日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

あなたたちの力の源

2012-10-28 11:55:27 | メッセージ
宣教 ネヘミヤ記7章72節後半~8章12節 


①「主に立ち帰っていくことから」
本日はネヘミヤ記8章のところから「あなたたちの力の源」と題し、御言葉を聞いていきます。先週の5章のところでは、城門と城壁の修復の最中に起こった凶作と飢饉をきっかけに、ユダの人々が抱える問題が明るみに出されました。それは外敵からのものでなく、貴族や役人が貧しい人々を搾取し、奴隷にしていたというユダ内部からのものでありました。ネヘミヤは「わたしたちは異邦人に売られていた同胞のユダの人々を、できる限り買い戻した。それなのに、あなたたちはその同胞を売ろうというのか。彼らはわたしたち自身に売られることになるのに。」と厳しく指摘しましたが。貧しさを強いられ、あえいでいるユダの同胞もまた、神の宝の民であり、この貧しい人たちが再び売られて奴隷の身になることは断じてあってはならない、というネヘミヤの思いからでありました。それは彼らに「神を畏れ、ゆるされて生きる」ことの恵みを思い起こさせ、その恵みに応えて生きる人生への方向転換を促したのです。

②「一人のひとのようになった」
さて、先程8章のところが読まれました。その冒頭で、「民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。」とあります。この時点で城壁の再建は終わり完成していたようですが。ユダの人々は「水の門の前にある広場」にぞくぞくと集ってきたのです。いわば青空礼拝とでもいいますか。そこに集って「一人の人のようになった」というのです。
この「一人の人のようになった」という言葉と似た言い方として、私たちは「心を一つにして」ということをよく口に致しますが。しかし、往々にしてそれは何か自分たちの思いや考えによって、一つの方向に突き進もうとするような働きかけであります。人間的な思いや考えで一つになろうとするとき、それと違う考えや思いを持つものに対して同化を強要したり、見下したり。排除していくことが往々にして起こってくるものです。力のある側が自分たちと同じようになるように強要し、又同じでないものを見下したり、排除していくといった事が起こってくるものです。人間はこういうところから戦いや分裂を起こし、それを繰り返していますが、それは古今東西の歴史が示すとおりです。昨日は連合の社会委員会の人権デ-の集いとして大正区(25パーセントが沖縄にルーツのある方がたがお住まい)のフィールドワークとお話を沖縄生まれで、旧港区で育った金城馨さんから伺いました。琉球王国が日本の支配下に組み込まれていって以来、沖縄に対して来た同化政策や分断政策、又差別や偏見について改めて学ぶ機会となりました。それは今も日米同盟のもと米軍基地を押し付け、危険なオスプレーの配備、その地位協定の米軍による暴力事件が後を絶たず。沖縄に重荷と犠牲を強いている構造は何ら変わっていません。しかしこの大正区において沖縄と大正区の方たちとの草の根レベルの交流や区民のイベントが毎年もたれ、お互いの違いを知り、認め合って共有し、共生していく一助になっているということでありました。

話を戻しますが。では、ここで聖書が「一人の人のようになった」というのは、どうなのでしょうか?注目すべきは、ここに「民」と一口に書かれてありますが。これは単なる群衆ではなく、主体的な意志をもった集団のことなのです。私たちはここで今礼拝を捧げておりますが、それは単なる群衆ではないですよね。礼拝のため、御言葉を聞くために意志をもって自ら集まった会衆であります。
すなわち、ここで彼ら自身がモーセの律法の書を持って来るように求めた、とありますように、民は「それを聞く」目的で集まった会衆であったのです。
ユダの再建として城壁の修復がなされたものの、会衆の一人ひとりは未だ生活に事欠き、敵の脅威をおぼえ、様々な問題を抱えていました。彼らは城壁にも優る堅固な砦を必要としていたのです。誰もが「モーセの律法」、すなわち神の救いの契約、そして命を得させる御言葉を必要としていました。そういう思いを一つにしていたというのが、「一人の人のようになった」ということであるのです。それは神の民として生きる彼らの本質的再建のための集会となりました。

