の祭りの最中は4本のたいまつに火を灯し続けたのです。今でもユダヤの人々はその祭りを大切に受け継いで行っていますが。                                      
さて、本日の箇所はその仮庵祭が行われていたおそらく最後の日の夕刻であったと言われていますが。そこでイエスさまは「再び言われた。」というのは、先週の7章の「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と、大声で言われたことに続いて「再び言われた」ということであります。始めの出来事の後、「この人は一体だれなのか」「預言者なのか」「ひょっとしてこの人こそメシアなのか」といった論議が起りました。さらに群衆の間に対立まで生じたというのです。そうした中、祭司長やファリサイ派といったいわばユダヤの指導者たちがイエスさまの言動に反発していたときには、すでに何とかしてイエスさまを捕らえようとしていました。                                        ところが、イエスを捕えるために派遣されていた役人たちは空手で祭司長たちやファリサイ派の人たちのもとに帰ってくるのです。         「なぜイエスを捕えて来なかったのか」と責められた役人たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えます。ファリサイ派の人たちは腹を立て、「お前たちまでも惑わされたのか」となじり、さらに「議員や我々ファリサイ派の者の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。律法を知らない群衆は、呪われている」とエリート意識をむき出しにして群衆を断罪します。イエスさまの話を聞き、行いを見た群衆の中には、「この方こそ約束されたメシア、救い主だと信じ、受け入れようとしていた人もいたかも知れません。世の力、肉の働きと申しますか。彼らはその人たちに対して、「律法を知らない群衆は呪われている」と裁いたのです。                              

そこに一人のユダヤの議員がいました。彼はずっと事の成り行きを見つめていたのです。彼の名はニコデモと言った。以前、ひそかに闇夜、イエスさまを訪ねて来たファリサイ派に属していた長老です。彼は「律法を知らない群衆は呪われている」と断罪して裁いた仲間に対して言います。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決をくだしてはならないことになっている。」つまり、あなたがたこそ律法を知るべきだ、と進言したのです。かつては暗い闇夜に人目を避けるようにイエスさまを訪ねたその彼が、真理の光に照らされたかのように、仲間うちからどう見られようも間違っていることは間違っている、と伝えたのです。それはイエスさまのうちに、世にはない威厳と真理を強く感じていたからでしょう。               
このニコデモと最初に対面されたとき、イエスさまはこのようにおっしゃいました。週報の表に記しましたのでご覧ください。ヨハネ3章17-21節「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」                                     ここでは裁きと光について主は語られています。実は今日のところは、そのニコデモとのやりとりが伏線としてあって、それが実際に公の出来事となって起こっているのです。今日のところでイエスさまは再び言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
その祭りの場所で、イエスさまは「わたしは世の光である」と宣言されました。ここでも「エゴ、エイミ」と「わたしがそれである」、「わたしが世の光である」と語られたのです。                                  
光といえば、冬から春に向かうまあこの時期は、一日一日夜明けの時刻が早くなってきましたが。年齢を重ねてまいりますと早起きをされる方も多くなるとよく言われますが。自然の中でも、又この都会でもそうですが。それまで真っ暗だったその所が、いつの間にか明るくなってきて、やがて陽が臨み、光が射し込んでまいります。ああ、闇が明けた、と何だかホッとするような思いがします。
ところで、かつてイスラエルの民が何にもない荒野を仮庵生活しながら旅したとき、どんなに心細く不安であったかと想像しますが。そのような中、神が夜は火の柱をもって民のその行くべき道を照らして導かれたことはどんなに心強く、又安心そのものであっただろと思います。
暗闇の中にいますと人は不安になり、怖れを持ちます。そこで電灯やあかりをつけては周囲を照らして不安や怖れを一時的にしのいでいこうといたします。

けれども人生には電灯や人工の明かりではしのぐことができない「闇」があります。その最大の闇。それは「死」でありしょう。それも、ここの8章24節にありますように「自分の罪のうち死ぬ」ということほどの「闇」は他にありません。それは裁きであり、絶望であり、何よりも創造主であられる父の神との関係の断絶です。その状態を聖書は罪というのです。この解決のために神は独り子イエスさまを救い主、まさに世の光、命の光として、世にお遣わしくださったのです。
イエスさまがおっしゃるように、人は肉の思いに従って裁きます。しかし主の裁きは真実で、闇を光が照らし出すように、神の真理のもと、すべての隠れた悪や偽りといったものがみな暴かれ、明らかにされるのであります。それはまた主に信頼し従ってきた者のあゆみもすべて明らかにされる。つまり希望となるのです。単なる一時的な光とすべてを照らし出す真理の光の違いはここにあります。

