日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

わたしを憐れんでください

2014-05-25 15:40:09 | メッセージ
礼拝宣教 マルコ10章46~52節 

本日は、盲人のバルティマイが救われた記事から、御言葉を聞いていきたいと思います。

「とき(機会)」
みなさまはそれぞれに主イエスとの出会いの時がおありかと思います。神の愛と赦しを知らずに歩んでいたけれど、主イエスと出会って初めてその救いを知って、「このお方に従っていこう。」そう決心なさったことでしょう。そこには人の思いを超えた聖霊のお働きがあり、又、教会の方々の執り成しの祈りがあったことでしょう。教会に初めて足を運んだ時、又、信仰決心してバプテスマに与った時、あるいは転入会をなさる時というのは、自分だけで計画して得られるものでもなく、それは人知では計り知れない「神の側から与えられた時」「神のご計画のもとで導かれた時」なのであります。
本日登場するこのバルティマイにとっての「神の時」は、盲人である彼が生きていくため道端に座って物乞いをしている時に訪れました。
「イエスさまがエリコを出ていこうとされたとき、彼がそこに座っていた。」それはまさにこの「とき」(機会)がなかったなら、彼はイエスさまとお会いすることもありませんし、いわんや目が見えるようになり、救われることもなかったわけでありますね。
この千載一遇ともいえるチャンスを彼は決して見逃しませんでした。実は、神の時は世の多くの人々に与えられているのでありますが、生活の事ごとや思い煩いのために心が鈍くなり、そのチャンスを逃してしまうことがあります。ここの10章17節以降には、金持ちの男が富の問題で心塞がれイエスさまに従うことができなかったエピソードが記されています。又、35節以降にはヤコブやヨハネはじめ弟子たちが地位争いをして、イエスさまが十字架の苦難を前にしておられる最も重要な時を理解することができませんでした。
それらと対照的に「神の時」であるチャンスを決して見逃さなかったのは、大きなハンディを抱え、その日その日を生きていくのに精いっぱいで神に叫び、訴えるほかないこのバルティマイであったのです。

「叫び続ける」
47節以降で、バルティマイが「ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた」と記されています。

彼は目が見えませんでしたが、その分聴覚や周りの雰囲気を察することにはたけていたのではないでしょうか。しかしそれ以上に、「何とか噂に聞くイエスというその方にお会し、自分の現状を知ってほしい」との願いと祈りが、その救いの時をたぐり寄せるのです。ナザレのイエスが遂に目の前に来ておられることを察して、彼の期待はまさに頂点に達します。
そして、彼は「わたしを憐れんでください」と、イエスさまに叫び始めます。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしますが、彼はますます、「わたしを憐れんでください」とイエスさまに叫び続けた、というのですね。
視力を失い、物乞をして路上で生きるほかなかった彼の魂の叫び。それは家族や地域社会といったあらゆるつながりを絶たれ、すべて罪の結果と排除されてきた彼の、人間性と人生を取り戻すための叫びでありました。

彼のこの「わたしを憐れんでください」という言葉は、旧約聖書では詩編のダビデの詞に幾度も使われていますように、「神の慈悲を施してください」という意味です。又、「憐れむ」というヘブライ語には「腸がちぎれるような思いを共にする」という意味があります。ですから、ここで彼は必死に激しく「主イエスよ、わたしの苦悩をどうか分かってください。」もっと言えば、それは「主よ、この私の痛みに共感したまえ」というくらいの強い訴えであり、叫びであったのです。

このバルティマイの叫びを、多くの人々(おそらくイエスの弟子たちも含まれていたのでしょうが)は止めさせ、黙らせようとします。彼らには、この人の切なる願いも、苦悩や痛みも分からなかったのです。バルティマイが単にイエスさまに物乞をしているのだと思ったのかも知れませんし、イエスさまがそういう状況の人に構っておられる時間などありはしないと考える人々もいたのかも知れません。誰も彼の心境を思いやってみようなどとは考えもしなかったのです。
 現在も残念ながら路上で生きていかざるを得ない人々に対して様々な偏見がもたれています。罪深い生活の結果だとか。働こうとせず怠けているだけだとか。しかし多くの場合は、適切な支援を受けることができず、多くのつながりを絶たれ、孤立してしまうといった状況の中で、追いこまれるように路上で生きざるを得なくなった人がほとんどなのです。偏見とは怖いものです。人の人間性まで否定してしまう力が働きます。
がしかし、イエスさまは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と人々に言われます。そうすると人々は一変して、「安心しなさい。立ちなさい、お呼びだ」とバルティマイを招きます。イエスさまの彼に対する関心が多くの人の良心を呼び覚ますのです。見出されるとは、まさにそういうことでありましょう。無関心であれば何も変わらなかったことが、こうして希望の出来事へとつなげられていくのです。

