日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

レンズ豆の煮物と長子の権利

2011-07-24 06:51:53 | メッセージ
宣教  創世記25章27~34節 

本日の宣教題は一応「レンズ豆の煮物と長子の権利」と、料理の献立のような題になりましたが、イサクの双子の息子、そのエサウとヤコブの記事からみ言葉を聞いていきます。

「二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした」とあります。兄弟でも随分性格が異なるものです。同じような環境で生まれ育っても、不思議ともって生まれたとしか言えない性質が備わっているものですが。まあ、えてして父親は男子が活発で自分に利益をもたらしてくれそうな子を目にかけることが多いようです。信仰の人イサクであってもその例外ではなかたようで、「イサクは兄息子を愛したが、それは狩の獲物が好物だった」からであると赤裸々に書かれています。一方、「リベカは弟息子のヤコブを愛した」とあります。まあ穏やかで草食系ですか。天幕の周りで母親やいろんな人たちに囲まれ働きを共にしながら育ち、よく言えば賢く、ある意味では世渡り上手な人だったのかも知れませんが、リベカはそんなヤコブを偏愛するのであります。

この双子の兄弟の物語を読まれた方は、次のような感想を持たれるのでないでしょうか?
「弟のヤコブはひどいことをするものだ」「兄のエサウが可哀そう」。こういった心情を
率直に持たれたのではないでしょうか。殊にヤコブの長子の権利に対するあからさまな欲求と野心。それを自分の手にするための狡猾なやり取りからは、倫理性や道徳性はみじんも感じられません。
この個所について「聖書教育誌」では、「兄が空腹であるならば、なぜ気前よく煮物を食べさせてあげないのでしょうか。ヤコブは兄弟愛を軽んじたのです」とヤコブの人間性に言及していますが。そもそもこの物語は兄弟愛について説いているのでしょうか?甚だ腑に落ちません。否、そういう次元のことを説いているということより、ヤコブのずる賢さ、狡猾さ、抜け目のなさについては否定いたしませんが、その善悪についてこの物語は論じていないように思えます。なぜなら、ここでの問題はこれはわたしの味方ですが、長子の権利を重んじるか軽んじるかというテーゼ、すなわち信仰の問題を扱っているからです。

32節でエサウが、「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とイサクにいっているわけですが。そりゃあ、狩りをして疲れ切ってお腹をすかせて帰ってきたところにですよ。赤い(レンズ豆)煮物がフツフツと美味しそうに煮えているのが目に鼻に入ってきたなら、もうたまらないでしょう。料理をしていたヤコブに、「その赤いものを食べさせて欲しい」と頼み込んでも無理なからぬことです。
しかし、その後がまずかった、、、、、。長子の権利を求めるヤコブに対して、エサウは本能の向くままに、「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などもうどうでもよい」と深く考えることなしに答えてしまうのです。エサウは無理もないことはあったかも知れませんが、ただ目の前のこと、「お腹を満たすこと」を最優先してしまったのです。それは、自分が長子として託されていた財産、豊作、そして土地を相続するという特権とともに、何よりも長子として継承されるべく「神の祝福の約束」を自ら手放すことに他なりませんでした。
エサウは目の前にある物質的なものだけしか見えず、自分の欲求のため本当に価値あるものを見失い、手放すことになってしまうのです。それは、エサウが心から神に信頼し、期待していなかったゆえであります。聖書はそれを、エサウは「長子の権利」、すなわち神の祝福を軽んじた、といっているのです。

ヨハネ福音書3章で、イエスさまは教えを乞うてみもとに来た律法学者のニコデモにこうおっしゃいました。「はっきり言っておく。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」主は、肉から生まれた者が、霊によって新しく生まれ変わることの重要さについて述べられています。

エサウの取った態度を見る時。生まれたままの性質(肉)は、神(霊)のことに価値を認めません。その肉の性質は、神を知らない、又知ろうとしないゆえに、神の約束は曖昧な、価値のない、力のないものであります。肉の思いは、ただ今のこと、現在のことが自分の価値判断の中で大きな比重を占め、強い影響力をもっているのです。そのような肉の思いによって生きる人は、信仰によらず、ただ目に見えるものによって支配されていますから、今の見えているものだけを重んじます。その人にとって今現在がすべてであり、神の導きによる将来や未来は不確実な問題でしかないのです。エサウの「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」との投げやりともとれる言葉の中に、それらのことを読みとることができます。一方、ヤコブについての人間性について問題はありますが。ここでは、彼が神の約束に人生の価値を見出し、それにこだわっていったことに着眼しています。