さて、イエスさまのお言葉を聞いたファリサイ派の人々は、「わたしが世の光である」という主イエスの言葉を信じませんでした。
なぜ信じないのかというと、「イエスが自分について証しをしているからだ」と彼らは言っています。自分がそう言っているだけで信用できない、例えば、特別な誰かがそのことを証言してくれるのでなければ、その言葉には信憑性がない、というのです。
民衆はイエスさまの言葉と行いと業を見て、この人は預言者だ、メシアダと素朴に思っていたのですが。我らこそ神の民と自負する祭司長やファリサイ派の人たちは民衆を見下していました。彼らにとってイエスさまはこれまた民衆を惑わすやからとしか映っていなかったのでしょう。まあすのように、「イエスが神によって来られたことの証人がいない」「証明がない」という彼らに対して、イエスさまは、「父なる神が共におられる。そのことが証明だ」とおっしゃるのです。
 
イエスさまはご自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのかを知っておられました。イエスさまは、ご自分が神の独り子であり、父なる神によって遣わされたものであることを知っておられました。それは神との関係が断絶された人の世の闇の中で、滅ぶほかない人間を救うためです。
イエスさまは父の神のこの御心を成し遂げるために来られ、従い通されたのです。そのようにイエスさまが世の光であることは、イエスさまがお一人で言っていることではありません。イエスさまをお遣わしになった父の神がそのことを証ししておられる。その父なる神とイエスさまのみ業が十字架で成し遂げられ実現されたことを私たちは知っています。
ここでは、ファリサイ派の人々はイエスを頑なに拒絶し続けます。それはあたかも彼らが「律法を知らない群衆は、呪われている」と、断罪したのと同じように自分たちのおごりと、イエスさまに対する偏見が根強くあったからです。

イエスさまは15節でこう言われました。
「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。」このイエスさまのお言葉は7章全体を貫くものとしてとっても重要です。      
先にお話したニコデモとの会話のところでも、3章17節に「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁く(断罪する)ためでなく、御子によって世が救われるためである」と、はっきりおっしゃっています。御子イエスによって世、すべての罪ある人が救われるということこそ父の神の御心であるのです。

イエスさまは頑ななファリサイ派の人々に対して、「あなたたちはわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ」とお答えになりました。
12章44節以降には、「イエスの言葉による裁き」という小見出しがつけられていますが、とっても大事なところなのでそこを皆さんと読んでみたいと思います。こちらも週報の表に載せていますのでご覧ください。
イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見るものは、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く、なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」
「世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。」

この時の祭司長やファリサイ派の人たちの自分でも気づかなかった闇。滅び。それは律法と裁きで人も自分もがんじがらめにして、神さまとの関係を自ら断ち切ってしまっているということです。しかし、これは他人事ではありません。人誰しも、この底なしの暗闇に堕ちていく危うさをもっています。
イエスさまは言われます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
父の神ともにあって来られた「世の光、主イエス」の救いと、裁きからの解放に与って、日々主イエスに聞き従っていく。そのような光の中を歩む毎日を送り、来るべき永遠の朝を迎えたいですね。
日々の生活の様々な場にあって、又いろんな問題に出逢った時にも、「じゃあイエスさまだったら、なんとおっしゃるだろう。こんな時、どのようになさるのか」ということを心に思い起こして、自分の腹にではなく主イエスに従っていく、私たちでありたいと、切に願うものです。祈りましょう。

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ブログ開設から今日で5000日

2020-02-08 12:17:20 | お知らせ

本日、ブログ開設から5000日を迎えました。

これまでの当ブログへのご訪問、フォロー、見守り、ありがとうございました。

今後も、さらに読みやすく、役立つブログとしてご活用できるよう、努めてまいりたいと思います。

これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

T.S

 

 

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夕べの礼拝・主の食卓を囲んで~ご案内

2020-02-08 12:17:20 | 教会案内

日 時 2月9(日)午後6時-7時半 
みなさまこんにちは。
 
2月の夕礼拝が9日、予定通り行われます。
行ってみたいと思われる方は、ぜひいらしてください。
歓迎です。
 
これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝です。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金の時はあります。
 
お気軽にいらしてください。

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救いの泉、主イエス

2020-02-02 20:20:26 | メッセージ

礼拝宣教 ヨハネ7章37-39節 

先週は火曜日のTさん、そして金曜日にはRさんの告別式が続き、私たち大阪教会の主にある家族お二人を天に送ることになり寂しい思いですが。私たちは死よりよみがえられた復活の主イエスにあって再び主の名のもとにお会いする時が備えられていることを信じるものです。けれども地上においては寂しい思いでいらっしゃるそれぞれのご遺族皆様のこれからの歩みの上に、主の慰めとお支えが豊かにありますよう引き続きお祈り下さい。

