日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

憐み、待ち給う主イエス

2022-03-27 14:22:20 | メッセージ

礼拝宣教 マルコ14章66-72節 レントⅣ   

                                  

このシモン・ペトロが主イエスを否んだ時の出来事はペトロ本人だけが知るものであったはずです。そう考えると後の使徒となったペトロが主イエスの証人として自身の体験を包み隠さず語り伝えていったのだろうと想像いたします。それは他のマタイ、ルカ、ヨハネと、4つの福音書すべてに記載されることとなりました。ペトロの裏切りと失態の体験はそれだけ初代教会に深い示唆を与えるものであったということでしょう。なぜなら初代教会も又、激しい迫害を経験しなければならなかったからです。私たちも又、昨今の社会状況の急激な変化に戸惑い、惑う弱さを抱えるものであります。又、時にペトロのように私たちも罪を犯し、自らの不甲斐なさにいたたまれなくなることがあるかも知れません。今日はこのところから今も私たちを慰め、励ます救いのメッセージを聴いてまいりましょう。

さて、先週の聖書の箇所には、主イエスが弟子たちに「あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われると、真っ先に筆頭格の弟子シモン・ペトロが「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と答えたとありました。

すると主イエスは「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」とおっしゃいます。それを聞いたペトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と、言い張ったのでした。

この時のペトロは心から純粋にそのように思い、心に嘘偽りはなかったでしょう。けれども主イエスは、そのペトロの決意も荒波に呑まれるような状況に置かれた時には、いかに弱く、もろいものであるかをすでにご存じであられたのです。

その晩、主イエスはイスカリオテのユダに裏切られ祭司長、律法学者、長老たちに引き渡され、捕えられて大祭司のもとに連行されるのです。

その時、14章50節に「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてまった」と記されています。他の弟子たちもペトロ同様、私たちはイエスさまから離れない、と言っていたのです。ルカ福音書22章には、そういう中「ペトロは遠く離れて従った」(54節)と記されています。ペトロの主イエスに従って行きたいとの思いは細々ながら保たれます。

 

本日の箇所はそこからであります。

そうして、シモン・ペトロが大祭司廷の中庭で様子を伺っていた時、そこに大祭司仕える女中の一人が来て、そのペトロをじっと見つめて言います。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」

ペトロはさぞかしその言葉にドキッとしたことでしょう。慌ててそれを打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からない、見当もつかない」と言って出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。

すると、この女中はペトロを見て、周りにいる人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言い出します。ペトロは、再び打ち消します。

しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言います。「確かに、お前は、あの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」

その言葉にはガリラヤのなまりがあるため見抜かれてしまうのです。

 

ヨハネ福音書18章には、主イエスが捕縛される時に、捕えに来た大祭司の手下の耳をペトロが切り落とした時、主イエスが剣を納めよと言って、その耳を元どおりにお癒しになられたのですが。ペトロから耳を切られた者の身内がその人々の中におり、その人が「園であの男(イエス)と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか」と、ペトロに問いただすのです。まあ目撃した本人がいたわけですから、ペトロは否定しようもないことであったはずです。それにも拘わらず、ペトロは再び打ち消して、イエスさまとの関係を否認します。

さらにペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。イエスさまが予告なさった通りでした。

 

ほんの数時間前に、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と、イエスさまに言い張ったペトロはどこにいってしまったのでしょうか。彼は忠誠心をもってどこまでもイエスさまについて行くと決意を表わしていたのです。ところが、実際に自分が窮地に追い込まれてしまうと、そういう思いはどこかへ吹っ飛んでしまい、自分を守ることしか考えられなくなってしまうのです。

その頃、主イエスは大祭司のもとに連行され、ユダヤの最高法院で尋問を受けておられました。そこで、自分をおとしめようとする人々に囲まれる中、主イエスは御自分の身を守る言葉を語ろうとはせず、唯、神から受けた言うべき真理のみ口になさるのです。

窮地に追い込まれる中で言うべきことを言え得なかったペトロと、権力者の前にあっても唯、天の御神の御心のみを明言なさったイエスさまのお姿が対照的に浮かびあがってきます。

自分の身を守ることしかない弱さをさらす外なかったペトロ。人の情熱や感情から来る正義感や忠誠心は如何にもろいものであるかを、見せつけられる思いがします。

けれども、それは決して人ごととは言えません。あの、キリシタン迫害の「沈黙」という小説を書いた作家の遠藤周作さんが、知り合いの神父さんと食事をしていた時、「もし、あなたが踏み絵を前にしたらどうするか」と尋ねたそうです。するとその神父さんは顔色を変え、「いや、わからん。そんなことはその時になってみなければわからない」と言ったそうです。

そのような状況に万が一直面することになったらどうするか?