③「礼拝のゆたかな要素」
さて、今日のこの箇所には、まずユダヤ人たちがシナゴグで守っていた礼拝の原型を見る事ができます。それは、新約の時代に時至りますキリスト教会においても継承されているもので、さらに私たちが週ごとに捧げる礼拝の中にもその要素を見る事ができます。
まず書記官であり祭司であったエズラが、民の要請によりモーセの律法の書を持って来た後、用意された木の壇の上に立って、それを読みあげた、とあります。
これは私たちの礼拝でいうところの「聖書朗読」であり、礼拝の中心であります。これが何と夜明けから正午迄、だいたい7時間程かかったというのですから、読む側のエズラはさぞや大変だったでしょうね。しかし、その律法の書を聞く会衆(律法の書を理解することのできる年齢に達したすべての男女)もまた、エズラによって律法の書が開かれると、立ちあがったとありますので、その朗読の最中はずっと立って律法の書を聞いていたということなのでしょう。聞く側の会衆もすごい、と思いますよね。朗読の後、「エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、『アーメン、アーメン』と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。」これは礼拝の私たちの「讃美」「感謝」「頌栄」「祝祷」といった要素であるといえます。
また、7節にはエズラが読んだ律法の書を13人のレビ人たちが翻訳し、意味を明らかにしたとあります。ユダの人々の中には原語であるヘブル語を話す者もいましたが、ペルシャ帝国の影響にあったアラム語を話す者がどうも多くいたようです。それぞれの生れた環境や受けた分化も違っていましたのです。その点でも翻訳をし、その意味を解説していくという作業が必要だったのです。その奉仕がヘブル語とアラム語のできたレビ人によってなされたというのでありますね。
先週、ニュージランドに在住されている日本の姉妹(求道者)が私どもの礼拝に来られました。英語圏で聖書の言葉に初めて触れ、興味を持たれるようになったということですが。こちらの礼拝に出られて翻訳された日本語で聖書を読むと、同じ個所でも随分そのニュアンスや響き方が異なると、おっしゃっていました。そうですよね。一つの同じ聖書の言葉でも、日本とニュージランドとでは文化圏が異なりますので、その翻訳のされ方も違っていたり、その響きが異なって伝わってくることもあるわけです。大阪弁や東北の気仙訳の聖書もあるほどですから。それもユニークではありますけれども。
まあユダヤ人とは文化も時代も異なる私たちが、聖書の理解を深め受け取っていくためには、聖書の解き明かしの奉仕者やメッセンジャーを通して、聞き学んでいくことが必要なわけであります。

④「あなたたちの力の源」
さて、ユダの会衆はレビ人たちが神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読みあげたので、その朗読を理解した、とあります。そして彼らは皆、律法の言葉を聞いて泣いていた、というのです。それは神の律法にユダの民のこれまでの道のり、神への背信と国家の崩壊、捕囚からそこに至るまでのあゆみが、神の言葉に照らし出され、その罪を思い知り、嘆いたり、泣いたりしたのでしょう。
もちろんそれは神さまのもとに立ち帰っていく順路ではありますが。ただ嘆き、悲しんで終っていては何にもならないのです。悔い改めという言葉は世間でよく誤解されて用いられているのですが。それは単に後悔や反省するということとは違います。神の前に立ち帰る。われに返って神の方へ方向転換する。それが悔い改めであります。何度も自分の罪をほじくり返しては自分や人を責め続けるのは悔い改めではありません。
ネヘミヤとエズラは言います。「今日は、我らの主に捧げられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」解放の主を喜び祝うということこそが、聖なる日にふさわしい、というのです。
それに伴い礼拝の後でしょう。「人々は最上の食物を食べ、ぶどう酒を飲んだのです。その備えのない貧しい人々たちには、持っている人が分かち共に喜び祝うように促されています。ユダの会衆は皆、その日、心から主を喜んで、礼拝の日を祝い、それを力の源としてあゆみ出すことができたのではないでしょうか。

私たちはどうでしょうか。救主イエス・キリストは、私たちの罪を贖うために十字架につけられて死なれました。この主の十字架を見上げる時、私の、そして人間の罪の深さを思い知らされます。しかし主は、十字架の死では終わらなかった。3日後によみがえられたのです。罪を悔いる私たちが再び神の前に立ち帰って、新たに命を得、輝いて生きるようにと、主は復活されたのです。
私たちはこの復活なさった主と共に、神の救いの恵みを主の日の度毎に喜び祝うのであります。神は御独り子をこの地上に贈り、十字架の苦難と死を通して私どもの苦しみ、悲しみ、不条理や理解し得ない事どもすべてを知っていてくださいました。この神さまこそすべて人の痛みや苦悩をも共有してくださった。贖い救い出してくださった愛と恵みのインマヌエルの主であられるのです。主イエスは罪と死を打ち破って復活なさり、私たちはその捕らわれと滅びから解放してくださったのです。

私たちはこの礼拝において、主を喜び祝いつつ、これを力の源として生きていきます。この地上でのあゆみの終わりが来るまで主と共にあゆみ行く者でありたい。主の復活の希望を戴いているのですから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神を畏れ、ゆるされて生きる