バルティマイに話を戻しますが。
彼のこの叫びは、イエスさまの心を動かさずにはおかない激しさを持っていました。だからこそ、イエスさまは立ち止まられたのです。人が何と言おうが。止めようが。バルティマイは執拗に求め、叫び続け、決してあきらめませんでした。
私たちには、祈ることをあきらめるような思いが起こることがあるでしょう。祈っても一向に状況が変わらず、それどころか益々悪くなっていくように思える時。又、もっと常識的に行動することを優先させるべきだと考える時、祈りが妨げられます。確かに神の計画と人の願いがいつも一致するとは限りません。確かに受け入れるほかないこともあるでしょう。けれど、それは神が祈りを無視されたのでは決してありません。祈り続ける者の心の叫びを必ず顧みてくださり、神の御業としての栄光を表す時を備えてくださるのです。ルカ18章でイエスさまは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを弟子たちに教えてこうおっしゃいました。「神は昼も夜も叫び求める選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らいつまでも放っておかれることなどあるだろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。そうしてこうつけ足されました。「しかし人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか。主に祈り続けること、訴え続けることを決してあきらめない。主はそれを信仰と呼んで下さるのです。

さて、イエスさまが「お呼びだ」という主の招きを受けた彼は、「上着を脱ぎ捨て、踊り上がってイエスのところに来た」と記されています。
この上着は物乞をする時に路上に広げ、暑さからも守る彼にとって最も大事な持ち物で、いわばそれは彼の全財産でもあったわけです。それを脱ぎ捨て、喜び踊り上がってイエスのところに来た、というのです。「脱ぎ棄て」の原語;アポバローは、放棄するという意味があります。つまり、彼は一切を放棄して主イエスのもとに来たということであります。

主に捧げるときに、私たちは何がしかのもの、それは私たちにとって大切な時間であったり、労働であったり、財であったりと、何らかを放棄しているのではないでしょうか。時にそれは自分の主義、主張であったりもするでしょう。けれどそのような思いでさえ、主の招きに応え、放棄して従っていきます。しかしそれらは、強いられるからではなく、主に見出された喜びと感謝からそのように捧げているのです。

「信仰」
さて、ここからが本日のメッセージの後半部分になります。
イエスさまはこの盲人に対して、「何をしてほしいのか」と聞かれました。
何で目の見えない盲人を前に、イエスさまはこのように分かりきったような事を尋ねられたのでしょうか?イエスさまも当然この盲人の彼の必要をご存じであられたはずではないでしょうか。しかしここでイエスさまは、「この盲人が自ら願う事を確認して答える」そのことを望まれたのです。
ヘブライ人への手紙には、「信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することです」と記されてあります。ほんとうのところ自分は何を望んでいるのか?確認が必要なのです。たとえばお金が欲しいと祈る人がいたとするなら、主は何のために必要なのかと問われるでしょう。何のために必要か確認ができた時、ほんとうに大切なのはお金そのものではなく、その希望が叶えられるために、という本質が見えてきます。それこそがほんとうに祈るべきことなのですね。

盲人のバルティマイはイエスさまの問いかけに対して、「(わたしの)先生、目が見えるようになることです」と、具体的な願いを自分の言葉にして返しています。
彼はここで、「イエスさま、あなたはすべてご存じでしょう」と言う事もできたのです。でもここで主が彼に望んでおられるのは、「具体的に何を願うのかを自分の言葉で伝える」ということであります。そこに主と彼との人格的なつながりが生じるからです。

私どもの人と人の関係でも、家族の関係でもそうですが、言葉にわざわざしなくても分かってくれている、理解してくれている、ということで、自分の思いを言葉にして伝えることを面倒がったり、省いてしまっていることがあるように思います。が、そこで大いなる誤解が生じることもあるのではないでしょうか。やっぱり、自分の思いを人に伝えることってほんとうに大事ですよね。そこから、また相手の応答があり、さらにそれへの返答というキャッボールがなされるなかで、深いとこで理解し合うことが起こっていくわけです。それをどこか面倒くさがり、相手は分かってくれているという思い込みですませて伝えなければ、関係は何も築いていけません。
私たちはどこか、神はすべてご存じであるとか、何とかして下さるだろうと、なるようににしかならないとか言って具体的な願いを祈る事をやめてしまっていることはないでしょうか。先程の祈りの事柄と同様に、もうずっと何も変わらないからこれからも何も変わらないだろうというふうに自分の思いであきらめをつけているようなことはないでしょうか。そうなっていきますと信仰というものに命がなくなっていくことになり兼ねません。大事なのは、主と一対一で向き合い、主に問われながら自分の思いを確認しながら祈り、そして行動していく主との生きた関係にあります。

イエスさまは、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃった後、盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った、と記されています。
イエスさまは、あなたの信仰があなたの目をいやした、あるいは治したとは言われず、「救った」と言われます。
ここで問題になっているのは単なる目のいやしではなく、救いであります。それは、先程から申しあげている主と私の問い問われる一対一の関係の中で確かにされていく神との命の交わりの回復であり、人として生きることの回復であります。それを「救い」とイエスさまはおっしゃるのです。
盲人のバルティマイにとって目がいやされたことは確かに大きなことであったと思いますが。しかし彼にとって何より大きな奇跡は、彼の存在に目をとめ、ひとりの尊厳をもった人間として彼を立たしめた主イエスの愛、神の救いでした。