新約聖書からこの記事を読み説いていくことが許されているわたしどもにとって、この旧約聖書における「神の祝福の約束」は、神の御独り子イエス・キリストによる救いの成就によって完成するのであります。ですから先ほど申しましたように、人間のもつありのままの性質(肉)によって生きる人が、神(霊)の愛の賜物によって新しく生まれ変わることができる。そのような祝福(福音)を私どもはただイエス・キリストの救いによって受け継ぐ者とされたのであります。肉の死で終わるような者が、やがては朽ち果てることのない永遠の命に生きる者とされる。そのような祝福であります。それは主を信じて生きる者にとって何よりも尊い、何にも替え難い、救いの恵み、神の賜物であります。

アブラハム、そして本日のヤコブと、彼らは偉大な信仰の父祖、族長でありますが。
しかし彼らが完全無欠であったかというと、そうとはいえない一面もあった事が聖書を読めば分かります。如何に偉大な信仰の先達にも人生の悩みがあった。又その過ちや醜さ。弱さや罪について聖書は包み隠さず記しています。そういう生身の人間の営みの中で、主の大いなる恵みと憐れみによって生かされ、ただ一筋信仰によって神の祝福を望み、受け取っていったのが、アブラハムであり、ヤコブであったのでしょう。

わたしどもに今日求められているのは、この「神への信仰」であります。
目に見えることがらに日々翻弄され、不安や恐れを感じて生きるわたしども、又この日本、さらにこの世界に対して、最後にⅡコリント4・16~18のみ言葉は次のように語りかけます。共にかみしめていきたいと思います。
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
さあ、ここから新たに踏み出してまいりましょう。神の祝福を受け継ぐにふさわしく、主への望みの信仰をもってあゆんでまいりましょう。
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井戸を掘り続けた男

2011-07-17 06:28:15 | メッセージ
宣教 創世記26章15~25節 

本日は「井戸を掘り続けた男」と題し、創世記26章よりみ言葉を聴いていきます。
この個所は、先週読みました「信仰の父祖」と言われるアブラハムの息子である「イサク」に関する貴重な物語であります。イスラエルには彼らのような偉大な部族長がいました。創世記にはアブラハムやイサクの子ヤコブに関するエピソードは数多く記されているのでありますが、不思議なことにイサクに関する主なエピソードはこの26章唯一か所なのであります。この個所だけからイサクの人となりを読みとっていくにはいささか難しい気もいたしますが、しかし唯一か所貴重に残されたイサクの物語より、彼の人間性や信仰に聞いていければ思います。

そのイサクについて、彼は父アブラハム同様に、神の「祝福」を賜る者として描かれています。主がイサクに現われ、26章3節「わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する」と宣言されます。主はさらにイサクに24節で、「恐れてはならない。わたしはあなた共にいる。わたしはあなたを、祝福し、子孫を増やす」とこのようにお語りになりました。
この神の祝福について興味深いのは、5節にあるようにイサクではなく、「アブラハムがわたしの声に聴き従い、わたしの戒めや命令、掟や教えを守ったから」、又24節では「わが僕アブラハムのゆえに」と述べている点であります。イサクに与えられた神の祝福はイサクによるものではなく、アブラハムの信仰によって与えられるのです。その一方で、イサクもまた父と同様主に信頼し、主を礼拝する者として歩んでいくのであります。ここには信仰の継承についての豊かな恵みとチャレンジが投げかけられているように思えます。アブラハムの徹底した信仰とその神への従順さが、イサクに影響を与えたのは確かでありましょう。そういう中でイサクは父の信仰の財産を受け継ぎ、神に従い行く者、祝福を継承していく者とされたのでありましょう。
 
親の七光という言葉が昔からありますが。イサクも確かに父の偉大さの陰に隠れてしまうような存在だったかも知れません。先ほども申しましたが、創世記は父アブラハムについては多くの記事がありますが、イサクの記事はここだけです。父の威光の陰で、目立たない存在であったイサク。彼はしかしアブラハムの死後、「主の祝福を受けて、豊かになり、ますます富み栄え、多くの羊や牛の群れ、それに多くの召し使いを持つようになる」のであります。すると、ぺリシテ人はそのイサクを妬むようになります。
そして生前に父アブラハムが意気揚々と掘った多くの井戸を、そのぺリシテ人がそれらをことごとくふさいでしまうのであります。