2012-10-21 15:56:07 | メッセージ
礼拝宣教 ネヘミヤ記5章1-13 

本日はネヘミヤ記5章のところから「神を畏れ、ゆるされて生きる」と題し、御言葉を聞いていきます。先週は2章から、ネヘミヤがエルサレムとその周辺のユダの人々を城門の修復と城壁の再建の協働作業へと導いていった記事を読みました。ネヘミヤの呼びかけに対してユダの民は「早速、建築に取りかかろう」と応じ、この良い企てに奮い立った、というのであります。3章では、それぞれ住居に近いエルサレムの城門からその修復工事にあたります。自分たちの身近なところから自分にできることをなし、各々与えられた賜物を活かして城門の修復と城壁の再建工事に当っていったということでした。
次の4章では、その城壁再建の工事の情報がサンバラとトビヤ、それにアラブ人、アンモン人らに届くと、彼らは共謀してユダの人々を混乱に陥れようといたします。そういった外部からの攻撃に対して、城壁の再建作業に携わったユダの人々はどう対応したかといいますと、11節「城壁を築く者、もっこを担いで運ぶ者は、一方の手で作業をし、もう一方の手には投げ槍を取った。各自腰に剣を帯びて作業した」というのです。まあ何という緊張感の中でその作業が行われたかを伺い知ることができますよね。先週この自衛のための武器というのは私どもにとって祈りだいうお話をしましたが。こうして外部から襲ってくる敵、すなわち神の業を妨げようとする圧力に対して備えたというのであります。そのようにユダの人々は外敵からの侵入や攻撃に対処しながら、ネヘミヤの指揮のもと心を合わせ城壁の再建がなされていったのであります。

さて、ここからが本日のメッセージとなります。この協働による修復作業は外敵からの妨害にあってもある意味順調になされていったのでありますが、その最中ユダに凶作と飢饉が襲ってまいります。信仰をもってよかれと思ったことを始めたのになぜこのような不測の事態が生じるのか、と考えてしまいますが。ここではそのことからユダの民の問題が明るみに出てくるのであります。それは外敵からのものでなくユダ内部からのもので、ユダの内部の正されるべき問題でありました。
5章1節以降に次のようにあります。
民とその妻たちから、同胞のユダの人々に対して大きな訴えの叫びがあった。ある者は言った。「わたしたちには多くの息子や娘がいる。食べて生き延びるために穀物がほしい。」またある者は言った。「この飢饉のときに穀物を得るには畑も、ぶどう園も、家も抵当に入れなければならない。」またある者は言った。「王が税をかけるので、畑もぶどう園も担保にして金を借りなければならない。同胞もわたしたちも同じ人間だ。彼らに子供があれば、わたしたちにも子供がある。だが、わたしたちは息子や娘を手放して奴隷にしなければならない。」

ユダの地を襲った凶作と飢饉でユダの民は食べる物にも困り、貧しい生活を余儀なくされていました。殊に家族の多い家は大変な貧しさの中にあったのです。又、畑や家を抵当に入れて借金をし、息子や娘を奴隷にして売らなければならなくなっていました。その一方で、貴族や役人といった富裕層は貧しい人々の弱みにつけこんで土地を拡大し、利子を取ってますます富を得ていました。

このユダの同胞による嘆きと訴えを聞いたネヘミヤは、大いに憤りを覚え、居たたまれなくなって貴族と役人を非難した、とあります。彼は金を貸して利子を取ることを責めたのではありません。凶作と飢饉で貧しくされた者に対してどこまでも貪欲に取り立て窮地に追いやった無慈悲を責めたのです。このネヘミヤの激しい憤りと居たたまれない思いはどこから来ているのでしょうか? 

彼は大きな集会を召集してこう言います。
8節「わたしたちは異邦人に売られていた同胞のユダの人々を、できる限り買い戻した。それなのに、あなたたちはその同胞を売ろうというのか。彼らはわたしたち自身に売られることになるのに。」富裕層の人々にとってはまことにショッキングな告発であったことでしょう。
ここに「買い戻した」という言葉が出てまいりますが、これは贖いとったということですね。新約においてまさに神が御独り子イエス・キリストをして私たちを罪の奴隷の状態から贖いとって下さった、というときにも使われる言葉です。ネヘミヤ自身、神の御恵みによって「神の民としてゆるされ、生かされている」という大きな感謝とその神への畏れを強くもっていた、ということではないでしょうか。
元来ユダの民はかつてエジプトの地で奴隷であったけれど、神はその苦しみあえぐ民を導き出し、御自身の宝の民とされたのでした。また、民の背信、罪によって都が崩壊し捕囚の身となりながらも、神は契約と憐れみのゆえに再びユダの地に民を連れ戻してくださったのです。
裕福なユダの人々も、そして貧しさを強いられ、あえいでいるユダの同胞もまた、そのような神の宝の民であるのです。ネヘミヤには、神の民であるこの貧しい人たちが再び売られて奴隷の身になることは断じてあってはならない、という思いが根底にあったのではないでしょうか。
新約聖書に次のようなエピソードがあります。ルカ7章36節以降のところです。
イエスさまがファリサイ派の人たちと食事の席に着いていた時、ある罪深い女が香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近づき、涙を流しながらイエスさまに香油を塗りました。それを見ていたファリサイ派の人は、心の内に「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がどんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思います。すると、イエスさまはその思いを見通してこう言われます。「この女の人が多くの罪をゆるされたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。ゆるされることの少ない者は、愛することも少ない。」
ゆるさたことの大きさ、その重みを知っている人は、より深く主を愛するでしょう。そしてその愛はその人の人生に、生き方に反映されていきます。