きっぱりと、「私は大丈夫」「絶対どこまでもついて行ける」と言って実行に移せる人が果たしてどのくらいいるでしょうか。私は九州に住んでいたので、その「沈黙」の舞台となった長崎の島原、五島、熊本の天草を訪れた折、あまりに激しい迫害の恐ろしさに暗たんたる思いがしましたけれど。そういう中で心ならずも踏み絵を踏んだ人たちの心の痛みはいかばかりであったでしょう。今日のペトロの姿と重なります。

では、そのようなペトロに、又、自らの弱さに嘆き悲しむ者に対して、主は、おまえはダメだ、救いようがやつだなと、おっしゃっているでしょうか。

否、主はそんなペトロの弱さ、不甲斐なさをすべてお見通し、ご存じの上で、なおも関わり続け、愛し通されたのです。時が来ればそのことに気づくために主イエスはあえてペトロの離反を予告していたのです。

それについては、ヨハネ福音書16章4節に、「これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである」とあるとおりです。

ペトロにとってその時とは、正に主イエスがおっしゃったとおりの、「鶏が二度目に鳴いた」その時でした。

ペトロは「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と主イエスが言われたその言葉を思い出して、いきなり泣き出し」ました。

自分のことを分っていたのにお見捨てにならず、愛しくださっていた主の愛が胸に迫ってしかたなかったのだと思います。

自己保身のために三度もご自身を否んでしまうようなペトロのために祈り続け、愛し抜かれた主イエス。

ルカ福音書では、ペトロの離反の予告に際して、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたが立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(22・3)とおっしゃっています。

それは、主がペトロをお見捨てになるようなことはない、ということであり、そこから立ち帰って生きよ、という愛と励ましのエールであったのです。ペトロはこの主の愛に如何に応えて、新しく生きたことしょうか。

 

コリントの信徒の手紙Ⅱ、7章10節にはこのように書かれています。

「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさ

せ、世の悲しみは死をもたらします。」

イスカリオテのユダの悲しみは彼自身に死をもたらしました。彼は自分を責め、主イエスを責め、運命を呪ってしまい、悔い改めて神に立ち帰ることができなかったのです。

ペトロはこの出来事をとおして、自分自身の弱さと情けなさを思い知らされますが。同時に、そんな不甲斐ない自分を知っていながら、愛し、執り成して祈ってくださる主イエスの憐みをまさに体験するのです。それは主イエスのことを思えば思うほどペトロには相当痛く、苦い出来事でありました。しかし、彼はこの主イエスの深い憐みによって「救いに通じる悔い改め」、ギリシャ語で「メタノイア」、方向転換して、主のもとに立ち帰り、救われるのです。そうして、主イエスが執り成し祈られたように、ペトロは立ち直り、兄弟たちを力づける者となって、キリストの証し人として立てられていくのです。

人の決意や熱心がいかにもろく、崩れやすいものか。ペトロの姿は決して他人事として見ることはできません。しかしペトロは主イエスの愛に立ち返って生きた。

今日も主は、私たちに「立ち帰って生きよ」と招き、「待って」おられます。私たちも又、「憐み、待ち給う主イエス」に立ち帰りつつ、主の愛に生きる者に新しく造り変えていただきましょう。

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主イエスに祈られて

2022-03-20 16:12:21 | メッセージ

礼拝宣教      マルコ14章27―42節 受難節(レント)Ⅲ

 

