日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

命の衣を着る

2017-07-30 17:21:30 | メッセージ
礼拝宣教 創世記3章20-4章1節 (賛美と証しの集い・青年会主催)

先週の箇所は、神の平安が満ちるエデンの園の中央の2本の木。「善悪の知識の木」と「命の木」のうち、食べてはならないと言われていた「善悪の知識の木」の実を蛇、これは祝福の神との関係をねたみ、神のみもとから引き離そうとする働きですが、その蛇に唆された女が食べ、アダムもそれを食べてしまった。そのことのゆえに、創造主なる神さまと人との信頼関係が大きく損なわれるような出来事が3章には記されていたわけですが。こうして神のみ顔を避けて身を隠す者となった彼らを、主なる神は憂い、惜しまれます。神さまは全きお方です。彼らは聖なるお方を前に審きを受けなければなりませんでした。

主なる神はまず蛇に向けて裁きを言いわたされ、次に女に産みの苦しみ、そしてアダムに労働の苦しみを告げます。さらに、人はみな死すべき者として「塵に返る」ことが告げられます。
今日の23節を読みますと、神はアダムと女をエデンの園から追い出したとございますが。この「追い出した」の元の原語は、非常に強い調子で「追いだした」ということであります。
そのように彼らをエデンの園から「追い出した」理由について、主なる神は22節で次のように言われます。
「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」。そして24節には、神は「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」と。

彼らが神の言葉に背く前においては、「命の木」と「善悪の知識の木」が園の中央にあり、人はそのどちらかを選ぶ自由がありました。
今日の時代も同様だと思うのですが。私たちは善悪を知らされている中で、どちらを選択して生きていくかは、その人自らが選び取っていくことですよね。
この2人は、神の言葉に背いて、死んではいけないから決して食べないように、と命じられていた「善悪の知識の木」の実を取って食べてしまいました。
神さまは、もはやそうなってしまった「今や」、罪の人である彼らが、神になり代わって善悪を決め、遂にエデンの園の聖なる命の木までもぎ取って食べ、背きのままに生きながらえようとする事を、強く危惧なさったのであります。
まあ、近代科学は不老不死の領域にまで近づいていると言われてもいますが。その一方で、核の脅威や戦争の火種が未だに絶えない世界の現況をおもう時、創世記は単なる寓話とはいえない、とつくづく思うものですが。
さて、本日の20節には「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべての命あるものの母となったからである」と記されています。
アダムは神に「塵にすぎないお前は塵に返る」(19節)。つまり死ぬべき者にすぎない、と告げられたにも拘わらず、妻である女に、「命」エバと名付けたというのであります。

そして、その様子を主なる神さまはご覧になっていたのでしょう。
21節にあるとおり、「アダムとエバに皮の衣を作って着せられた」というのですね。これからエデンの園から離れ過酷な地において生きていかねばならない彼らのために、主なる神さま自ら皮の衣を作り、それを二人に着せられた。そこに神さまの「義」と共に深い「慈愛」を知らされる思いがいたします。

背信の罪を犯し自らを恥じる彼ら。善悪を知って、ああ自分は裸だ、と気づいた彼らを、
自ら作った皮の衣で包んでくださる神さまの愛。それはまさしく今、新約聖書の時代に生きる私たちにとりましては、アダムとエバではありませんが、神に背き背を向け、犯し続けた罪を悔いる者に、その弱さと恥を示す裸を覆う衣、すなわちイエス・キリストの救いという衣を着せ、罪を覆ってくださる主なる神さまの愛なのであります。

アダムとエバが神に犯した罪は決して消えるものではありません。しかし、主なる神はその彼らを憎んではおらません。むしろ、人のもつ弱さやもろさを包み込むようにして、その慈愛をもって、彼らをエデンの園から送り出しているのであります。
創造主なる神さまの義と愛。新約の時代に生かされる私たちは、ここに救いの十字架を見るものであります。
以前使用していました日本基督教団出版局の「讃美歌262番」。私の愛唱讃美歌の一つでもありますが。その1節にこういう歌詞がございます。「十字架のもとぞ いとやすけき、神の義と愛の あえるところ、あらしふく時の いわおのかげ、荒野のなかなる わが隠れ家。」

さて、今回私はこの箇所を読んでいて、新たにハッと気づかされたみ言葉がございました。それは4章1節の「彼女は身ごもってカインを産み、『わたしは主によって男子を得た』と言った」というところです。
彼女は、先週の3章の箇所で、神のみ言葉に背いて罪を犯します。そして、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてくると、御顔を避けて、身を隠しました。
罪を嘆き、恐れと不安、後ろめたさ等、怒濤のごとく様々な感情が襲い迫り、怖じ惑う姿がそこに描かれています

その同じ彼女が、今日のこのところではどうでしょうか。「わたしは主によって男子を得た」と、言うんですね。「主によって」と。それは信仰の賛美の言葉に他なりません。
彼女は主によって命を与えられるという経験を通して、主を見上げ賛美する者に変え
られたのですね。まぎれもなく確かに。に証し、伝えているのです。
礼拝の最初に招詞として、イザヤ書61章3節が読まれましたが。
このイザヤ書61章1節は、実に主イエスが宣教を開始されるにあたって会堂でお話な
さった箇所です。「主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた。わたし
を遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み 捕わ
れた人に自由を つながれている人には解放を告知させるために」。

その3節が今日礼拝の招きのことばとして読まれました。
「シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香
油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」との御言葉であります。
まさに、エデンの園を追われ、労苦を身に負った彼女がここで、「命を与えてくださる
のは主であり、主こそ命の主である」ことを身をもって経験して、「賛美の衣」を身に
まとう者となった。そのことがここに記されているのですね。

罪のゆえにもはやエデンの園から出て行かざるを得なかった人間、それはこの地上に生きる私たちでもあります。その私たちに主なる神さまは、今や、イエス・キリストを通して「命の衣」を着せてくださいました。
イザヤ書61章10節にもこうございます。「わたしは主によって喜び楽しみ わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ 恵みの晴れ着をまとわせてくださる」。アーメンです。

