礼拝宣教 ヨハネ11・17~27
本日の箇所は告別式の折にお話をさせていただくことがあります。深い悲しみに暮れるご遺族の方々は、そこでイエスさまの「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる」との御声に深い慰めと大いなる希望を戴くわけでありますが。今日は、さまざまな不安や恐れ、心配に心疲れるような私たち一人ひとりに「信仰を問う命の言葉」題して、その御声に聞いていきたいと願います。
そもそもこの箇所は、いよいよイエスさまが十字架の道を辿り行くその過程にあって起った出来事でありました。イエスさまご自身、命を狙われている中で、弟子たちも又、心配や不安の緊張感を持つ中で、現わされた業、語られた御言葉であったという事です。このベタニア村の兄弟たちは両親を早いうちに亡くしたのでしょうか。3人で寄り添うように生活をしていました。そういう中でイエスさまと出会い、神の愛を示された彼らはイエスさま一行を家に招いて迎えます。その時のマルタとマリアのエピソードはルカ福音書10章に記されておりますようによく知られておりますが。
今日の箇所のすぐ後の12章で、過越祭の6日前(イエスさまが十字架におかかりになる6日前)にも、イエスさまはベタニア村に行かれ3人のもてなしをお受けになられています。そのように11章5節にありますとおり、イエスさまはマルタとマリアとラザロを大変いつくしみ、愛しておられたのであります。
そうした3人のうちのラザロが病気に罹ってしまいます。姉妹たちはイエスさまに使いを送り知らせるのでありますが、イエスさまはそこに行こうとはなさいません。そうしてラザロは死んで墓に埋葬されてしまうのです。そこからが今日の箇所であります。
まずここを読んで、私は牧師の立場から気になりましたのは、ラザロを亡くた姉妹マルタとマリアが、同じように「主よ、もしあなたがここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21,32)といった言葉であります。
これは牧師の働きをする中で教会の兄弟姉妹やそのご家族が天に召されていく折に共にさせて頂く機会もありますが、それが叶わなかったこともございます。
そういう時、教会の執り成しと祈りの中で、召されることを望まれていたのではなかろうか。ご家族にとっても微力ながらお力になれることがあったのではなかろうか、特に連絡が来た時には既に仏式で葬儀が済まされていた時などは、ご本人の遺志を思えば本当に残念な思いがいたします。
私は今しも召されようとしておられる方に対して、そこに居合わせたからといって何ができるわけでもありません。それは神のご領域であり、私はほんとうに無力な者です。それでもそこで信仰を確認し合い、教会の祈りの代表として執り成しの祈りを共にすることはできるでしょう。
先日神学校時代の知人が執筆した本を購入したのですが、その中の「お見舞いの例」についての記述があり目が留まりました。
「ある教会では、重い病で入院されたある方のお見舞いを、牧師だけに限定したことがあります。なぜその教会がそのようにしたかと申しますと。その方が、死に関わるような病に対して、立ち向かおうとされているのか、それとももはや受けとめようとされているのか、揺れていらっしゃるということです。それをその時々に、教会のさまざまな人が来て、ある人は、その入院している方が病に立ち向かおうとされていると思い、励ます。またあるときには別の教会員が来て、その方が病を受け入れようとされていると思い、慰める。ある人は励まし、ある人は慰める。これをバラバラにやられたら、お見舞いに来られる方(重い病で入院された方)がまいってしまいます。・・・・教会という、群れとして一人の人に向き合うというとき、そういうことが起ります。人々の気持ちをつなぎ、お見舞いのやり方を整える必要が起ることもあります。」そのように書かれていました。
これはお見舞いをするときの心得と関わり方についてだけにとどまらず、主にある家族、兄弟姉妹として一人の人と向き合うことについて心がけておく必要があるなあと考えさせられました。つい状況や感情で動き、よかれと思って言葉を発しますが、今日のイエスさまのお姿からも、まずはどこに神の御心があるのかを尋ね求めることが大切なんだと思います。
さて、先にも申しましたように11章の初めのところで、マルタとマリアの姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたが愛しておられる者が病気なのです」と言わせたとあります。
姉妹らはイエスさまにすぐに来て下さるように頼んでいたのです。それはイエスさまならラザロの病をおいやしくださるに違いないと考えたからです。
ところがイエスさまはその知らせを聞いて、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われます。
そして愛する「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」のです。その間にラザロは死にました。
マルタとマリアは「イエスさまが来てくださるなら、どんな病気もいやされる」と信頼を寄せていただけに落胆の思いを隠しきれず、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と、イエスさまにその悔やむ思いをぶつけるのであります。
しかしどうでしょう。イエスさまのいやしに与れる人たちが皆、手を置いて祈られたわけではありません。
たとえば4章で、役人が瀕死の息子のところにおいで下さいと懇願したとき、イエスさまは「あなたの息子は生きる」と言われ、役人がそのお言葉を信じて息子のところに帰ると、イエスさまが「あなたの息子は生きる」とおっしゃった時刻に息子がいやされていたとの話が記されています。
又、イエスさまがローマの百人隊長の僕をいされたケースでも、その百人隊長がイエスさまに「唯お言葉を下されば僕はいやされます」と願い出で、彼の信仰をイエスさまがお喜びになったその同じ時刻にい求めた同じ時刻に僕はいやされたことが記されています。
イエスさまは直接的にその人に触れたり近づいたりなさらなくとも、そのご意志によっていやしを行われたのです。
