宣教 エレミヤ章42章1節-43章7節
本日からクリスマスを待ち望む待降節(アドベント)に入りました。今年は12月20日がクリスマス礼拝です。そのアドベントの中、来週は「チャペルコンサート」が開催されます。すでにチラシを用いてご案内をしております。
本日はまた、世界祈祷週間を覚えての礼拝であります。先に世界祈祷週間の詳しいアピールがなされました。どうかこのお働きのために今日から来週迄「世界バプテスト祈祷週間の祈り」に従って祈りにおぼえ、又、捧げものをもって私たちのできうるところでつながり関わらせて戴きたいと願っております。
さて、礼拝では2ヶ月間に亘ってエレミヤ書を読んでまいりましたが、本日の箇所をもってその最終回となります。先に分かりやすい子どもメッセージが語られましたので、わたしからの宣教はもういいのではなかとも思うのですが、今日はこのところから「真に頼るべきもの」という題のもと御言葉に聞いていきたいと思います。
今日のこのお話はユダの滅亡後のこと、生き延びてユダに残されたヨハナンら指導者をはじめユダの民は、恐れと不安にかられ預言者エレミヤを訪ねてまいります。
彼らは「神である主に祈り求めて、我々の進むべき道、なすべきことを示していただきたい」と懇願するのです。まあ彼らにとってみれば、自分たちが頼りにしてきたものがことごとく崩され、もうどうすることもできないほど切羽詰まった状態、藁をもつかむようにエレミヤを訪ねたのでしょう。
エレミヤはその彼らの訴えを聞き、「承知しました。おっしゃるとおり、あなたたちの神である主に祈りましょう。主があなたたちに答えられるなら、そのすべての言葉をお伝えします」と、そう答えます。
すると人々はエレミヤに「主が我々に対して真実の証人となられますように。わたしたちは、必ずあなたの神である主が、あなたを我々に遣わして告げられる言葉のとおり、すべて実行することを誓います。良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主の御言葉に聞き従います。我々の神である主の御声に聞き従うことこそ最善なのですから」と、そのように宣言するのですね。
はたしてその10日後エレミヤに主の言葉が臨みます。
彼らにとって状況の差し迫ったように思える中での10日というのは決して短い期間ではなかったでしょう。きっと焦り、あれやこれやと思い巡らし、最も自分たちに有利な結果につながるように画策していたのではないでしょうか。そうして過ごした10日間の中で、彼らはエレミヤに、たとえ「良くても悪くても主の御声に聞き従います」と約束したこと、又、「告げられるとおりすべてを実行します」と誓ったことは、もろくも崩れていくのです。
さて、エレミヤは、民の全員を召集し、彼らに主の御言葉を告げます。
第一は、「あなたたちがこの国にとどまるならば、わたしはあなたたちを立て、倒しはしない。植えて、抜きはしない」という神さまの約束です。それは、神の御声に聞き従いとどまっているところに神の支えと守りがある、ということであります。
第二は、「あなたたちはバビロンの王を恐れているが、彼を恐れてはならない。彼を恐れるな。わたしはあなたがたと共にいて、必ず救い、彼の手から助け出す」という救いの約束です。確かに事態は切迫し非常に状況が悪いように思えますが、そこでなお主に信頼し、聞き従う者と主は共におられ、真の平安と救いを与える、と約束されるのです。
第三は、「主はあなたたちに憐れみをお示しくださる」との約束です。主はバビロンの王のうちにも働きかけてユダの残りの民を守り導かれ、イスラエルの地に住むことをお許しになる」。それはもはや審きではなく、神さまの憐れみ(先々週も申しました断腸の思いともいえる愛)によるものだというのです。
このように、恐れと不安の中にある残りのユダの民に向けて、主が平安と救いの道を明確にお示しになるのですね。
その一方で、主は、そのユダの民に向けて災いと死、滅びの道についての警告を語られます。
それは、主の警告に聞くことなく、14節「自分たちの目先の判断でエジプトの地に行き、そこで寄留するなら」、16節「まさに、あなたたちが恐れている剣が、エジプトの地で襲いかかり、心配している飢えがエジプトまで後を追ってとりつき、あなたたちは死ぬ。エジプトへ行って寄留しようと決意している者はすべて剣、飢饉、疫病で死ぬ。わたしが臨ませる災いを免れ、生き残る者はひとりもない」と、お告げになります。
かつて彼らの先祖は主の御恵みによって出エジプトを果たし、荒れ野において多くの恵みを経験していたにも拘わらず、主に対して罪を犯し、かたくなに歩み続けてきたのです。それはさらにエレミヤの時代に至っても、民は相変わらず主に対してかたくなに罪を犯し続け、遂にユダの滅亡を招いたわけです。その間、神さまは常に祝福の道、逃れの道を備えてくださっているにも拘わらず、なおもこのユダの残りの民は、神が目の前に保証してくださる救いの道、逃れの道をかたくなに拒み続け、自分たちの好かれと考えるその道を進もうとするのです。神さまはそれこそが的外れ、「罪」という言葉には的外れという意味がございますが、まさに災いと滅びに通じる道だと警告しておられるんですね。