罪あるまま、足らざるまま、欠け多き私たちを、御前に立ち返って生きるものとしてく
ださる。今日も主なる神さまは、罪を贖う義と愛の衣、主イエスの十字架の義と愛によ
る贖いをもって、神と人、人と人との関係回復へと導いて下さっています。この愛に応
えて生きる私たちでありたいと切に願うものです。今日の賛美礼拝もそのメッセージを
かみしめながら、この後も心から主を賛美いたしましょう。

おわりに、聖書の一番最後にあるヨハネ黙示録の22章14節をお読みします。
「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである」。今週もここから、それぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

命を守るために

2017-07-23 12:51:38 | メッセージ
礼拝宣教 創世記3章1~19節 

「神と人との信頼関係」
先週の2章において「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」(7-9節)
さらに「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(16-17節)とありました。

このように様々な木々とともに、園の中央には「命の木」と「善悪の知識の木」の二つの木が生えていたということです。
ここで注目すべきは、神は園の中央のもう一つの「命の木」については何もおっしゃっていないということです。ただ、園の中央にある「善悪の知識の木から取って食べてはならない」と命じておられるということです。

アダムは当初罪を知らぬ者として創造されました。彼には善悪の知識がありませんでした。それは罪について無知であったということです。
アダムの前には二本の木が植えられていました。それは特別な園の中央にある聖なる木です。神に背く誘惑がやってきたとき、実はそのどちらを選ぶかは、彼自身に委ねられていたのです。
それは「神に信頼していく命の木」の実か。あるいは「神との信頼関係を壊していく死(滅び)の木」の実かです。エバはいかにも美味しそうで、目を引きつけ、しかも立派になれるように見栄えのするその実を自らの手でもぎ取り、そしてアダムと共に自我の欲望のままに口にします。自分たちが神のようになるという誘惑にのって「善悪の知識の木」の実を食べたのです。
こうして人は、すべての判断の基準を神との関係性にではなく、自我を中心におく者となった、ということです。

さあ、そのようになったとき、彼らに一体何が起こったでしょうか。
聖書は、彼らに恥の思いが生じ、神のまなざしを避けないではおれなくなって慌てふためく様子を描き出します。もはや、神の御前に近づくことができなくなり、エデンの園を出て苦労し、やがて朽ちて土に帰る存在として、地にさまよう者となるのです。これは彼自身が何を選択したかということによって自ら招いた結果なのです。

「自由意志」
この箇所を読みますと、神さまはなぜわざわざそんな「決して食べるな」という木を植えられたのかとお思いになる方もおられるかも知れません。けれどそう考えるとき、一方で人には「手をつけずに食べない」という自由な意志が与えられていたということも覚える必要があるのではないでしょうか。私たち人間は神のロボットとして造られたのではないのです。
たとえば、今私たちはソーシャルメディアというものが急速に普及していて、猫もしゃくしもそれを使っているわけですが。しかし、その使い方は千差万別で、それを手にする人が何を見て、どう使っていくかは、その人の自由意志に委ねられています。まあその中で親は子供に注意したフィルタリング機能をかけて、危険なサイトに行かないように気を配るわけですが。しかしそういうのではなかなか難しく、結局は使う人の自由意志に委ねられている状態です。この日本では実に多くの事柄が自由意志に委ねられています。それは幸いなことでありますが、一方で「何を選び取っていくのか」が、人には常に問われているのです。

聖書に戻りますが。
園の中央に「善悪の知識の木」だけしか植えられていなかったのなら、選択の余地はありませんでした。しかし園の中央にはもう一本「命の木」が植えられていたのですね。神さまは人に「これしかない」という道ではなく、神の御心に従うか否かを自由に選びとれる道を示されていたということです。それこそが神の御心であり、神は人間が神に信頼し、祈り、行動することを願われたのですね。その神さまの御心を自ら選び取っていくなら、そこには平安があり、そのことゆえにエデンはまさしく楽園でありました。

しかし、人がその与えられた自由を私利私欲のために乱用し、搾取や乱獲してむさぼり食っていく時、命の神さまとの関係は大きく損なわれ、地は呪われるものとなるのです。それは寓話に過ぎないとは決していえない現実が、今日の私たちの世界にも数知れず拡がっています。経済や利益優先の社会や政治において、又生活に関わる食品の偽装や遺伝子組み換えにおいても、又あらゆる対人との関係においても、そのことが蔓延しているといえるでしょう。
科学や文明が発展していく中で、人があたかも神のように尊大に振舞い、造り主であるお方の愛を知ろうとせず生きていくとき、そこには真の平安はなく、労苦の果てに滅びて土に帰っていく虚しさしかありません。「あなた私たちは与えられた自由の中で、何をどのように選び取り、どう用いていくのか」。神さまは今日も私たち人間一人ひとりに問うておられるように思います。

「祝福をねたむ蛇」
さて、今日の個所を読んでいきますと、人を罪へと誘ったのは蛇であったとあります。この蛇とは一体何ものか?ということが話題にのぼることがありますが。
蛇は自在に体の形を変えて動き回る能力をもち、生命力の強い生き物です。それゆえに古代からよく信仰崇拝の対象ともなっていました。
1節にも「主なる神が造られた野の生き物のうちで最も賢いのは蛇であった」とあります。それだけの力が与えられていたのでしょう。
現代でも、蛇革のバックや財布やアクセサリーを身につけるということも、単なるファッションではなく、御利益があるとして、身につける人たちもおられます。
まあそう考えますと、神に造られたに過ぎないものでありながら、あたかも神のように崇められる力の象徴と考えてもよいと思います。

いずれにしましても、その蛇がここで何をそそのかしているのかが重要です。
それは、人に「不死を手に入れ、神のようになれる」と誘っていることです。
4、5節に「蛇は女に入った『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ』とあるとおりです。

この蛇は神と人との特別な惠みの関係を妬み、その仲を引き裂こうとする働きを表しています。それは命の神との関係を人が損ない、神ならざるものに従属する者、奴隷となり、遂には死と滅びへ誘う働きです。その力はこのアダムやエバだけではなく、今の時代にも、私たちの日常の中にもているのであります。