ですからイエスさまがラザロのところに出向かれなかったのも、またそのときに何もなさらなかったことも御心のうちにあったのです。それはまだ「神の栄光があらわされるときではなかった」からです。けれどもイエスさまのお心はラザロと共にありました。
イエスさまはラザロと霊的なつながりをもってそのときを待っておられたのです。
「つながる」と申しますと、私たち人間はとかく目に見えるつながりや関わりをもち、そうして安心感を得たいと思うものですが。ネット、ライン、faceBook、ツイッターなどもそういった人の思いによってこれだけ普及をしてきたのでしょう。それは裏を返せば不安や孤独な思いが人のうちに強くあるからです。
人は孤独な思いを埋めるために様々なつながりを持とうとします。けれども人との関係性には限界があります。どんな良い関係性も、どんなに大切な人も、どんなに愛し合っていても、いつまでもその関係性が良好かどうかはわかりません。そしてやがて地上のあゆみを終えるときには、だれもが例外なく、人は一人で生まれて来るように、一人で死んでいくのです。たとえ双子、三つ子で生まれても最期は一人で死んでいくのです。人とのつながりは人が生きるうえでとても大切ですばらしいものです。けれども人とつながるだけではほんとうの平安は得られません。それは死を前にして明らかです。それは又、残される者にとっても同様に恐れと不安、又喪失感をもたらします。マルタとマリアもまさにそうでした。
死を前にしたとき、人間のつながりではどうすることもできない孤独を人は知るのです。ほんとうに人に平安を与えるのは、そして本当の孤独な心を満たし得るのは、命の源なる神とのつながりが必要なのです。
しかし人はその罪のために神との生きた関係性を自ら損なっています。罪とは非道義的、又非道徳的行為、あるいは社会的犯罪を直接的に指しているのではありません。罪とは義と愛である神との関係性を拒み、背を向け続け、自我の思いの腹のままに生きることです。ここからあらゆる具体的な罪から生じる事どもが起るのです。そこに真の平安はありません。
イエスさまはそのような罪と死の縄目から私たちを解放するために、肉の姿をとって来られ、十字架においていわば身代わりの裁きを受けてくださったのです。今や、だれもが、その神の御救いイエス・キリストを信じる信仰によって罪赦され、神とのつながりの回復、和解に与る恵みが与えられているのです。それは自己との和解でもあるのです。
イエスさまは言われます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
ラザロが死んで嘆き悲しむマルタは、イエスさまに「終わりの日に復活するおとは存じております」とだけ答えます。これは多くのユダヤ人たちが一般的にもっていた信仰観でした。
しかしここでイエスさまがおっしゃっているのは、ユダヤの一般的な復活理解ではなく、「あなたはどうなのか。あなたはわたしイエスのものが復活であり、命であると信じるのか」と問われているのであります。これはとても大きな問題です。
私たちも又マルタのように、日頃から一般的信仰観で言われている事を口にしてはいないでしょうか。主イエスは、まさに今生きている私たちと共におられ「あなたはわたしを信じるか」と、問われているのです。
マルタはそこで、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じます」と答えます。
しかしマルタはこの後、イエスさまから「ラザロが葬られた墓をふさぐ石を取りのけなさい」と言われたとき。「主よ、4日もたっていますから、もうにおいます」と答えます。
そのマルタに対してイエスさまは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」とおっしゃるのです。
「神の栄光」とは何でしょうか?
それこそが、死と滅びに勝利した神の救い、主イエスご自身であります。
神の独り子・主イエスが私たちの罪を担い、十字架にかかってその罪を贖い、私たちを罪の滅びから救い出して下さった。私たちがこの主イエスのよみがえりの命に与っていくこと、これこそが父なる神さまが世にあらわされた「神の栄光」なのです。
イエスさまはラザロの病気を伝え聞いた時、「この病気は死で終わるものではない」(4節)とおっしゃいましたが、それはそのようにして主イエスによる「神の栄光」が顕わされるためであります。
そうしてさらに15節でイエスさまは弟子たちに、「あなたがたが信じるようになるためである」とおっしゃったとおり、それは2000年のときと世界を経て、今日も私たちが主イエスを信じて、主の復活の命に与るためであります。
イエスを信じる者が、主の復活の命を受けるためである、ということです。
これは、遠い遠いいつ来くるか分からない将来、終わりの時なら、また会えるかもしれない、というような実体のないおぼろげな信心を根底からくつがえす神の霊と力の証明であります。
最後に今日のメッセージで最もお伝えしたいことをお話します。
それは、主が今、「あなたは信じるか」と、ここにおられるお一人お一人に問うておられるということです。
大事なことは、主は今、誰ではなく、わたしという個人に問いかけています。
「わたしは、イエスがわたしの命を贖うために十字架におかかりになって死に、よみがえられた救い主と信じますか」。命の言葉はそのあなたの信仰を問うているのです。
主イエスにある命、復活は、終わりの日に限ったことではなく、今、信じる私たちと共におられ主イエス・キリストによって実現されていることを、信仰をもって受け取ってまいりたいと願います。
「信仰を問う命の言葉」、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。
日々主イエスを信じ、主イエスに倣い生きることの中に、永遠の命と復活とがあるという今日の聖書のお言葉であります。
「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシア(キリスト)であるとわたしは信じております」と、その時の精いっぱいの信仰を言い表わしたマルタのように、私たちも主にある信仰を日々守り、保って、主に遣わされてまいりましょう。