イエスさまは見えるようになったバルティマイに「行きなさい」と言われました。それは家に帰りなさいという意味でしたけど、彼はその言葉に対して、「なお道を進まれるイエスに従った」と記されています。

彼のイエスさまに呼びかけた「ラボニ」という言葉は、先生というよりさらに畏敬の念を込めた言葉であり、それは「わたしの師よ」という師弟関係を表します。
見えるようになったバルティマイは家に帰らず、エルサレム;十字架への道へ向かうイエスさまの御後に従っていったのです。すでにイエスさまはご自分の死と復活を予告して、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」ということを、弟子たちに教えられていたのですが。弟子たちはその意味を理解することができなかったのですが、このバルティマイはある意味イエスさまのこの招きに、従っていった真の弟子であったのです。彼は上着を脱ぎ捨て、自己放棄して、踊り上がってイエスさまのもとに来て、そして御後に従っていったのです。
彼は自分の人生のどん底、その困窮と失望の中でイエスさまに招かれ、その魂が見出されるという救いの体験をした。そのことが彼を立たしめたのです。
私たちはこの彼のような魂からの叫び、主への求めを忘れてはいないでしょうか。
主は生きておられます。主の御前に信仰をもって進みいで、主の御業を見せて戴きましょう。「わたしを憐れんでくださる主」、「魂の叫びを共にして下さる主」は、いつくしみ深いお方であります。今週の一日一もこの主に祈り、従い続けてまいりましょう。
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フィリアコンサートのご案内

2014-05-22 18:32:36 | イベント
イングリッシュハンドベル・フィリア

日時 5月31日(土)

開演 午後1時30分(会場1時)

会場 日本バプテスト大阪教会

   大阪市天王寺区茶臼山町1-17
   
入場無料


[演奏曲目]                        

*Blessed Assurance

*水辺にて

*ピチカート ポカル

*お江戸日本橋

*オペラ座の怪人

*Song of the Flowers

     その他

さまざまな教会や施設等で演奏奉仕されてこられた経験豊かなベルフィリア。
今回はベルフィリア主催のコンサートです。
素敵なハンドベルの音色にきっと心潤されることでしょう。

最寄りの駅 JR天王寺、大阪市営地下鉄天王寺駅(谷町線・御堂筋線)
      より四天王寺方面へ徒歩5分 グリンヒルホテルを経て、IT法律専門学校のお隣。

      *公共の交通機関をご利用になってお越しください。
     
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民族の隔てを越えて

2014-05-18 14:59:01 | メッセージ
礼拝宣教 マルコ7章24~30節 

本日はマルコ7章24節~30節より、「民族の隔てを越えて」と題して、御言葉に聞いていきたいと思いますが。その前にまずこの7章全体のテーマとなっている一つの問題について知る必要があるかと思います。
それは、ユダヤの人々に浸透していた「汚れ」という概念です。ユダヤのとりわけ宗教的な指導者たちは律法を守る事のできない人たちを「汚れた者」として裁いていました。しかし、6~13節でイエスさまが語られたように、表面的には律法を守り行っているようであっても、それは単なる昔からの言い伝えの慣習的なものであって、本当に大切な神の言葉と御心は無にされていたのです。

イエスさまは群衆や弟子たちに対して、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚す」とおっしゃいました。
ユダヤの熱心なファリサイ派の人々や律法学者たちは、イエスさまが、罪人や汚れているとされていた人と交流をもったり、食事を共にすること自体「汚れる」みなしていましたが、イエスさまは21節~22節にあるように、「人のうちにある様々な罪の思いこそ人を汚す」とおっしゃるのです。

そのような背景を経て、本日の24節「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった」という描写から始まる今日のエピソードが記されているのであります。

このティルスはガリラヤ湖北西部の地からかなり離れたフィニキア(現:シリア)という異邦の地であります。この地はユダヤ人から見れば政治的にも民族的にも外国でありました。
すでに3章8節には、イエスさまの御業について伝え聞いたティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのおられたガリラヤ湖周辺にまで集まって来ていたという記事がありますことから。群衆が異邦の地ティルス、シドンとガリラヤを往来していたという事はあったようです。
いずれにしても、イエスさまはなぜわざわざ異邦の地ティルス地方に迄行かれたのでしょうか。その理由は何も記されていませんが、ただここに「だれにも知られたくと思っておられたが、人々に気づかれてしまった」とありますように。連日、御自分を追って来る群衆への対応でかなり疲労されていたのかも知れませんし、ここまでガリラヤから離れると少しは休養ができると考えたのかも知れませんね。しかし、イエスさまの人に知られたくないという思いとは裏腹に、滞在されていた家はすぐ人々に見つけられてしまうのであります。
そこへ25節、「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏し、娘から悪霊を追い出してください」とイエスさまに頼んだというのです。26節で、この女は、「ギリシャ人でシリア・フィニキアの生まれであった」と記されています。