本日はヨハネ7章より「救いの泉、主イエス」と題し、み言葉に聞いていきたいと思います。

① 「水にまつわる祭り」
私たちは生きていくために日々食事をします。そして水は欠かすことができません。私も一日目標2リットルの水を摂取するように心がけてはいますが、せいぜい500ミリリットルのペットボトル1本飲むだけでも難儀しています。が、水を飲まないと血の通りが悪くなったり、不純物を溜め込んでしまったりと、身体にはよくありません。珈琲なら1日3度は煎飲んではいるのですが。カフェインは体の水分を出すので水は2倍飲まないといけないそうですが難しいですね、贅沢な話です。蛇口をひねれば水が出る日本の感覚と、幼児の聖書のイスラエルの雨期以外ほとんど雨が降らないところでの水に対する価値判断は大きな違いがあるでしょう。
今日読まれましたユダヤの仮庵祭は、「イスラエルの民が荒野で天幕に住んだことを記念し、仮庵、まあテントのようなものを造って祭りの間そこに仮住まいをしたのです。イエスさまの時代には、7日間ないしは8日間「の祭りの期間中、毎日シロアムの池の水を黄金の器に汲んで神殿に運び、朝夕の供え物とともに祭壇に注ぐ行事として行われていた」とのことです。日本の祭りでもお水取りなんてことをするようですが。
イスラエルの先祖たちがかつてエジプトを脱出してシナイ半島の荒野を旅した折、彼らは食べ物も飲み水も十分ではなくなってきたことに腹を立て、まあそこで指導者モーセにくってかかって「なんでこんなところまで我々を連れて来たのか、こんなになるんだったらエジプトにいた方がまだましだった」と激しく不平不満を言うのですね。
しかし神さまは不平をもち忍耐できない人々に対して、モーセを用いて岩から水を湧き出せて民の渇きをいやされたのです。
それ以来、イスラエルの人々は代々、自分たちの今と未来とがあるのもそのことがあったからだと記念し覚えて、祝ったのがこの仮庵の祭りなんですね。

ところがです。イエスさまの時代このシロアムの池から水を汲んで注ぐ祭壇は、厳しい入場制限があったというのです。
女性や子ども、又、何らかの不自由を抱える人は神殿にも入ることがゆるされませんでした。貧しい人は神殿の門の前で施しを乞うていました。まあ、神殿や祭壇に入って祭りに加わりたくてもゆるされない人たちがいたのです。
その一方で、神殿に入れて祭壇に近づくことができたユダヤの人々も又、この儀式に酔いしれてはいましたが、彼らを真に満たし得ることになっていないことを、イエスさまは見通しておられたのです。
ある方がクリスチャンになる以前、若い頃までお祭り行って高揚した気分になり、神社で手を合わせたりもしたが、神さまとの関係性を感じることはなかった。けれどもイエスさまと出会って、本当に神さまの愛に満たされ喜びを知ったということを言っておられましたが。
37節「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」。
この「だれでも」というイエスさまの招きの言葉が非常に重要なのです。

神さまの恵みのみ業を覚えつつ、切実に今日の命の水を必要としている魂の渇きを切実にもっていた人たちが、この祭りから閉め出されている。
この祭りは一体何のためにあるのか、という強い義憤の思いをイエスさまはもっておられたのでありましょう。
イエスさまは、神殿に入ることがゆるされていなかった人々に対しても、神は等しく招いておられることをお示しになられたのです。
この時も、そして今も変わることなく、主イエスは「だれでも」が神の真の満たしに与えられるように強く招いておられるのです。

② 「イエスさまが与える水を飲め」
さて、ここでイエスさまは「わたしが与える水を飲みなさい」と招かれました。
物質的な水は私たちの身体や健康にとって大切なものには違いありません。けれどもこの水は一時的なものであり、人の魂を平安にし、人生を潤し満たすことはできません。
イエスさまが与えてくださる水をイエスさまから飲むこと、それが私たちの魂を真に平安にし、生き返らせ、人生を満たすことができるのです。

私たち人間の渇きのもっとも深い原因はどこにあるのでしょうか?
それは神さまとの断絶です。万物の創造主であり、人を御自分の作品として形づくり、慈しんでおられる神さまとの和解がなければ人は平安を得られず、魂は渇きます。
キリストによる罪の赦しと神との和解こそ真の平安、魂の渇きを満たす源となるのです。
渇きは何度も起ります。真に渇きを満たす生きた水、根本的に渇きを満たす生きた水の源泉が必要なのです。命の水の源泉であられるイエスさまから戴く必要があるのです。