ネヘミヤは、ユダの貴族や役人などの富裕層に向けてこう言います。
9節「神を畏れて生きるはずではないのか。」
それはかつて自分たちが救いに与った者であることを思い起こすことです。又、それは罪ゆるされた事への感謝を忘れないことです。

ネヘミヤはペルシャ王の献酌官として地位を得て裕福でした。ユダの地に入ってからは貧しい人たちにお金や畑や産物を貸していたのです。それは神さまが貧富の差に拘わらず民を憐れんでおられるゆえに彼もそうしたのです。それが神の律法でありました。
ところがユダの富裕層は、貧しい人たちを苦しめ、搾取していました。ネヘミヤはその事に対して「神を畏れず、神の律法に反する行為だ」と、彼らに問うたのです。そしてネヘミヤはユダの富裕な貴族や役人らに、「わたしは(貧しい人たちに貸した)負債を帳消しにする」と宣言し、「あなたたちも今日あなたたちに負債のある者に返しなさい」と奨励します。ネヘミヤは自らの態度で神の愛に生きる者のあるべき姿を示したのです。
それを聞いた富裕な人たちに悔い改めが起こされました。彼らはネヘミヤの言葉に呼応するように「お言葉どおりにします」と表明するのであります。裕福な人びとにとって自分の持ち物を手放したり他人に与えたりすることはそう容易なことではありません。しかし彼らはネヘミヤを通して「神を畏れ、神にゆるされて生きる」ことの恵みを思い起こし、その恵みに応えて生きるその人生へと方向転換されたのです。その後ネヘミヤは14節以降を読みますと、ユダの地の長官(総督)になってからも給与を一度も受け取ることも、土地の買収もしませんでした。又、城壁の修復工事で集まるユダの人々と役人すべてに毎日食事を振る舞い、その負担を軽減させたとあります。

篠栗教会の牧師の頃に、あるキリスト教の月報チラシを発行している某会社から文書伝道の働きが財政難で続けられかどうかわからないのでぜひ融資をしてくれないか、わずかずつでも責任をもって返済するというお話がありました。月報チラシの内容もよいものであったので私と妻2人で相談して、「それなら」ということで、私どもにとっては結構こたえる大金を送金しました。まあその後数カ月まではその月報チラシが毎月10部くらい送られてきてはいましたが。その後は連絡も会計報告なく、なしのつぶて。何度かお手紙を出しましたら、「いまだ資金難が続いております、もう少しお待ちください」ということで、さらに待って10年近く経ってしまいました。もう恐らく戻ってはこないでしょう(笑)。まあそのようなケチな私であり、ネヘミヤとは比べようもない者でありますが。このネヘミヤの姿勢に示される「神を畏れ、ゆるされて生きる」者にふさわしい応答の日々をあゆんで行きたいと、願わされるものです。

最後に、もう一つ今日の箇所から思わされました事は、「教会が建てられていくとは何か?」ということです。ユダの城壁再建の作業は見た目にはほんとうにうまく進んでいたように見えていても、凶作や飢饉といった出来事によって、その内部が抱えている問題が表に吹き出しました。それは正されるべき事でした。神さまは目に見えるところの再建だけでなく、神の民としての霊的再建を望まれたのです。
いくら立派な教会堂が建ち、またそこに多くの人が集い栄えているように見えてもです。ルカ12・21でイエスさまは「神の前に豊かにならない者は愚か」と言っています。神の共同体にとっての豊かさ。それは何でしょう?私たちは皆それぞれ違いがあり、異なるものを持ち、その立場も違う者でありますが。「神にゆるされている者同志である」ということで一致しているのです。「主にあって」一つなのです。この主の愛をもって互いに仕え合って生きる。ゆるし合い、喜びも悲しみも分ち合って生きる。そこにキリストの香りを放つ教会が建てられていくのです。「神を畏れ、ゆるされて生きる」姿をもって、私たちの主を益々証ししてまいりましょう。いつも主イエスの御救いに与った者であることを思い起こしつつ、罪ゆるされた事への感謝を忘れずにあゆんでまいりましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