水は生命の源とも言われますが、年間の雨量も少ないパレスチナの地で井戸はどれ程大切なものであったでしょう。私どももつい先頃の震災を通して飲むことのできる水のかけがえのなさを体験したばかりでありますが。イサクの困惑と憤りはいかばかりであったでしょう。
しかし、物語はいわばそこから始まっていくのであります。イサクの信仰のチャレンジの始まりです。イサクはいわば二世の信仰者であります。幼い時から信仰について聞き育った反面、この困難に直面する迄は、それは親の信仰でしかなかったかも知れません。しかし、イサクはこの困難な出来事を通して、その心と信仰が試され、練られて真に祝福を受け継ぐにふさわしい者にされていったのではないでしょうか?
よくクリスチャン一世と二世の違いについて言われたりいたしますが。まあ一世の方の中には魂の飢え渇きや人生の困難な中で、御言と救いに出会い、信仰を持たれた方も多くいらっしゃるでしょう。また二世の方は、小さいときから親に教会へ連れられて福音に触れる中で、その必要を見出していかれたことでしょう。この機会にご自分のことを思い返して御覧になるのもよいでしょう。また信仰の継承について、一世のクリスチャン、又二世のクリスチャンと、それぞれの環境や思いや考え方の違いもあるかも知れません。後ほどの分級で証しや分かち合いをして戴けるとよいと思います。

話を戻しますが、イサクはアブラハムとは又違った信仰のカラーを持っていました。
それを、一言でいえば「忍耐強さ、粘り強さ」といえましょう。本日の記事の「井戸を掘り続けたイサク」の姿からそれを読み取ることができます。ぺリシテ人はかつてアブラハムが僕たちに掘らせた井戸を、ことごとくふさぎ、土で埋め、イサクにこの土地から出て行くように要求しますが、イサクはその地を離れず一角にあるゲラルの谷にとどまります。
それは一重に26章3節「あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する」という主の約束によるものでした。ゲラルの谷には父アブラハムの井戸がありましたがすでにふさがれていたのでイサクはそれらを再び掘り直していきます。そして豊かな水が湧き出るのであります。イサクは井戸をふさがれようが、その場所から追い出されようが、あきらめません。また別の井戸を掘り直していきます。これは大変な忍耐と辛抱強さがないとできることではありません。今のように重機があるわけではありません。井戸を掘るのはどれ程大変な作業でしょう。しかも猛暑の中、しもべたちと汗水流し何日も何日もかけてやっとのことで水が豊かに湧き出たにも拘わらず、今度はゲラルの羊飼いたちが何と、「この水は我々のものだ」といいがかりをつけ争ってくる。しかしイサクは彼らとも争わず、別の場所に移って井戸を掘り直していくのであります。こういう事が何度も繰り返されたら、争いに発展するのが世の常でありましょう。
けれどもイサクはそんな争いを避けるように場所を変えては井戸を忍耐強く掘り続けるのです。
冒頭申しましたように、井戸は中近東やパレスチナ地方ではとても貴重なものです。
水は命でありました。井戸がふさがれるということは、命の水がふさがれるということです。族長としてその事に、誰よりも心を痛めたのはイサクであり、命の水の井戸掘りに祈りつつ心を砕いたのもイサクでありました。それは一重に、「この地に留まるならあなたを祝福する」と言われた主の約束への信仰と信頼のゆえであります。そこに彼の信仰者としてのスピリットが読み取れます。

