日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

神の国はあなたがたのものである

2015-01-25 16:30:30 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ6:17-26 

先週は、イスラム国によって邦人2人が人質にとられ身代金要求と殺害の脅迫を迫るという衝撃的なニュースが日本中に、世界中をかけめぐりました。そのうちのお一人が今朝殺害されたという非常に残念なニュースをネットで知り驚愕しました。もう一人の後藤さんについてはまだ情報が入ってきておりませんが。彼が在籍する教会の牧師より「ぜひご本人のため、又ご家族のために祈ってほしい」とのメールが転送されて届きましたので、先週からずっと心を合わせて祈る日々でありました。今日も彼を知る人々、又日本、や世界中でも執り成しの祈りが神にささげられていることでしょう。戦場ジャーナリストとして誰かが伝えなければ世界から忘れ去られ、闇に葬られる。とりわけ弱い立場におかれた人たちに身をおいての取材と報道を地道に続けてこられた方だとお聞きしています。ぜひご無事で救出がなされますよう切に願っております。

本日はルカ6章から「神の国はあなたがたのものである」と題して、御言葉を聞いていきたいと思います。

まず12節に「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から12人を選んで使徒と名付けられた」とあります。
イエスの宣教といやしの業は、毎日人々を前に多忙で実にハードなものでありました。そういうイエスさまのお働き、行動は、一方で神に祈ることなしにはできない、神への祈りによって守られなされるものであったのです。それもここでは、山に登り一人で神と向き合いながら一夜を明かされたとありますように、山は聖なる場所とされていましたので、そこでイエスさまは神と一対一で向き合い、祈る中で宣教といやしの業をなす力を受けていかれた。霊的給油をする必要があったのです。
これは私たちにも同様のことがいえるでしょう。様々な課題や出来事と遭遇しながら日々を過ごしている私たちにとりましても、主の日の礼拝、又祈祷会が霊的な給油の時になるのです。魂のガス欠になっていないかどうか、ガス欠になって荒れ野に迷いごになっていないか、しばし世のけんそうを離れ、自分を顧み、私たちの聖なる山である礼拝や祈りの場で神の前に静まる時がほんとうに大切なのであります。
そしてイエスさまは、その山の上で自分の働きを共にしてゆく12人の使徒を弟子たちの中からお選びになられたとあります。イエスさまには多くの弟子たちがいたようですが、そのうちの使徒12人というのは地上に生きられたイエスさまの証人であり、且つイエスさまの復活の証人でもあります。いわば彼らはイエスさまと、人生そして使命を共有した者でありました。

さて、17節に「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」とあります。
イエスさまが御言葉を語り、御業をなされるその働き場、フィールドが山の上にではなく、山から下りた平らな所、すなわち民衆の日常と生活の場にあるということを示しています。
同様に、私たちキリスト者もまた、礼拝や祈祷会において霊的給油、主の恵みと力を戴くのですが、力を受けるということが目的ではありません。車はただ満タンにするために給油するのではなく、給油して走るためにそれを入れるのです。それはまさに、イエスさまが山から使徒たちと下り、平らな所にお立ちになったように、私たちも日々のあゆみで疲れ、疲労した魂がいやされ、やすらぎを得たなら、それをもって主イエスの証人とされてゆく日常の場、生活の場があるということです。渇いた魂が主の御言葉と恵みで潤されたら、再び心新たに御言葉に聞き従い、日々の生活でそれを実践していく中で主の御業を見る者とされるのであります。

さて、聖書はその平らな所に、「大勢の弟子たちとおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた」と記します。

そこにはイエスさまのもとへ来る人々の目的が記されています。
まず、人々は「イエスの教えを聞くため」そこにやってきました。
それは単なる教義や世間一般の教訓ではない、イエスさまの口から出て人の魂を活かし、潤すいのちの言葉を聞きたいと乞い願っていた。彼らの魂は飢え渇いていたのです。

又、人々は、イエスに「病気をいやしていただくため」そこに来ました。
この時代病気にかかると本人も、家族も病気の苦しみに加え、それは何か悪いことをしたからそうなったのだとか、先祖のたたりとかいう言い伝えや偏見にさらされ、孤立を強いられていくことにもなったのです。ここで人々が「病気をいやしていただくために」と記されていますが、この「いやす」(テラピオ)という言葉には、奉仕するとか仕えるという意味があります。今日の時代もそうかも知れませんが、病気は人を不自由にします。自由に奉仕し仕えることを妨げます。病人にとって自分が役に立てない、それどころか周りに負担を強いているという状況はどんなに苛立たしく悲しいものでしょう。このイエスのもとに集まって来た人々は、病気がいやされて人間として自由に、心から喜び奉仕し、仕えていく意味ある人生をと願ってやまなかったのではないでしょうか。イエスさまはご自分のもとに来る人々を「いやす」、すなわち再び神と人に仕え奉仕する人生をお与えになるのです。又、イエスさまはそういった病人だけでなく、汚れた霊に悩まされていた人たちも、おいやしになられます。
いずれにしても、この場面を聖書は「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである」と伝えます。
それはほんとうに心の底からいやされたいと願う一人ひとりとの触れあいにイエスさまは自分の中から力が出ていくほど大きなエネルギーをお使いになったということです。人と関わる、触れあうということは時に大きなエネルギーを必要としますよね。気を使ったり、神経を使ったり、体力がいることもあります。
しかし、イエスさまはそのことを神によって立てられた働きとして自覚しておられました。たのです。そばにいた12人の使徒たちや弟子たちはそのイエスさまに起こった出来事を知るよしもなかったのかも知れませんが。