さて、蛇は女に「決して死ぬことはない。それを食べると絶えず生き続ける」とそそのかすのであります。
それは2章16節17節の「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると死んでしまう」との神の言葉に対する挑戦であります。

この時のエデンには死もなく、神の造りたもう調和の中で、完全な守りと平安に満ちていたことでしょう。
そこには食べて余りある食糧もあり、人として何不自由なく生きる世界があったのです。
又、男も女も裸であったが、「二人とも恥ずかしがりはしなかった」とあります。

ところが今日の個所で、彼らが善悪の知識の木の実を食べると「二人の目が開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」とあります。
「恥ずかしい」という意味はいくつかありますが。この箇所から読み取れますのは「自らをやましく感じること」又、「過ちや罪などを意識して面目ないと思い恥じる」そのような感情が起こってきたということであります。
言うならば自分の心のうちに罪の自覚が生じ、とても隠さずにおれない部分があることを知り、恥ずかしくなり、うしろめたくなって、いちじくの葉なんかでとりつくろい隠さないでおれなくなってしまったということです。こうして人は神のみ顔を避けて、身を隠したということですが。神との麗しい関係が歪んだものになってしまったとき、人は自らを隠し、顔を背ける者となってしまうということです。それは今も大方の人の心のうちに起こっていることではないかと思います。

まあそうして、神の命令に背いて善悪の知識の木の実を食べたアダムの心が、大きく変わってしまったことを如実に示しているところが、11節と12節の神とアダムとの対話であります。
それは、神が「取って食べるなと命じた木から食べたのか」と問いかけたことに対して、アダムは「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」と答えているところです。アダムは自分が悪かったということよりも、女が勧めたので食べたと弁解し、女に責任を転嫁して、自分を守り正当化します。
これだけでもひどいですが、さらに浅ましいといいますかアダムの大きな問題は、その事の発端は、「あなたにある」と神さまのせいにしているところに何とも人の罪深さが露呈されているのです。否、それは人ごとではなく、わたしたちも何か問題が起こってきたときに、「神がいるならなぜこうなる」と怒ったり、神を恨みさえしてしまう存在であります。
エバも又、神の問いかけに、13節「蛇がだましたので」と、弁解し責任逃れをしていますが。こうして神の平安と守りのうちにあったエデンの園が一変していきます。
彼らが神の御心に逆らうまでは、無垢な存在であったのです。
すべて神のみ心のうちに生きるところには喜びと楽しみが伴う祝福が満ちていたのです。そこに楽園の原型があったのです。

アダムにとって神は祝福を与えて下さるお方でした。そしてエバはその祝福を分かち合い、喜び合う存在として神が与えて下さった対等なパートナーであったのです。
ところが、神に対して罪を犯し、自分の非を認めようとはせず、その責任のなすり合いがなされる中で、本来与えられた祝福は失われていきます。
神との信頼、人間同士の信頼は損なわれ、猜疑心に取りつかれたあげく、人は憎しみ合うようにさえなってしまうのです。神と人との関係の分断、人と人との関係の分断。
それこそ聖書が描く、初めの人アダムとエバから続く人の姿であります。

「命を守るために」
それではもう、その損なわれた関係はもはや元に戻らないのか、修復不可能なのでしょうか?私たちはもう二度とエデンの園に帰れないのでしょうか?
新約聖書はその神と人の関係のゆがみの修復、関係の回復は、神の独り子・イエス・キリストを通して与えられたと記されております。
新約聖書に放蕩息子のお話が出てきますが。放蕩の限りを尽くしていわばどん底に落ちてしまった時、弟はこう告白しました。「父の家には、あんなに食べ物がある」。父の家。それは私たちに「エデンの園」を連想させます。

人はもはや自力で喜びと楽しみの楽園・エデンに戻ることはできません。しかし神さまは人がどんなに罪深い者であったとしても、主イエス・キリストの贖いの御業によって、父の家へと立ち帰って生きる道が備えられたのであります。
新約聖書のメッセージに与っている私たちは、今や罪の恥と恐れから神の御前を逃れ、身を隠すことはありません。それは滅びでしかありません。私たちは唯、罪のあるまま、足らざるまま、そのままの姿で主なる神さまのもとへ立ち返っていくところに、神との信頼回復の道が備えられているのです。

人として生きる上で見える見えないに関わらず罪を犯さずにいることはある意味不可能なことです。聖書の言葉と聖霊のお働きを通して、私たちは自らの至らなさや罪の性質を知らされることも多いでしょう。そこで、どちらの木を選び取っていくのか。それは私たち一人ひとりの自由な意志に委ねられているのです。
だからこそ、十字架の贖いの主イエスのもとに謙虚に、謙遜に、大いなる赦しを乞い求めて、主の深い愛と憐れみ立ち返って生きることが必要なのです。

エデンの園に植えられた「命の木」は、イエス・キリストの救いの木、贖いの木を表しています。神は私たちが虚しく滅びることを許さず、神に祝福された存在として造られた者としての関係が取り戻され、回復されるためにイエス・キリストなる命の木をこの地に植樹してくださったのですね。私たちは神さまとのそういった信頼関係、命の交わりがこのイエス・キリストによって回復されるのです。
エデンの園・喜びと平安のパラダイスに通じる道。
この救いの道を主と共にあゆんでまいりましょう。今週もこのみ言葉を携えて、ここから遣わされてまいりましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

圧巻の歌声はまさに祈り!

2017-07-18 21:44:37 | 巻頭言
7/18ゴスペル音楽会 in OSAKAに参加して、

ゆかり☆ゴスペルさん主催による「ゴスペル音楽会」が開催され、先ほど終った。

今回は特にアメリカからCharity Lockhartさん(ゴスペルシンガー)&Drene Ivy(Piano) をゲストに迎え、
本場のゴスペルを聴くことができた。チャリティーロックハートさんの歌声を初めて生で聴いたが、
その歌声は礼拝堂正面の十字架、さらに天にまで突き抜けていく、まさに祈りそのもの、鳥肌が立った!
Drene Ivyのピアノもアレンジ、ジャズ、引出しがが多彩だけでなく、熟練されたホンマモン!
コンサート後、お二人とハグしてもうた。国は違っても神さまの家族、感動、感動!