イサクはぺリシテ人たちと水利権の正当性をめぐって争うこともできたと思うのですが、彼は決して争わず、せっかく掘り当てた井戸を明け渡してしまうのです。それについて、彼は確かに柔和な人物であったともいえますが。ここまできますと気前がよいお人よしという域を超えているでしょう。それはただイサクが柔和な人であったということ以上に、神の人としてのイサクの信仰がそうさせたのではないでしょうか。「命の水は誰のものでもない。人が所有できるものでもない。ただ神からの賜物である」という強い確信があったからではないでしょうか?
その後、26節以降において、あのイサクを追い出したぺリシテ人の指導者アビメレクが参謀や軍隊の長と共に、イサクのもとを訪ねてきます。そこでイサクは、「あなたたちは、わたしを憎んで追い出したのに、なぜここに来たのですか」と尋ねると、彼らは「主があなたと共におられることがよく分かったからです。我々とあなたとの間で誓約を交わし、あなたと契約を結びたいのです」と、和平協定の申し出に来たというのです。そこでイサクは「彼らの為に祝宴を催し、共に飲み食いした」とありますが。この下りを読むと真に不思議な思いにされます。14節にあるように「妬み」によってイサクを追い払ったぺリシテ人たちのかたくなな敵対心が雪解けをし、和解へと向かわせたのか? 
そこには、幾度埋められても、排除されても、祈りつつ井戸を掘り続けるイサクの信仰者としての姿が彼らの脳裏に焼き付けられていったということがあるのではないでしょうか。そしてまた、実際そんな状況の中でも、イサクの群は守られ祝されていくのです。ぺリシテ人たちそのようなイサクとその祝福の姿を目の当たりにして、「神が彼らと共にいる」ことを思い知ったのではないでしょうか。井戸を掘り続けた男イサクは、結果的にゲラルの人たち、広くいえばぺリシテ人のためにも命の水である井戸を引く働きをなしたことになります。イサクは自分を妬み憎んでいたぺリシテ人にまで祝福を引き起こす存在となったのであります。そこにイサクの信仰のカラーといいましょうか、彼に与えられた祝福があったのです。その祝福は周囲にいる人々、いな彼を憎み、妬むような者にさえ、その祝福をもたらし、神の恵みを覚え、分かち合うというものであったのです。これがイサクの信仰のカラーといいましょうか、賜物であったと聖書は伝えます。

私どももまた、神の恵みにより信仰によってこのスピリットを受け継ぐものとされていることを今日覚えましょう。本日のテーマの「今日の井戸を掘り続ける男」と聞いてあのペシャワール会の中村哲医師を連想された方もいらっしゃるでしょう。2000年6月の段階でアフガニスタンでは1200万人が大旱魃に被災、400万人が飢餓線上にある中、診療所を作り、井戸を掘り続け、そしてさらに灌漑事業や農業事業によって、アフガンの人たちが自立できるように支援活動をされているペシャワール会の中村哲医師のことです。

「医者井戸を掘る」(石風車)という中村医師についてのご本を読ませて頂きました。ペシャワール会のホームページのデ―タによれば、2000年7月に水源確保のための井戸掘りが開始されてから2005年には飲料可能な井戸が1226にも達したということです。新規の井戸もあったそうですが、その中には今日のイサクのようにかつて掘られた井戸・涸れ井戸を掘り直したというのもかなりの数であったということですが。ご本の中で、中村医師は「とにかく生きておれ、病気は後で治す」と、まず何よりも水源の確保こそが、人が生きるために必要なものだということで、井戸を掘り続けられたという事です。
米軍の空爆によって度々事業の中断を余儀なくされ、国外退去命令により日本人スタッフは現地から離れなければならなくなったこともある中で、実に悲しい出来事も起こりましたが、それを乗り越えながら、現地の人々と支援する人たちの祈りと努力により井戸掘りから、次に灌漑用水路が引かれ、さらに農業の事業が進められ、収穫された穀物や野菜の写真が掲載されていたのを見て、ただ感動しました。

最後に、私は本日の「井戸を掘り続ける男・イサク」の姿から、二コリント5章18節「神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」との、み言葉が示されました。イサクが井戸を掘り続けられたのは、命の水の源が誰のものであるのかを知っていたからです。私どもも、又キリストという生ける命の水の源なるお方を通して、神との和解を得、また和解のために務め仕えるよう召されています。それぞれ、主に用いられ、遣わされてまいりましょう。
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神にのみ聴き従う

2011-07-10 07:01:01 | メッセージ
宣教 創世記22章1~19節 

本日は創世記の中でもよく知られています、アブラハムが愛する一人息子イサクを神に献げるという過酷な記事から、「神にのみ聴き従う」と題し、み言葉を聴いていきます。
21章の記事において、神は約束通りアブラハムとサラに血縁による実子を与えられます。祈りに祈り、待ちに待った約束の子でした。年老いたアブラハムとサラにとってこの一人息子イサクの誕生はどんなに大きな喜びの出来事であった事でしょう。それは正に神の一方的な恵みとしかいいようのないものでした。