その時、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われました。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」。
イエスさまは「あなたがたは」と2人称で、12使徒とそこにいたすべての弟子たちに向けてこの言葉をお語りになられたのであります。
しかしこのイエスさまのお言葉は、世間一般の考えとは真逆であります。なぜ、貧しい人が、飢え渇く人が、泣く人が幸いなのでしょう。今日はそのことを聖書から読み取っていきたいと思いますが。

ここでイエスさまが言われた「貧しさ飢え、さらに悲しみ」は、実は使徒たちや弟子たちの周囲に生きる人たち、世の権力のもと抑圧され、苦しめられていた人たちの現実であったのです。それは又、ユダヤ社会において律法を守ることのできない者と差別され、排除され罪人といわれる人たち。あるいは神の救いから除外された者として扱われた外国人、さらに、さきほども触れました病を抱え苦しんでいた人たち、汚れた霊に悩まされていた人たちの現実であったのです。

イエスさまはそれらの人々のその現実のただ中で、弟子たちに向けて語っているのです。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」。
どうして貧しい人が幸いなのでしょうと、人の側からすれば疑問に思えます。けれども、聖書は天の方向からこのように語るのです。
貧しい人たちはひたすら神さまの助けを求め、イエスさまの前にいました。その人々に対して、イエスさまは「富むようになる」とはおっしゃらず、「神の国はあなたがたのものである」と言われるのですね。律法学者らは彼らを神の国から遠い者と考えましたが、イエスさまは「神の国はそれを求めてやまないあなたがたのものだ」と言われるのです。実際に貧しい人は福音の言葉、いのちの言葉を謙虚に聞くことができたので主の御救いが訪れるのです。
その一方で、イエスさまは「富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」とおっしゃいます。
世の富む者や金持ちはこの地上において世の称賛や慰めを受けます。そして彼らのうちの多くは自分の力で生きていると自負し、それが当然と考えているために、主のみ恵みがわからず、その慰めに与ることもなく、御救いに至らないのです。彼らの心がしこにないからです。

イエスさまは又「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる」と言われます。どうして、今飢えている人が幸いなのでしょうか。普通なら不幸そのものでしょう。しかし大事なのは、食糧も自然の恵みも、労働の糧もすべては神さまのもとにあるという攝理です。与えられる糧に対する感謝を覚えることのできない社会は貧弱です。むさぼることしか知らない人は、その神の恵みを飢え渇いている人とともに分ち合うことができません。人はたくさん持っているから分かち合えるとは限りません。むしろ飢えと渇きを知る人の方が分ち合うことを知っている場合が多いのではないでしょうか。そこには魂の平安と豊かさが伴います。実にそのような人が天において満たされた人なのですね。
さらに大事なことは、この飢えは人間の存在そのものの魂からくる飢え渇きを示します。それは預言者アモスが「見よ、その日がくればと主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく 水に渇くことでもなく 主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」(アモス書8・11)と預言したことからも明らかです。飢えに直面した人々が必死に食糧を求めるように、いのちの言葉を乞い、神の救いを追い求める者は幸いな者だと、イエスさまはおっしゃいるのです。
しかし、「今満腹している人々、あなたがたは不幸である、あなたがたは飢えるようになる」とおっしゃいました。すべて生活が満ち足りていることは本来喜ぶべきことです。それがどうして不幸なのでしょう。それは自分で満ち足りていると思っている時、見かけの充足を真の充足と思い違いをしていないかということです。世のものに執着して満足しきっている者には、魂の底からの飢え渇きを感じられないほど鈍感になり、結局その魂が飢えてしまうことになるというのです。

又、イエスさまは「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」と言われます。この「泣いている人」とは、先にも触れましたように、世の権力によって抑圧され打ちひしがれている人々の悲しみを「泣いている人々」と表現しているのです。その人たちはその悲しみのただ中にあって、どんなにか神さまの救いを大きく待ちわびているのではないでしょうか。
その一方で、イエスさまは「今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる」と言われます。どうして笑う人々が不幸なのでしょうか。笑いは人を和ませます。けれども、ここで言う笑いは、今の自分の実績や成果に満足しきっている状態、そこに何ら欠点や疑問も感じない自己満足の笑いです。おごり高ぶり人を嘲笑し、神を嘲笑うような笑いであります。けれども、すべては神さまのご支配のもとで与えられた恵みであることを知らないのなら、その人はやがて終りの時が来てすべてが明らかにされる時、「ああ、すべてはむなしい」と「悲しみ泣くようになる」というのですね。

イエスさまは、ここで弟子たちに向けて天の眼で見た「幸いと不幸」を説かれたのです。
任命されたばかりの12使徒に。そして山から下り平らな所、私たち人間の日常の中に立ち、イエスさまと共にあゆみだそうとするすべての弟子たちに。神の国を待ち望む人たちの貧しさ、飢え、悲しみの現実に触れられながら、「あなたがたは」神の国を待ち望んで今を生きているのか、と問いかけ、招かれておられるのです。

イエスの弟子というものは、何かその人間的な資質や才能があるからなれるものではないのです。神さまの前に自分の罪深さを知る者、弱さ、貧しさを知る者。イエスさまの衣にでも触れなければ救われないような者であるからこそ、救われ、従い得るのです。
「神の国はあなたがたのものである」。
今もイエス・キリストによって訪れているその大いなる慰めと救いの福音を、それぞれに遣わされるその平らな所で、分かち合い神の国の訪れと喜びを共にしていきましょう。
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しかし、お言葉ですから