この異邦人の女性の娘は汚れた霊に取りつかれていたと紹介されています。
ユダヤの人たちにとって、異邦人は神の選びと救いから隔てられた人たちであり、ゆえに彼らは異邦人(外国人)と接したり、交流をもったり、食事をすると汚れを身に受けることとなると考えていました。イエスさまの弟子たちでさえも、そのような異邦人に対する偏見から自由になることができずにいたのです。ですから、この女性の娘のように汚れた霊に取りつかれるという現象は、ユダヤ人からすれば異邦人の汚れからくる「神の裁き」でしかなかったのです。
おそらくイエスさまのおそばに弟子たちもいたと思われます。彼らも同様に考えていたでありましょう。彼女とその娘は、神の祝福の家から隔てられ、汚れに縛られて失望の中を生きる以外になかったのであります。
しかし、そこによき知らせが届きます。神の人イエスがこの異教の地にまで、そのすぐそばにまで来ておられるという噂です。この時すでにイエスさまの噂は遠い地にまで広められ、すでにこの女性もイエスさまのなさることを伝え聞いていたことでしょう。けれども、苦しむ娘から目を離すことができず、大きな期待を持ちながらもいつかはイエスさまとお会いできる日が来ることを祈る以外なかったのではないでしょうか。そして訪れたこのチャンスです。
この汚れた霊に苦しむ娘を持つ女性は、何とかして苦しむ娘を救いたいというその一心でありました。彼女は「イエスさまの足もとにひれ伏して」、娘から悪霊を追い出してくださいと依り頼むのであります。この「ひれ伏した」というのは、「礼拝した」ということです。28節の「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、、、」の「主よ」と呼びかけたこともそうですが、彼女はイエスさまを「ラビ」つまり「先生」としてではなく、私の「主よ」と呼ぶのであります。そこに、神の救いを待ち望んできたこの女性の万感の思いが込められていました。「このお方なら娘を悪霊から解放して下さる」「私たちがもう一度人間らしく生きることができるようにして下さる」。その希望を前にして彼女はもうなりふり構わず、救いをもたらして下さると信じ、イエスの前に身をなげ出してひれ伏し、懇願するのです。
その時イエスさまは食事をされていたかどうか分かりませんが。この女性に対してこう言われます。
「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」

このイエスさまの言葉を聞かれて、皆さんはどう思われたでしょうか。「こんなにも必死に頼んでいるのに、何て冷たい」「犬と軽蔑して呼んでいるのは差別ではないか」などと思う方もおられるでしょう。
一つ考えられますのは、この時のイエスさまの心境についてであります。イエスさまの心のうちはユダヤの民の救いと解放でいっぱいであったということがまず考えられます。それは単なる同じ民族としての愛着から起こる感情的なものというより、イスラエルの民の悔改めとその救いに対するいわば使命感であったのではないでしょうか。
しかし、初めにもお話したように、律法学者やファリサイ派の人たちをはじめユダヤの民はイエスの言動を常に非難し、イエスを殺そうとする者まで出てきます。マルコ3章には、イエスさまがそんな彼らの頑なさを怒り悲しまれた、とありますが。そのような苦悩のただ中におられたイエスさまは、敢えて一旦異邦の地にその身を寄せることで、物事や事象、御自身をも客観的に見つめ直そうとなさったのかも知れません。むろんそんな緊張を強いられる日々には休息も必要であります。そこにおられることを誰にも知られたくないと思っておられたイエスさまでしたが、人々に見つけられ、この女性が飛び込んで来るのです。まあそのような状況の中で発せられたこのイエスさまのお言葉であったわけですが。

ところで、このイエスさまの「まず」という言葉は、異邦人である女性の娘の救いと解放を頭から否定するものではなく、「神の救いと解放はユダヤから始まって、そこから異邦の地に」という神のご計画を表しています。このマルコ福音書にも、イエスさまはまずユダヤのガリラヤで5千人を食べさせてから、異邦人の地域・デカポリスで4千人を食べさせたと記されています。
このようにイエスさまが「まず」と言われたことの中には、「ユダヤに訪れる救いと解放がやがて異邦の人たちにも開かれる」ということを含んでいたということです。
また、この「犬」というのは、確かにユダヤ人異教の神々を崇める異邦人を野良犬のように軽蔑して呼んだ用語です。しかし、ここでイエスさまが言われた「小犬」は野良犬を指す言葉ではなく、室内で飼われている愛犬(ペット)を指す言葉でした。この時代にも犬がペットとして飼われ、食事の折には食卓の下でおこぼれを待ちうけていたのでしょう。そのようにイエスさまが野良犬といわず愛犬といっておられることの中には、主人(あるじ)である神さまとその子らユダヤの民のその家に、異邦人である彼ら彼女らも共に住む存在であることが示されているように思えます。

さて、そのイエスさまの言葉を聞いた異邦人の女性は答えます。
「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
彼女は娘が汚れた霊に縛られた日々から何としても解放されるためにくいさがります。

ところで、ユダヤ人のパンの食べ方については、独特な食事規定があり、私たちからしてみればちょっと風変わりな食べ方をしていたということです。彼らはパンをちぎりやすい形に作り、大きな皿に盛り、各自が取って食べたり、分け合って食べたそうです。パン以外の料理は、主に手で食べ、食事が終わると、残ったパンの切れはしで指を拭き、指を拭き終ったら、そのパンの切れはしを床に捨て、飼い犬が食べられるようにしてやった、というのですね。
実にイエスさまのこの言葉とこの異邦人の女性とのやり取りには、そういう日常のことが背景にあったということです。彼女だって犬と言われて、いくらそれが愛犬を指す言葉であったとしても、やはりいい気はしなかったのではないでしょうか。
 けれども、もうプライドもへったくれもありません。彼女は娘と自分に解放を与える「主」、救い主を目の前にしているのです。さすがのイエスさまも、この思いがけない彼女の返答とそこに込められた解放への希望、その一途な信仰とに、29節「それほど言うのなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と言われ、そのとおりの御業を現わされるのであります。この女性はひとしきり感謝の言葉を口にして、取り戻された娘を抱きしめるために飛ぶように家へと引き返していったことでしょう

今日は、「民族の隔てを越えた」救いと福音の記事から御言葉を聞いてきました。
はじめに7章は、「汚れ」についての問題を取り扱っていると申しましたが。イエスさまは「人の中から出るものが人を汚す」のだとおっしゃいました。この異邦の女性とその娘を神の祝福から隔てていたのは、実は「人の中から出てくる差別や偏見」であったのかも知れません。今日の世界においても、いまだに民族同士の争い、国と国との争いが尽きません。憎しみの連鎖が後を絶ちません。しかし、神は御ひとり子イエス・キリストの十字架の苦難と死を通して、民族や国家の隔てを越えた和解の福音を与えて下さったのです。それは又、その福音に生かされている私たちが、主の和解の使者として世にあってその務めを果たしていくということ、主の平和を築いていくことでもあります。

マルコ福音書は、自らを神に選ばれた民であると自称するユダヤ人たち、又、イエスの弟子たちに対して、この異邦人女性の「パン屑の信仰」に目覚めるよう促しているようにも思えます。イエスさまの救いを受けて生きる私たちも、もう一度このパン屑の信仰に立ち帰って、神さまに見出された一人ひとりとして、御救いの実現を待ち望む者とされてまいりましょう。
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「成長する種」のたとえ

2014-05-11 14:02:32 | メッセージ
礼拝宣教 マルコ4章26~29節 母の日


「はじめに」
先程読まれましたマルコ4章26~29節の「成長する種」のたとえ。これは他の福音書にはなくマルコ福音書だけに記されております。新緑が萌え出る季節に相応しいこのところから今日は、イエスさまが語られた「神の国」について聞き取っていきたいと思います。
このマルコの1章15節には、イエスさまが最初の伝道の地ガリラヤで、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と神の国の福音・喜びの訪れを語られたとあります。この「時は満ちた」とは、今やそれはイエス・キリストによって実現し、神の国が間近に来た」と言う意味であります。そのイエス・キリストによってもたらされた神の国とその拡がりを、今日の箇所は「成長する種」に語られているのです。

「土に蒔かれた種が主体」
さて、この短いたとえを読みますと、パレスチナ地方の農耕、種を蒔き、育て、収穫するような非常に身近な自然の営みに、神の国をたとえておられます。

イエスさまはまず、「神の国は、人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種が芽を出して成長するが、どうしてそのようになるか、その人は知らない」とおっしゃいます。
それは、人(農夫)が種を土に蒔くことから始められるわけですが。この話の主体は種を蒔く「人」にあるのではなく、土に蒔かれた「種」にあります。その種は主イエスの語られたいのちの言葉と解することができますし、又福音そのものと捉えることもできるでしょう。この「土に種を蒔く」の「蒔く」という用語は、原文では「一度限りの行為を意味する」そうです。そう考えますと、それはイエス・キリストの十字架の苦難と死をもって蒔かれた「いのちの種」と私たちは読むこともできるでしょう。
ヨハネ福音書12章24節に主イエスは「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とおっしゃいました。地に蒔かれた一度限りのこの福音の種には、「神の国」の到来と完成へ至らせる「いのち」が宿っているのであります。
すでにそのいのちに与っている私たちキリストの教会とその信徒には、この主イエスの福音の「種を蒔く」という宣教や伝道の働きが託されているのでありますけれども。

「隠された御業」
このマルコ福音書が注目している点は、その地に蒔かれた種がいつ芽を出しいつ育つか、それは種を蒔いた人すらも知らない、と言うことであります。種が蒔かれた後、もちろん農夫は水をやったり、芽が出るとその必要に応じて手入れを行うわけでありますけれども。しかし農夫は、種がどのようにしてその芽を出し成長するのか、どうして実となるのか知らないのです。「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」のであります。

自然界における動植物の不思議ないのちの営み。私は小学生の頃、よくチョウやトンボ、セミ取りに夢中になり、足中を蚊にボロボロに刺されるまで続けたものでしたが。それだけ野に親しんでも、サナギの殻を破ってチョウが羽を伸ばす瞬間や、ヤゴがトンボになる時、セミの幼虫がセミの姿になる時などは、ほとんど目にしたことはありません。映像等で観ましても、それはまさに神秘としか言いようのないものです。
果たしてイエスさまも幼少の頃虫取りをされたかは分かりませんが。自然界に生きる動植物に身近に触れる中で、創造主なる神の御手の業を覚え、このようにたとえをお用いになる知恵を培われたのかも知れないなあ、と想像したりいたしますが。
いずれにしろ、この「成長する種」のたとえの言わんとしていることは、神のなさる業や働きは人の目に隠されているということです。人の理解していることや人の知っていることはほんの一部分にすぎず、そのほとんどは知らないということです。どんなに科学技術が発達した現代にあっても、それは同様であります。動植物がどうして命をもち得るのか。
イエスさまは、「土はひとりでに実を結ばせる」と言われましたが。まさにこれは神の驚くべき御業であります。「神の国」が「種の成長」にたとえられたそのメッセージは、神の働きが人の努力や業を遥か超えるダイナミックな力によって成し遂げられていくものであることを、示しているのです。Ⅰコリント2章7節で使徒パウロも、「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始る前から定められておられたものです」と述べています。

さて、イエスさまは、「種の成長」が自然界の秩序に則して、「芽を出し、茎、穂、そして穂には豊かな実ができる」あたかもそのように、神の国の実現も神の秩序の中で実を結んでいくとおっしゃったわけですが。実際私たちひとり一人にいたしましても、この成長はあくまでも人の視点ではなく、天からの視点によってでありますが。福音を種が心に蒔かれ、いつの間にかそれが芽を出し、育っていき、葉を茂らせ、花を咲かせるように、救いの喜びに与り、いずれ実を結んでいくものとされているわけであります。
その順序が入れ替わることはありません。けれども、それぞれの過程にかかる時間、あるいは経緯といったものは人それぞれであり、千差万別です。ある人は茎が伸びるまでに時間が必要であるけど。花開けばあっという間に実を結びます。またある人は、いつまでたっても芽が出ない。待てども暮らせども出ない。けれど雨の季節を過ぎて気づけば、すばらしい大輪の花を咲かせているのです。
福音の種を蒔く私たちは、結果を急ぐあまり、その目に見える状況に常に一喜一憂いたします。落ち込んだり、悲観的になることさえあるでしょう。けれども、神の業と働きは人の目に隠されており、私たち人の思いを遥かに超えてなし遂げられていくのであります。
27節で「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する」とありますように、福音の種蒔きをなし、水を注いだりするのは私たちであったとしても、命を与え、育むのは神さまですから、その神さまの力に信頼をおいていく信仰が大切なのです。
使徒パウロが、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(Ⅰコリント3章6節)と述べているとおりです。

私たち大阪教会も教会堂建築という働きの中で、私たちの働きや思いを遥かに超えた神さまの驚くべき御業をいくつも見せていただきました。この新会堂での新たなあゆみの中でも、様々なかたちで主は生きて働かれています。むろん礼拝者が増し加えられることやキリストの教会が継承されてことを今後も課題として祈り、努めることは必要であります。しかし、より多くの方と祝福を分ち合うということからすれば、すでに様々な形で実現されています。今後も主の豊かな実りの御業に期待してまいりたいと願うものであります。

「いのちの種」
今日ここを読んでほんとうに思いますのは、地に蒔かれた「福音の種」自体に、「神のいのち」が完全なかたちで宿っているということであります。その福音の種を神さま御自身が成長させ、豊かな実りを備えておられるのです。
種まきをなした農夫が、日々土に水を注ぎ、芽を出せばその手入れをするように、人のため、教会のためと努めることはすばらしいことですが。何にも優って大事なのは、「福音の種」自体に完全なかたちで「神のいのち」の力が宿っている、そのことに信頼し、その力に育まれていくことです。それが何よりの証しとなって地に落ち、次なる実を結んでいくことにつながっていくのです。

「主イエスにある家族」
本日は母の日でありますが。母親は子どもに寄り添い、惜しまずに労し、働いてくださる存在であります。それは、何か子ども見返りを期待するからではなく、唯、その子を愛するがゆえです。
先程、使徒パウロの「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(Ⅰコリント3章6節)との言葉を引用いたしましたが。成長させてくださるのは神さまであることは確かでありますが、パウロのように「植える」、又、アポロのように「水を注ぐ」そのような関わりを通して教会とそこに集う人たちは、主イエスにある福音の深さ広さを知ることとなったのです。

私たち教会は、イエス・キリストによって神の家族とされていますが。そこには主にある親子や兄弟姉妹が存在しているのですね。先週のマルコ3章の終りのところでイエスさまは、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」とおっしゃいましたね。
私たちは単に血縁による親子という枠に留まらない、主イエスの尊い命によって新しく生まれた一人ひとり、そしてその家族なのです。今日は特に教会のお母さん、女性会の皆さまをおぼえて、感謝と祝福を祈りたいと思います。

「おわりに」
イエスさまは29節で、「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」とおっしゃいました。

私たちが地上において生きる時間は限られていますが。その限られた時の中で、一体どれだけ神の驚くべき恵みの業を知らされることでしょう。それは又、「神の国」の先取りであり、この地上にあってすでに私たちは神の国に連ならせて戴く喜びを味わいながら生きているのです。アーメンです。主イエスの福音を信じる者にとって何よりも幸いなのは、やがてこの神の国が完全なかたちで現れる、その時を待ち望みながら完成を待ち望みながら日々歩んでいくことができることであります。

最後に、30節~32節を読んで本日の宣教を閉じます。
「更に、イエスは言われた。『神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。』」
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永遠に赦されない罪とは?

2014-05-04 14:03:51 | メッセージ
礼拝宣教  マルコ3章20~30節 

5月に入り大変気候もよく、夏のような暑ささえ感じますが。新緑の若葉が活き活きと映え、神の創造された美しい命の息吹を覚えるそんな時節となりました。昨日は「憲法記念日」でしたので、大阪城野外音楽ホールを会場に開かれた「憲法記念日」の集いに家族で参加しました。「憲法を守ろう」という宗教者を含む幅広い府民、団体などの呼びかけ人によって毎年企画されていますが。今年はジャーナリストの鳥越俊太郎さんが「メディアと9条」という視座から、平和への願いを込めたお話をして下さいました。たとえば、集団的自衛権行使の問題だけでなく、原発の問題、学校教育の現場、経済の問題も、昨今の新聞各紙やテレビ局が国民に与える影響力の大きさを指摘され、その背景には権力による縛りや統制。それは教育の現場でも同様のことが起こっている。メディアや教育というものは国家の権力と独立したものでないと、非常に危険な方向へ国民を誘導し、かつての戦争の過ちを繰り返すことになる、ということを改めて考えさせ教られました。武力によって平和が築かれものではないことは、歴史が証明しています。武力を使えば憎しみの連鎖によって、さらに争いは拡大するだけです。
日本国憲法の9条は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と 、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを 放棄する」と誇り高く謳っています。
まことの救世主イエス・キリストは、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)と言われ、又、敵のためにさえ忍耐をもって祈り執り成す愛を示し、身をもってそれを実践なさいました。この和解の福音が今日も世界中で具現化されることを祈ります。又、私たちも日本がかつて誤った戦争の道を繰り返さないために日常から絶えず見張り、覚えながら、祈り続けていきましょう。

本日は先程読まれましたマルコ3章20節~30節より、「永遠に赦されない罪?」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。

20節に「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった」と記されています。
前の箇所を読みますと、これらの群衆はイエスさまの教えやいやしの業を見たり、聞いたり、又、体験した人々であり、何とか、自分や家族、友人や知人が病気や悪霊にとりつかれている苦しみや悩みから解放され、いやされ、救いを得たい、という切実な願いをもってイエスさまのところに押し寄せていたことがわかります。
ところが、イエスさまの「身内の人たちは、イエスのことを聞いて取り押さえに来た」と言うのです。その理由は『あの男は気が変になっている』と言う者があったから、とあります。いわば一番身近な者が、イエスさまのなさっていることを理解できず、福音の拡がりを阻止しようとしたわけです。
そしてさらに、「エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼベルに取りつかれている』といい、また、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた」と記されています。

先週は、当時ユダヤ社会の中で排除されていた徴税人や罪人たちとイエスさまが一緒に食卓を持たれ、彼らの間に喜びが分ち合われたこと。一方で、そのことに憤慨し、非難したファリサイ派の律法学者たちがいたことから、主イエスの思いとそのメッセージに耳を傾けたわけですが。彼ら律法学者は、恐らくエルサレムの指導者らがイエスの近辺の監視と調査のために送りこまれて来たのでありましょう。3章のはじめのところに記されているような、イエスさまが安息日に手の萎えた人をいやさられたという報告や、イエスさまの力ある業と教えに魅せられたおびただしい群衆がイエスさまに従っている、という現状を危惧し、「この何とも得体の知れない運動に警戒せねば」ということで、選りすぐりの律法のエキスパートを派遣し、イエスに不義があれば糾弾せよ、と命じていたのでしょう。
当時のユダヤでは、異邦人を中心に、怪しげで疑似治療的な魔術が横行していたという背景もあったようで、律法学者たちから見れば、イエスもうさんくさい魔術で民衆を惑わすやからのように思っていたのでしょう。それで律法学者たちは、イエスをベルゼベル(悪霊の頭やサタンの意)「悪霊に取りつかれている」と訴え、その業については「悪霊の頭の力を借りて悪霊を追い出している」と糾弾するのです。

そこで、イエスさまは「どうしてサタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない、同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう」と、独特なたとえで律法学者たちに反論します。
 さらに「まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない、まず縛ってから、その家を略奪するものだ」と言っておられますが。この強い人とは、ここでは人間を支配している世の力、サタンを指しています。それを悪い霊が追放することなどできません。
しかし、神の力はサタンよりも遥か強く、それを縛り、人に解放の業をもたらして下さるのです。そのような働きこそ聖霊の力によることをイエスさまは明らかにされるのです。

そこでイエスさまは、「はっきり言っておく」と言われます。これはもとは「アーメン」という言葉で、「まことに信頼をおけるもの」とか「本当に」と言うことですが。そういう確信をもって次のように言われます。
「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」

このイエスさまの言葉を聞いて疑問に思いますのは、人の子(人間の意)が犯す罪やどんな冒瀆の言葉さえも、すべて赦されると言われるその一方で、聖霊を冒瀆することは赦されないというのは、矛盾してはいないかという事です。

しかし、イエスさま確信をもって、まず、すべての人が犯す罪や冒瀆の言葉も、赦されると完全な赦しの宣言をなさっておられるのです。それは、確かなことなのです。イエスさまはその後、十字架に架かりすべての人の犯す罪や冒瀆の言葉の一切を身に引き受けられて、その罪の裁きを自ら負われることで人間の罪を贖い、赦しを成し遂げて下さいました。その赦しの福音は、まさに悪魔の縄目にある私たち人間を完全に解放へと導くものです。実にすべての人の犯す罪と冒瀆の言葉の裁きをイエスさまは十字架上で負われ、尊い命をもってその罪の清算をなさり、罪を贖ってくださった。ただ一方的に人間は主によって赦される外ない者なのであります。それこそが、聖霊の御業であります。
 ですから、人がもしこの聖霊の働きである「愛と赦しの福音」を冒瀆し、拒絶するなら、その人にどのような赦しが残されるでしょうか。その人は、主イエスによる罪の贖いと神との関係における回復を無にしてしまうのです。つまり、自らで愛を拒み罪の赦しの機会を封じ込めて赦されることなく、その罪の責めをずっと負う事になりはしないでしょうか。

さて、今回の箇所で、イエスさまは「身内の家族」から、また「聖書に通じていた律法学者たち」から理解されることなく、その言動についても誤解を受けました。もっとも身近な存在であり、日頃から分かり合っていたかに思える家族だからといってすべて理解しているかというと、実はそうではなかったのですね。
イエスの母マリアにとっても、イエスは我が子でありましたから、そういう身内という立場からイエスを見ていたでしょう。イエスの兄弟姉妹たちも兄弟姉妹としてイエスを見ていました。しかし、イエスのうちに働かれる聖霊の業について彼らは少なくともこの時点では理解することができず、それをやめさせようとやって来るのです。そしてイエスさまは、もはやヨセフの家のものとしてではなく、母マリアの子としてでもなく、聖霊によって神の御心を行うものとして立ち、歩んでおられたのです。
私たち一人ひとりは、天地万物をお造りになられた創造主にあってこの地上に生かされているかけがえのない存在であります。この天の神さまと私との一対一の関係、命のつながりというのは、肉親や家族であっても阻むことのできないものなのです。神との一対一の関係を見出した者は霊に寄って生きる人、新しく生まれた人として立ち、歩み出すのです。きっと、イエスさまとの出会いを経験した群衆の一人ひとりもそうだったのではないでしょうか。先週の徴税人であったレビも、イエスさまとの出会いによって神の前に一人のかけがえのない者とされた喜びを家を開放して、その分ち合いの場とすることで表現しました。律法学者たちはそれを非難しましたが、まさにそれは主イエスを通して起こされた聖霊の業であったのです。
又、イエスの母や兄弟姉妹たちは、そのなさっているイエスの働きに対して「一体我が子は何をしているの」とか、「お兄さん一体どうしたんだ、そんなことはやめてくれ」と、まあそのようにやめさせようとするのですが。それは、家族や身内だから過剰に気になり、余計そのように思えたのかも知れません。イエスさまのなさったことは、まさにその父なる神との一対一の関係の中で、「神の御心を行う」以外のなにものでもなかったのです。

イエスさまは、31節以降のところで、「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』と答え、「周りに座っている人々を見回して、「言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。』」と、そのように記されています。

「周りに座っている人々。」それは主イエスによって真の解放を得、神の救いを見出し、又見出された神の前にかけがえのない人。聖霊の働きによって新しくされたひとり一人であります。そのひとり一人をしてイエスさまは、「わたしの母、わたしの兄弟姉妹」と呼んでいるのであります。聖書は、ここに神の家族としての教会の原型を描き出しているのです。
 今日のイエスさまの厳しい怒りは、聖霊の働きを理解しようとせず、妨げる世の力に対するものでありました。世の勢力や権力は常に働くものですが、主イエスにあって私たちも、この「神の家族」、「神の国の食卓」に共に与る魂が興されていくことを切に祈り、努めてまいりましょう。
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