ところがです。先ほど本日の22章の個所が読まれましたが。ここで神は、何と、アブラハムに対して、「一人息子イサクを焼き尽くす献げものとしてささげなさい」と、お命じになられるのです。何ということでしょうか。子が与えられるのを切望し、祝福を受け継いでいく子孫が与えられるとの神の約束を待ち続け、忍耐し、そして年老いてからやっと与えられたその子を、神は「焼き尽くす献げもの」として、「ささげよ」とお命じになられるのです。それはあまりに理不尽といえます。そんなことをすれば、一体何のために約束の子を与えられたのでしょうか。イサクを献げればアブラハムの子孫は絶えてしまいます。全く理解できないことでした。年老いたアブラハムにとって唯一の望みは、息子イサクとその子孫の祝福であったことでしょう。自分の行く末はそう長くないと悟っていたアブラハムにとって、息子イサクの将来こそ望みであり、神の祝福そのものであったでしょう。神がアブラハムにお命じになった言葉はアブラハムにとって到底理解し難く、如何に過酷なものであったか想像ができます。21章にサラは登場しませんが、もし彼女がアブラハムに命じられた言葉を神から直接聴いたとしたなら、恐らくまともな心境でいられなかったでありましょう。いずれにしても、このような過酷な命令を神は何のためにアブラムに下されたのでしょうか。

それは、1節にございますように、神が「アブラハムを試されるため」でありました。
このところを読んで思いますことは、「アブラハムその人の人生は神の試みの連続であった」ということです。神の召しに応えて故郷を離れて、行き先を知らないまま旅立っていったその旅路においても。又、約束の子と嗣業の地を与えるとの神のお言葉を戴いてからの長すぎるほどの年月においても。アブラハムは神の試みともいえる体験を幾度も重ねていくのであります。それはいうなれば神の祝福の大きさ、又その重たさゆえのことでありました。それはまさに新約聖書マタイ福音書1章1節から記されております、救い主イエス・キリストに至る神の壮大な系図の始まりが、実にこのアブラハムから始まったわけですから。

この22章でアブラハムは息子イサクを献げよ、という人生最大ともいえる過酷な「神の試み」を受けるのでありますが。一体この神の試みは何のためであったのでしょう。
それは12節「神を畏れる者」であるかどうか。又18節「神の声に聴き従う」かどうか。そのことが明らかになるための試みであったということであります。アブラハムはその神の試みに対して、「神にのみ聴き、そのみ声に従った」ということであります。アブラハムにすれば「なぜなのか?そんなことはとてもできない」という内なる声が当然あったはずです。しかし自分の内なる声、又人からの声にではなく、唯み神の声に聴き、それに従ったのであります。そのことをして、み使いがアブラハムに言っているように、真に「神を畏れる者」であることが明らかにされたのであります。そこに、アブラハムが信仰の父祖と呼ばれる所以があります。そのことは、アブラハム自身が何か完全無欠の人であったからということではないのです。ただ、彼は「主にのみ聴き、従っていった」という点において徹底していた人であったということであります。

新約聖書で主イエスは弟子たちに、「われらを試みに遭わせず悪より救い出したまえ」と祈るように勧められました。これは、私たちが「絶えることができないような苦難から守ってください」という祈りであります。又、日々起こって来る様々な状況の中でも、それを試みとはせず、私たちが「弱さのために悪や世の力に屈することのないように、常に守り、導いてください」という祈りです。
主イエスの、み救いと赦しを戴いた者は、救われたからもう問題がなくなった、悩みや苦しみがなくなったということではないのです。いや逆に、神ならざるものに満ち、そういったものを神と崇めていくこの世界に生きている私どもには、様々な問題や悩みは尽きません。しかし肝心なのは、そこで何が問われているかということです。
それは「あなたが神にのみ聴き従って、勝利の人生を生きるかどうか」ということであります。先日交読しました詩編118・6に「主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう」とありますが、試練や試みの中で、私どもはこのような告白へ至る者とされたいものです。「目に見える状況に惑わされず、聖書のみ言葉をご聖霊によって照らし出して戴き、示される道を信仰を持って歩み続けるなら、主は必ず勝利の人生を与えてくださるはずです。主に信頼してまいりましょう。