2015-01-18 14:14:45 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ5章1~11節 

昨日は阪神淡路大震災から20年を迎えました。関西地方連合主催の「1・17祈念礼拝」が明石教会で行われ、当教会からは4人が参加しました。その時の祈祷文を資料としてお配りさせていただきましたので、まずこのことをともに心に留め、祈りを合わせていただければと願います。

本日はルカ5章のイエスさまが漁師を弟子にするエピソードより、「しかし、お言葉ですから」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
先週は高い熱で苦しむシモン・ペトロの姑をイエスさまがその「熱」を叱りつけ、去らせておいやしになった、という記事を読みました。この時分からイエスさまとペトロとは交友があったようですが。ペトロはまだイエスさまの弟子ではありませんでした。彼は漁師を本業としていたのです。

さて、舞台は漁の盛んなゲネサレト湖畔に移ります。イエスさまは湖の岸に立っておられると、「神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た」とあります。
イエスさまの噂を聞きつけた大勢の人たちが「あそこにおられる、やっと見つけた」ということで湖畔にたたずんでおられたイエスさまのもとにわんさと押し寄せてきたのです。さすがにイエスさまも群衆の勢いにどうしたものかとお思いになったのではないでしょうか。背後は湖です。
すると、イエスさまはその岸にあった二そうの舟をご覧になられます。それは夜を徹しながらも不漁に終ったシモンと仲間の漁師たちのものでした。彼らは岸辺で黙々と網を洗っていたのです。
そこで、イエスさまは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになります。シモンはそのイエスさまの依頼に応えて、岸から舟を少し漕ぎ出し、イエスさまは腰を降してその舟から群衆に教え始められたのであります。
シモンには先週読みましたように姑の高熱を下げてもらったイエスさまへの恩義もあったのでしょう。その教えもなさる事も素晴らしいと認めていたのでしょう。先生のお役に立てばとの思いから、何ら拒むことなく自分の舟をイエスさまのために出したのではないでしょうか。まあ、ここまでは何も問題はなかったのであります。

ところが、イエスさまが群衆に話し終った後、突然、イエスさまはシモンの思いもよらぬことを口になさるのです。シモン「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。
まあこれには、イエスさまの要望に応えて快く自分の舟を出したシモンであっても、さすがに「はい、そういたします」とは言えません。それは、この湖一帯のことは知る尽くしたプロの漁師であるシモンには受け入れ難いことであったからです。
「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」。
そう主張する彼の言葉からもそのことが伺い知れます。夜明け前後の一番魚がとれる時分にとれなかったのに、こんな日中にとれるはずはないというのが長年の経験からの知識であり常識でした。
シモンにはイエスさまのお役に立って良かったとの思いはあったと思いますが、
「あなたは漁のことはお分かりにならないでしょう。わたしはプロですよ」というプライドや意地があったのではないでしょうか。
けれどもイエスさまのお言葉は、漁師という仕事の領域であろうが、なかろうが関係なく臨むのであります。シモンはイエスさまのことと自分の「仕事の領域」とは別のこととして分けて考えていたのではないでしょうか。しかし「神の言葉」は、たとえば今日の礼拝の場にだけのぞむものではありません。私たちが生きるすべての生活の場に例外なく臨みます。さらに私たちが生きるところの全領域に臨むのであります。それは時に私たちの心を常識や経験のはざまで揺れ動かします。どこに信頼をおくのかと決断を迫られることでもあります。

この時のシモン・ペトロは、すべて納得したわけではありませんでした。
「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言うのが精いっぱいだったのです。このシモンの言葉は決して口先だけでなく、「漁師たちがそのとおりにした」とありますように、そのイエスさまの言葉に対して彼は誠意をもった態度で応えました。
するとどうでしょう。網が破れそうになるほどたくさんの魚がとれたのです。そればかりかもう一そうの舟にも手伝いに来てもらい、二そうの舟は魚でいっぱいになったため沈みそうになるくらいの大漁だったというのです。

これを見たシモン・ペトロは「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言ってイエスさまの足もとにひれ伏します。それまでは、彼はイエスさまの言葉や業を求めてやって来る人たちのことを、どこか距離をおいて見ていたのではないでしょうか。それは自分とはあまり関係がないと思っていたかも知れません。けれども主のお言葉が実体をもって自分に直に迫ってきた時、シモンはイエスさまの言葉に、自分が今まで考えてもみなかったほどの力があることを知ったんですね。それは彼のそれまでの人生を一瞬に照らし出すほどの出来事であり、神への畏れを呼び覚ます体験であったのです。
シモンはイエスさまのことをこの出来事の前は「先生」「教師」と呼んでいたのですが、この出来事を経験すると「主よ」と呼びかけるようになるのです。彼は自分がいかに主の言葉と招きに心を閉ざし、頑なな者であったかという罪を告白せずにおれませんでした。そしてイエスさまの足もとにひれ伏したのです。
ある注解書にこうありました。「もしペトロが世的な成功だけを追い求める出世主義者であったなら、水産業におけるまたとないチャンスをつかんだと考えたことでしょう」。面白い注解ですよね。「イエスさま、どうかわたしにその漁の秘訣を教えて下さい。ひと儲けしましょう」。神さまの業を認めることの出来ない人生は、神さまの前に失われた人生であります。
シモン・ペトロは言います。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。ペトロが目にしたのは大漁の魚ではなく、神の業、罪深い自分に働きかけてくださる「神の言葉」であったのでしょう。
イエスさまはシモンのその純粋な回心をご覧になり、「恐れることはない、今から後、あなたは人間をとる漁師になる」とシモンを召命なさいます。
ルカ5章32節でイエスさまは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔改めさせるためである」と言われていますように、まさしく主の前に我に返ってひれ伏すシモンに、今度はあなたが神の前に罪に捕われた人を取り戻す者となる。あなたは今から、「人間をとる漁師になるのだ」と言ってイエスの弟子に任命されるのですね。この言葉は牧師とか伝道師だけに語られているのではなく、主の前に立ち返って生きるすべての人、そのお一人おひとりがそのように召されているのです。