けれども実は、エレミヤのところに切羽詰まって訪れたヨハナンをはじめとする残りのユダの民は、あの10日間のうちにエジプトに行けば安全だという自分たちの思惑があって、それが彼らのうちにすでに決定的なものになっていたのです。
彼らは、主の言葉を語ったエレミヤに対してこう答えます。
「あなたの言っていることは偽りだ。我々の神である主はあなたを遣わしてはいない」。つまり、エジプトへ行ってはならないというのは神の答えではなく、エレミヤが自分勝手に語っているにすぎないと言って拒否したのです。
ここにそのように言ったのは「高慢な人々であった」とあります。
彼らは最初にエレミヤに会って懇願した時に何と言ったでしょうか。彼らは神の前でこう誓ったのです。「良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主の御声に聞き従います」。彼らがそう言って約束したからこそ、主なる神さまはエレミヤを通して救いの道をお示しになられたのです。それにも拘わらず彼らはそれが自分たちの意に反しているから、と拒むのです。それは高慢以外の何ものでもありません。
又、彼らはエレミヤの書記官バルクがエレミヤをそそのかして、対立させて自分たちを敵の手に渡して死なせるか、捕囚として引いて行かせようとしているのだ、と云いがかりをつけます。
しかしこれらはみな、彼らが「神の御声に聞き従うという約束」を守らないことの言い訳に過ぎなかったのです。
ここに明らかにされるのは、彼らは神の御心を知ってそれに聞き従うためではなく、自分たちの思い通りのことならエレミヤが語ることは受け入れるが、それ以外は受け入れられないという前提があったということです。彼らは自分たちの計画をただ後押しして欲しかった、自分たちを正当化したかったのです。
こうしてヨハナンらと民は、「ユダの地にとどまれ」という主の御声に聞き従わなかったのです。それが彼らの聞きたいと望んでいた御言葉でなかったからです。
彼らは「主の御声に聞き従わず」、エジプトの地に赴き、タフパンヘスにたどりついた、とあります。神さまが彼らにユダの国での救いと憐れみ、平安を確かに約束してくださったにも拘わらず、彼らは自分たちの思惑に頼り、主の御言葉に信頼しませんでした。
8節以降には、エジプトのタフパンヘスに寄留することになった彼らに同伴し、なおも神の言葉を語り続けるエレミヤの姿が記されています。たとえ人々から受け入れられなくても、神の言葉を、その御心を伝え続ける「涙の預言者」といわれるエレミヤの姿がそこにあります。
今日のエピソードから示されますことは、私たちも主の御心を求めて祈るとき、今日の箇所のユダの民と同様のことをしていないだろうかと吟味しなければならないということです。もちろん、主に祈るとき、私たちはあれは祈っていいが、これは祈ってはいけないというきまりはありません。自分のあるがままの思いを主に訴えて祈っていいわけであります。が、その自分の思いイコール神さまの御心というものではありません。主なる神さまはすべてを治め、最善の道を知っておられるお方ですから、主のご計画と人の道が必ずしも一致するものではないでしょう。自分の思いとは違ったものとして主の御心が示されることも又、実際起こってくることがあるということです。時にそれは自分にとって受け入れ難いような答えとして示されることはあるのです。しかしそれは主が、ほんとうの意味でその人を生かし、幸いなものとするために必要なものとして計画されるものであるのですね。
今日のエピソードがさらに示すことは、神さまから離れた民に安全(平安)な場所はないということです。この世にあって最も安全(平安)なところ、それは神のふところの中です。自分の力や考え、あるいは世の力に頼って生きようとエジプトに行くことが災いと死、滅びを招くことになるのです。もちろんこのエジプトというのはたとえです。それは「自分の力や考え、世の力を神のように頼りにする」ということでありますけれども。どうでしょうか、私たちも様々な出来事に恐れや不安を持ち、時に右往左往する者でありますが。そこで神の言葉、聖書のメッセージに聴き、踏みとどまってこの生ける御言葉にこそ依り頼み、聞き従う人のうちに、真の平安と救いが臨むのです。真に頼るべきもの、それは主のいのちの御言葉です。
エレミヤ書29章11節以降にこう記されています。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈るなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見出し、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」。
今日から始まりましたアドベントの期間、生けるいのちの御言葉であられる主イエス・キリストの誕生の喜びに向け、御言葉に聞き従い、主なる神さまの大いなる救いの計画を仰ぐ日々となりますよう、祈り求めてまいりましょう。
本日からクリスマスを待ち望む待降節(アドベント)に入りました。今年は12月20日がクリスマス礼拝です。そのアドベントの中、来週は「チャペルコンサート」が開催されます。すでにチラシを用いてご案内をしております。
本日はまた、世界祈祷週間を覚えての礼拝であります。先に世界祈祷週間の詳しいアピールがなされました。どうかこのお働きのために今日から来週迄「世界バプテスト祈祷週間の祈り」に従って祈りにおぼえ、又、捧げものをもって私たちのできうるところでつながり関わらせて戴きたいと願っております。
さて、礼拝では2ヶ月間に亘ってエレミヤ書を読んでまいりましたが、本日の箇所をもってその最終回となります。先に分かりやすい子どもメッセージが語られましたので、わたしからの宣教はもういいのではなかとも思うのですが、今日はこのところから「真に頼るべきもの」という題のもと御言葉に聞いていきたいと思います。
今日のこのお話はユダの滅亡後のこと、生き延びてユダに残されたヨハナンら指導者をはじめユダの民は、恐れと不安にかられ預言者エレミヤを訪ねてまいります。
彼らは「神である主に祈り求めて、我々の進むべき道、なすべきことを示していただきたい」と懇願するのです。まあ彼らにとってみれば、自分たちが頼りにしてきたものがことごとく崩され、もうどうすることもできないほど切羽詰まった状態、藁をもつかむようにエレミヤを訪ねたのでしょう。
エレミヤはその彼らの訴えを聞き、「承知しました。おっしゃるとおり、あなたたちの神である主に祈りましょう。主があなたたちに答えられるなら、そのすべての言葉をお伝えします」と、そう答えます。
すると人々はエレミヤに「主が我々に対して真実の証人となられますように。わたしたちは、必ずあなたの神である主が、あなたを我々に遣わして告げられる言葉のとおり、すべて実行することを誓います。良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主の御言葉に聞き従います。我々の神である主の御声に聞き従うことこそ最善なのですから」と、そのように宣言するのですね。
はたしてその10日後エレミヤに主の言葉が臨みます。
彼らにとって状況の差し迫ったように思える中での10日というのは決して短い期間ではなかったでしょう。きっと焦り、あれやこれやと思い巡らし、最も自分たちに有利な結果につながるように画策していたのではないでしょうか。そうして過ごした10日間の中で、彼らはエレミヤに、たとえ「良くても悪くても主の御声に聞き従います」と約束したこと、又、「告げられるとおりすべてを実行します」と誓ったことは、もろくも崩れていくのです。
さて、エレミヤは、民の全員を召集し、彼らに主の御言葉を告げます。
第一は、「あなたたちがこの国にとどまるならば、わたしはあなたたちを立て、倒しはしない。植えて、抜きはしない」という神さまの約束です。それは、神の御声に聞き従いとどまっているところに神の支えと守りがある、ということであります。
第二は、「あなたたちはバビロンの王を恐れているが、彼を恐れてはならない。彼を恐れるな。わたしはあなたがたと共にいて、必ず救い、彼の手から助け出す」という救いの約束です。確かに事態は切迫し非常に状況が悪いように思えますが、そこでなお主に信頼し、聞き従う者と主は共におられ、真の平安と救いを与える、と約束されるのです。
第三は、「主はあなたたちに憐れみをお示しくださる」との約束です。主はバビロンの王のうちにも働きかけてユダの残りの民を守り導かれ、イスラエルの地に住むことをお許しになる」。それはもはや審きではなく、神さまの憐れみ(先々週も申しました断腸の思いともいえる愛)によるものだというのです。
このように、恐れと不安の中にある残りのユダの民に向けて、主が平安と救いの道を明確にお示しになるのですね。
その一方で、主は、そのユダの民に向けて災いと死、滅びの道についての警告を語られます。
それは、主の警告に聞くことなく、14節「自分たちの目先の判断でエジプトの地に行き、そこで寄留するなら」、16節「まさに、あなたたちが恐れている剣が、エジプトの地で襲いかかり、心配している飢えがエジプトまで後を追ってとりつき、あなたたちは死ぬ。エジプトへ行って寄留しようと決意している者はすべて剣、飢饉、疫病で死ぬ。わたしが臨ませる災いを免れ、生き残る者はひとりもない」と、お告げになります。
かつて彼らの先祖は主の御恵みによって出エジプトを果たし、荒れ野において多くの恵みを経験していたにも拘わらず、主に対して罪を犯し、かたくなに歩み続けてきたのです。それはさらにエレミヤの時代に至っても、民は相変わらず主に対してかたくなに罪を犯し続け、遂にユダの滅亡を招いたわけです。その間、神さまは常に祝福の道、逃れの道を備えてくださっているにも拘わらず、なおもこのユダの残りの民は、神が目の前に保証してくださる救いの道、逃れの道をかたくなに拒み続け、自分たちの好かれと考えるその道を進もうとするのです。神さまはそれこそが的外れ、「罪」という言葉には的外れという意味がございますが、まさに災いと滅びに通じる道だと警告しておられるんですね。