次に、22章でアブラハムと共に、神の山に登ったイサクについて見ていきたいと思います。彼は、焼き尽くす献げ物に用いる薪を背負うことができ、又しっかり父と会話ができることなどから、幼児というより分別のつく青少年であったようです。まあ、その彼自身、なんで父がこのようなことをするのか疑問もあったことでしょう。しかし彼は父のいうとおりに聴き従ったのであります。
父アブラハムはイサクが生まれた時に、21:3ですが、「神に命じられた通り、八日目に、息子イサクに割礼を施した」とあります。イサクは物心つい時から、父アブラハムが如何に畏れ敬い、その命に従う者であったかということを、そういった父アブラハムの「神に従う後姿」を肌で感じながら育ったのではないでしょうか。いや、それは本日の個所で二回も繰り返し「二人は一緒に歩いていった」(6,8)と記されていますように、彼はその父と共に神の前にあって育ったといった方がよいでしょうか。彼は父を通して生ける神の存在を知り、畏れ敬う心と信仰の従順について学んでいったのでありましょう。恐らくその父から、「おまえは神さまの約束による子だ。神さまはいつもお前の事を見ておられるよ。その神さまに信頼して生きなさい。神さまは必ずおまえを助け、すべてを備えていてくださる」と、こんなふうに、その小さき魂の時からことあるごとに教わってきたのではないでしょうか。そこには単なる親子の関係を超えた信仰による信頼関係が築かれていったのではないでしょうか。

幼い頃から子どもは、親たちのその信仰の生き様、姿勢や態度をよく見ながら育っていくということであります。「三つ子の魂百まで」という言葉がありますが。それはたとえ、今目に見えなくとも、多くの歳月を経て、実を結んでゆくということでもあるでしょう。
信仰を伝える、継承していくには根気と祈りと忍耐が必要です。
これは怖いことですが、逆も言うことができます。親や大人が家や教会で神に反抗し、不平不満ばかりを言っていたため、その子どもたちが教会や信仰から離れていったという事例は幾つもあります。「神を畏れ敬い愛する姿」こそ、子どもたちや次世代に受け継がせたいものです。

アブラハムが受けた試練とは比べものにならないでしょうが、私たち主を信じて生きる者も、この世にあって悩みや試みが絶えません。しかし、ヘブライ12章5節にこう記されています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛するものを鍛え、子として受け入れるものをみな、鞭打たれるからである。」
試練を通して私たちは神への信頼と従順を学ぶよう招かれます。鞭打たれる時、悔い改めと謙遜へと導かれます。様々な試みに対して、神ならざるものにではなく、神にのみ依り頼み、従って生きる者を、主はその幾倍もの恵みを与え、その必要を満たし、備えてくださるのであります。

最後に、本日の「アブラハムがイサクを献げる」個所に記された「独り子」「三日目」「息子の代わりに」などに見られる言葉から、皆様もお感じになられたかも知れません。
それはまさに、神が独り子のイエスさまをこの世に遣わし、罪深い人間の代わりに贖の死を遂げ、三日目に復活された、救いの成就をそこに重ねて見ることができます。
本日のアブラハムの信仰を目の当たりにしたみ使いは重ねて言いました。「あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」(12.16)

神の救いの約束の成就を示す新約聖書を最も凝縮したらヨハネ福音書3章16節になると言われます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
まさに創世記22章は神の救済の先取りであります。それはまた信仰の父祖アブラハムから神の独り子イエス・キリスト、救い主なる約束の子へと受け継がれていくみ神の遠大なご計画が示されているのであります。この個所をして、神が人身御供を肯定なさっているようにも取れますが、そうではないのです。イサクの死を神は望まなかったことが分かります。神はイサクの代わりに動物の犠牲を備えられ、約束の子が絶えることのないようになさったのであります。そして救い主イエス・キリストに迄至り、神の救いの約束のみ業が成し遂げられるのであります。信仰によって私たちも又、アブラハムの子孫なのです。

私たちは世にあって様々な困難や悩みはありますが、しかしイエスさまは次のようにおっしゃっています。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」ヨハネ16・33bc。御神に従い通すことで、世に勝利された救い主イエス・キリスト。そして、今日のアブラハムの信仰に倣い、私たちも信仰のチャレンジをしながら、勇気を出して一度限りの人生の歩みを続けてまいりましょう。
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神の言葉に立った出発

2011-07-03 07:33:21 | メッセージ
宣教 創世記12章1~8節 

①「主の祝福」
ハランの地で父のテラを亡くしたアブラムですが、そのハランにおいて主からの召しを受けます。神の召しの不思議さを見るようです。
1節以降「あなたは生まれ故郷を、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」