さて、イエスさまが漁師であったシモン・ペトロを弟子に選ばれるこのルカ福音書の記事は、冒頭の「神の言葉を聞こうとして」という書き出しにあるように、実は終始「神の言葉」ということにこだわりつづけていることがわかります。シモンは当初イエスさまの「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」とのお言葉と自分の経験や知識の間で揺れ動くのでありますけれども、シモンはそこで「しかし、お言葉ですから」とそのイエスさまのお言葉に聞き従うのです。そしてただ聞くだけで終わらせず、自分に語られたお言葉として受けとめ、それを実行するのであります。今日の宣教のポイントはここにあります。
もちろん神の言葉、主イエスの御言葉そのものに力はありますけれども、それがほんとうにゆたかに働き、主の恵みの御業として見ることができるのは、シモンのように、御言葉に聞き従ってゆくその時であります。私たちが御言葉を聞き、かつそれを実践して生きていゆく中に、主はその栄光を表されるのであります。そこに、人の思いを超えた御言葉の力が現されるのであります。

本日私たちが読みましたルカ福音書5章9節の岩波訳では「その捕れた漁のゆえに、肝を潰す驚愕が、彼および彼と一緒にいた者すべてに襲ったからである」とございます。
私たちも又、主の御言葉に聞き従い、神の言葉のもつ圧倒されるような力を体験し、主をあがめる活き活きとした信仰生活を送ってゆきたいものですね。私たちが日毎に生活するそれぞれの具体的な場所において、又私たちの生の全領域において生ける「神の言葉」は臨んでおられます。いつも心をとぎすませて御言葉を聞き、受け取って生きるものとされてまいりましょう。シモン・ペトロのように、「神の言葉」イエスさまをお載せして私たちも共に沖に漕ぎ出し、お言葉に従って網を投げ続ける1年といたしましょう。生きて働きになられる主に期待をして。お祈りします。
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一人ひとりに手を置いて

2015-01-11 17:15:14 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ4章31~41節 

フランスでは新年の喜びもつかの間、原理主義者によってマスメディア機関が襲撃され多数の死傷者が出るという傷ましい事件が起こりました。自分たちの考えや教えやその主義主張と相容れないものを断罪し、銃弾によって亡きものにしていく原理主義者の怖さがまた露呈しました。それは「言論と表現の自由」が尊重されてきたフランスの人々のみならず世界各国に衝激を与えました。このような事が決してあってはなりません。しかし、一方で「言論と表現の自由」が偏ったものであったり、相手をあげつらうだけであるのなら、それは逆に対話やあゆみよりを阻むことになりかねません。たとえばそのような過激的行意に走る人たちの多くは、その背景に極度の貧困のため教育も受けられず時も読めないため一方的に偏った教義によって洗脳されていたり、生きるため組織に身を置くほかない人もいます。又、生活に様々な障壁があり、活路を見出す事ができず、その苦しみに無関心な社会への憤りを強めるなかでネットの向こうの反社会的運動に傾倒していく人たちもいるでしょう。むろんそれらの反社会的なテロ行為を主導する指導者やテロを正当化することはできませんが、そういった運動に参加する人たちを一方的に非難するばかりでなく、テロを生み出している現状をもっと報道し、学び合い、改善されていかない限り、同じような悲劇が繰り返されます。とどのつまりは、一人のひとが人間らしく生きていける社会、人としての尊厳を見出すことの(アウトリーチ)できる関係性をめざすほかに平和な社会が築かれてゆく手立てはないのではないでしょう。主イエスはまさにそのような神の御前における祝福を明らかにされるためにこの地上をあゆまれました。

さて、本日はルカ4章の箇所から「一人ひとりに手を置いて」と題し、御言葉を聞いていきます。この記事には「汚れた悪霊につかれた人が悪霊から解放されたこと」、そして「シモン・ペトロのしゅうとめがひどい熱から助けられたこと」、また、「いろいろな病人がいやされ、多くの人々から悪霊が出て行ったこと」が記されております。
この文脈を読みますと、それら一連の出来事が一日のうちに起こった、しかもこの日は「安息日」であったことが分かります。今もそうですが特にこの時代のユダヤ社会においては、安息日規定というものがありまして、この日には一切の仕事をすること、労働とみなされることは行ってはならないという戒律がありました。ユダヤの宗教的な指導者たちはその細かい規定を厳格に教え、それを守ることが神に忠実なことで、そうできない人たちは罪人であり、神の祝福を受けるに価しないと裁き排斥していました。
本日の舞台はイエスさまの郷里ナザレからガリラヤ湖畔の町カファルナウムに移ります。ガリラヤ地方はエルサレムに住むユダヤ人たちからすれば、「異邦人のガリラヤ」でありました。そのカファルナウムの町は、自然に恵まれ肥沃な土地であったことから様々な農産物が採れ、商いも栄え、外国人も行き交う商業が盛んな地でもありました。それはまた異教的な宗教の影響も受けていたのです。

