礼拝宣教 出エジプト記6章28節―7章7節
「先週からの続き」
先週は、エジプトで虐げられるイスラエルの民を神が救い出すため、モーセをお立てになる召命の記事を読みましたが。モーセはイスラエルの人々、その民に神の言葉を語るよう命じられるのですが、なかなか首をたてにふることはできません。
神はモーセに「使命に伴うしるし」を見せるのでありますが、モーセはなおも神に、「わたしはもともと弁が立つ方ではなく、全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わし下さい」と、なおも召命から逃れようとします。
そこで神は遂に怒りを発してモーセにこう言われます。
あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている・・・彼によく話し、語るべき言葉を彼に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあって、あなたのなすべきことを教えよう。彼があなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。あなたはこの杖を取って。しるしを行いなさい」。
こうしてモーセは重い腰をあげ、ようやくエジプトに向かうことになるのです。
その途中、神の山(シナイ山)で兄のアロンと出会い、「自分を遣わされた主の言葉と、命じられたしるしをすべてアロンに告げ」、アロンを伴ってイスラエルの人々のもとに向かいます。そうしてイスラエルの人々と長老全員を集めて、アロンは「主がモーセに語られた言葉」をことごとく語り、モーセは民の面前でしるしを行ったので民は「信じた」。また、「主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみをご覧になったということを聞き、民はひれ伏して礼拝した」ということであります。
その後の5章ではモーセとアロンが神の言葉を語るためにファラオのもとに出かけ、ファラオに、「イスラエルの神、主が、わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさいと言われたこと」を伝えます。
ファラオが「主とは一体何者なのか。どうして、そういうことを聞いて。イスラエルを去らせなければならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」と答えると、モーセとアロンは「ヘブライ人の神がわたしたちに出現されました。どうか、三日の道のりを荒れ野に行かせて。わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。そうでないと、神はきっと疫病か剣でわたしたちを滅ぼされるでしょう」と、言います。
それに対して、ファラオは「お前たちは労働をやめさせようとするのか」「なぜ彼らを仕事から引き離そうとするのだ。お前たちは自分の労働に戻るがよい」と2人を追い返します。
そうして、彼らは怠け者だからそんなことを言って行かせてくれと叫んだといって、イスラエルの人々にさらに過酷な労働、使役を課します。
その後、イスラエルの下役たちは、ファラオのもとへ抗議に出向くのでありますが、ファラオの厳しい対応と命令に愕然とし、そのやり場のない怒りの矛先はモーセとアロンに向かうことになるのです。
苦しい立場に立たされたモーセは、主に「わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません」と訴えるのであります。
それに対して主なる神は、アブラハムからなる契約によって必ず民を導き出し、救い出す、と宣言なさるのです。
「モーセとアロン」
そうして本日の6章29節でも神はモーセに、「わたしは主である。わたしがあなたに語ることすべて、エジプトの王ファラオに語りなさい」と重ねてお命じになるのです。
先のこともあってモーセは「御覧のとおり、わたしは唇に割礼のない者です。どうしてファラオがわたしの言うことを聞き入れましょうか」と、また以前のように行き渋るのです。
そこで神は、モーセがエジプトのファラオに語るべきこと、なすべきことについて次のように仰せになります。
「見よ、わたしはファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。わたしが命ずるすべてのことをあなたが語れば、あなたの兄アロンが、イスラエルの人々を国から去らせるよう、ファラオに語るであろう」。
先にモーセとアロンがファラオのもとを訪れたときは、この神の約束は語られておりませんでした。ここで注目しますのは、モーセは「神の代行者」、アロンは「その預言者」になるということです。
モーセは「わたしは唇に割礼のない者です」と自ら吐露していますように、言葉の人ではなく、語ることが生来得意ではなかったようです。
しかし、彼は神さまと直接、顔と顔を合わせ、お言葉を受けるという賜物を頂いていました。又、エジプトでの宮廷においてエジプトに関する歴史、文化、慣習などの知識を身に着け、王とも親交があり、王宮の内実に詳しかったのです。
一方、アロンは「そのモーセの預言者」ということで、モーセが語った神のことばを預り伝える役割を果たすのです。アロンはヘブライとエジプトの言葉をうまく受け答えでき、雄弁に語ることができたようです。
この事が示していますのは、モーセもアロンも、まず「神のことばを聞く」ことからすべてが始まっていくということであります。
私は礼拝で宣教者として語る役割を託されているのですが。やはり思いますのは、如何に普段から「聖書から聞く」ということが大切かと思っております。
まず、聖書のみから聞いていく。自分の主観や感情に傾斜して聖書を読まない。神のことばである聖書からまず聞くことを心がけています。
又、祈祷会の中で聖書の学びのときが持たれていますが。そこで私は参加されている方々が聖書から聞いたことを、それぞれ聞き合える場があるのが本当に幸いに思っています。
そこで私の一方的な読み方が正されたり、又新しい発見も与えられたりすることも多々あるのです。又、それぞれの方から生活の中で御言葉が生きて働かれる証も頂き、励まされることもございます。
この「神のことばを共に聞く」。それは神が招き導かれる主の共同体に向けられたことばであり、それに連なる一人ひとりに語りかけられる言葉であります。その信仰の生活の基盤はまさに礼拝にございます。
この出エジプトにおいて、主なる神がまずエジプトのファラオに要請したことは何でしたでしょうか? それはイスラエルの民が「荒野で主に礼拝を捧げる」ことができるようになることでした。イスラエルの民が神の民として共に礼拝を捧げ、共に主の御声に聞き、従っていく場を得るためでした。
私どもも今、コロナ禍で一つ所に集まる難しさを痛感しているわけですが。そこで、どのように礼拝の場と時間、何より御言葉を共に聞いていくことが問われています。
さらに6節-7節で、「モーセとアロンは、主が命じたとおりに行った。ファラオに語ったとき、モーセは80歳、アロンは83歳であった」と記されていますが。
2人とも80歳を超える高齢のときに、まさにファラオのもとを訪ね、神の言葉を大胆に告げ知らせるのです。
若い時に比べ身体的な老いを感じる年齢であったかと想像しますが、あの強大な権力を誇るエジプトの王、ファラオに会いに行くことができたのは、すべてをおさめ、導かれる主なる神がわたしを遣わされるという信頼がこの2人に共通してあったからでしょう。
この「モーセとアロンは主が命じられたとおりに行った」というのは、単にそれぞれに行ったという意味ではなく、モーセもアロンも主が命じられたことを一緒に心を合せて行ったということです。ここが重要です。
実に主がこの2人と共におられ、彼らを用いられ、その民イスラエルのために御業を行われるのです。
今日の礼拝の始めに読まれましたコヘレトの言葉4章9節、12節をもう一度お読みしたいと思います。
「ひとりよりもふたりが良い。共に苦労すれば、その報いは良い。一人が攻められれば、
ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい」。
この三つ目の糸こそ、主なる神さまなのです。
人は1人で生きることはできません。人と人との交わりを通して生かされているのですけれども、聖書はさらに人と人とが主なる神さまに結ばれて生きるなら、あらゆる状況の中でも力と助けを得る、と約束しているのです。
主にある交わり、共に心合わせていく関係をこれからも大切にしていきたいと願うものです。
「神の大いなる御計画」
聖書の記述に戻りますが。
さて、神は続けてこうモーセにお告げになります。
3節「しかし、わたしはファラオの心をかたくなにするので、わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す」。
この「神がファラオの心をかたくなにする」という意味は難解です。
神はここでファラオをロボットのように動かして、その心をかたくなにされたのでしょうか? いいえ、ファラオには自分で選び取る意志と、行動する自由があったのです。
ただ神はご存じでした。3章19節には「強い手を用いなければエジプトの王が民を行かせないことを、わたしは知っている」と、神はおっしゃっています。
ファラオにはモーセとアロンのしるしや奇跡が何度も示されますが、しかし神への畏れ、その偉大さを認め、悔い改めることがなかったのです。その心は主に立ち返るどころか益々かたくなになっていくのです。
では、モーセやアロンの働きは意味のない無駄なものであったのかといえば、決してそうではありません。主なる神さまが最後的にエジプトに手を下してその栄光を決定的に顕されることの、それは道備えとなっていくのです。
最終的に神は、主の「過ぎ越し」という大いなる審判と救いをもって、イスラエルの民をエジプトから導き、救い出されるのです。
最後に、今日の箇所で最も重要なメッセージをここに刻みたいと思います。
それは、5節の「わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人はわたしが主であることを知るようになる」との主なる神さまのお言葉であります。
ここにはイスラエルの民のみならず、エジプトの人々も、その驚くべき主の御業を体験する中で「主を知るようになる」と語られいるのです。
ファラオはかつて、モーセが「主」について語ったとき、「主とは何者か」と問い返しました。彼はまさに神の審判によって、「主とは何者か」という答えを決定的に知ることになるのです。
「エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる」とありますが、このエジプト人とは、広くイスラエル以外の全世界の人々をも示しています。
主なる神を認めず、主への畏れを知らない全世界の人々が、天地万物を造り、すべてを統治し、導いておられる畏れるべきお方、主である神さまを知るようになる、との大いなるメッセージがここに語られているのです。
神は先にモーセをエジプトにお遣わしになられたように、後の新しい契約の時代には御独り子、主イエス・キリストを全世界の救い主として送ってくださり、私たちを罪の滅びからあがない出してくださいました。
まさに、今日の「わたしが主であることを知るようになる」との御言葉は、主イエス・キリストによって今や全世界に実現されているという救いのメッセージなのです。
ここに出エジプト記が旧約聖書の福音書と言われるゆえんがございます。
9章16節にこう記されています。「わたしの名を全地に語り告げなさい」。
それは新約、神さまとの新しい契約の時代に生かされる私どもにとりましては、イエスさまが弟子たちに命じられている神の福音の大宣教命令であるのです。
私たちを取り巻く世界において悩みや苦しみはありますが、神の福音に生かされている喜びをもって、御言葉に聴き、主の御心に適った歩みを共々に悔いのないようになしてまいりましょう。