アブラムが受けた召命と約束された祝福はとてつもないものでありました。
「あなたを大いなる国民(父祖)とし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」という、まあ圧倒されるような主のお言葉であります。又、これらの祝福の約束はアブラムにとって驚きであったことでしょう。なぜなら11章30節には、「サライが不妊の女で、子供ができなかった」とあるからです。又、ハランの地を出発した時アブラムはすでに75歳でした。大いなる国民の父祖となると言われましても、アブラム自身決して若くも無く、力があるとはいえないそんな状況の中で、神のご計画が一方的なかたちで臨んでくるのであります。まさに信仰のチャレンジですよね。父テラやアブラムらは遊牧の民として生活をし、定住地を持っていなかったのでありますが。主はそのアブラムを祝福して国民の父祖とし、子孫を与え、その子孫に定住地を与えるばかりか、大いなる国民とすると約束なさるのであります。
ここには人の思いと神の思いの違い、いうなれば神の思いと計画は人の思いや計画を遥かに超えていることが明快に示されております。それをアブラムは主の言葉によって聞くのであります。

②「神の言葉に立った出発」
これら驚くべき主の約束と祝福に秘められたメッセージとは何でしょうか? 
それはアブラムが自分の考えや思い、又現実や世の常識によるのではなく、主のお言葉によって立つものとされる、ということであります。それは4節「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」と正に記されているとおりです。聖書はそれを信仰といいます。
「信仰とは、望んでいることがらを確信し、まだ見ていない事実を確認していくこと」(ヘブライ11:1)。それが信仰であります。アブラムにとっては、子孫はどこにいるのか? あの砂漠の中をどこに行くのか?行く先も知らないまま家族を連れて踏み出さねばならないという厳しい現実がありました。先の見えない不安は尽きなかったことでしょう。目に見えるような保護があったわけではありません。必要な若さや力があるとも思えない。しかしそのようなアブラムに主は御目を注ぎ、アブラムはその主の呼びかけに応えて一歩を踏み出したのであります。
先ほど読みました1節以降には、主自らアブラムに対して「わたしが」と何度も呼びかけられていますよね。それはあたかも、「わたしに任せなさい。あとはわたしが責任を負うから」とおっしゃっているかのようです。その主の呼びかけがアブラムの胸に迫ってきたのではないでしょうか。アブラムにとって生まれ故郷や父の家を離れるというのは容易なことではなかったと思いますが。アブラムは主の「わたしがあなたを導く」という「約束の言葉」に唯そのお言葉に自分の存在をかけて出発するのであります。主への信頼こそ、アブラムの生きる道、人生の指針となったのです。

③「分かち合われる祝福」
そのアブラムの旅立ちについて5節にこうあります。
「アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かった。」
このアブラムの旅立ちをよく献身になぞらえることもあります。献身と申しますと、何もかも捨てて、いわばその身一つで従っていく、ということを想像しがちですが。ここでアブラムは何もかも捨ていったかというと、そうではいないのですね。その理由は族長として家族やその仲間を守るという事、そのために財産を管理するという責務があったからでしょう。彼は家族や財産(家畜)、大勢の人々と一緒に主の示される地へ旅立ったのです。
ここで見落とせないのは、アブラムは一人ではなく、信仰を分かち合う仲間、祝福を分かち合っていく人々がいた、ということであります。そこに神のご計画の豊かな一面をみる事ができます。