主のご受難を覚えるレントの時、御言葉に聞き、祈りつつ過ごしておりますが。コロナ、そして戦争、さらに17日には11年前の未曾有の大震災を思い起こさせるような大きな地震が2度も福島県沖を震源に起こりました。津波や大災害にはなりませんでしたが、被害が出ており、ライフラインの復旧がいまだ回復されていない状況であります。一日も早く平穏な生活が取り戻されますよう祈ります。同時に日々の備えを怠らないでいることの大切さを知らされます。

 

マルコ13章には、主イエスが終末の徴とメシヤの来臨について、「戦争の騒ぎや噂を聞いても、慌ててはいけない。まだ世の終わりではない。民は民に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」。さらに、「偽メシヤや偽預言者が現れる。だから、あなたがたは気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分らないからである」と告げておられます。目を覚まし、常に祈り続ける者でありたいと願います。

 

本日はマルコ14章の「ゲッセマネ」のエピソードから、「主イエスに祈られて」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。

先週は「最後の晩餐」の箇所を読みました。その際主イエスは、「弟子の一人がわたしを裏切ろうとしている」と指摘されたのですが。不安になった弟子たちは、「主よ、まさかわたしのことではと代わる代わる言い始めた」とありました。その一人とはイスカリオテのユダのことでしたが。本日はその続きになります。

 

オリーブ山に向け出発した道すがら、主イエスは弟子たちに言われます。

「あなたがたは皆わたしにつまずく」。つまり弟子たちは一人残らず皆主イエスを見捨てて逃げ去る、と予告されているのであります。

この主イエスのお言葉に、弟子の筆頭格シモン・ペトロがすぐに反応します。

「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」

するとイエスさまはペトロに言われます。

「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

それを聞いたペトロは力を込めて、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言い張ったというのです。

主イエスの前で必死に忠誠心を表明しようとするペトロの姿が目に浮かんでくるようですが。

改めて気づいたのは、そのすぐ後に「皆の者も同じように言った」と記されていることです。

私はペテロだけがそのようにこぶしを握って離反を否定したのだと思い込んでいたのですが。  それはペトロだけではなく、他の弟子たちも皆同様であったのですね。

 

そうして、主イエスはこの弟子たちが皆、ご自分を置き去りにして逃げることを重々承知のうえで一緒に祈り場へと向かわれたのです。それは、オリーブ山のゲッセマネといわれる所でした。

ゲッセマネとは「油をしぼる所」という意味があるそうですが。

主イエスは、これからご自分が捕えられて裁きの場へ引き渡される、その十字架のご受難と死が迫り来くるのを感じながら、その身をよじり苦悶して、血の涙と汗をしぼり出すように「アッバ、父よ」と祈られます。

主イエスはそのようにひとりの生身の人間として、ご自身をさらけ出す祈りの場にペトロ及びゼベダイの子ヤコブとヨハネの3人の弟子たちだけを伴われました。

 

そこで「主イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい』」と言われます。

そこまで、主イエスが「死ぬばかりに悲しい」と弟子たちに吐露されるようなことが他にあったでしょうか。そのようなお姿を主イエスがお見せになるようなことはおそらくこれが初めてであったのではないでしょうか。

確かに、ユダヤの民の先行きを知り、エルサレムのために泣かれたこと、その他にもラザロの死に際してなど、激しく感情をあらわにされた記事はいくつかあります。しかしこのようにご自分の弱さまでもさらけ出して、「死ぬばかりに悲しい」と弟子たちに一緒に目を覚ましていてほしいとまでおっしゃるのは、この場面だけです。

 

以前もお話ししましたが。ある方が以前おられた教会で、大変大きな問題を抱えておられた牧師さんが、数名だけの祈りの場で「私は苦しくて死にそう」とご自分の弱さを吐露された時、その方はその牧師に対してがっかりしたそうです。「牧師は宣教で祈りなさい。信仰、信仰と言っているのに、自分に災難が降りかかるとこんな事を言うなんて」と思ったそうです。

けれど、その後この方が今日の箇所のところを読まれて、イエスさまでさえ「わたしは死ぬばかりに悲しい」とおっしゃられたことを知った時、牧師であっても一人の人間として弱さと苦悩をかかえたとき、一緒に祈ってほしいと願うのは当たり前だなぁと考え直したそうであります。     