城壁を建て直そう

2012-10-14 17:11:49 | メッセージ
礼拝宣教 ネヘミヤ記2章 

①「エズラとネヘミヤがいなかったら」
本日はネヘミヤ記2章より「城壁を建て直そう」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。先週のおさらいになりますが。南ユダ王国はバビロンによって滅ぼされ、多くの人たちが捕囚としてバビロンにつれて行かれます。やがてそのバビロンもペルシャ王国によって崩壊し、その捕囚となっていたユダの人々はバビロンやその周辺において生活を築いたのです。今日のこの話の主人公ネヘミヤは、そのユダの民の子孫でありながら、ペルシャ王の献酌官として起用されていた人物でありました。注解書によれば王様の酒のいわば毒味役を兼ねた給仕役であったということで、何だか物騒な気もしますが。王の篤い信頼ゆえの役職ということで、その地位も大変高かったのです。8章9節には、彼は後にエルサレムの政治を司る総督となったとも記されてありますから、彼は政治的手腕にもたけていたのでしょう。
先週読みましたエズラは祭司であり又書記官でしたから、このエズラとネヘミヤの二人の霊的指導力と政治的指導力を通してユダの国の復興と信仰の原点に立ち返る改革というものがなされていったということであります。祭司と総督という立場は異なりますが、神への愛と神の民である同胞への思いによって一致し、その違った立場と与えられた賜物を活かして主の宮の再建工事や城壁の修復工事、そして神の民としての霊的復興という一大プロジェクトを遂行していくのであります。
もしこの彼らの働きがなかったなら、キリスト教の母胎となったユダヤ教は存続することはなかったでありましょう。私たちの全世界に与えられた救済の御業、主イエスの救いも、この復興の出来事があったからこそ実現されていったと言っても過言ではないでしょう。エズラの指揮のもと神の律法に立ち返り、礼拝を大事に守り抜き、心からの捧げものをもって神殿の再建をなしていった働き。さらに、ネヘミヤにより荒廃したユダの地エルサレムの町とその焼き崩れた城壁を、その指揮のもとイスラエルの人々が心を合わせ、力を合わせて建て直そうとしていく。それらのプロセスを通して彼らは再び、その約束の地において彼らのアイデンティティ-ともいえる神の民としての本来のあり方を文字通り建て直していくのであります。