来週まで神学校週間ですが。直接献身して伝道者になる方が起こされることは確かに必要なことでありますが。その一方で、仕事や事業を通して職場や地域に仕え祝福を分かち合う働きに召された方もいらっしゃいます。家族を守り、祈りつつ治めてことも大切な務めであり、召しでありましょう。各々がその遣わされた所で与えられた賜物や分に応じて主の働きに用いられていくのであります。
それは私どもにもいろんな献身のあり方があることを示しています。そして重要なのは、その献身の働きによる目的なのです。どのような献身も主から戴いた恵みを「共に分かち合う」そのところにあります。私どもも日々、献身の思いをもって「如何にその祝福を隣人や他者と分かち合うか」ということに思いを馳せ、主の導きを祈り求めてまいりたいものです。
又、クリスチャンは誰もがキリストのからだなる教会を立てあげ、守るように召されています。一人ひとりが様々な形で主の教会に仕え支えているのでありますが。アブラムが与えられた祝福を家族や仲間と一緒に分かち合って旅を続けたように、私どもも各々召されたあり方で、互いを尊びつつ信仰の旅路をなしていく。そこに信仰の豊かさと喜びがあります。
私どもの中にはクリスチャンホームの方もいれば、自分だけがクリスチャンという方もいますが。アブラムは「わたしの示す地に行きなさい」とのみ言葉に立って、家族や親族、さらに仲間と共に、蓄えた財産をすべて携えてハランを出発しました。主の招きと召命には豊かな広がりがあったということです。私ども主の教会の兄弟姉妹、又それぞれの家族にまでも、信仰の財産をもって主の祝福を分かち合っていく道が開かれていることを、このアブラムのあゆみから読み取ることができます。特伝やクリスマス、イースター、又家庭集会や召天者記念礼拝などが、その機会になるでしょうが。その他にも日々の祈りの中で、互いに執り成し、それぞれの家族の事を覚え合っていくことは本当に主にある祝福であります。

④「主の約束」
最後に、主の「わたしが示す地へ行きなさい」とのみ言葉に立って旅立ったアブラムでありますが。実は彼はその具体的な目的地、行き先を知らされずに旅立ったのです。そういう中で彼はカナンに着き、そこで初めて主から「あなたの子孫にこの地を与える」との約束に与るのであります。が、しかしアブラムは当初、そのカナンの地に住むことなく、そこからベテルの地へ、さらにネゲブの地へ移っていきました。カナンの地にはカナンの先住民族が住んでおり、いろんな困難や問題があり、ネゲブ、さらにベテルへと移ったのであります。
けれども、主は何と約束されたでしょうか。カナンの地に入ったアブラムに「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われたのです。
アブラムにとってカナン人と一緒の生活は現実に厳しく、困難や問題があったのでしょう。主の言葉に招かれながらも、現実の諸問題や壁といったものに突き当たり、カナンの地に安住することが叶いません。
アブラム一行はカナンの地でのいざこざを避けてベテルに行きますが、そこでも問題が起こります。今度はネゲブに行ったが、13章によれば、そこでは飢饉が起こったのでエジプトに行きます。しかしそこでも安住の場はありませんでした。そして遂にカナンの地にアブラムは帰ってくるのであります。それはつまり、どこへ行っても主が召し出し、約束されたその所でない限り、アブラムに真の平安はなかったということです。
この事は私どもにも共通することです。人間関係が煩わしい、面倒、嫌だ、合わないという問題はどこにあってもつきものです。それで場所や環境を変えることで解決するのならいいでしょうが、大概はそうでない事の方が多いのではないでしょうか。いくら人間関係の煩わしさ、面倒さ、合わないからということで別の場所や環境が変わっても不思議とまた同じことが繰り返されるのです。それは、自分自身が変わろうとしないなら根本的な問題は未解決のままだからです。結局信仰に依って主に自分を従わせつつあゆむ他、確かな平安は得られません。
主はアブラムに、「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束されました。それは、今あなたがいるその場、その状況のことです。そこには煩わしい人間関係が横たわっているかも知れません。けれども主は、そこに身を置いて、「わたしの祝福を分かつ者として生きなさい」と招かれます。それは人の意志や頑張りだけでできるものではありません。
アブラムはカナンの地に入るや、まず主のために、祭壇を築いた、とあります。そのように、まず、全てを造り導かれる主のみ名を賛美する礼拝を捧げて、わたしの人生の基盤はどこにあるか、ということを確認しつつ、主に助けを請い求め、主にきよめられて、「神と人の交わりに生きる力を戴く」ことがどうしても必要なのです。ここに礼拝の大切さがあります。
私どもは、時として希望など持てないような問題や出来事に直面することがあります。
しかしそのような時に、今日のアブラムに示された主の言葉を味わうことができるのです。主は、子孫も土地も望めないようなアブラムに、「その現実にとどまるな。わたしの言葉に立って行け」と命じておられます。それこそが、はかなく消えゆく人の願望を遥かに凌ぐ神の変わることのない祝福なのです。

「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」。詩編119:115
それぞれに与えられた約束の言葉を、人生の道の光、その歩みの灯として、ここからまた新たに、主の民の歩みへと遣わされてまいりましょう。
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