ヘブライ人への手紙4章15節(口語訳)には、「この大祭司(イエス・キリスト)は、わたしたちの弱さを思いやることのできないような方ではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについてわたしたちと同じように試練に遭われたのである」。5章7節にも、「キリストは肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」と記されています。

イエス・キリストは人の弱さを知るお方です。それもご自身の体験によって私たちの抱えている弱さや苦悩をも知っていてくださるお方であるのです。

だからこそ永遠の大祭司として私たちのために執り成し続けて下さるお方なのだ、私たちは確信を得ることが出来るのです。

ここに私たちの救いの確証があるのです。

 

さて、一方、主イエスに「ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言われたペトロはじめヨハネ、ヤコブの愛弟子たちは、主イエスが戻って来ると眠っていました。

主イエスはペトロに、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と言われます。

主イエスはさらに向こうに行って祈り戻ってご覧になると、やはり「弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったからである。彼らはイエスにどういえばいいのか、分からなかった」とあります。

弟子たちの思いとしてはもちろん目を覚ましていたかったでしょう。

しかし、その思いはあっても肉体が疲れ果てていた。ルカの福音書には「彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた」とあります。心や感情も含めての肉体であります。弟子たちはきっとその弱さゆえに弁明することができなかったのでしょう。

 

主イエスは3度目の祈り場に行かれて戻ってご覧になると、弟子たちはまた眠っていました。つまり弟子たちは主イエスさまが3度に亘って祈っている間、終始「眠っていた」ということであります。

それは他の弟子たちも同様であったでしょう。

 

そのような中で、主イエスは3度父なる神に祈られました。

その最初の祈りは、「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」との祈りでした。そうして3度に亘って主イエスはこう祈られたのです。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

「杯」とは、すべての人間の罪の裁きを一身に負う苦難を象徴するものです。

主イエスはできることなら、そのような苦難の道ではなく、他の救いの方法はないのでしょうかと、率直にご自分の願いを訴えて祈っておられるのです。

けれどもその直後に、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と神の御心を最優先なさるのです。

3度というのは3回という数というよりも、3は完全数を示すことから、主イエスはそこで完全に祈りきったという意味でありましょう。

こうして主イエスは祈りきって御心をお受けになったゆえに、「もうこれでいい。時は来た」とおっしゃるのであります。

方や、弟子たちが3度目も変わらず寝ているのを主はご覧になりますが、一切𠮟責なさいませんでした。

後に3度主イエスを知らないと言ってしまうようなペトロはじめ、離反してしまう弟子たちに対しても「もうこれでいい」と主は言われるのです。

主イエスは3度の祈りの中で、彼ら弟子たちの弱さをも、それはまた主におすがりするほか無い私たちの弱さをもその身に負って祈りきり、遂に父の神の御心に従順に従うことをお受けになった。だから、「もうこれでいい」、父の神の御心の「時が来た」と、弟子たちにおっしゃっているのですね。

心は燃えていても肉体は弱い。そのような私たちです。けれど主はその私たちのためにゲッセマネの祈りの闘いを祈り抜かれました。十字架の苦難と救いを全身全霊で祈り抜いてお受け下さった主の、そのお姿を心に刻み、御救いに心から感謝して恵みに応えてゆく私どもでありたいと願います。。

 

最後に、友人が作った新生讃美歌476の歌詞を読んで本日の宣教を閉じます。

 

「ゆるされて」

ゆるされて わたしは生(い)く 日々罪の身をキリストに

ゆるされて ゆるされて    憂いの時も 雄々しく行かん  ゆるされて

 

愛されて  わたしは生(い)く  値なき身も キリストに

愛されて   愛されて      試練の時も  喜び満つ   愛されて

 

祈られて  わたしは生(い)く 弱きこの身も キリストに

祈られて   祈られて        闇行く時も  恐れはなし  祈られて

 

今週もここから、私たちの祈りの馳せ場へと遣わされてまいりましょう。

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最後の晩餐への招き

2022-03-13 13:35:13 | メッセージ

礼拝宣教 マルコ14章10-26節 レントⅡ

 

