礼拝宣教 出エジプト記20:1-17
本日は第五週なのでさんび&あかしの礼拝として捧げておりますが、今回はギデオン協会のKさんより、そのお働きをとおしてのお証を伺うことができましたありがとうございます。この一冊の書物、福音の持つ力って人の人生を一変させる大きいものですよね。ギデオン協会がその貴い橋渡しのお役を担っておられることに感謝し、主の祝福と労いをお祈り致します。
本日はその命の「御言葉」十戒から、「命と平和への道しるべ」と題し、主の言葉に聞いていきたいと思います。
十戒を初めて読まれた方の中は、「父母を敬え」以外の9つの戒めすべてが「~してはならない」と言う様な否定的な禁止命令であることから、人を拘束し何か自由を奪うような堅苦しい印象を持たれる方も少なくないのではないでしょうか。
しかし神さまはこれらの十の戒めを授けるに当って、2節でイスラエルの民に次のように語られていることに注目したいと思います。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」
神さまはイスラエルの民に対して、「わたしは奴隷の家からあなたを導き出して自由にした。わたしはあなたの神である」と宣言しておられるのです。エジプトの国ではファラオ(王)が主(神)のように崇められていく中、イスラエルの民は自由を奪われ、ただ奴隷のように拘束され、苦役を負わされるほかなかったのであります。
その彼らの叫びを聞かれた真の神さまは、その奴隷の家からイスラエルの民を解放し、導き出し、自由の身とされたのです。それは同時に彼らが「神の宝の民」として選ばれたことを意味していました。単に助け出された、救われたというのではないのですね。
「わたしはあなたを奴隷の家から導き出した神である」とおっしゃる神さまの宣言をベースに語られるこの十の戒めは、自由の身とされた民がもはや奴隷のようにではなく自由を得た者として歩んでいくための道しるべとなるものであったのです。言い換えますなら、自由の身とされたイスラエルの民が再び奴隷の家、すなわち世の力に心奪われ滅びゆくような状態に逆戻りしないために、神さまはこの十の戒めの言葉をお与えになったのですね。自由というのはありがたいものです。けれどもその自由であることが時に放縦ざんまいと勘違いをし、結果的に個人や共同体の崩壊につながるということが起こり得るのです。神さまは御自身の宝の民とされた彼らが自由とともに平安(平和)を得て生きるためにこの十戒を強い意志と熱愛をもって告げられたのでありましょう。
さて、その十の戒め言葉ですが。大きく前半の4の戒めと後半の6つの戒めに分別することができます。読んでお分かりのとおり、前半の4つの戒めは、「真の神さまを第一とする」ということであります。わたしと神さまとの一対一の縦の関係がまず確立されるように告げられています。これはよくキリスト者は十字架にたとえ、縦の線は神と人の関係、神さまと私の関係を表すものだと言ったりするのですが。
それに続く後半の6つの戒めは、「人と人との横の関係」、両親や隣人に対する態度について告げられたものです。これは十字架でいうところの横木、人と人の横の関係であります。十の戒めの言葉が十の文字のごとく「縦」と「横」によって成っているというのも不思議に思えますけれども。
今日礼拝の始りの招詞でマタイ22章の箇所が読まれました。もう一度そこをお読みします。37-40節「イエスは言われた。『心を尽くし精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
イエスさまは十戒にはじまる律法全体を「あなたの神を愛する」ことと「隣人をあなた自身のように愛する」この2つの愛に要約されました。
十の戒めの言葉はそのように、人を縛り拘束するようなものではなく、奴隷の身から自由の身とされた神の民が、神を第一とし、隣人や他者を自分のように愛するところに個人の、さらに共同体全体の祝福と平安が伴うのであります。
8月は平和月間として特に平和を覚えての礼拝をこれまで捧げてまいりました。
この戒めにあるように「神でないものを神としてあがめる」ことは偶像崇拝であり、それは神さまがお与えになる平安・平和から人を引き離す罠となります。世の富や地位や名誉、はたまたどんな素晴らしい人物であってもそれを神として崇める時、人はやがて本来与えられた祝福を見出す事ができなくなっていきます。国々も同様に、経済力や軍事力などをあたかも国を守る力として絶対化すると、ひいては数値の変動に踊らされたり、国々の信頼関係を損ない平和が揺るがされることになるのではないでしょうか。
原発は絶対安全だという神話が3・11によって崩壊しました。にも拘らず原発の絶対的必要性を支持する意見が押し通され川内原発が再稼働されました。核のゴミはたまる一方です。日米同盟が国の安全を保障するという神話が平和を脅かそうとしています。かつて日本はこうした偶像崇拝をもって侵略戦争をひき起こし、内外において多くの尊い命が奪われていったのです。
偶像崇拝は神と人との関係の崩壊でありますが、それは人と人の関係の崩壊に連動するのです。殺し、姦淫、盗み、隣人に関しての偽証、隣人の家を欲し、むさぼる行為。その究極的かたちが戦争でありましょう。
先日新聞の「声」の欄に、次のような投稿がありました。
「安部首相の戦後70年談話を仕事先の香港で聞いた。反応が気になり、香港の地元新聞を手に、そこに住む中国の友人たちに感想を聞いた。安部首相の「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を負わせてはならない」という言葉に朝日新聞の世論調査で63%が「共感する」としたこの部分について、友人たちは何よりも傷ついたと語った。日本人の立場からすれば、子孫に歴史の負担をかけたくないということかもしれない。しかし逆の立場からすれば、「もう過去のこと。謝り続けることは終わりにしたい」と、切り捨てられたような気持になると、彼らは言っていた。中国の友人たちの話を聞きながら、深い苦しみを受けた全ての人々の心に、逃げずに寄り添える自分でありたい。」そう願ったとこの方は綴っておられます。
この投稿を読みながら、私はイエスさまが律法について「自分のように隣人を愛する」こと、とおっしゃった御言葉が思い出されたのです。
相手の人の足を踏んでいる本人はその相手の痛みについて鈍感です。自分が逆に踏まれて初めてその痛みを知る。痛い目にあわないと踏みつけている相手の痛みはなかなか分からないと言うのが悲しいかな私たちではないでしょうか。
日本がかつて経験した痛みや傷は、戦争によって傷つけてきた他者への気づきにつながり、平和のかけがえのない尊さを共有していく力へと変えられていくと思うのであります。日本国憲法、特に憲法9条を読みますとほんとうにそれは、この十戒の「殺してはならない」と根を一つにしている尊い命のメッセージだと思わされます。
十戒。この神の戒めは決して人を拘束し縛って自由を奪うためのものではありません。
逆に、人が真に解放され、自由に生きる道、平和と平安を得る道が指し示されているのです。
イエスさまは、律法についてこうもおっしゃっています。
「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ7・11-12)
この「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたは人にしなさい」という事の中には当然、「人にしてもらいたくないと思うことは何でも、あなたがたはしてはならない」ということも含まれています。イエスさまは十戒からなる律法の本質はそこにあるのだということをお示しになるんですね。
今日の十の戒めは、救いに与り自由にされたあなたは「~してはならない」、否、その尊い恵みを知るあなたは「そうしないであろう」という神さまの願いともいえるメッセージが集約されているのです。ここには新約の時代に生きる私たちにも共通の、罪の奴隷からキリストによって自由の身とされた者のあゆむべき道が示されています。そのことを今日はしっかりと心に留め、キリストにある平和を造り出す者として歩んでまいりたいと願います。
最後にガラテヤの信徒への手紙より御言葉を読んで宣教を閉じます。
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされているからです。」(ガラテヤ5:13-14)
お祈りをいたします。
本日は第五週なのでさんび&あかしの礼拝として捧げておりますが、今回はギデオン協会のKさんより、そのお働きをとおしてのお証を伺うことができましたありがとうございます。この一冊の書物、福音の持つ力って人の人生を一変させる大きいものですよね。ギデオン協会がその貴い橋渡しのお役を担っておられることに感謝し、主の祝福と労いをお祈り致します。
本日はその命の「御言葉」十戒から、「命と平和への道しるべ」と題し、主の言葉に聞いていきたいと思います。
十戒を初めて読まれた方の中は、「父母を敬え」以外の9つの戒めすべてが「~してはならない」と言う様な否定的な禁止命令であることから、人を拘束し何か自由を奪うような堅苦しい印象を持たれる方も少なくないのではないでしょうか。
しかし神さまはこれらの十の戒めを授けるに当って、2節でイスラエルの民に次のように語られていることに注目したいと思います。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」
神さまはイスラエルの民に対して、「わたしは奴隷の家からあなたを導き出して自由にした。わたしはあなたの神である」と宣言しておられるのです。エジプトの国ではファラオ(王)が主(神)のように崇められていく中、イスラエルの民は自由を奪われ、ただ奴隷のように拘束され、苦役を負わされるほかなかったのであります。
その彼らの叫びを聞かれた真の神さまは、その奴隷の家からイスラエルの民を解放し、導き出し、自由の身とされたのです。それは同時に彼らが「神の宝の民」として選ばれたことを意味していました。単に助け出された、救われたというのではないのですね。
「わたしはあなたを奴隷の家から導き出した神である」とおっしゃる神さまの宣言をベースに語られるこの十の戒めは、自由の身とされた民がもはや奴隷のようにではなく自由を得た者として歩んでいくための道しるべとなるものであったのです。言い換えますなら、自由の身とされたイスラエルの民が再び奴隷の家、すなわち世の力に心奪われ滅びゆくような状態に逆戻りしないために、神さまはこの十の戒めの言葉をお与えになったのですね。自由というのはありがたいものです。けれどもその自由であることが時に放縦ざんまいと勘違いをし、結果的に個人や共同体の崩壊につながるということが起こり得るのです。神さまは御自身の宝の民とされた彼らが自由とともに平安(平和)を得て生きるためにこの十戒を強い意志と熱愛をもって告げられたのでありましょう。
さて、その十の戒め言葉ですが。大きく前半の4の戒めと後半の6つの戒めに分別することができます。読んでお分かりのとおり、前半の4つの戒めは、「真の神さまを第一とする」ということであります。わたしと神さまとの一対一の縦の関係がまず確立されるように告げられています。これはよくキリスト者は十字架にたとえ、縦の線は神と人の関係、神さまと私の関係を表すものだと言ったりするのですが。