素敵な出会いと感動をありがとう m(_ _)m

また、ゆかりさん&チャリティーロックハートさんのデュオも最高でしたわ。
途中、ロックハートさん自らが聴衆に発声指導し、共なる実演もあり、これ又ユニーク-だ。

住吉さんのギターは相変わらず切れ味がよかった。
足立学さんのパンチのある歌声、心に響きました。

T・S


2017年7月18日(火) 第1部午後4:30〜、 第2部午後7:00〜
出演者:Charity Lockhart( ゲスト )
    Drene Ivy(Piano)
    ゆかり☆ゴスペル
    足立 学
    住吉健太郎 (Guitar) 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間の創造意義

2017-07-16 14:34:14 | メッセージ
礼拝宣教 創世記2章4節b~25節 

先週の創世記1章では、神が地のあらゆる草木をはじめ、あらゆる動物を御言葉をもってお造りになられた。そして、人を神ご自身にかたどってお造りになったという記事を読みました。
そこで描き出される人間は、すべての被造物の中の一員であるとともに、人がその全被造物の中でどのような目的をもって造られたかということが明示されていました。
28節にあるように、人は地に満ちて地上を治める動植物を管理する存在としての祝福を受けている。そういう聖書からのメッセージでありました。

そして今日の2章では、ではその「人間とは如何なるものか」ということについて説かれています。それはまた後ほど詳しくお話するとして。9節を見ますと、その人間の主である神は、エデンの園をもうけ人をそこに置かれたとあります。
1章で人が神の創造の秩序に従って地を管理するものに命じられたの同様、この2章においても神は、「人をそのエデンの園に住まわせて、地を耕し、守るように」命じられます。ここで人に具体的生きる日常の場所が備えらるのです。

エデンとは、へブル語で「楽しみ」や「喜び」という意味があります。ギリシャ語では「パラダイス」(楽園)で、その名のとおりエデンには人が生きる喜びや楽しみがあったということです。4つの川の源であり、その肥沃な地、豊かな鉱物や食べ物があり、多くの生き物が共生共存していたエデンの園。
そこで初めの人アダムは、土を耕し、地を守っていくという使命が託され、その報酬として余りある程のゆたかさがあったのです。

以前私が住んでいた九州の教会には畑があり、そこにナスやキュウリ、イチジクの木を植えていました。私はもっぱら食べるばかりで、たまに水をやる程度でしたが。それでも時々土に触れ実のなっていく様子を眺めるのは楽しいことでした。土いじりは何でもいやしの効果があるそうですが。まあ、そういう時人はDNAというか、意識の深いところでエデンの園にいた時のことを思い出すのかも知れません。

いずれにしても、農業や菜園においてまず何より大事なのは、地を耕して命ある種や苗が育つためのよい土壌を作ることだそうです。そして水をやり日光に気をつけて肥料をやって守ってゆく。そのように「地を耕し、守る」。そのことに心と体を使っていけば、それだけの報いがあるでしょうし、逆にそれを怠たるなら、実りも限られたものとなるでしょう。しかし昨今の異常気象の猛威には人は為す術もありません。それも、地を治めることよりも経済効果や効率を最優先にしてきたつけが回って来ているのかも知れません。地球温暖化、乱獲、大気汚染もそうでしょう。
「神は人をエデンの園に住まわせ、人がそこを耕し守るようにされた」のです。
神から管理を委託されたこの大地をどのように耕し、守っていくか。その真価が今日の時代問われているように思えます。

さて、16節以降を読みますと、主なる神は人に命じて「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると死んでしまう」と言われます。

すべての木から取って食べる自由があるなら善悪の知識の木からも取って食べてもいいじゃないか。そう思う人もいるかも知れません。
けれども、エデンの園の所有者は一体誰でしょう。それは人ではなく天地万物の主なる神さまであります。そのお方が人にあらゆる恵みの賜物を与えておられる、それはただ神の一方的な恵みによるものです。
にも拘わらず、人は自分がまるでそのすべての所有者であるかのように地をむさぼり、人が神の恵みの賜物によって生かされているということを忘れ、管理者としての使命を次々と投げ出していくとき、人類は自ら招く状況に直面することになっていくことを、私たちはもはや寓話としてでなく現実の事柄として捉えているのではないでしょうか。

さて、では今一度人間がそのあるべき原点に立ち返っていくには、どうしたらよいのかということを聖書から聞いていきたいと思います。

それは6節にありますように、神は地を潤され「土のちり(アダマ)で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられる」ことで、「人は生きる者となった」とあります。
人は大地の一部である「土のちり」から造られたんですね。人体が29種類の元素からなっているのは知られていて、それはすべての土の中に含まれているものという事です。最近火山付近の泥の成分が人の細胞内の環境に非常に似ているという発見がなされたそうですが。いずれにしても、人はやがては死にその体はちりとなって大地に帰ります。
詩編103:14-16には「主はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを御心に留めておられる」と記されてあるとおりです。そのようにもろい土の塵でもって人は形づくられたわけです。
しかし大事なことは、「その鼻に、神が命の息を吹き入れられると、人は生きる者とされた」ということですね。神の息によって「生きる者」となった。ここが重要なのです。それが
草木のような他の被造物と異なっているのです。

人は神の命の息が吹き込まれることで、神の霊を受けて生きる存在なのです。それは初めのアダムのみならず、すべての人は神の命の息を吹きこまれて生きる者されているのです。赤ちゃんが始めにする仕事は羊水を吐き出すことですが。すると肺に空気が流れ込んで肺を満たし呼吸が始まります。命の息が吹き入れられるのです。
因みに、人が死ぬ時には、「息を引き取る」と言いますが。これは息が神のもとに帰るということです。コヘレトの言葉(伝道の書)12章7節には「塵は元の大地に帰り、霊(息)は与え主である神に帰る」と記されています。
私どもにとって根源的な魂・生きる力は命の源である神さまから与えられるのです。人はその主なる神の命につながり、生かされているのであります。