②「ネヘミヤの祈りと神の導き」
ネヘミヤが荒廃したエルサレムとその城壁の建て直しに着手していったきっかけは、1章のところにあるとおり同胞の兄弟からその荒廃したエルサレムの現状を知らされたことから端を発します。そのことを聞いた彼はここにあるように、「座り込んで泣き、幾日も嘆き、食も断って神に祈る」のであります。
1章8-11節「どうか、あなたの僕モーセにこう戒められたことを思い起こしてください。『もしも背くならば、お前たちを諸国の民の中に散らす。もしわたしに立ち帰り、わたしの戒めを守り、それを行うならば、天の果てまで追いやられている者があろうとも、わたしは彼らを集め、わたしの名を住まわせるために選んだ場所に連れて来る。』彼らはあなたの僕です。あなたが大いなる力と強い御手をもって贖われた者です。おお、わが主よ、あなたの僕の祈りとあなたの僕たちの祈りに、どうか耳を傾けてください。」
そのように切々と訴え祈るのであります。しかし、それにしても不思議ではありませんか?バビロンによる崩壊と捕囚が起こったのは、この時からおおよそ100年程昔のことです。ネヘミヤはバビロンで生まれ育ち高い地位を得、その生活は慣れ親しんだバビロンの地で申し分ないものであったはずです。そういう立場であれば、大方の人なら安泰を願いもはや先祖の土地など思い起こすことなどないでしょう。ところが彼は遥か彼方のユダの地とその同胞に思いを馳せ、それこそ遥か昔1000年程も前、主がモーセを通して語られた、民への約束を引き合いに出しながらですね、民族にとっての悔い改めと共に、「その約束の場所に民の復興をお与えください」と、祈っているのですね。何と壮大な祈りでありましょうか。そこには永い期間どのような境遇にあっても、脈々と受け継がれてきた信仰と、主の言を語り、それに聞く人々が何世代も亘り存在した、ということであります。「投げ出さず、あきらめず、約束に地を信じ、仰ぎ望む人々がいた」ということです。
遠く離れた異教の地にあっても、エルサレムとそこに残された人々のことを自分のことのように思い、神の契約を堅く保って、滅びゆこうとする魂のために憂い心痛めたネヘミヤ。そしてその祈りは約4カ月の時を得て、不思議なかたちで導かれます。
この4カ月という期間はネヘミヤにとって決して短いものではなかったでしょう。ペルシャの王が、その顔と表情を見て心配したというのは、ネヘミヤの4カ月に亘るその心情をよく表しています。しかし目に見えないところですでに主の御計画は起こされつつありました。
ある日、自分の仕えるペルシャ王から「暗い表情をしているが、何か悩みごとでもあるに違いない」と尋ねられたことから、事態は大きく展開していきます。ネヘミヤは王にそう尋ねられることで、そのユダの地エルサレムの町の現状を自然に打ち分けることができました。さらに王が「何を望んでいるのか」と尋ねてきたことによって、ユダの地の町の再建のために働きたいと申し出ることができたのです。まあ、ネヘミヤはまさかこういう形で自分の祈りが導かれるなど考えてもいなかったでありましょう。自分の方から何か話を持ちかけたり働きかける前に、神さまが状況を備え、道を拓いてくださったのです。
ネヘミヤはこう言っています。8節「神の御手がわたしを守ってくださったので、王はわたしの願いをかなえてくれた。」
このようにネヘミヤの背後にあって生ける神、主がお働きになり、一つひとつの事どもを導いておられることを御言葉から読み取ることができます。そのことは、「主に祈ることができる」という、本当に尊い信仰を与えられて生きる私どもにとって、大きな支えと力になりますね。
人は憂うべき状況の中で何とか事態を打開させ改善させようと、もがき画策します。それも大事かもしれませんが。まず真実な訴えに耳を傾け、最善の御計画を導くことのできるお方である主に向かい祈りつつあゆむ中で、主は私たちの思いを超えて道を拓いて下さるのであります。この主にどこまでも信頼していきましょう。

③「心を合わせる」
さて、ペルシャ王キュロスの許可を得たネヘミヤはエルサレムに到着いたします。そこで3日間過ごしてから、エルサレムの城壁と谷の門や糞の門などを巡り調査します。それは夜中に秘かになされ、わずか数名で行われます。彼はユダの宗教界・財界・政界の代表者たちの見解を聞く前に、まず自分の目で確認しようとしたのです。そして確かに「城壁が破壊され、城門は焼け落ちていた」のをその目で見て確認しました。その後で、そのユダの代表者たちと工事に携わる人々に会ってこう告げます。

17節「『御覧のとおり、わたしたちは不幸の中であえいでいる。エルサレムは荒廃し、城門は焼け落ちたままだ。エルサレムの城壁を建て直そうではないか。そうすれば、もう恥ずかしいことはない。』神の御手が恵み深くわたしを守り、王がわたしに言ってくれた言葉を彼らに告げると、彼らは『早速、建築に取りかかろう』と応じ、このよい企てに奮い立った。」というのです。

ネヘミヤが証しした神の御手と御恵みに呼応するかのように、そのエルサレムのそれぞれの代表者たちや工事に携わる人々は、「城壁を建て直す」という主の一大プロジェクトに、いわば「よっしゃ!」と心を合わせ奮い立ったというのですね。
ところが早くも10節「ホロニ人サンバラとアンモン人の僕トビヤは、イスラエルの人々のためになることをしようとする人が遣わされて来たと聞いて、非常に機嫌を損ねた。」そして19節にも「ところが、ホロニ人サンバラト、アンモン人の僕トビヤ、アラム人ゲシェムは、ネヘミヤの言葉を聞いて、「嘲笑い、さげすんだ」というのです。ネヘミヤはそれに対して答えます。20節「天にいます神御自ら、わたしたちの工事を成功させてくださる。その僕であるわたしたちは立ち上がって町を再建する。」祈りのうちに「神が導いてこられた」と確信を抱ける人は強いですね。
まあここには、そのエルサレムの荒廃をくい止め、城壁を建て直そうと立ちあがり、心を合わせて働こうとする人々に対して、その思いを折って萎えさせバラバラにしようとする勢力があったということです。そのような勢力に対してネヘミヤは、「天の神ご自身が工事を成功させてくださる、私たちは立ちあがって町を再建する」と、まさに勝利の主にあって「自分たちは心を合わせて働くのだ」と宣言します。その力強い宣言は、ユダの人々を一つにし、さらに結束を強めたに違いありません。
3章では具体的な城壁の建て直し工事の光景が記されていますが。そこにはエルサレムの町の人々が自分たちの住んでいる場所に近い焼け落ちた城門から、それぞれ修復をして城壁の建て直しがなされたということが記されています。彼らは自分たちの身近なところから、自分たちのなし得ることをもって、事業に携わったということが3章を読むと分かります。私たちもそうです。与えられたビジョンの実現に向け、それぞれが忠実に身近なこと、できる事から始めていく時、主ご自身が事をなしとげて下さると信じます。