けれども実は、エレミヤのところに切羽詰まって訪れたヨハナンをはじめとする残りのユダの民は、あの10日間のうちにエジプトに行けば安全だという自分たちの思惑があって、それが彼らのうちにすでに決定的なものになっていたのです。
彼らは、主の言葉を語ったエレミヤに対してこう答えます。
「あなたの言っていることは偽りだ。我々の神である主はあなたを遣わしてはいない」。つまり、エジプトへ行ってはならないというのは神の答えではなく、エレミヤが自分勝手に語っているにすぎないと言って拒否したのです。
ここにそのように言ったのは「高慢な人々であった」とあります。
彼らは最初にエレミヤに会って懇願した時に何と言ったでしょうか。彼らは神の前でこう誓ったのです。「良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主の御声に聞き従います」。彼らがそう言って約束したからこそ、主なる神さまはエレミヤを通して救いの道をお示しになられたのです。それにも拘わらず彼らはそれが自分たちの意に反しているから、と拒むのです。それは高慢以外の何ものでもありません。
又、彼らはエレミヤの書記官バルクがエレミヤをそそのかして、対立させて自分たちを敵の手に渡して死なせるか、捕囚として引いて行かせようとしているのだ、と云いがかりをつけます。
しかしこれらはみな、彼らが「神の御声に聞き従うという約束」を守らないことの言い訳に過ぎなかったのです。
ここに明らかにされるのは、彼らは神の御心を知ってそれに聞き従うためではなく、自分たちの思い通りのことならエレミヤが語ることは受け入れるが、それ以外は受け入れられないという前提があったということです。彼らは自分たちの計画をただ後押しして欲しかった、自分たちを正当化したかったのです。
こうしてヨハナンらと民は、「ユダの地にとどまれ」という主の御声に聞き従わなかったのです。それが彼らの聞きたいと望んでいた御言葉でなかったからです。
彼らは「主の御声に聞き従わず」、エジプトの地に赴き、タフパンヘスにたどりついた、とあります。神さまが彼らにユダの国での救いと憐れみ、平安を確かに約束してくださったにも拘わらず、彼らは自分たちの思惑に頼り、主の御言葉に信頼しませんでした。
8節以降には、エジプトのタフパンヘスに寄留することになった彼らに同伴し、なおも神の言葉を語り続けるエレミヤの姿が記されています。たとえ人々から受け入れられなくても、神の言葉を、その御心を伝え続ける「涙の預言者」といわれるエレミヤの姿がそこにあります。
今日のエピソードから示されますことは、私たちも主の御心を求めて祈るとき、今日の箇所のユダの民と同様のことをしていないだろうかと吟味しなければならないということです。もちろん、主に祈るとき、私たちはあれは祈っていいが、これは祈ってはいけないというきまりはありません。自分のあるがままの思いを主に訴えて祈っていいわけであります。が、その自分の思いイコール神さまの御心というものではありません。主なる神さまはすべてを治め、最善の道を知っておられるお方ですから、主のご計画と人の道が必ずしも一致するものではないでしょう。自分の思いとは違ったものとして主の御心が示されることも又、実際起こってくることがあるということです。時にそれは自分にとって受け入れ難いような答えとして示されることはあるのです。しかしそれは主が、ほんとうの意味でその人を生かし、幸いなものとするために必要なものとして計画されるものであるのですね。
今日のエピソードがさらに示すことは、神さまから離れた民に安全(平安)な場所はないということです。この世にあって最も安全(平安)なところ、それは神のふところの中です。自分の力や考え、あるいは世の力に頼って生きようとエジプトに行くことが災いと死、滅びを招くことになるのです。もちろんこのエジプトというのはたとえです。それは「自分の力や考え、世の力を神のように頼りにする」ということでありますけれども。どうでしょうか、私たちも様々な出来事に恐れや不安を持ち、時に右往左往する者でありますが。そこで神の言葉、聖書のメッセージに聴き、踏みとどまってこの生ける御言葉にこそ依り頼み、聞き従う人のうちに、真の平安と救いが臨むのです。真に頼るべきもの、それは主のいのちの御言葉です。
エレミヤ書29章11節以降にこう記されています。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈るなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見出し、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」。
今日から始まりましたアドベントの期間、生けるいのちの御言葉であられる主イエス・キリストの誕生の喜びに向け、御言葉に聞き従い、主なる神さまの大いなる救いの計画を仰ぐ日々となりますよう、祈り求めてまいりましょう。