ご自分を殺害しようとする陰謀を察知された主イエスは、12弟子を集めてエルサレムにおいて最後の晩餐を行います。それは、ユダヤにおいては出エジプトを記念する「除酵祭」の初日、過ぎ越しの小羊をほふる日でした。モーセの時代イスラエルの民はエジプトで奴隷の状態でしたが、神は民の叫びをお聞きになった神は、エジプトに致命的な災いをもたらします。イスラエルの民は神の命じることに従い、ある夜、小羊をほふって各々の家の鴨居にその血を塗ってしるしとし、滅ぼすものがそれを過ぎ越すことで、民は滅びから救い出され、解放を受けるのであります。

「最後の晩餐」はレオナルド・ダビンチの有名な絵画でよく知られておりますが。

先週の祈祷会の聖書の学びの時に、ある方から、「ダビンチの最後の晩餐の絵には、その時テーブルの上に用意されたパンが酵母入りのふっくらとしているパンとして描かれている。イエスさまもユダヤ人だから、酵母の入っていない薄ペラの煎餅のようなパンを用いただろうに。ダビンチはどうしてそのようなパンを描いたのか」という問いかけがありました。この方は多くの美術館に足を運ばれ世界中の絵画をご覧になられているので、さすがに目の付け所が違うなと感心いたしましたが。言われてみれば確かにそうです。まあ、かのダビンチがどのように考えてそれを描いたかはわかりませんが。ダビンチが生きている時代はパンといえば酵母入りのふっくらしたパンでしたから、まあ一般にその方が分かりやすいということもあるかとは思いますが。ダビンチがユダヤにルーツをもつ人であったら、おそらく過ぎ越しの祭りに出される酵母を含まない煎餅のようなパンがその最後の晩餐の絵画に描かれていたことでしょう。

本日はこのところから、最後の晩餐への招きと題し、御言葉に聞いていきます。

 

私たちの教会で主の晩餐の時に用いているのは酵母入りのパンです。それも残念ながら衛生面から手で割いて配っていませんが。本来は主イエスが1つのパンを手で割いてお配りになられたのです。ぶどう酒も1つの鉢から共に飲んだのです。そこに主の晩餐の深い意味があるからです。

 

さて、本日の最初ところで、「12人の1人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。彼らはそれを喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた」(マルコ14:10-11)と記されています。

彼は12弟子の1人とまで選ばれながら、主イエスの裏切りを企てるのです。

 

実はその前のところには「一人の女性が主イエスに高価な香油を注ぐ」記事があります。そこにいた何人かが、「なぜ香油を無駄にしたのか」と憤慨したとありますが。ヨハネ福音書では、その弟子がイスカリオテのユダであったと記しています。そしてさらに、「ユダがそういったのは貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」(ヨハネ12:6)と、記しています。

そしてこのユダは遂に主イエスの命を狙っていた祭司長たちに銀貨30枚と引き替えにして主イエスを売り渡すのです。聖書にはその動機については何も書かれていませんが、こうしてイスカリオテのユダは裏切り者、堕落した人間の代名詞とも言われるようになったわけです。少なくとも彼の行動は反面教師的な教訓を指し示しているように思えます。私共も「ユダにはなるまじ、ユダには」と忌み嫌うわけですが。ところがイエスさまはなんとこのユダを愛し抜かれたのです。

 

ヨハネの福音書では、この過越し祭の前に、主イエスが弟子たちの足を洗われる記事があるのですが。そこでヨハネは次のように伝えています。

「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハネ13:1)

この弟子たちの中にはイスカリオテのユダも含まれているのです。

主イエスは彼が御自分を裏切ることをご存じのうえで、この上なく愛し抜かれ、そのあかしとして彼の足をも洗われるのです。それは、このユダだけでなく他のすべての弟子も主イエスを否み、逃げ去るのです。主イエスがこの12人の弟子たち皆を最後まで愛しておられるのです。

 

さて、過越し祭の初日、弟子たちが、「過越しの食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」とイエスに尋ねます。すると主イエスは2人の弟子に、「都に行きなさい。ある家の主人に出会うのでこう言いなさい。『先生が弟子たちと一緒に過越しの食事をするわたしの部屋はどこか』と言っています、とそう伝えるようにお命じになります。そして、続けて、2階を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい」とおっしゃるのです。

「弟子たちと一緒に」又「わたしたちのために」というこれらのお言葉からも、やはり主イエスはすべての弟子たちに対する愛が伝わってくる思いが強くいたします。

主イエスはかたい決意をもってご自分を引き渡し、置き去りにするような12人の弟子たちと一緒に過越しの食事、つまり最後の晩餐に臨まれるのです。

 

そうして過ぎ越しの準備も整った食事の席の一同が食事をしているとき、主イエスは、「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの1人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろう(売り渡す:岩波訳、引き渡す:新共同改定訳)としている。」(14:18)

それを聞いた他の弟子たちから、「それはだれですか」と尋ねられた主イエスは、「12人のうちの1人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ」と明らかにされます。

 

主イエスはユダの裏切りの企てをすでにご存じでした。であれば、彼を除いた11弟子だけで過越しの食事を行うこともできたはずです。しかしそうはされなかった。

主イエスのその言葉を聞いたイスカリオテのユダはきっと、「それをご存じなのに、なぜ自分を招かれたのか」と激しく動揺したのではないでしょうか。

 

一方、主イエスから裏切ろう(売り渡そう)とする者の告知を聞いた他の11弟子は、心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた」(14:19)とあります。

彼らは心を痛めました。もちろんそのような事があってはならないという思いがあったでしょう。又、一同の結束は固いと信じたかったのでしょう。けれど何より祭司長や律法学者らから命を狙われ、イエスさまが殺されるとかおっしゃる状況の中で不安があったのではないでしょうか、彼らも又、きっと動揺していたのですね。

しかし、ルカの福音書22章を読みますと、そういった弟子たちが、「自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに論じ始めた」と、犯人探しが起こったことも記されています。

でも、この時点で11人の弟子たちはいくら何でもイエスさまを売り渡したり、引き渡すようなことを自分たちは決してしはないと思っていたのではないでしょうか。

しかし主イエスは、暴力的な力によってご自身が捕えられていくときには、他の弟子たちも命が惜しくて逃げてしまうことを知っておられたのです。筆頭格弟子のシモン・ペトロも主イエスが捕らえられていく後を宮廷まで追っていきますが。そこにいた3人の人たちから主イエスとの関係を問われると、ペトロは「わたしはあの人を知らない」と、3度も否んでしまうのです。主イエスはそのペトロのことも知っておられたのです。

 

このようにすべてをご存じの主イエスは過越しの食事の中で、最後の晩餐としてこの12弟子と一緒に行われるのです。

 

そのところをもう一度読んでみたいと思います。

「一同が食事をしているとき、イエスはパンをとり、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」(22-24)

 

私たちが月に1度の第1主日礼拝の中で執り行っています聖礼典の一つ「主の晩餐」(聖餐式)は、この主イエスにおける新しい契約を繰り返し新しく更新していく思いで与っているわけですが。

その際、私たちの教会ではⅠコリント11章23節以降の主の晩餐の制定のお言葉を読んで主の新しい契約を確認しています。そこに、「あなたがたはこのパンを食べ、この杯を飲むごとに主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのである」とあります。この主の死とは、十字架の救いの業のことです。

主イエスはわたしたちの罪のためにご自身のみ体を裂かれ、流されたその血潮をもって罪の滅びから私を、私たちを救って下さる。

その信仰の確認を主イエスは「私たちのために準備してくださった」のです。

 

本日の「最後の晩餐」において、主イエスは引き渡され、十字架刑によって処刑される暴力的な死を自らお引き受けになります。その苦しみと死は、唯、あなたがたを愛するためであると宣言なさるのです。

 

その晩餐の席には、イスカリオテのユダはじめ、主イエスを否むようなペトロ、恐れから逃げ出すような弱く、つまずきやすい弟子たちがいました。けれども主イエスはそんな弱さや罪深さを抱えている人たちを招かれました。いや、そんな彼ら、そんな私たちだからこそ主は招かれるのです。

 

キリスト者というのは何か世的に立派な人だとか。親切で信頼できる人だからキリスト者ということではありません。唯、この主の招きのもとにゆるされ、受け入れられ、生かされるほかない人、それがキリスト者であります。

このレント、受難節にあって、新たなる救いの契約を与え給う主イエスの愛の招きに応え、その恵みを分かち合って歩んでまいりましょう。

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復活についての問答

2022-03-06 14:16:58 | メッセージ

宣 教 マルコ12章18-27節 

 

