礼拝宣教 ルカ6:17-26
先週は、イスラム国によって邦人2人が人質にとられ身代金要求と殺害の脅迫を迫るという衝撃的なニュースが日本中に、世界中をかけめぐりました。そのうちのお一人が今朝殺害されたという非常に残念なニュースをネットで知り驚愕しました。もう一人の後藤さんについてはまだ情報が入ってきておりませんが。彼が在籍する教会の牧師より「ぜひご本人のため、又ご家族のために祈ってほしい」とのメールが転送されて届きましたので、先週からずっと心を合わせて祈る日々でありました。今日も彼を知る人々、又日本、や世界中でも執り成しの祈りが神にささげられていることでしょう。戦場ジャーナリストとして誰かが伝えなければ世界から忘れ去られ、闇に葬られる。とりわけ弱い立場におかれた人たちに身をおいての取材と報道を地道に続けてこられた方だとお聞きしています。ぜひご無事で救出がなされますよう切に願っております。
本日はルカ6章から「神の国はあなたがたのものである」と題して、御言葉を聞いていきたいと思います。
まず12節に「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から12人を選んで使徒と名付けられた」とあります。
イエスの宣教といやしの業は、毎日人々を前に多忙で実にハードなものでありました。そういうイエスさまのお働き、行動は、一方で神に祈ることなしにはできない、神への祈りによって守られなされるものであったのです。それもここでは、山に登り一人で神と向き合いながら一夜を明かされたとありますように、山は聖なる場所とされていましたので、そこでイエスさまは神と一対一で向き合い、祈る中で宣教といやしの業をなす力を受けていかれた。霊的給油をする必要があったのです。
これは私たちにも同様のことがいえるでしょう。様々な課題や出来事と遭遇しながら日々を過ごしている私たちにとりましても、主の日の礼拝、又祈祷会が霊的な給油の時になるのです。魂のガス欠になっていないかどうか、ガス欠になって荒れ野に迷いごになっていないか、しばし世のけんそうを離れ、自分を顧み、私たちの聖なる山である礼拝や祈りの場で神の前に静まる時がほんとうに大切なのであります。
そしてイエスさまは、その山の上で自分の働きを共にしてゆく12人の使徒を弟子たちの中からお選びになられたとあります。イエスさまには多くの弟子たちがいたようですが、そのうちの使徒12人というのは地上に生きられたイエスさまの証人であり、且つイエスさまの復活の証人でもあります。いわば彼らはイエスさまと、人生そして使命を共有した者でありました。
さて、17節に「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」とあります。
イエスさまが御言葉を語り、御業をなされるその働き場、フィールドが山の上にではなく、山から下りた平らな所、すなわち民衆の日常と生活の場にあるということを示しています。
同様に、私たちキリスト者もまた、礼拝や祈祷会において霊的給油、主の恵みと力を戴くのですが、力を受けるということが目的ではありません。車はただ満タンにするために給油するのではなく、給油して走るためにそれを入れるのです。それはまさに、イエスさまが山から使徒たちと下り、平らな所にお立ちになったように、私たちも日々のあゆみで疲れ、疲労した魂がいやされ、やすらぎを得たなら、それをもって主イエスの証人とされてゆく日常の場、生活の場があるということです。渇いた魂が主の御言葉と恵みで潤されたら、再び心新たに御言葉に聞き従い、日々の生活でそれを実践していく中で主の御業を見る者とされるのであります。
さて、聖書はその平らな所に、「大勢の弟子たちとおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた」と記します。
そこにはイエスさまのもとへ来る人々の目的が記されています。
まず、人々は「イエスの教えを聞くため」そこにやってきました。
それは単なる教義や世間一般の教訓ではない、イエスさまの口から出て人の魂を活かし、潤すいのちの言葉を聞きたいと乞い願っていた。彼らの魂は飢え渇いていたのです。
又、人々は、イエスに「病気をいやしていただくため」そこに来ました。
この時代病気にかかると本人も、家族も病気の苦しみに加え、それは何か悪いことをしたからそうなったのだとか、先祖のたたりとかいう言い伝えや偏見にさらされ、孤立を強いられていくことにもなったのです。ここで人々が「病気をいやしていただくために」と記されていますが、この「いやす」(テラピオ)という言葉には、奉仕するとか仕えるという意味があります。今日の時代もそうかも知れませんが、病気は人を不自由にします。自由に奉仕し仕えることを妨げます。病人にとって自分が役に立てない、それどころか周りに負担を強いているという状況はどんなに苛立たしく悲しいものでしょう。このイエスのもとに集まって来た人々は、病気がいやされて人間として自由に、心から喜び奉仕し、仕えていく意味ある人生をと願ってやまなかったのではないでしょうか。イエスさまはご自分のもとに来る人々を「いやす」、すなわち再び神と人に仕え奉仕する人生をお与えになるのです。又、イエスさまはそういった病人だけでなく、汚れた霊に悩まされていた人たちも、おいやしになられます。