イエスさまは、この「ガリラヤのカファルナウムの会堂で安息日には人々に教えられていました。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉に権威があったからである」とあります。
当時ユダヤの律法学者は旧約聖書にあたる律法や言い伝えの戒めを教え、それを守るように指導していました。しかしそれは多くの人にとって決まりごと以上のものとはならず、それどころか規定通りに生活することが出来ない事への罪悪感や裁き合いといったことも起こっていたのです。
それに対してイエスさまの言葉には「権威」があった。それは律法の精神の根底にある「神の愛と救い」を思い起こさせ、日常の生活でそれを実践する力を与える、そのような言葉であったからではないでしょうか。そのイエスさまの言葉の持つ力が人々の心をとらえたのです。
ヨハネ福音書にはイエスさまご自身が「生きた神の言」(ロゴス)そのものであられたとあります。イエスさまの言葉は生きて働き、人を活かす権威があったのです。

さて、その会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいました。彼はその会堂にイエスさまがお出でになる前からそこにいたのです。悪霊から解放される日が来ることを切に願っていたのです。
 果たしてこの人を捕えていた悪霊とは何でしょうか。それは何か角が生えているとか、不気味ないでたちをしているのが見えるとかいうものではありません。それは一見して分かるようなものではありません。しかしその働きによってそれを知ることはできるでしょう。聖霊の働きが神さまの愛と救いの御業であるのに対して、悪霊の働きは人が神さまの愛の中で救いを見出して生きることを妨げようとします。ネガティブな言葉で「あなたは神から愛されていない、救いはない」と言います。又、人の心の弱さにつけこんで分裂をもたらし主にある交わりを絶たせようとします。
彼は大声で「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫びます。イエスさまの言葉に権威があることを非常に敏感に察知し、恐れ、イエスさまを「神の聖者」と言いあてるのです。

実は、今日の箇所の前の場面で、イエスさまが故郷のナザレの会堂で教えられた時、そこにいたユダヤ人たちは、イエスさまに憎悪をむきだし、終いには崖から突き落として亡きものにしようとしたのです。ところがです、このガリラヤのカファリナウムの会堂では、何と悪霊によってイエスさまが神の聖者であると明らかにされるのですね
人間は人を白か黒かと色分けして、自分と同じ考えを持つ人や自分に都合のよいことを言う人は善で正しくて、自分と違う人は悪とか、部外者として裁いていく性質をどこかもっています。又、自分の目から見て不可解なものに対して冷たい目でみたり、馬鹿にする性質をもっています。人を悪霊呼ばわりすることも非常に危険ですね。そのような人の罪深さにとり入って神の恵みから引き離そうとする悪霊の働きに対して、イエスさまは強い怒りを露わにされるのです。
イエスさまが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行ったということです。イエスさまはこの人を捕えている力、神の恵みの共同体から断絶させている力、そしてまたイエスさまが神の聖者だと分かっていながら、「かまわないでくれ」と拒絶させるような力に対して、非常に激しい憤りをあらわにされるのです。イエスさまは温厚な方でもあられましたが、しかしこのような人を縛り捕えていくような力と働きに対しては、断固厳しくお叱りになられたのです。叱りつけられた悪霊が「その人を人々の中に投げ倒して出て行った」というのは、その人が一人の人間として人々の間に取り戻されたことを表しているようです。

今日のお話はさらに続きます。
イエスさまが悪霊を追い出した同じ安息日に、シモン・ペトロの家に入られて、高い熱に苦しんでいたシモンのしゅうとめをお助けになります。さらに、日が暮れると、イエスさまはいろいろな病気で苦しむ町の人たちをおいやしになられたのであります。

この所を読みながら今回改めて気づいたのは、シモンのしゅうとめが高熱に苦しんでいたのを見て、彼女の周りの「人々が彼女のことをイエスに頼んだ」ということです。
そこにはイエスさまならきっと何かしてくださるという期待があり、それをイエスさまにきちんと伝え、お願いしたということです。単にイエスさまがいらっしゃったからそのなりゆきに任せたということではないのです。彼女のことを頼んだ。この人々のイエスさまへのとりなしがあったのです。
するとイエスさまはここでも熱を叱りつけられるのです。思いますに、彼女を愛する周りの人たちの切なる願いと求めに、イエスさまは共感するように強く胸を打たれ熱くされたのではないでしょうか。イエスさまは彼らを苦しめている存在;この場合は熱、病ですけれども、それを叱られたのです。
この彼女のことをイエスさまに頼んだという行為。それを私たちは主へのとりなしの祈りによって実践することができるでしょう。課題を抱えている人の名前を具体的にあげて、主に祈る。「何とかしていただけますように」と、主にとりなし訴える。祈りのうちに具体的に関わることもあるでしょう。それらのとりなしの祈りを主は必ずおぼえて下さいます。

さらに、聖書は「いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た」というのであります。まあその光景を想像してみますと、シモンの家は次々と押し寄せるようにやって来る病人の人たちとその病人に伴って来た人たちで、もうすごい状態といいますか、ごったがえしていたことでしょう。
イエスさまはその人々の思いにお応えになり、その「一人ひとりに手を置いていやされた」とあります。
そこにはいろいろな病に苦しむ人々が大勢いたにも拘わらず、イエスさまはその一人ひとりと丁寧に向き合われ、手を置いて、祈り、おいやしになられたのです。そこにどれだけの時間と労力が費やされたでしょう。けれどもイエスさまは病気を抱えた人とその人に伴って来た人の切なる思にお応えになり、その一人ひとりと向き合い、手を置いて、おいやしになられたのですね。病気の人ととりなす人であふれかえる家の中。しかしそこには慰めと励まし、感謝と賛美が満ち溢れていたことでしょう。