③ 「生ける命の水の性質」
ではこのイエスさまが与えてくださる生きた水、もっといえば生ける命の水の性質、水質とはどのようなものなのでしょうか?
38節「聖書に書いているとおり、その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる」とあります。
旧約聖書のゼカリヤ書14章8-9節を読みますと、「その日、エルサレムから命の水が湧き出て、半分は東の海へ、半分は西の海へ向い、夏も冬も流れ続ける。主は地上をすべて治める王となられる。その日には唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる」。イエスさまのことが預言されているんですね。命の水は世界の四方に溢れ流れ出て、すべての地を潤していくのです。
全世界のみ救いを成し遂げるために、十字架上で御体を裂かれたイエスさまが脇腹を槍で突かれた時、水が流れ出たとあります。医学的にいえば腹水であったのかも知れませんが、主イエスを信じる私どもにとりましてそれは「命の水」を象徴する霊的な水であります。
イエスさまの生ける水は、神さまが御独り子を犠牲にしてまで私たちのために与え尽くしてくださった、人を活かす神さまの愛そのものなのです。

さらに、その生ける水について、39節「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている霊についていわれた」と記されています。
この「霊」は幽霊とか亡霊とかといった得体の知れないようなものではありません。
ここに言われているのは、三位一体の「聖霊」の神さまご自身のことです。聖霊は神の力におけるお働きなのです。聖霊によらなければイエスさまを救い主と信じ、受け入れることはできません。

④ 「生ける命の水の流れ」
さて、人の魂を真に満たすことのできる生ける命の水、聖霊のお働きによってさらに生ける命の水は溢れ流れていきます。
ヨハネ4章でイエスさまは、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とおっしゃいました。
そのようにイエスさまから流れ出る水は、それを戴く人のうちからも留まることなく湧き溢れていくのです。
もう何度も中村哲医師のお名前を出して恐縮ですが。先生は恐らくイスラム教徒などの多いパキスタンのペシャワールやアフガニスタンのガブールで活動なさるのに、ご自分がクリスチャンであることを控えていらしたようです。先生は日本バプテスト連盟の香住ヶ丘バプテスト教会の初穂(一番最初にバプテスマに与かった方)です。強い使命感をもって、ペシャワールの会を有志の方々と立ち上げ、やがて垣根を越え、ゆたかに拡がってゆきました。中村医師と志を共にする人たちのうちから、言うなれば「生ける命の水が溢れ出で、荒野に道が切り拓かれて、命の水の川が流れ溢れて、多くの人が今もその水に潤されています。
先生は思いもよらぬかたちでの最期となられましたが。先生がなさって来られたことは
途絶えず今も引き継がれて、命の水の流れはこれからも人と大地を潤していくことと信じます。その命の水の源は主イエス・キリストであると信じます。
昨日から藍色のシャマールの音楽劇が教会を会場に行われていますが。後藤健二さんの活動もそうだったと思うのです。彼自身の志と共にクリスチャンであった彼のうちから流れ出るキリストご自身の愛にあって、危険を冒しながら戦地に入り込み、そこで懸命に生きている人たち、とくに子どもや女性、病のうちに苦しむ人たち、生活を破壊された人たちに、寄り添り沿うように取材をして、この現実を多くの人に知って欲しいとマスメディアを通して、又、子どもでも読み易い本を何冊も書いて本当に地道なかたちで発信され続けてこられたのですね。

私は何もできない、何も持っていないなどと思う必要はまったくありません。
イエスさまは、「渇いている人はだれでも、わたしのもとに来なさい」。だれでも来て命の水を戴く時に、聖霊がどのような人であっても、神の栄光を顕わす器として下さるのです。そこに意にそぐわないガンバリやヨロコビの伴わない背伸びは必要ありません。
ただ、「アァーメン」と受けることによって聖霊がお働き下さるのです。

⑤「大切なこと」
大切なことは主イエスこそ命の水の源泉、救いの泉であることを日毎に確認し、聖霊のお働きを確信していくことです。
生ける水、命の水は旧約聖書においては、命を与える神の言葉と神の知恵を表わします。箴言13章14節には「知恵のある人の教えは命の泉」とあり、さらに箴言18章4節には「人の口の言葉は深い水のようだ。知恵の泉は、わいて流れる川である」と記されております。聖書のみ言葉は神さまの知恵であり、命の言であります。御言葉に馴染んで生きる日々、又御言葉の分かち合いは大事です。けれどももっと重要なのは、その命の水の源、救いの泉が主イエスご自身であられるということです。
ヨハネ5章で、主イエスはご自分を信じようとしない人々に対してこうおっしゃいました。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」。
私たちはどんな学びの中にも、礼拝や集会の中にも、この主イエスこそ生ける命の水の源であり、救いの泉である。このことを発見し、確認していくことが大切なのです。
今日もこのことを喜びのうちに確認しつつ、ここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

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