本日は、主イエスがサドカイ派の人々と「復活についての問答」をなさっている箇所からみ言葉を聞いていきます。

 

ユダヤ教の中で、サドカイ派は少数派でしたが裕福な貴族や支配階級に属していました。

サドカイ派の人々は、モーセ5書、すなわち神の律法が記された創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の編集と正典化をなしとげた人たちの子孫とも言われています。それで彼らはモーセ5書のみを正典として認め、それ以外の預言書や詩編などは認めなかったということです。そういうことから、「体のよみがえり」「死者の復活」「天使の存在」など、モーセ5書の律法には書かれていないこれらのことを否定していたのです。

 

ちなみに、本日の箇所の前のところで主イエスはファリサイ派の人々とも問答しています。このファリサイ派は敬虔なユダヤ教徒から生まれ出たのですが、貴族や特権階級出のサドカイ派と違い民衆出身の宗教的エリート集団でありました。彼らはモーセ5書の他に、詩編や預言書に読んで学び、「天使の存在」「死者の復活」などを信じていたのです。それでおのずと、サドカイ派とは対立せざるを得なかったわけです。

すこし解説的なお話になりましたが、今日の箇所を読んでいくうえでこのファリサイ派とサドカイ派の違いについておさえておくとよいと思います。

 

では、本日のこの箇所でありますが。

復活はないと言っているサドカイ派の人たちが、主イエスに近寄って来て次のように尋ねます。

「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」

 

彼らはモーセの律法の一つである「レビラト婚」を利用し、復活への疑問を投げかけます。その規程が記された申命記25章によると、それは家名を存続させるためのものでした。日本でも戦時中などは跡継ぎを残すためにそういった事が行われていましたが。

先に申しましたように、サドカイ派の人々は死者の復活を信じていませんでしたから、彼らがこのように復活後の生活などを質問すること自体おかしなことです。彼らの目的は復活を信じているファリサイ派はじめ、「復活」を予告しておられた主イエスを論破することにあったのです。

 

そこで主イエスはお答えになります。

あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」

 

ここで主イエスは、神の御言葉はモーセ五書、特に彼らが重んじている戒律や律法に限ったものではないこと、その後に続く詩編や預言の書も、神の御心とその御力とを知るうえで大切なものであることを伝えておられるのです。復活についても現世の尺度や人間の考えによって計り知ることができないが、「聖書とその神の力」を知らされることによって、謙遜にされるだろうということであります。主イエスは彼ら自身が神とその力とを制限してしまっていることを示されます。

わたしたち自身も、神の力、神の言葉にではなく、世と自分の尺度によって一切を捉えていないか信仰を吟味し、人知を超えて生きてお働きになるお方を信じ、望み、歩んでまいりたいと願います。

 

さて、続けて、主イエスはサドカイ派の人々に次のように言われます。

「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたがたは大変な思い違いをしている。」

 

サドカイ派の人たちは先に自分たちが遵守していたモーセ5書の申命記から揚げ足を取ろうかというような質問をするのですが。それに対して主イエスは、逆にそのモーセ5書の出エジプト記の「燃える柴の中から神がモーセにお語りになった」そのお言葉から、サドカイ派の人たちに「復活」の根拠を示されるのです。

 

それはどういうことかと申しますと、モーセの生きている時、信仰の父祖であったアブラハム、イサク、ヤコブはもう世にはいません。が、柴が燃え尽きないという現象の中で、主なる神は「わたしがアブラハムの神である。イサクの神である。ヤコブの神である」と、それは「~の神であった」という過去形でなく、今まさにその関係性があり、それが生きている。信仰の父祖らはそれぞれに地上の歩みを終えましたが。主なる神はアブラハム、又イサク、ヤコブそれぞれとの霊的いのちの交わりは決して絶えることがなく、今ここにあるということであります。さらに、神はそのお力によって彼らを復活させることがおできになることを、主イエスはこの御言葉によって示されているのです。

 