本日の32節の「イエスさまの言葉に権威があった」。その権威とはまさに「愛といつくしみをもって働かれる生きた神の言葉」なのです。

この聖書が語りますように、私たち自身も又、世の力から解放を受け、神の御前に取り戻された者でもあります。主の深い憐れみと愛によって生かされ、ゆるされている存在として本当に感謝をもって今苦しみの中にある方のことをおぼえ、主にとりなし、祈っていくものとされたいと思います。それぞれに課題、重荷がおありでしょう。
願わくば、主イエスと共にいろいろな課題や重荷を抱えておられる方がた、隣人に寄り添うことができますように。一緒に主を礼拝することができますように。祈り求めてあゆむ一年でありますように。祈りましょう。

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主の道を整える者

2015-01-04 15:17:09 | メッセージ
新年礼拝宣教 ルカ3章1~20節 

新年礼拝にあたり先程ルカ3章の御言葉が読まれました。本日はここから「主の道を整える者」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
その冒頭に、バプテスマのヨハネが働き始めた時代背景が述べられています。この当時ユダヤを治めていたローマの皇帝ティベリウスと総督のポンテオ・ピラト、ガリラヤの領主ヘロデなどと共に、又、ユダヤの宗教指導者の大祭司アンナスとカイアファの名がそこに記されておりますが。この時代の指導者たちは暴君で悪政を繰り返し、ユダヤの指導者たちもまたその腐敗と堕落によって民はその権力の下、一部の裕福な人や都心部を除いた多くの人々が神の祝福から隔てられるかのような状況がありました。彼らは神の律法を守ることが困難な立場にある人々でもありました。イザヤをはじめ預言者が示し続けてきたメシアを待望する祈りは実に彼らの中に脈々と受け継がれていたのです。まさにそのような時代の中で、荒れ野にいたザカリアの子ヨハネに神の言葉が降ります。

聖書はこのヨハネをして、イザヤ書40章3-4節の「荒れ野で叫ぶ者の声」だと言っています。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』

ヨハネはまさに、悪政と不正、格差や差別によって歪められた曲がった世の時代にあって、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」との預言の言葉を自らのものとして受けとめ、ヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔改めのバプテスマを宣べ伝えていくのです。
すると、そのヨハネのもとにバプテスマを授けてもらうために多くの群衆が様々なところから押し寄せてきます。その中には当時の罪深い人の代名詞ともいえる徴税人もおりましたし、兵士たちもおりました。彼らもまた神の前に罪の赦しを得て、きよくされて、新しい人生を歩み出すことを願っていたのです。
みな一様にヨハネの言動に心を打たれ、引きつけられていました。それはヨハネに降った神の言葉に力があったからです。
このヨハネがその群衆に語った言葉は決してやさしい、心地のよいものではありませんでした。彼は群衆に向けて「悔改めにふさわしい実を結べ」「斧は既に木の根元に置かれている」と厳しく語りかけます。それは自らをアブラハムの子孫だと自称し、そのことが神の救いの特権であると考える人々に衝撃を与えました。

「斧は既に木の根元に置かれている」とは、ドキッとする言葉ですよね。
自分たちが真のアブラハムの子孫であれば、神に方向転換して悔改めにふさわしい実を結ぶだろう、さもなければ木はみな切り倒されて火に投げ込まれる、という実に厳しいさばきの言葉であります。しかし、この「斧は既に木の根元に置かれている」との言葉を聞いて、自らを省みて応じたのは誰であったかといいますと、それは神の祝福から除外されていると扱われていた名もない群衆や、異邦の人たち、徴税人や兵士たちであったのです。このヨハネの言葉に食らいつくように反応し、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と問うていったのはまさに、そういう彼らであったのです。
私たちはどうでしょうか。神の言葉に対するピュアな恐れ、危機感をもっているでしょうか。
イエスさまはおっしゃいました。「貧しい人は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は幸いである、あなた方は満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」。
魂の飢え渇きを知る人。「では、わたしはどうすればよいのですか」と、神の言葉にくらいつくように反応してゆく人を、主は必ず顧み、救いの光を仰がせてくださいます。

さて、群衆が「わたしたちはどうすればよいですか」と尋ねると、ヨハネは簡潔にこう答えます。「下着を持っている者は持たない者に分けてやりなさい」。又「食べ物も持っている者は持っていない者に分けてやりなさい」。
ここには特別な宗教的な儀礼や行為は何一つ求められていません。苦業も断食も求められていません。その人の日常の中での具体的な行為、実践が求められているのですね。その根底には律法の精神があります。そこには「自分を愛するように隣人を愛する」という聖書の教えが簡潔明快に説かれているのです。
 しかし、それを守るためのきまり、あるいは救いの条件として行うのではなく、ヨハネはそれを「悔改めにふさわしい実が結ばれるために行え」というのです。
これを聞いた群衆はどうしたでしょうか。その場で食べ物や下着を分け合ったりしたのでしょうか。彼らの多くは貧しい人であったでしょう。しかしそのような中で実際分ち合うことが行なわれるとしたら、それはどんなに慰めと励ましに満ちた場となったことでしょう。又、徴税人が規定にプラスちょっと受け取らないということは、彼らの収入にきっと影響を及ぼすものですが、彼らはその代りに信頼関係という実を得たことでしょう。兵士も同様にヨハネの言葉を実践してゆく中で、権威的にふるまっていた自らの高慢に気づきが与えられ、人々との関係が改善したのではないでしょうか。