いずれにしても、この場面を聖書は「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである」と伝えます。
それはほんとうに心の底からいやされたいと願う一人ひとりとの触れあいにイエスさまは自分の中から力が出ていくほど大きなエネルギーをお使いになったということです。人と関わる、触れあうということは時に大きなエネルギーを必要としますよね。気を使ったり、神経を使ったり、体力がいることもあります。
しかし、イエスさまはそのことを神によって立てられた働きとして自覚しておられました。たのです。そばにいた12人の使徒たちや弟子たちはそのイエスさまに起こった出来事を知るよしもなかったのかも知れませんが。
その時、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われました。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」。
イエスさまは「あなたがたは」と2人称で、12使徒とそこにいたすべての弟子たちに向けてこの言葉をお語りになられたのであります。
しかしこのイエスさまのお言葉は、世間一般の考えとは真逆であります。なぜ、貧しい人が、飢え渇く人が、泣く人が幸いなのでしょう。今日はそのことを聖書から読み取っていきたいと思いますが。
ここでイエスさまが言われた「貧しさ飢え、さらに悲しみ」は、実は使徒たちや弟子たちの周囲に生きる人たち、世の権力のもと抑圧され、苦しめられていた人たちの現実であったのです。それは又、ユダヤ社会において律法を守ることのできない者と差別され、排除され罪人といわれる人たち。あるいは神の救いから除外された者として扱われた外国人、さらに、さきほども触れました病を抱え苦しんでいた人たち、汚れた霊に悩まされていた人たちの現実であったのです。
イエスさまはそれらの人々のその現実のただ中で、弟子たちに向けて語っているのです。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」。
どうして貧しい人が幸いなのでしょうと、人の側からすれば疑問に思えます。けれども、聖書は天の方向からこのように語るのです。
貧しい人たちはひたすら神さまの助けを求め、イエスさまの前にいました。その人々に対して、イエスさまは「富むようになる」とはおっしゃらず、「神の国はあなたがたのものである」と言われるのですね。律法学者らは彼らを神の国から遠い者と考えましたが、イエスさまは「神の国はそれを求めてやまないあなたがたのものだ」と言われるのです。実際に貧しい人は福音の言葉、いのちの言葉を謙虚に聞くことができたので主の御救いが訪れるのです。
その一方で、イエスさまは「富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」とおっしゃいます。
世の富む者や金持ちはこの地上において世の称賛や慰めを受けます。そして彼らのうちの多くは自分の力で生きていると自負し、それが当然と考えているために、主のみ恵みがわからず、その慰めに与ることもなく、御救いに至らないのです。彼らの心がしこにないからです。
イエスさまは又「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる」と言われます。どうして、今飢えている人が幸いなのでしょうか。普通なら不幸そのものでしょう。しかし大事なのは、食糧も自然の恵みも、労働の糧もすべては神さまのもとにあるという攝理です。与えられる糧に対する感謝を覚えることのできない社会は貧弱です。むさぼることしか知らない人は、その神の恵みを飢え渇いている人とともに分ち合うことができません。人はたくさん持っているから分かち合えるとは限りません。むしろ飢えと渇きを知る人の方が分ち合うことを知っている場合が多いのではないでしょうか。そこには魂の平安と豊かさが伴います。実にそのような人が天において満たされた人なのですね。
さらに大事なことは、この飢えは人間の存在そのものの魂からくる飢え渇きを示します。それは預言者アモスが「見よ、その日がくればと主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく 水に渇くことでもなく 主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」(アモス書8・11)と預言したことからも明らかです。飢えに直面した人々が必死に食糧を求めるように、いのちの言葉を乞い、神の救いを追い求める者は幸いな者だと、イエスさまはおっしゃいるのです。