敵の妨害が激しくなった時、民は一方の手で作業をなし、もう一方の手には防御のための武器を手にして働いたとあります。私たちにとって武器とは何でしょうか?それは祈りであります。問題や課題、計画を阻止するような働きや出来事に対して、私たちは祈らねばなりません。ネヘミヤは様々な問題が起こる度に、主に訴えて祈りました。そういう祈りのバックアップを背後に、民は心を一つにして後の世代にまで祝福を与えるこの一大事業に携わっていったのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神殿の再建

2012-10-08 09:08:28 | メッセージ
礼拝宣教 エズラ記3章1-13節 

先週は特別集会で田口先生よりすばらしい霊の糧を戴きました。頂いた神の言葉、メッセージ、これをただ受けるだけでなく、しっかりと消化し、エネルギーに変えて、さらに福音に生きる人生、隣人と分ち合う人生とされていきましょう。2日間の特伝で祈りの力について改めて教えられましたが、神さまに期待して祈り続け、行動し、主の御業を見せて頂く、そのような生き生きとした信仰生活を送ってまいりましょう。
主日礼拝での宣教を日ごとの家庭の食事(家庭料理)とするなら、特別集会は年に一、二度くらいのレストランで食事を戴くようなものです。先週は豊かな霊の御馳走をたらふく戴いたわけですが、けれども、これが毎週続くと栄養が偏ってしまいますよね。たまにはビフテキやフルコースといった外食もよいでしょうが。それが毎週となりますと、どこか飽きがき、栄養バランスも偏ってしまいます。特別な集会はよいものですが、何より私どもは週に一度、礼拝を真心込めて主にささげ、地道に御言葉に学び、それを力と変えて生きていく、そういう不断のあゆみが霊の体を養い、保っていくうえで必要なのです。そのところから、すべての祝福と恵みは与えられます。週ごとの礼拝、又祈祷会、そこで捧げられる祈りと賛美、感謝の応答は私たちの命の力です。

先程本日の聖書箇所であるエズラ記3章が先に読まれましたが。
このエズラ記は、そのような礼拝の場であった神殿を破壊され、バビロンの捕囚とされたイスラエルの人々が、ペルシャ王キュロスの好意で64年の歳月を経て、エルサレムに帰還し、神殿を再建するという話について記された書物であります。

①「神殿再建に先立つ礼拝の開始」
まず今日の箇所で注目したいのは、神殿の再建に先立ち、エルサレムに帰還した人々がなしたことは前のソロモンの神殿があった場所近くで「礼拝を開始した」ということであります。1節に「民はエルサレムに集まって一人の人のようになった」と記されていますが。
この「一人に人のように」というのは、神の民の霊的な一致を表しています。つまりこの霊的一致が礼拝の開始につながっていたのです。新約聖書では、ペンテコステの出来事として、一同が「心を一つにして集っているところに聖霊が降り、教会が誕生し、神の御業が起こされ、広く福音が宣べ伝えられていく出来事が起こされていきます。今もそうであります。
今日の箇所において、エルサレムに帰還したイスラエルの民のこの霊的一致いわゆる改革は、彼ら一人ひとりが、バビロン捕囚の出来事を顧みながら、単にそれを悔いるということではなく、主の方へ立ち返った、主に向き直ったことによってもたらされました。彼らは原点に立ち返ったのです。近年政治家がよく「~改革だ」「改革が必要だ」などと繰り返し強調し、改革という言葉が飛びかっておりますが。この改革というのは英語でリフォーム(Reform)です。それは何か新しい事をして変える、斬新なことを始めるということではなく、「原点に立ち返る」というのがもともとの意味なのです。神殿の崩壊とバビロン捕囚という耐え難い経験をしたイスラエルの民は、その経験の中から、「真の神に立ち帰る」ことこそ、この民の生きている、又活かされている祝福と恵みの原点であることに改めて気づきます。そこから礼拝が開始されていった、というのです。
 私たちは特に主の晩餐式において、主の恵みと祝福の原点に立ち返る時として主イエスの救いの御業を思い起こします。それはほんとうに大切な時であります。

本日は「神殿の再建」というテーマをつけさせて頂きましたが。まず捕囚から解放されたイスラエルの人々の中で、「神に心動かされた者」たちが主の神殿を建てるためにエルサレムに上っていったということが1章5節に記されています。まずこの「神に心動かされた者たち」から神殿の再建が始まりました。そして彼らがまずなしたことは、昔の土台の上に祭壇を築いて礼拝をささげるということでした。先程言いましたようにまさにリフォームですね。私たちの大阪教会も新会堂建築のビジョンを与えられておりますが。
3節で「彼らはその地の住民に恐れを抱きながら、その昔の土台の上に祭壇を築いた」とあります。礼拝をささげることを困難とさせていく働きや事どもが起こらないとは限りません。そのような移行の期間にも揺らぐことのない霊的な土台をしっかりと築いていなければなりません。
そこにおいて「教会の祈りの力」が必要不可欠であります。心を一つに祈ることをとおして、主は困難な中にあってもその力ある業を顕わしてくださいます。会堂建築など、神さまの栄光を表そうとするプロジェクトには得てして、それを阻もうとするサタン的な勢力や働きが様々なかたちで起こってくるものです。そう言う時に、私たちは何をもってそれに対処すべきでしょうか、それこそ主を第一として依り頼み、祈りのスクラムを組み、愛を持って仕え合うことを怠らないことです。必ずや前進することができます。何よりも、主イエスが共にいて下さるお約束があるのですから。

②「神殿の基礎」
さて、ここまで「神殿の再建」に先立ちイスラエルの人々が神の言葉に基づいて祭壇を築き、礼拝をささげ、最善のものを主にささげていったということを見てきましたが、ここからはその神殿の基礎についてみ言葉を受けとっていきます。
この神殿の基礎が据えられた時の状況について次のように記述しています。
12節、13節「昔の神殿を見たことのある多くの年取った祭司、レビ人、家長たちは、この神殿の基礎が据えられるのを見て大声をあげて泣き、また多くの者が喜びの叫びをあげた。人々は喜びの叫び声と民の泣く声を識別することができなかった」。
はじめここを読んだ時、年取った祭司、レビ人、家長らは唯ただ感激して、大声を出して泣いたのかと思っていたのですが。それはどうも違うようです。
彼らはバビロン捕囚前にエルサレムにおいてソロモン王の時代に建てられただ神殿を見た事があるとありますから、恐らくそれと今、目の前にある基礎が据えられただけの状態とを比較したのかも知れません。ソロモンの時代の神殿は金や銀といった最高の材料でもって建てられた荘厳なものでした。それに比べると、その基礎はあまりにみすぼらしく映ったのでしょうか。彼らにとってほんとうに残念なことに、この後建築工事は16年もの間中断を余儀なくされます。工事の再開に当って主は預言者ハガイの口を通してイスラエルの民を鼓舞されるのですが。そのハガイ書2章で約束された新しい神殿の栄光と祝福について、「この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると、万軍の主は言われる」と述べられているのですね。
再建工事に取り掛かった当初、イスラエルの人々の力量は本当に小さく、乏しかったのでしょう。しかし、イスラエルの人々はその乏しく貧しい中から、ソロモンの時代にもまさる犠牲と献身を主のために捧げたのではないでしょうか。それは確かに目に見えるところではソロモンの時代の神殿と比較すれば、豪華絢爛とはいかなかったでありましょうが。主は人々が主のために心を込め、犠牲と献身をもって建てた神殿に栄光を顕わしてくださるのです。救いと解放の原点に立ち返ることをその基に据え、妨げや困難な中でも不断の祈りと献身のうちに建てられていった第二神殿。主は「この新しい神殿の栄光は、昔の神殿にまさる。この場所にわたしは平和を与える」(ハガイ書2:9)と言われるのです。

このエズラ記3章から今日示されているメッセージを私たちはしっかりと聞いていかなければならないと思います。それは、私どもにとって神殿の基礎(教会の基礎)は「十字架と復活の主イエス・キリストであられる」ということです。神殿の基礎、教会はこのイエス・キリストという神の愛と救いを土台(基礎)にして建てあげられている。そのことを忘れてはならないのです。戴いたかけがえのない主の愛に対して、喜びと期待をもって主に祈り続け、心から主にささげていく者とされていきたいと願います。様々な世の誘惑、サタン的な力が働き、私たちの行く手を阻もうとするかも知れませんが。それでもなお、主に信頼をし続けてまいりましょう。心を合わせて祈りつつ、共に主のみ業に参与して、成し遂げてまいりましょう。主は必ず、あふれて余りある祝福と恵みをもって応えてくださいます。

エフェソ2章19-22節(新約聖書新共同訳p.354)を読んで宣教を閉じます。
「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエスご自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする