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花言葉:追憶・慰め・わたしを忘れないでー長居公園植物園
礼拝宣教 マタイ27・45-56 受難週
宣教音声⇒https://drive.google.com/file/d/14A3j4NvjsHF-xK4d_xBPhiNk5Ue0hDaT/view?usp=dri vesdk
今日から受難週に入りました。本日は教会歴で棕櫚(しゅろ)の主日とか、パームサンデーと呼ばれる、主イエスのエルサレム入城を覚える日でもあります。ここから始まる主イエスの十字架の苦難とそこに現される神の愛をこの一週間共に覚えてまいりましょう。
本日は、主イエスが十字架にかかって大声で叫んで息を引き取られた記事から、「神の子の叫び」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
聖書は、主イエスが十字架にかけられてから「昼の12時に、全地は暗くなり、それが3時まで続いた」とあります。お昼というのに全地が暗闇に覆われた。それはユダヤの地だけを指すのではなく、全地、いわば全世界を表す言葉が用いられています。―全世界が暗闇に覆われたー。
今、全世界はコロナ禍や相次ぐ災害、経済の混迷などからくる恐れや不安の中で多くの人が、「昼というのに暗闇に覆われている」、そのような感覚に捕らわれておられるのではないでしょうか。実際生活の困難や生きづらさにうめく人が日増しに増えています。
そのような中、先日ミャンマーにおいて、家まで押し入ってきた軍の銃弾によって父親の膝にのっていた何の罪もない7歳の女の子が亡くなったという痛ましい報道がありました。分断や不当な暴力や搾取といった闇が世界を覆っているような気がいたします。
旧約聖書の預言者アモスは「その日が来ると、と主は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ/白昼に大地を闇とする」(8章9節)と語り、それはメシア(救世主)の救いの完成に際しての現象と伝えているのです。具体的にそれは、神の子であるイエス・キリストが十字架にかけられ、その苦難と死という闇を通って実現されるということであります。
主イエスは3時ごろ、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)、と十字架から大声で叫ばれました。
この「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と主イエスが絶叫された事を取りあげ、「神の子ならあんな無残な死に方をするはずはない」とか。「十字架で見捨てられ敗北者となったのだからメシアではない」と、この十字架につまづく人たちが古今東西いるわけです。
それはイザヤ書53章4節に「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と」あるとおりです。けれども続く5節には「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とあります。まさにこの主イエスの十字架にこそ神の救いのご計画があるのです。
ただ、それにしても主イエスが十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てにったのですか」と、絶叫なさったのはなぜでしょう。
まずわかるのは、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫するほどに苦しみ痛まれたということです。拷問を受け、茨の冠を押しつけられ、ひきずり回されながら十字架を担ぎ、釘で手足を打ち付けられて磔にされる主イエス。
そこには、私たちの苦しみや痛みを御自身が体験なさるというまさに神のお姿、神共にましますという愛を体現なされているのであります。
ここで主イエスの「エリ、エリ」という叫びを聞いた人々は、エリヤを呼んでいると言う者もおり、その一人が「海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒をつけて、イエスに飲ませようとし」、他の人々は「エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言ったとあります。それは主イエスの痛みを和らげるという同情からではなく、主イエスが自分から延命を望んでエリヤの助けを求め、エリヤが助けに来るかどうかを試すためにそうしたのです。
けれども主イエスはそれを受け取られなかったのです。その痛みと苦悩をどこまでもご自身に負われ、そして遂に「再び大声で叫び、息を引き取られた」のです。しかもそれは、「神よ、なぜですか」、という問いかけに対して神の答がないまま、最期までその痛みと苦悩を身に負って死なれたのです。主イエスはとことんまで私たち人間のもっとも深いところで、「なぜですか」という以外ない苦悩をも共に負って十字架におかかりになったのです。
この主イエスの十字架上の叫びは、私たちのなぜなのか、どうしてなのかといった深い苦悩や痛み、又、不条理ともいえるような死までもご自身共にされるのです。まさにインマヌエル、神が共にいたもう。ここに私たちの救いがあるのですね。
主イエスがそのように息を引き取られた後、63節「そのとき(原語では「そして見よ」と感嘆詞)、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が避け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」とあります。
「神殿の垂れ幕」は、ユダヤ人、ユダヤ教徒にとりましては大変大事な聖所と至聖所とを仕切るもので、一年に一度大祭司だけがこの垂れ幕の奥にある至聖所に入ることが許され、ユダヤの民のために贖罪のとりなしの務めをささげました。神殿は女性、こどもは前庭まで、男性は少し奥まで。たとえ特別な立場の人でも至聖所に入ることはできません。異邦人に至っては神殿の隔ての壁の外までです。垂れ幕は見る事さえできなかったのです。
ところが、主イエスが十字架上で絶叫なさって壮絶な死を遂げられた後、この隔ての垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたというのです。
それはまさに、新しい時代の幕開けでした。主イエスの十字架の贖いによって、ユダヤ人だけでなく、世界のすべての人、異邦人も男も女も、こどもであっても分け隔てなく、罪のきよめと救いの御座に近づく道が開かれたのです。
そのことについてはヘブライ人への手紙に幾つかのことが記されています。
9章11-12節「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたものではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自分の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」。
10章19-20節「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」とあります。
そのように、主イエスの十字架の贖いの死を通して、全世界のすべての人が求めるならば、だれであれ主の深い御憐れみによって神のおられる聖所に入り、罪贖われた人として日毎に新しい人生を歩むことができるのです。
さて、今日のところではさらに、「眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そしてイエスの復活の後、墓から出て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」という不思議な出来事が起こります。
主イエスの十字架刑を実際に執行したローマの百人隊長と兵士たちは、地震やそれらのいろいろな出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言ったとあります。
この恐れとは、「本当に神の子であった主イエスを十字架にかけて殺害した」という恐れでありましょう。神を恐れず人を人とも思わないローマ兵に神への恐れを起こし、救いに招かれる主イエス。これこそ神の御業なんです。
聖書にはまた、「そこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた」とあります。この女性たちはガリラヤからずっと主イエスに従って来て、主イエスと弟子たちの世話をしてきたのです。
彼女たちは至聖所に入ることなど許されていなかったのです。しかし、彼女たちこそ主イエスの苦しみを自らのものとして苦しみ、泣き叫び、後には主イエスの復活の喜びと救いの恵みに与り、主イエスの救いの証言者へと立てられていく、神の前に幸いな人とされていくのです。
本日は、主イエスが十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫んで最期を遂げられた、「神の子の叫び」を思う大切な時を与えられました。主イエスが十字架上で絶叫されながら最期を遂げられたお姿は、このわたしのためであった。わたしたちのためであった。その神の愛の叫びであった。そのことを深く知らされました。
先日ある大阪市内のプロテスタントの教会をお訪ねする機会がありました。礼拝堂の正面にはわたしたちの教会と同様十字架があるのですが。その教会の十字架にはイエス・キリストが磔にされたままの状態でした。それは東方教会の礼拝堂や聖壇を取り入れておられるということでした。キリストの弟子たちの肖像画入りの聖具類もあります。
牧師がおっしゃるには、「神の救いを伝えるのは御言葉の宣教という仕方だけでなく、キリストとその弟子たちのお姿を目で見て、身近に感じられることが大切だなあと思う。
それについては東方教会から学ぶことが多い」ということでした。「特に言葉で理解することの難しい方には、十字架に磔にされたままのイエス・キリスト、又、その弟子たちの肖像をモチーフにした聖具に触れることを通して、ダイレクトに神と出会い、神を拝し、安らぎとなっている」ともおっしゃっていました。
プロテスタントの教会は神の御言の宣教を大切にしてきました。どこかそういった絵や肖像を偶像とならないように排除してきたてらいがあると思うのですが。確かに心疲れ、じっくりと説教を聞くことさえしんどい時、十字架に磔にされたままでいらっしゃる神の子、イエス・キリストを見ると、神が私と共にいてくださる!共に叫んでくださる!そう信仰を呼び覚まされることもあるでしょう。
私たちの礼拝堂の十字架には、目に見えるところでのイエス・キリストは磔にされていませんが。しかし私たちは日々、私たちを救う神が、私たちの罪のため、私を贖われ、ゆるすため、今も十字架につけられ給いしままなるお姿で叫び、とりなしておられることを心に刻みいと願います。
神の愛を知る人の悔い改めと砕かれた心は、何にも優る神への捧げものであることを覚えつつ、今週もここから歩み出してまいりましょう。