さて、初めの人アダムは、エデンで土を耕し、守っていくという仕事があり、その報酬としては余りある程の食物がありました。何の不自由もないはずでした。しかし、主なる神さまはアダムをして「人が独りでいるのは良くない」と言われます。
それは、人にはやり甲斐ある仕事とゆたかな報酬だけでは満たされない根源的な欠乏があったということです。神はアダムが孤独であり、自己完結している様子をご覧になって、良い状態ではない、とおっしゃったんですね。

そこで神は、「彼に合う助ける者」こそが彼に必要だとお考えになり、人と同じく土で形づくられた野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を人のところへ持って来られて、人がそれぞれに名をつけて呼ぶのをご覧になられますが、人は「自分に合う助ける者を見つけることができなかった」のです。

時代は変わりますが。旧約聖書のイスラエル王国の時代にソロモンという王様がいました。彼はダビデ王の子でその王位を継ぎ、世の宝、名声すべてを掌握したような栄華を極めた王となります。しかし彼はそう言う身でありながら、なおも満たされ得ない魂の渇きと、孤独を経験したのです。ソロモンが書いたとされる「コへレトの言葉」を読んでみますと、そのことがよくわかります。

礼拝の招詞として、その4章8節以降が読まれました。
「ひとりの男があった。友も息子も兄弟もない。際限なく苦労し、彼の目は富に飽くことがない。「自分の魂に快いものを欠いてまで 誰のために労苦するのか」と思いもしない。これまた空しく、不幸なことだ。ひとりよりもふたりが良い。共に苦労すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。更に、ふたりで寝れば暖かいが ひとりでどうして暖まれようか。ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する」。

アダムは「助けるもの」を他の生き物からは見出せませんでした。やはり人の根源的欠乏を補い助けるのは人であるということで、神はアダムに合う助け手となる人をお造りになります。
それが21節以降のところです。「主なる神は、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた」。

ここで注目したいのは、神は人に合う助ける者を、他の生き物のように土のちりからではなく、人のあばら骨の一部から造られたということであります。
なぜあばら骨からだったのか、頭や手足の骨であってもよかったのではないかとも思いますが。以前にも申しましたが、それは古くからあばら骨のある胸には「愛情の宿るところがある」とか「魂のやどるところがある」と信じられていたからです。
神はその胸のあばら骨の一部を抜き取って女を造り上げられ、人に合う(ふさわしい)助ける者として、彼に出会わされたということであります。
それは、人に楽しみや喜びを、それだけでなく又労苦や悲しみといった感情を分かち合ったり、共感することのできる存在、そういった助ける者が必要であるということを物語っています。

今日のこの24節の個所は、結婚式のときによく読まれるところでしたが。
確かに、人にふさわしい助け手として男と女の婚姻について述べていると読めます。しかし、人に合う助ける者とは結婚や婚姻に限ったことだけではありません。
先に読みましたコヘレトの言葉でも、友情とか友愛についても語っていましたが。ましてや私たちは主イエスにある救いの自由に生きているのですから、助け手となる人は多様な存在であり、多様な関係の中にある、と読んでよいと思います。

人間らしさとは、まさに自分と違いをもった他者と違いを越え、相互に認め合い、支え合い、助け合うことのうちに確認できるものでありましょう。一緒に笑い、一緒に泣いて、一緒に喜び合う。そうした時私たち人間は生きている、又、生かされていることを実感できるのだと思います。

助ける者(ヘルパー)といえば、何か手伝いや助手のような響きがあり、助ける側と助けられる側といった固定した関係を思いがちです。けれども、ここで主がおっしゃった「助ける者」とは、ただ一方通行の「~してあげる」「~してもらう」というような関係や従属の関係ではありません。それは相互が助け合うパートナーという意味の関係なのです。
「私は強いから大丈夫、自信がある、人の世話になんかならんでよい。自分で生きてていける」という人。「お金さえあれば何とかなる」という人も世の中にはおられるかも知れません。果たしてそうでしょうか。どんなに強気であっても、病や事故、人の危機はいつ起こるかも知れません。そういう自分の力や持てる物ではどうすることもできないような状況になったときに初めて、人は何ともろくはかない者かと思い知らされるのです。
「人は独りでは生きられない」。そのことを主なる神さまは最初からご存じです。
だからこそ、その弱く、もろい者同士が互いにつながり、助け合っていく、そこに人間の営みのゆたかさと平安が生まれていくのですね。人はそのように造られているのです。

最後になりますが、私たちはここで決して忘れてならないことがあります。それは2章全体に「主なる神」と記されたお方との関係であります。
土くれから造られ、、神さまご自身の息・霊を吹き入れられた。そうして単に生物的に生きるのではなく、霊的存在として生きる者とされた私たちです。その命の霊なる神さまとの交わりを日々絶やすことなく生きることが、本来のあり方なのです。

先に読んだコへレト4章8節以降に「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い」と友愛への賛辞が書かれていますが。その後になぜか「三つよりの糸は切れにくい」とあるんですよね。
二つの糸というのはわかります。それは先ほどの「人に合う助ける者」として、人と人とが寄り添い、つながって生きる、いわば絆ともいえる関係性です。
ではもう一本の糸とは何でしょうか?実にそれこそが、人の命の源である主なる神さま、救いの主なのです。「三つよりの糸は切れにくい」。「人間の創造意義」の源がここにございます。
今日この祝福された関係性を今一度それぞれが確認し、この福音を伝え、証する存在としてまたここから遣わされてまいりましょう。
祈ります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あの、チャリティーロックハートさんを迎えて!

2017-07-13 11:17:53 | イベント
ゴスペル音楽会 in OSAKA

2017年7月18日(火) 第1部午後4:30〜、 第2部午後7:00〜
出演者:Charity Lockhart( ゲスト )
    Drene Ivy(Piano)
    ゆかり☆ゴスペル
    足立 学
    住吉健太郎 (Guitar) 

ゲスト・出演者の紹介は日本バプテスト大阪教会HP 
    に掲載しております。http:obcs.jimdo.com ご覧下さい。

 
スケジュール:
    第1部:PM4:30 ~ママ&キッズ歓迎のコンサート(openPM4:15)     

    第2部:PM7:00 ~ボーカルワークショップ&コンサート(openPM6:45)
         (約 1 時間イベント、ティータイム少しあり)
 
チケット:
    前売 2,500 円 / 当日 3,000 円(1部、2部入れ替え制)
    親子チケット:3,000 円(大人1名と小学生以下のお子様)
       ※兄弟含め親子チケット1組で受付

    問い合わせ窓口&予約:yukarigospel@hotmail.com
http://www.facebook.com/yukarigospel/
(お名前・チケット枚数をお知らせください。*定員がございますのでお早めにご予約ください)


主催:ゆかり☆ゴスペル 協力:YOSHI BLESSED MUSIC
 
会場:
    日本バプテスト大阪教会 ( 大阪市天王寺区茶臼山町 1-17)
    天王寺駅 ( 天王寺駅あべちか6番出口 ) より徒歩 7 分 

    お車でお越しの方は駐車場は有料ですが、特別割引(半額)といたします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神の安息に与って生きる

2017-07-09 20:00:27 | メッセージ
主日礼拝式 創世記2章1節~3節 

ご存じのとおり今九州の広範囲、特に先週からの記録的豪雨により福岡・大分地方に甚大な被害が生じております。被災者やそのご家族を思いますとき本当に心が痛みます。私は丁度水曜日の夕方、関空から飛行機で福岡空港に向かっておりました。北部九州に近づくと、もの凄い雨雲が次々に行く手を遮り、機体が今まで経験したことのない揺れに見舞われ、気圧の関係でしょうか、機内のすべての上部からは何やら白い冷気のようなものが出ていまして、まあ大変な思いをしましたけれども。着陸してから、その時福岡・大分地方では記録的豪雨であったことを知らされました。まあ昔からこの時期は雨が降るときに豪雨もあるわけで、それは又、自然や農作物にとっては恵みの雨であり、自然の災害が起こりましても、これほどまでの甚大な被害をもたらすようなことは頻発しませんでした。皮肉にも全国の梅雨の雨を必要としているところには雨が降らず、農作物に影響が及んでいるようです。こういった梅雨も吹っ飛ぶような集中豪雨は、地球の環境や生態系がなにがしか崩壊してきているシグナル(信号)なのかと思えます。
以前から多くの学者らが警告してきた自然破壊による変化がとうとう私たちの身近にまで迫ってきたということなのかも知れません。
人が自分たちの利益ばかりを追求し、経済を最優先にしてきた結果、大気は汚染され、温暖化に伴う異常気象が生じてきていると知らされる時に、先週丁度、天地創造の記事を読みましたが。人間の存在意義そのものが今一度問われているということを思わされます。神の創造の御業において、神ご自身に似たものとして造られ、この地を治めるようにと任命された人間。私たちもその一員であることを覚えつつ、今日の聖書のメッセージに耳を傾けていきたいと願います。

さて、本日は創世記2章1-3節の短い箇所より「神の安息に与って生きる」と題し、
イスラエルの二つの時代、捕囚の時代と出エジプトの時代、そして主イエス・キリストにある今の私たちと、順を追って御言葉に聞いていきます。

この箇所で知らされるのは、2節にあるとおり、「第七日の日に、神は御自分の仕事を完成された」という点であります。
それまでの6日間に亘る仕事によってすべてが完成されたのではないのです。
2節後半にあるとおり、「第七日の日があって、そこで神はご自分の仕事を離れ、安息なさった」ことによって、天地万物は完成します。単なる休みとか間ではないのですね。
ここから安息日という規定ができていくわけですが。
先週申しあげましたように、これらの記述が伝承から書物に編纂されたのは紀元前6世紀のバビロニアの捕囚以後においてでした。
おさらいになりますが。イスラエルの民が神に背きの罪を繰り返す中、遂に強国バビロニアによって国が滅び、その一部が異教の地に捕囚として連れられていきます。暗黒の地で彼らは、深い悔い改めの中から信仰を呼び起こされていくのですね。
そうして主に立ち返る中、彼らが異教の地で守り行なうことがまあ唯一できた信仰の表明、それが、安息日を覚えてこれを守り、主を礼拝することだったのです。まあ、ここから体系だったユダヤ教が確立されていくのでありますが。

異教の地の神ならざるものを崇めていく人々の中にあって、生ける真の神、無から有を造り出したもう創造の神を礼拝することは、彼らにとって文字通り安息の日となったことでしょう。又それは、自分たちが神の民であること、自らのアイデンティティーを確認する大切な日であったでしょう。
そのルーツと申しましょうか、原点は、今日読みました創世記2章1-3節、神ご自身がその仕事を離れ、安息なさることによって、創造の業が完成した。「神はそれを特別な日として祝福し、聖別された」。そこに、あるのですね。

さて、もう一つ、今日の短い箇所で「仕事」という言葉が3度も出てまいりますが。そこから見えてくるのは、エジプトの地で奴隷とされ、苦役の労働を強いられたイスラエルの民の姿です。不当に働かされ、どれだけ仕事をしても終わりなく、肉体も精神もぼろぼろになっていく苦痛を経験した彼ら。