しかし、「今満腹している人々、あなたがたは不幸である、あなたがたは飢えるようになる」とおっしゃいました。すべて生活が満ち足りていることは本来喜ぶべきことです。それがどうして不幸なのでしょう。それは自分で満ち足りていると思っている時、見かけの充足を真の充足と思い違いをしていないかということです。世のものに執着して満足しきっている者には、魂の底からの飢え渇きを感じられないほど鈍感になり、結局その魂が飢えてしまうことになるというのです。
又、イエスさまは「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」と言われます。この「泣いている人」とは、先にも触れましたように、世の権力によって抑圧され打ちひしがれている人々の悲しみを「泣いている人々」と表現しているのです。その人たちはその悲しみのただ中にあって、どんなにか神さまの救いを大きく待ちわびているのではないでしょうか。
その一方で、イエスさまは「今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる」と言われます。どうして笑う人々が不幸なのでしょうか。笑いは人を和ませます。けれども、ここで言う笑いは、今の自分の実績や成果に満足しきっている状態、そこに何ら欠点や疑問も感じない自己満足の笑いです。おごり高ぶり人を嘲笑し、神を嘲笑うような笑いであります。けれども、すべては神さまのご支配のもとで与えられた恵みであることを知らないのなら、その人はやがて終りの時が来てすべてが明らかにされる時、「ああ、すべてはむなしい」と「悲しみ泣くようになる」というのですね。
イエスさまは、ここで弟子たちに向けて天の眼で見た「幸いと不幸」を説かれたのです。
任命されたばかりの12使徒に。そして山から下り平らな所、私たち人間の日常の中に立ち、イエスさまと共にあゆみだそうとするすべての弟子たちに。神の国を待ち望む人たちの貧しさ、飢え、悲しみの現実に触れられながら、「あなたがたは」神の国を待ち望んで今を生きているのか、と問いかけ、招かれておられるのです。
イエスの弟子というものは、何かその人間的な資質や才能があるからなれるものではないのです。神さまの前に自分の罪深さを知る者、弱さ、貧しさを知る者。イエスさまの衣にでも触れなければ救われないような者であるからこそ、救われ、従い得るのです。
「神の国はあなたがたのものである」。
今もイエス・キリストによって訪れているその大いなる慰めと救いの福音を、それぞれに遣わされるその平らな所で、分かち合い神の国の訪れと喜びを共にしていきましょう。
先週は、イスラム国によって邦人2人が人質にとられ身代金要求と殺害の脅迫を迫るという衝撃的なニュースが日本中に、世界中をかけめぐりました。そのうちのお一人が今朝殺害されたという非常に残念なニュースをネットで知り驚愕しました。もう一人の後藤さんについてはまだ情報が入ってきておりませんが。彼が在籍する教会の牧師より「ぜひご本人のため、又ご家族のために祈ってほしい」とのメールが転送されて届きましたので、先週からずっと心を合わせて祈る日々でありました。今日も彼を知る人々、又日本、や世界中でも執り成しの祈りが神にささげられていることでしょう。戦場ジャーナリストとして誰かが伝えなければ世界から忘れ去られ、闇に葬られる。とりわけ弱い立場におかれた人たちに身をおいての取材と報道を地道に続けてこられた方だとお聞きしています。ぜひご無事で救出がなされますよう切に願っております。
本日はルカ6章から「神の国はあなたがたのものである」と題して、御言葉を聞いていきたいと思います。
まず12節に「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から12人を選んで使徒と名付けられた」とあります。
イエスの宣教といやしの業は、毎日人々を前に多忙で実にハードなものでありました。そういうイエスさまのお働き、行動は、一方で神に祈ることなしにはできない、神への祈りによって守られなされるものであったのです。それもここでは、山に登り一人で神と向き合いながら一夜を明かされたとありますように、山は聖なる場所とされていましたので、そこでイエスさまは神と一対一で向き合い、祈る中で宣教といやしの業をなす力を受けていかれた。霊的給油をする必要があったのです。
これは私たちにも同様のことがいえるでしょう。様々な課題や出来事と遭遇しながら日々を過ごしている私たちにとりましても、主の日の礼拝、又祈祷会が霊的な給油の時になるのです。魂のガス欠になっていないかどうか、ガス欠になって荒れ野に迷いごになっていないか、しばし世のけんそうを離れ、自分を顧み、私たちの聖なる山である礼拝や祈りの場で神の前に静まる時がほんとうに大切なのであります。
そしてイエスさまは、その山の上で自分の働きを共にしてゆく12人の使徒を弟子たちの中からお選びになられたとあります。イエスさまには多くの弟子たちがいたようですが、そのうちの使徒12人というのは地上に生きられたイエスさまの証人であり、且つイエスさまの復活の証人でもあります。いわば彼らはイエスさまと、人生そして使命を共有した者でありました。
さて、17節に「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」とあります。
イエスさまが御言葉を語り、御業をなされるその働き場、フィールドが山の上にではなく、山から下りた平らな所、すなわち民衆の日常と生活の場にあるということを示しています。
同様に、私たちキリスト者もまた、礼拝や祈祷会において霊的給油、主の恵みと力を戴くのですが、力を受けるということが目的ではありません。車はただ満タンにするために給油するのではなく、給油して走るためにそれを入れるのです。それはまさに、イエスさまが山から使徒たちと下り、平らな所にお立ちになったように、私たちも日々のあゆみで疲れ、疲労した魂がいやされ、やすらぎを得たなら、それをもって主イエスの証人とされてゆく日常の場、生活の場があるということです。渇いた魂が主の御言葉と恵みで潤されたら、再び心新たに御言葉に聞き従い、日々の生活でそれを実践していく中で主の御業を見る者とされるのであります。
さて、聖書はその平らな所に、「大勢の弟子たちとおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた」と記します。
そこにはイエスさまのもとへ来る人々の目的が記されています。
まず、人々は「イエスの教えを聞くため」そこにやってきました。
それは単なる教義や世間一般の教訓ではない、イエスさまの口から出て人の魂を活かし、潤すいのちの言葉を聞きたいと乞い願っていた。彼らの魂は飢え渇いていたのです。
又、人々は、イエスに「病気をいやしていただくため」そこに来ました。
この時代病気にかかると本人も、家族も病気の苦しみに加え、それは何か悪いことをしたからそうなったのだとか、先祖のたたりとかいう言い伝えや偏見にさらされ、孤立を強いられていくことにもなったのです。ここで人々が「病気をいやしていただくために」と記されていますが、この「いやす」(テラピオ)という言葉には、奉仕するとか仕えるという意味があります。今日の時代もそうかも知れませんが、病気は人を不自由にします。自由に奉仕し仕えることを妨げます。病人にとって自分が役に立てない、それどころか周りに負担を強いているという状況はどんなに苛立たしく悲しいものでしょう。このイエスのもとに集まって来た人々は、病気がいやされて人間として自由に、心から喜び奉仕し、仕えていく意味ある人生をと願ってやまなかったのではないでしょうか。イエスさまはご自分のもとに来る人々を「いやす」、すなわち再び神と人に仕え奉仕する人生をお与えになるのです。又、イエスさまはそういった病人だけでなく、汚れた霊に悩まされていた人たちも、おいやしになられます。
いずれにしても、この場面を聖書は「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである」と伝えます。
それはほんとうに心の底からいやされたいと願う一人ひとりとの触れあいにイエスさまは自分の中から力が出ていくほど大きなエネルギーをお使いになったということです。人と関わる、触れあうということは時に大きなエネルギーを必要としますよね。気を使ったり、神経を使ったり、体力がいることもあります。
しかし、イエスさまはそのことを神によって立てられた働きとして自覚しておられました。たのです。そばにいた12人の使徒たちや弟子たちはそのイエスさまに起こった出来事を知るよしもなかったのかも知れませんが。
その時、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われました。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」。
イエスさまは「あなたがたは」と2人称で、12使徒とそこにいたすべての弟子たちに向けてこの言葉をお語りになられたのであります。
しかしこのイエスさまのお言葉は、世間一般の考えとは真逆であります。なぜ、貧しい人が、飢え渇く人が、泣く人が幸いなのでしょう。今日はそのことを聖書から読み取っていきたいと思いますが。
ここでイエスさまが言われた「貧しさ飢え、さらに悲しみ」は、実は使徒たちや弟子たちの周囲に生きる人たち、世の権力のもと抑圧され、苦しめられていた人たちの現実であったのです。それは又、ユダヤ社会において律法を守ることのできない者と差別され、排除され罪人といわれる人たち。あるいは神の救いから除外された者として扱われた外国人、さらに、さきほども触れました病を抱え苦しんでいた人たち、汚れた霊に悩まされていた人たちの現実であったのです。
イエスさまはそれらの人々のその現実のただ中で、弟子たちに向けて語っているのです。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」。
どうして貧しい人が幸いなのでしょうと、人の側からすれば疑問に思えます。けれども、聖書は天の方向からこのように語るのです。
貧しい人たちはひたすら神さまの助けを求め、イエスさまの前にいました。その人々に対して、イエスさまは「富むようになる」とはおっしゃらず、「神の国はあなたがたのものである」と言われるのですね。律法学者らは彼らを神の国から遠い者と考えましたが、イエスさまは「神の国はそれを求めてやまないあなたがたのものだ」と言われるのです。実際に貧しい人は福音の言葉、いのちの言葉を謙虚に聞くことができたので主の御救いが訪れるのです。
その一方で、イエスさまは「富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」とおっしゃいます。
世の富む者や金持ちはこの地上において世の称賛や慰めを受けます。そして彼らのうちの多くは自分の力で生きていると自負し、それが当然と考えているために、主のみ恵みがわからず、その慰めに与ることもなく、御救いに至らないのです。彼らの心がしこにないからです。
イエスさまは又「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる」と言われます。どうして、今飢えている人が幸いなのでしょうか。普通なら不幸そのものでしょう。しかし大事なのは、食糧も自然の恵みも、労働の糧もすべては神さまのもとにあるという攝理です。与えられる糧に対する感謝を覚えることのできない社会は貧弱です。むさぼることしか知らない人は、その神の恵みを飢え渇いている人とともに分ち合うことができません。人はたくさん持っているから分かち合えるとは限りません。むしろ飢えと渇きを知る人の方が分ち合うことを知っている場合が多いのではないでしょうか。そこには魂の平安と豊かさが伴います。実にそのような人が天において満たされた人なのですね。
さらに大事なことは、この飢えは人間の存在そのものの魂からくる飢え渇きを示します。それは預言者アモスが「見よ、その日がくればと主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく 水に渇くことでもなく 主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」(アモス書8・11)と預言したことからも明らかです。飢えに直面した人々が必死に食糧を求めるように、いのちの言葉を乞い、神の救いを追い求める者は幸いな者だと、イエスさまはおっしゃいるのです。
しかし、「今満腹している人々、あなたがたは不幸である、あなたがたは飢えるようになる」とおっしゃいました。すべて生活が満ち足りていることは本来喜ぶべきことです。それがどうして不幸なのでしょう。それは自分で満ち足りていると思っている時、見かけの充足を真の充足と思い違いをしていないかということです。世のものに執着して満足しきっている者には、魂の底からの飢え渇きを感じられないほど鈍感になり、結局その魂が飢えてしまうことになるというのです。
又、イエスさまは「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」と言われます。この「泣いている人」とは、先にも触れましたように、世の権力によって抑圧され打ちひしがれている人々の悲しみを「泣いている人々」と表現しているのです。その人たちはその悲しみのただ中にあって、どんなにか神さまの救いを大きく待ちわびているのではないでしょうか。
その一方で、イエスさまは「今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる」と言われます。どうして笑う人々が不幸なのでしょうか。笑いは人を和ませます。けれども、ここで言う笑いは、今の自分の実績や成果に満足しきっている状態、そこに何ら欠点や疑問も感じない自己満足の笑いです。おごり高ぶり人を嘲笑し、神を嘲笑うような笑いであります。けれども、すべては神さまのご支配のもとで与えられた恵みであることを知らないのなら、その人はやがて終りの時が来てすべてが明らかにされる時、「ああ、すべてはむなしい」と「悲しみ泣くようになる」というのですね。
イエスさまは、ここで弟子たちに向けて天の眼で見た「幸いと不幸」を説かれたのです。
任命されたばかりの12使徒に。そして山から下り平らな所、私たち人間の日常の中に立ち、イエスさまと共にあゆみだそうとするすべての弟子たちに。神の国を待ち望む人たちの貧しさ、飢え、悲しみの現実に触れられながら、「あなたがたは」神の国を待ち望んで今を生きているのか、と問いかけ、招かれておられるのです。
イエスの弟子というものは、何かその人間的な資質や才能があるからなれるものではないのです。神さまの前に自分の罪深さを知る者、弱さ、貧しさを知る者。イエスさまの衣にでも触れなければ救われないような者であるからこそ、救われ、従い得るのです。
「神の国はあなたがたのものである」。
今もイエス・キリストによって訪れているその大いなる慰めと救いの福音を、それぞれに遣わされるその平らな所で、分かち合い神の国の訪れと喜びを共にしていきましょう。