さて、これらの「悔改めにふさわしい実を結ぶように」と導くヨハネの言葉に、救い主(メシア)を待ち望んでいた民衆は、「もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」と述べられています。ヨハネの特有の人間的な魅力やカリスマ性に民衆の根強い支持があったのです。
けれどもヨハネは民衆にこう語ります。「わたしはあなたたちに水でバプテスマを授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打もない。その方は聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる」。

ヨハネはローマの皇帝や王のように自分を神格化したりいたしません。教祖やヒーローになることもできたでしょうが、それを自ら拒みました。人々からちやほやされ誉められ続けますと有頂天になり、傲慢さが出てくるものです。けれどもこのヨハネという人は自分に与えられている使命を十分わきまえていました。彼は、「人の罪をゆるすことのおできになるメシア;救い主が来られる、このお方を見なさい」とキリストを指し示すことにこそ、自らの天分があることを知っていたのです。

このヨハネは悔改めのバプテスマを授けていました。しかし「その方、キリストは聖霊と火であなたたちにバプテスマを授ける」とヨハネはいいます。
水は、一時的にはきれいに洗い流すことができても再び汚れるとまた洗い直す必要があります。どんなに洗っても、洗っても汚れてしまう人の罪深さであります。そしてそれはどんなに良い業であっても到底償いきれるようなものではありません。それは業そのものが人の罪をゆるすものには成り得ないということなのです。何か良いことをしたから罪が無かったことになるというものではありません。ヨハネは水ではなく人の罪の全きゆるし、全き聖めは「聖霊と火」によってバプテスマをお授けになるキリストによってもたらされる、と言います。
「聖霊」は神さまのご臨在そのものであられます。この後、イエス・キリストはヨハネからバプテスマをお受けになられるのでありますが。その時に聖霊がイエスさまの上に降ってきたとございます。罪のないお方がヨハネからバプテスマをお受けになる必要があるのか、とも考えますが。イエスさまは自らそれを望まれ、そうして一人の人としてバプテスマをお受けになりました。そこに聖霊がお降りになり、キリストとしてすべての人の罪を完全に贖い、きよめ、ゆるすお方としてあゆみを始められるのです。
それは人が根底から罪のゆるしと救いを受けるための神さまのご計画であり、十字架の苦難と死を成し遂げるための力でありました。イエスさまはその大いなる御業を成し遂げられて復活され、遂には約束の聖霊を今や私たちにも注いで、こうして救いの道を歩ませてくださいます。
私たちはこの聖霊によらなければ、イエスを主と信じ、告白することはできません。私たちの信仰もバプテスマも、聖霊の先立ちを戴いてこそ可能であります。単に人間的な悔い改めだけでは、罪の全きゆるしにはなりません。イエスさまの十字架の苦難と死という贖いの御業によって、罪の全きゆるし、全き聖めが与えられるのです。

本日は「主の道を整える者」という題で、バプテスマのヨハネの記事から御言葉を聞いてきましたが。主の霊によって救いの恵みに与っている私たち一人ひとりも又、「主の道を整える者」として立てられているという、というお話してこの1年を始めるメッセージとしたいと思います。
ヨハネは17節で、「メシアが手に箕を持って、脱穀場の隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と語ります。
これは、世のすべての事柄における最終的な審判の時が、「主によって訪れる」「主によってもたらされる」ということであります。それは私たちの生きる今日の時代においても、やがて来られる主の再臨への希望であります。それは同時に、私たちも又、主がいつ来られてもよいように目を覚まして祈り、その時への備えをなして「主の道を整えておく」ことが主に期待されているのであります。マラナタ;主よ、来たりませ。

私たちの日常において「悔改めの実を結ぶ」べく、そのあゆみをそれぞれができるところで具体的になしていく1年でありたいと願うものです。今年の主の御業に期待し、励んで、主の恵み豊かな実りを見ることのできる1年となりますよう、お祈りいたします。
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2015年元旦礼拝

2015-01-01 13:37:27 | メッセージ
宣教 「共に主イエスのもとに」マルコ2章3-5節 

新年あけましておめでとうございます。
主イエス・キリストのご生誕の聖歴2015年を心よりお慶び申し上げます。
この1年のはじまりの元旦に、私たちは生ける神、救いの主イエス・キリスト、すべての人間の罪を贖い復活の命を与えてくださる神さま、世界をすべおさめたもう神さまの御前において礼拝することができることは、何よりも大きな恵み、喜びであります。

皆さま、そして大阪教会にとって、今年も主に栄光を表していく1年となりますよう、主日礼拝と祈祷会を心から主に捧げてまいりたいと願うものです。そしてどうか、2015年の皆さまお一人おひとりの歩み、ご健康とお働きが主に守られ祝され、又すべての必要が満たされていきますように、お祈りいたします。また、入院中、療養中の方々のうえにも、神さまの御手が触れ、いやしと平安が与えられますよう、お祈りいたします。

2014年は「キリストの香りを放つ教会」という年間テーマを掲げてのあゆみでした。
皆さまにとっても、キリストの香りが放たれたお証しがきっとおありだと思いますが。
振り返りますと、そのキリストの香りは私たちの力でなされたものではなく、主が様々なかたちでお働きくださって、豊かに放たれたものであったということに、気づくことばかりでした。

一昨年の2013年11月に念願の新会堂が建った12月には新会堂で初めのクリスマスをお祝いしましたが。新会堂が建ったのだから多くの方々がどっと押し寄せてくるのではないだろうか、と予想していましたが、実際はというと、旧会堂の時とほとんど変わらいない人数でした。それから、さらに1年が経過した昨年のクリスマスの礼拝やキャンドルサービスも出席者はそう変っていませんでした。けれども、クリスマスゴスペルコンサートには大阪教会員やその関係者の2倍以上の新しい方々が集われましたよね。
こういう形で大阪教会に足を運ばれたという事が、大変意義深かったと、うれしくされました。ゴスペルコンサートの内容も素晴らしかったですが。こうしたコンサートという新しいプログラムには、普段の礼拝や特別伝道集会はちょっと躊躇される方、教会が初めてという方には集いやすく、今後もこうしたコンサートを計画し、教会もそのことで祈りを合わせ、準備をして、主にあって一つになれると素晴らしい、と思います。

それと、もう一つ昨年の大きな喜びは、1年間に礼拝に集われた新来会者が80名を超えたということであります。ゴスペルコンサートでの新来会者を加えると1年間で110名以上の新来会者となります。そこには他の教会のメンバーもおられましたし、ミッションスクールの学生たち、そしてまったく教会が初めてという方も多く集われましたが。その中には今も教会につながり続けている方々がおられるのは嬉しいことです。
新会堂建った当初はあまり派手に教会にどっと押し寄せるということもなく、変化がないように思えたのですが。昨年一年間、この新会堂で礼拝や祈祷会を地道に捧げる中で、振り返って気づかされたことは、主がこんなにも多くの新来者を私たちの教会に送ってくださっていたという恵みの事実であります。そういうことを思いますと、新会堂が建った1年目より2年目の方がさらに、主の恵みの御業を拝することが許されたということです。それは、私たちが地道に、主を礼拝し、祈りを合わせ、共に主と人々に仕えていくその中に、主は人を送り、又、私たちの必要をも備え満たしてくださる、ということであります。新会堂が建って3年目の今年は、きっと昨年以上の、主の御業を見ることができる出来事が起こる、と期待し、祈りつつ、歩んでいきたいと思います。

さて、私は1年が始まる最初の元旦礼拝で、大阪教会の年間聖書とテーマ案を明らかにさせていただいておりますが。今年の聖句は、先程読まれましたマルコ2章3~5節が示されました。この箇所から「共に主イエスのもとに」という年間テーマを掲げたいと思います。

私がこの聖書の箇所を読む度にうれしくされますのは、独りでどうしてよいか困り果てていた病人を、4人の人が「主イエスのところに連れて行き、お見せすれば何とかしてもらえるのではないか」との一心で、様々な障害物があるなか、主イエスのいるところの家の屋根まで担架で運び、その屋根を剥がして穴をあけて、病人の寝ていた担架をつり降ろしたのです。そこで、聖書は「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪はゆるされる」と言うのです。
この4人の人たちの、主イエスへの期待と信望、そして独りの人の苦しみ、痛みを自らのものとして感じとり、表した態度を主イエスは「信仰」と言われるのです。そこには、「主にとりなす」ことの尊さ、素晴らしさが語られています。

私たちも、目には見えないですが、実に多くの方々からとりなされ、祈られることによって、この今があるといえます。牧師としての私の働きも、ほんとうに皆さまのお祈りによって支えられ、守られているということを昨年も強く感じることがあった1年で、まことに感謝でした。そして、何よりも、私たち一人ひとりのとりなし手は、主イエス・キリストご自身であり、十字架と復活の主イエスの霊によって私たちはとりなされ、今を生かされているということは大きな力であり、尊い恵みであります。
その恵みに感謝をもって主に礼拝を捧げていく今年1年としたいと願っています。
そして、私たち一人ひとりもまた、課題や困難な壁にぶち当たっている身近な方、友人や知人のことを思い、主にとりなすことができると、うれしいですよね。
今年度はこの「共に主イエスのもとに」とのテーマの下、あゆんでいきたいと願っております。主の恵みの御業に期待し、祈り合い、共に進んでまいりましょう。

お祈りいたします。
主よ、こうして新しい2015年を喜びをもって迎え、まずあなたを礼拝することできますことを感謝します。
主よ、新しい年もいつも、どんなときも、どこにいても、真の希望であるあなたを仰ぎ見ていくことができるようにして下さい。どうか、あなたが生きて働かれるお方であることを私たちにいつも示し、私たちがあなたに栄光を表すことができるようにしてください。
主よ、今年も福音を伝え、証しする私たちを病魔や災いから守り、身も心も魂もすこやかであらせてください。
どうか、今年も私たち一人ひとりのすべての必要を満たしてください。
私たちの家族や家庭のうえに、又仕事や生活の上に平安と祝福をお与えください。
また、私たちが生きる社会や世界のいたるところにおいて、いまだいのちと平和を脅かすような紛争や収奪が繰り返されています。世界には貧困や経済や政治的な事情で住み場を失い、難民生活を余儀なくされている人たちがいます。厳寒のもと身近なところにも野宿生活を余儀なくされている孤独な人たちがおります。主よ、どうか憐れみ、お助けください。
私たちにできることをなすことができますように、主よ、導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。

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