出エジプト3章で、神はモーセに言われます。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫びを聞き、その痛みを知った」。そうして神はモーセをその指導者として立て、出エジプトという奴隷からの解放を遂行なさるのです。
神はイスラエルと契約を交わし、シナイ山で十戒をお授けになるのですが。その序文には「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と述べられいます。その十戒の中に「安息日に関する」戒めがございます。
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。6日の間働いて、7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。6日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、7日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」。
申命記5章12節以降には、さらに加えて「そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守りように命じられたのである」と記されています。
このように安息日は、まず仕事の手を止めて、自ら「神の民」として導きたもう主を礼拝する日であるということは言うまでもありませんが。それは又同時に、あなたが仕事を止めることによって、労働や仕事を強いられている奴隷である人も安息させることになる、ということです。
先週ニュースで、残業を無くしオーバーワークを防ぐため終業時間が近づくとパソコンが警報音を鳴らし、3回警告しても切らない場合、強制的にシャットダウンされてしまうという方策をとるようになったある大阪府のとある役所の様子が映っていましたけども。まあそんなことまでしなければならないほど、人間というのは、特に労働時間がお金に換算される時代に生きる私たちは、意識して、体も心も休まなければ働いてしまい、又、働かせてしまうものなのだなぁと思います。人が人らしく生きていくための休息はやはり必要であります。けれど一方で、それが単なる一休みであるだけでは本来の生きる力を取り戻すことになるのかどうか。実に多くの現代人が日曜夕方から月曜にかけて憂鬱な気分と不調を訴えるのはよく知られていることですが。単なる休息ではなく、本物の安息に与るためには、「人のいのちの源である生ける神、主に立ち返る」。魂の憩いといいますか、そのようなときが必要だと思います。
それが始めに申しましたように、7日目の安息日があって完成ということの中に込められている重要なメッセージなのかという思いがいたします。

私たちキリスト者にとって、旧約聖書の安息日はこの日曜の主の日です。
それは、罪の奴隷であった私たちに解放をもたらすため、私たちの罪の身代わりとなって自ら十字架にかかり死なれた主イエスさまが、その死より復活された記念の日だからです。それは又、死の滅びから解放を告げる記念の日でもあります。私たちはこの日を特別な日として取り分けて、神に礼拝を捧げています。
それは何か強制されたり、強いられたからではありません。
捕囚時代のイスラエルの民がそうであったように、私たちは神の民とされた自分のアイデンティティーを確認する日として、この日を取り分けます。これが聖別の意味です。

又、キリスト者は、出エジプト時代のイスラエルの民がそうであったように、救いの解放の喜びを思い起こす日としてこの日を聖別します。
罪の身であるこの私の身代わりになって主イエスさまがその裁きを受けて、私の罪を贖い解放して下さった。この滅びと死の隷属から解き放たれて生きる感謝と喜び、賛美と献身を、私たちは、この礼拝でささげることができる。それは私たちの魂に本物の安息、人本来の安息を与えてくれます。本当に感謝であります。
教会には様々な事情から日曜の主日礼拝(最近は夕礼拝もできましたけれども)に集いたくても集えない方もいらっしゃいますが。そのような方々を主は覚えて下さり、「わたしは安息の主である」「わたしはいつもあなたがたと共にいる」と約束が与えられて
いることも幸いですね。

さて、最後になりますが。
神さまは6日間お造りになられ、「良し」としてこられたすべての仕事をそこでご覧になられ、「見よ、それは極めて良かった」と絶賛されるのです。
それは神のお造りになられたものが、共につながり、相互に支え合い補い合いながら、
秩序と美しさに輝く世界であったからですね。
2章1節の「天地万物は完成された」、又2節の「神は御自分の仕事を完成された」の
この「完成された」には、『共に』という前置詞が実はあるそうです。いつもギリシャ語70人訳聖書を読んでおられるSさんからこのヒントというかご指摘を頂いたのですが。ここが重要だと思います。つまり天地万物の完成は、恐れ多いことですが。神さまだけによってなさるものではなく、いのちをもったもの皆が、一緒に神の創造の完成に参与するものとされている、ということですね。
神さまは7日目に仕事を離れて、すべての造られた命あるものが共につながり合い、支え補い合いながら生かされている創造世界の様子をご覧になって安息され、その日を祝い祝福し、聖別なさったのです。

私たちは今日、この主の日に礼拝に与ることができる、それは本当に感謝なことであります。同時に、この私たちの礼拝が、自分だけのためでなく、自分以外の他者の安息と
安らぎにつながっていくことを、他でもない主が願っておられます。

ローマの信徒への手紙8章21、22節に「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」とあるとおり、この世界中に救いと解放の安息の日がもたらされますよう、祈りつつ、今日もここから遣わされてまいりましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夕べの礼拝へのご案内

2017-07-07 10:05:15 | 教会案内
7月9日(日)夕方午後6時ー7時半


これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金はあります。
 お車でお越しの方は、ご一報ください。

日本バプテスト大阪教会
電話 06-67771-3865
メール obcs@nifty.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創造主の造られた世界

2017-07-02 13:08:38 | メッセージ
主日礼拝式 創世記1章1節~31節 

本日より8月末までの2ヶ月間、礼拝ではユダヤ教の聖典でもある一番はじめのページとなる創世記から御言葉を聞いていきます。先ほどは「天地万物の創造のはじめ」、そして神の創造の1日目から6日目までが丁寧に読まれました。
開きながら、たった6日間でそんなことが成るのだろうか、と疑問も生じたかも知れません。ダーウィンの進化論との矛盾をお感じになった方もいらっしゃるでしょう。その点については現代の科学的見地からも諸説あるようです。ただ、以前にもお話したように、創世記は神の創造物語と進化論を対比して、どちらが正しいのか間違っているのかということを議論してはっきりさせるために書かれたものではありません。重要なのは、この世界を創造され司っておられる「存在なさるお方がおられる」ということです。そして神はすべてのものを、「良し」と肯定的な存在としてお造りになっておられるということです。

この創世記が編纂されたのは、紀元前6世紀頃のいわゆるユダヤ教が成立する時期であります。
それは、イスラエルの民が神に背き罪を繰り返す中、遂に神の審判が下り、強国によって国が崩壊し、民の一部がバビロニアの捕囚とされてから暫く後のことです。
異教の地での絶望的な日々の中で、彼らは人のおごりの虚しさと神の秩序なき混沌とした世界の虚しさを見たのです。今日の創世記1章2節で「地は混沌であって」というのは、そういう神なき世界のさびしい現実が重ねられているのですね。
翻って、今私たちがおかれたこの世界を見るとき、益々複雑化していく社会の現状を思いますとき、私たちも又、この「混沌」を覚えずにいられないのではないでしょうか。