それに続く後半の6つの戒めは、「人と人との横の関係」、両親や隣人に対する態度について告げられたものです。これは十字架でいうところの横木、人と人の横の関係であります。十の戒めの言葉が十の文字のごとく「縦」と「横」によって成っているというのも不思議に思えますけれども。
今日礼拝の始りの招詞でマタイ22章の箇所が読まれました。もう一度そこをお読みします。37-40節「イエスは言われた。『心を尽くし精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
イエスさまは十戒にはじまる律法全体を「あなたの神を愛する」ことと「隣人をあなた自身のように愛する」この2つの愛に要約されました。
十の戒めの言葉はそのように、人を縛り拘束するようなものではなく、奴隷の身から自由の身とされた神の民が、神を第一とし、隣人や他者を自分のように愛するところに個人の、さらに共同体全体の祝福と平安が伴うのであります。
8月は平和月間として特に平和を覚えての礼拝をこれまで捧げてまいりました。
この戒めにあるように「神でないものを神としてあがめる」ことは偶像崇拝であり、それは神さまがお与えになる平安・平和から人を引き離す罠となります。世の富や地位や名誉、はたまたどんな素晴らしい人物であってもそれを神として崇める時、人はやがて本来与えられた祝福を見出す事ができなくなっていきます。国々も同様に、経済力や軍事力などをあたかも国を守る力として絶対化すると、ひいては数値の変動に踊らされたり、国々の信頼関係を損ない平和が揺るがされることになるのではないでしょうか。
原発は絶対安全だという神話が3・11によって崩壊しました。にも拘らず原発の絶対的必要性を支持する意見が押し通され川内原発が再稼働されました。核のゴミはたまる一方です。日米同盟が国の安全を保障するという神話が平和を脅かそうとしています。かつて日本はこうした偶像崇拝をもって侵略戦争をひき起こし、内外において多くの尊い命が奪われていったのです。
偶像崇拝は神と人との関係の崩壊でありますが、それは人と人の関係の崩壊に連動するのです。殺し、姦淫、盗み、隣人に関しての偽証、隣人の家を欲し、むさぼる行為。その究極的かたちが戦争でありましょう。
先日新聞の「声」の欄に、次のような投稿がありました。
「安部首相の戦後70年談話を仕事先の香港で聞いた。反応が気になり、香港の地元新聞を手に、そこに住む中国の友人たちに感想を聞いた。安部首相の「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を負わせてはならない」という言葉に朝日新聞の世論調査で63%が「共感する」としたこの部分について、友人たちは何よりも傷ついたと語った。日本人の立場からすれば、子孫に歴史の負担をかけたくないということかもしれない。しかし逆の立場からすれば、「もう過去のこと。謝り続けることは終わりにしたい」と、切り捨てられたような気持になると、彼らは言っていた。中国の友人たちの話を聞きながら、深い苦しみを受けた全ての人々の心に、逃げずに寄り添える自分でありたい。」そう願ったとこの方は綴っておられます。
この投稿を読みながら、私はイエスさまが律法について「自分のように隣人を愛する」こと、とおっしゃった御言葉が思い出されたのです。
相手の人の足を踏んでいる本人はその相手の痛みについて鈍感です。自分が逆に踏まれて初めてその痛みを知る。痛い目にあわないと踏みつけている相手の痛みはなかなか分からないと言うのが悲しいかな私たちではないでしょうか。
日本がかつて経験した痛みや傷は、戦争によって傷つけてきた他者への気づきにつながり、平和のかけがえのない尊さを共有していく力へと変えられていくと思うのであります。日本国憲法、特に憲法9条を読みますとほんとうにそれは、この十戒の「殺してはならない」と根を一つにしている尊い命のメッセージだと思わされます。
十戒。この神の戒めは決して人を拘束し縛って自由を奪うためのものではありません。
逆に、人が真に解放され、自由に生きる道、平和と平安を得る道が指し示されているのです。
イエスさまは、律法についてこうもおっしゃっています。
「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ7・11-12)
この「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたは人にしなさい」という事の中には当然、「人にしてもらいたくないと思うことは何でも、あなたがたはしてはならない」ということも含まれています。イエスさまは十戒からなる律法の本質はそこにあるのだということをお示しになるんですね。
今日の十の戒めは、救いに与り自由にされたあなたは「~してはならない」、否、その尊い恵みを知るあなたは「そうしないであろう」という神さまの願いともいえるメッセージが集約されているのです。ここには新約の時代に生きる私たちにも共通の、罪の奴隷からキリストによって自由の身とされた者のあゆむべき道が示されています。そのことを今日はしっかりと心に留め、キリストにある平和を造り出す者として歩んでまいりたいと願います。
最後にガラテヤの信徒への手紙より御言葉を読んで宣教を閉じます。
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされているからです。」(ガラテヤ5:13-14)
お祈りをいたします。