主イエスがここで「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」だとおっしゃってますが。

この主イエスのお言葉は、本日のみ言葉の全体に流れている福音だろうと私は思うのです。

復活と聞くとき皆さんはそれをどのようにお考えになるでしょうか。一般的にはそれは死後のことのように考えるでしょう。

確かに、使徒パウロが言ったように、「この体はいずれ死を迎えるが、主の日が来たら、主の復活の似姿に変えられる」と。それを私も信じます。その復活の大いなる希望を戴いていることはどんなにか幸いなことです。けれどもその大いなる日は、どこか遠い未来にあるかといいますと、実はそうではないのです。

復活は今、わたしたちが生きている日常のただ中にあるのです。なぜなら、死より復活された主イエスが今も生きてわたしと共にいてくださるからです。

わたしも又、罪に死に、主の復活に与る者として日々新しい命を生きる者とされているのです。

この主イエスの復活の命を生きる者と共に、神は生き働いてくださる。その日常生活における天の父なる神との交わり、関係の中にすでに永遠のいのちが輝いているのです。

 

使徒パウロも「キリストと結ばれた人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(Ⅱコリント5章)と述べています。この御言葉は、今も生きて働かれる神の力によって真実であります。

 

最後に、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という御言葉からわたしが受けたことをお話いたします。

これはサドカイ派の人たちが主イエスに対して、「その女は七人のうちのだれの妻になるか」と挑戦的に投げかけた言葉に対する、主イエスのお答えでありますが。

そこには女性が嫁いだ嫁いだ家の所有物として扱われていたという社会の状況が現れているわけです。それがまあ、復活の際にまで、こういった現世の復元につきまとわれるとしたなら、たまったものではありません。

 

だいぶ前になりますが、子ども番組でこういう歌のフレーズがありました。子どもの目線からですが。「お父さん、お父さん、ぼくのお父さん。電車に乗ると通勤客。会社に行くと課長さん。歯医者に行くと患者さん。お店に行くとお客さん」と続くのです。

母親も、いや誰しも外からのいろいろな立場を着せられて生活しているような現代です。

けれども、人間の立場的なものばかりで呼ばれると、わたしという存在はいったい何者であるのか、となってしまうのではないでしょうか。わたしは人から見た立場以前に、神の前にあって一人の神に愛され、ゆるされ、生かされている大切な存在であるのです。そして、それは他者や隣人に対してもそうした思いをもって接することによって、自らも解き放たれていくことになのです。

 

神は「わたしがアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とおっしゃった。イサクをアブラハムの長男とは呼ばず、ヤコブをアブラハムの子孫とはおっしゃらなかった。生ける神は人をそれぞれ意味のある存在、価値ある存在として呼んでおられる。それは又、わたしたちひとり一人が神の御前に生かされている尊い存在だということです。それはほんとうにうれしいことです。   神は、誰々の奥さん、あるいは何々家の長男、次男、何々会社の課長さんとは呼ばれないのですね。。世の何に属しているかということが問題ではありません。御前にあって生ける神に愛され、生かされている一人ひとりのその存在が高価で尊いのです。(イザヤ書43・4)

 

「わたしがアブラハムの神である」という、アブラハムのところにどうかあなたのお名前を入れて読んでみてください。主イエスは、天の父なる神が、その一人ひとりの命をとおしてご自身を顕されるお方だとおっしゃるのです。

 

教会の集まりは、神の国・天の国の交わりを表しているといえましょう。はじめに神がわたしの名を呼んでくださり、それに応えて生きようとする一人ひとりの集まりからなる群であります。はじめに組織や群れがあったのではありません。

死に滅ぶほかなかった者を神は見出してくださり私という存在が取り戻された。人として生きる自由を得た。わたしと、わたしたちの間に、こうして今世にあっても復活の命が輝いています。ここにキリストの教会があります。

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灰の水曜日

2022-03-02 08:54:16 | お知らせ

本日より、主イエス・キリストの十字架の受難と死への御あとを辿り、

祈り過ごすレント(受難節)に入りました。

本日はその第1日目の「灰の水曜日」であります。

主イエスが全世界の罪を贖うために、十字架の道を歩んでいかれたことを心に留め、

主イエスに立ち帰り、主イエスに倣って歩んでまいりたいと願います。

レントの期間 3/2-4/16

 

平 安

 

 

 

 

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