そのように「地が混沌である」にもかかわらず、同じ2節に「神の霊が水の面を動いていた」とあります。
その混沌の只中に、神の霊が動いていた。
この動くという語源には、「卵を抱く、羽ばたく」といういう意味があるそうです。
神がこれから新しいことはじめられるダイナミックな力がそこに充ち満ちていたということでしょう。
世界を創造したもう神は、どこであろうとも、どんな混沌とした状況であろうとも、
無から有を起こしになられるダイナミックな力あるお方なのです。
神なき世界に捕囚とされたイスラエルの民は、そのすべてを統めたもう神への信仰をかの地バビロニアにおいて再確認していくのですね。そうして創世記は書物という形にまとめられていくのであります。

さて、創造主なる神は、混沌とした世界を、神の秩序にそって創造なさいます。
第一日目。神は言われた。「光あれ」。こうして、光があった。ここを読むと私はビックバンとか、超新星の爆発なんかが頭に浮かんでくるんですが。何より混沌とした中の光に命とか希望が見える気がしますね。
そして、二日目の大空の創造。三日目の海と陸地の創造。四日目には月、太陽、星の創造と軌道が定められ。五日目には魚、恐竜でしょうか大きな怪物、うごめく生き物、鳥の創造。さらに六日目になりますと、地の獣、家畜、這うものの創造が続きます。注目すべきは、それぞれが創造された後で、「神は見て、良しとされた」と、一回一回書き記されていることです。神の御意志によって造られたものみな、神がその一つひとつをご覧になって、良し、とされるものであるということです。無駄なものは一つもなく、失敗でもない。すべて神に良しとされている。良しという言葉には「美しい」という意味があるそうですが。そんな神の御手の業は何と美しい世界。(週報の表面に詩編8編の一部を記させていただきましたが。
その4節に「あなたの天を、あなたの指の業を わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものでしょう。」神の御手の業は何と美しいものでしょうか。

ところが6日目になさった私たち「人の創造」については、少し状況が異なっています。
26節からのところです。
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」。

まず注目すべきは、神が「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と仰ったということです。これは他の被造物とは明らかに異なっています。
人はただ存在するだけでなく、神との交わりをもつ、汝と我という関係を有する者、対話する者として人を造られたということがここに示されています。
又、神は男だけではなく、女も造られた。
それは異なる区別というより、異なる存在、違いを持った他者として、男と女をお造りになられたということであります。そういうそれぞれの違いや特性、多様なあり方で、助け合い、互いを生かす存在として造られた。
神と人、人と人との関係性をもつ存在としてお造りになった。これが「我々に似せて」という言葉の示すところです。

最近コミュカとか言って、コミュニケーションに関する本がよく売れているそうです。確かに学んだりすることも現代社会で生きていくために有益かも知れませんが。何よりも人は、神との関係性、そして誰もが本来互いを必要とする関係性の内に造られていることを認め合うことで、人間本来の平安や幸福感が得られるのではないでしょうか。

神は人を創造された後、「良し」と他の被造物のようにおっしゃるのではなく、「彼らを祝福された」とあります。祝福して『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這う生きものすべてを支配させよう』とお命じになるのです。
この「産めよ、増えよ、地に満ちよ」は、五日目の魚や鳥やうごめく生き物に対しても同様におっしゃっているのですが。ただ、それら動物、生き物のすべてを地に従わせ、支配するのは、人だけに与えられた祝福なのですね。
まあ、普通、支配するとか、従わせるといいますと、何か力づくで思うままにするようなイメージがあります。しかしここで言われているのはそういうことではなく、神の創造の「良しとされた世界」を守り、維持していく、もっといえば積極的に参与していくということであります。いわば神の創造の御業の良き管理人として生きるということであります。スチュワードシップにも相通じるメッセージなのです。

今日こうして韓国より伝道チームの方々が、自らを捧げておこしくださいました。この日本がかつて近隣諸国に与えてしまった大変な苦しみとその罪を思う時、どれほど憎まれても、恨まれてもいたしかたのない事であります。それが、主イエスによって神との関係性か回復される中で、様々な人の思いを超える和解の愛とゆるしが与えられていることに、今日私は心から感謝したい気持ちでいっぱいです。

さて、29節以降で、神は6日間に亘る創造の後に、人間に食べ物を与えられます。
神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる」。

人間は当初は野菜や木の実が食べ物であったということです。まあ26節に「家畜」もあたえられたとありますことから、農作業等の労働のための家畜であったようですが。そのうち、その乳を飲んだり、チーズやバター作り、食べるようになっていったのかも知れませんが。
肝心なのは、神さまがただ口先で人を祝福されたのではないということです。つまり、人が地に生じたものを、神の定められた秩序に従って管理し、治めて生きる時、
人はゆたかな実りと食物とを得、喜びと楽しみに満たされるのです。ここが大事です。
しかし、今のこの世界を見渡した時、その神の定めた秩序が軽んじられて来た結果として、あらゆる種の命が脅かされて来ましたし、今もそうです。沖縄のジュゴンもそうですね。環境の破壊がもはや人の力では取り返しのつかないほどになってきているのを見ています。人が神の愛を忘れ、自らの欲望を満たすため、生き物や自然を思うままに貪り、搾取し、破壊してきたそのつけはやがて人間に跳ね返ってくるのであります。
大切なことは、私たち人類が神の前に畏れをもって立ち返り、欲望や自分本位の生き方から転じて、造り主なる神から与えられた本来の目的に従って生きることです。
神との和解、人との和解、国々の和解、そしてこの世界の和解もまた。
私たちは主イエスによってそのために祈り執り成し続ける重要な役割と務めを委ねられているのです。

神はお造りになったすべてのものをご覧になって、「見よ、それは極めて良かった」とおっしゃいました。
その意味は、第一日目から6日目までに創造主によって造られたすべての命が神にあって互いにつながり、補完しながら生き、生かされているその状態が、極めて良い(美しい)と絶賛されたのです。
この美しい世界がこれからも神の栄光を映しだすものであるように、共に祈りつながりあって生きるように、今日もここから遣わされてまいりましょう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする