日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

真に頼るべきもの

2015-11-29 19:22:46 | メッセージ
宣教 エレミヤ章42章1節-43章7節 

本日からクリスマスを待ち望む待降節(アドベント)に入りました。今年は12月20日がクリスマス礼拝です。そのアドベントの中、来週は「チャペルコンサート」が開催されます。すでにチラシを用いてご案内をしております。
本日はまた、世界祈祷週間を覚えての礼拝であります。先に世界祈祷週間の詳しいアピールがなされました。どうかこのお働きのために今日から来週迄「世界バプテスト祈祷週間の祈り」に従って祈りにおぼえ、又、捧げものをもって私たちのできうるところでつながり関わらせて戴きたいと願っております。

さて、礼拝では2ヶ月間に亘ってエレミヤ書を読んでまいりましたが、本日の箇所をもってその最終回となります。先に分かりやすい子どもメッセージが語られましたので、わたしからの宣教はもういいのではなかとも思うのですが、今日はこのところから「真に頼るべきもの」という題のもと御言葉に聞いていきたいと思います。

今日のこのお話はユダの滅亡後のこと、生き延びてユダに残されたヨハナンら指導者をはじめユダの民は、恐れと不安にかられ預言者エレミヤを訪ねてまいります。
彼らは「神である主に祈り求めて、我々の進むべき道、なすべきことを示していただきたい」と懇願するのです。まあ彼らにとってみれば、自分たちが頼りにしてきたものがことごとく崩され、もうどうすることもできないほど切羽詰まった状態、藁をもつかむようにエレミヤを訪ねたのでしょう。

エレミヤはその彼らの訴えを聞き、「承知しました。おっしゃるとおり、あなたたちの神である主に祈りましょう。主があなたたちに答えられるなら、そのすべての言葉をお伝えします」と、そう答えます。

すると人々はエレミヤに「主が我々に対して真実の証人となられますように。わたしたちは、必ずあなたの神である主が、あなたを我々に遣わして告げられる言葉のとおり、すべて実行することを誓います。良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主の御言葉に聞き従います。我々の神である主の御声に聞き従うことこそ最善なのですから」と、そのように宣言するのですね。

はたしてその10日後エレミヤに主の言葉が臨みます。
彼らにとって状況の差し迫ったように思える中での10日というのは決して短い期間ではなかったでしょう。きっと焦り、あれやこれやと思い巡らし、最も自分たちに有利な結果につながるように画策していたのではないでしょうか。そうして過ごした10日間の中で、彼らはエレミヤに、たとえ「良くても悪くても主の御声に聞き従います」と約束したこと、又、「告げられるとおりすべてを実行します」と誓ったことは、もろくも崩れていくのです。

さて、エレミヤは、民の全員を召集し、彼らに主の御言葉を告げます。
第一は、「あなたたちがこの国にとどまるならば、わたしはあなたたちを立て、倒しはしない。植えて、抜きはしない」という神さまの約束です。それは、神の御声に聞き従いとどまっているところに神の支えと守りがある、ということであります。
第二は、「あなたたちはバビロンの王を恐れているが、彼を恐れてはならない。彼を恐れるな。わたしはあなたがたと共にいて、必ず救い、彼の手から助け出す」という救いの約束です。確かに事態は切迫し非常に状況が悪いように思えますが、そこでなお主に信頼し、聞き従う者と主は共におられ、真の平安と救いを与える、と約束されるのです。
第三は、「主はあなたたちに憐れみをお示しくださる」との約束です。主はバビロンの王のうちにも働きかけてユダの残りの民を守り導かれ、イスラエルの地に住むことをお許しになる」。それはもはや審きではなく、神さまの憐れみ(先々週も申しました断腸の思いともいえる愛)によるものだというのです。
このように、恐れと不安の中にある残りのユダの民に向けて、主が平安と救いの道を明確にお示しになるのですね。

その一方で、主は、そのユダの民に向けて災いと死、滅びの道についての警告を語られます。
それは、主の警告に聞くことなく、14節「自分たちの目先の判断でエジプトの地に行き、そこで寄留するなら」、16節「まさに、あなたたちが恐れている剣が、エジプトの地で襲いかかり、心配している飢えがエジプトまで後を追ってとりつき、あなたたちは死ぬ。エジプトへ行って寄留しようと決意している者はすべて剣、飢饉、疫病で死ぬ。わたしが臨ませる災いを免れ、生き残る者はひとりもない」と、お告げになります。
かつて彼らの先祖は主の御恵みによって出エジプトを果たし、荒れ野において多くの恵みを経験していたにも拘わらず、主に対して罪を犯し、かたくなに歩み続けてきたのです。それはさらにエレミヤの時代に至っても、民は相変わらず主に対してかたくなに罪を犯し続け、遂にユダの滅亡を招いたわけです。その間、神さまは常に祝福の道、逃れの道を備えてくださっているにも拘わらず、なおもこのユダの残りの民は、神が目の前に保証してくださる救いの道、逃れの道をかたくなに拒み続け、自分たちの好かれと考えるその道を進もうとするのです。神さまはそれこそが的外れ、「罪」という言葉には的外れという意味がございますが、まさに災いと滅びに通じる道だと警告しておられるんですね。

けれども実は、エレミヤのところに切羽詰まって訪れたヨハナンをはじめとする残りのユダの民は、あの10日間のうちにエジプトに行けば安全だという自分たちの思惑があって、それが彼らのうちにすでに決定的なものになっていたのです。

彼らは、主の言葉を語ったエレミヤに対してこう答えます。
「あなたの言っていることは偽りだ。我々の神である主はあなたを遣わしてはいない」。つまり、エジプトへ行ってはならないというのは神の答えではなく、エレミヤが自分勝手に語っているにすぎないと言って拒否したのです。
ここにそのように言ったのは「高慢な人々であった」とあります。
彼らは最初にエレミヤに会って懇願した時に何と言ったでしょうか。彼らは神の前でこう誓ったのです。「良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主の御声に聞き従います」。彼らがそう言って約束したからこそ、主なる神さまはエレミヤを通して救いの道をお示しになられたのです。それにも拘わらず彼らはそれが自分たちの意に反しているから、と拒むのです。それは高慢以外の何ものでもありません。
又、彼らはエレミヤの書記官バルクがエレミヤをそそのかして、対立させて自分たちを敵の手に渡して死なせるか、捕囚として引いて行かせようとしているのだ、と云いがかりをつけます。
しかしこれらはみな、彼らが「神の御声に聞き従うという約束」を守らないことの言い訳に過ぎなかったのです。

ここに明らかにされるのは、彼らは神の御心を知ってそれに聞き従うためではなく、自分たちの思い通りのことならエレミヤが語ることは受け入れるが、それ以外は受け入れられないという前提があったということです。彼らは自分たちの計画をただ後押しして欲しかった、自分たちを正当化したかったのです。
こうしてヨハナンらと民は、「ユダの地にとどまれ」という主の御声に聞き従わなかったのです。それが彼らの聞きたいと望んでいた御言葉でなかったからです。
彼らは「主の御声に聞き従わず」、エジプトの地に赴き、タフパンヘスにたどりついた、とあります。神さまが彼らにユダの国での救いと憐れみ、平安を確かに約束してくださったにも拘わらず、彼らは自分たちの思惑に頼り、主の御言葉に信頼しませんでした。
8節以降には、エジプトのタフパンヘスに寄留することになった彼らに同伴し、なおも神の言葉を語り続けるエレミヤの姿が記されています。たとえ人々から受け入れられなくても、神の言葉を、その御心を伝え続ける「涙の預言者」といわれるエレミヤの姿がそこにあります。

今日のエピソードから示されますことは、私たちも主の御心を求めて祈るとき、今日の箇所のユダの民と同様のことをしていないだろうかと吟味しなければならないということです。もちろん、主に祈るとき、私たちはあれは祈っていいが、これは祈ってはいけないというきまりはありません。自分のあるがままの思いを主に訴えて祈っていいわけであります。が、その自分の思いイコール神さまの御心というものではありません。主なる神さまはすべてを治め、最善の道を知っておられるお方ですから、主のご計画と人の道が必ずしも一致するものではないでしょう。自分の思いとは違ったものとして主の御心が示されることも又、実際起こってくることがあるということです。時にそれは自分にとって受け入れ難いような答えとして示されることはあるのです。しかしそれは主が、ほんとうの意味でその人を生かし、幸いなものとするために必要なものとして計画されるものであるのですね。

今日のエピソードがさらに示すことは、神さまから離れた民に安全(平安)な場所はないということです。この世にあって最も安全(平安)なところ、それは神のふところの中です。自分の力や考え、あるいは世の力に頼って生きようとエジプトに行くことが災いと死、滅びを招くことになるのです。もちろんこのエジプトというのはたとえです。それは「自分の力や考え、世の力を神のように頼りにする」ということでありますけれども。どうでしょうか、私たちも様々な出来事に恐れや不安を持ち、時に右往左往する者でありますが。そこで神の言葉、聖書のメッセージに聴き、踏みとどまってこの生ける御言葉にこそ依り頼み、聞き従う人のうちに、真の平安と救いが臨むのです。真に頼るべきもの、それは主のいのちの御言葉です。
エレミヤ書29章11節以降にこう記されています。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈るなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見出し、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」。

今日から始まりましたアドベントの期間、生けるいのちの御言葉であられる主イエス・キリストの誕生の喜びに向け、御言葉に聞き従い、主なる神さまの大いなる救いの計画を仰ぐ日々となりますよう、祈り求めてまいりましょう。
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御言葉による回復

2015-11-22 15:51:04 | メッセージ
宣教 エレミヤ32章6節-15節

本日はエレミヤ書32章より「御言葉による回復」と題し、御言葉を聞いていきます。
この時すでにユダの都エルサレムはバビロンの王ネブカドレツァルの軍隊に包囲され、今日のアナトトなどの周囲の地域も日に日にバビロンの支配下におかれていくような危機的状況にありました。3節に記されているように、エレミヤの再三に亘る警告をユダのゼデキヤ王は聞く耳をもたず、それどころか国に不利益をもたらすような預言をしてはならないとエレミヤを拘留します。今日のエピソードはその拘留されたエレミヤに「主の言葉が臨んだ」そのところから始まります。

① 「御言葉を聞く」ということ。
それは「いとこのハナムエルが訪ねて来て『わたしの畑を買取って下さい。あなたが親族として買い取り所有する権利があるのです』と言うであろう」というそのような御言葉がエレミヤに臨むのです。
そうしたところが8節にありますように、「主の言葉どおり」エレミヤのもとにいとこのハナムエルが訪ねて来て、主がおっしゃった事と同様の言葉を口にするのです。それは今にもバビロンに攻め込まれ、その支配下に移ろうとしている土地を買い取って欲しいという常識では全く受け入れ難い要求でした。
しかしエレミヤは9節の前にありますように、「これが主の言葉によることを知っていた」のです。そのことによってエレミヤはこれが主の言葉から出た事であるとの確信をもってハナムエルの申し出を受け入れるのです。

私たちもまた、エレミヤのように「聞いていた御言葉」が実際の生活の中でほんとうに生きた言葉として「ああ今まさに私に必要な言葉だ」とそのように響いてくることがあるでしょう。又「あの時聞いた御言葉が今生きている」。さらには「今の私の信仰にチャレンジを与えている」。そのお感じになることもあるのではないでしょうか。そういった御言葉のダイナミックな生きた働きを日々体験するためには、むろん日々の祈りと礼拝をはじめ聖書を読み御言葉に親しむことが不可欠です。
エレミヤが主の言葉を敏感にキャッチできたのは、たえず主と相対していたからです。人からは理解されず反感を買う中でも、又、投獄という不条理ともいえる境遇の中でさえも、彼は主に相対して祈り、訴え、嘆きつつも執り成した人であった。そう言う神さまとの関係性の中で、主は彼に生きた御言葉をお与えになるのですね。彼は15章16節でこう言っています。「あなたの御言葉が見いだされたとき わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり わたしの心は喜び躍りました」。
涙の預言者と言われたエレミヤのその心の思いをほんとうによく表している言葉でありましょう。
繰り返すようですが、エレミヤが「前もって御言葉を聞いた」のは、彼が獄舎に拘留されていた時でした。それは苦難の時、試練の時でありました。国は滅びに向かいつつあり、この先どうなるのか見えないような状況の時でした。そういう中でもエレミヤは主と相対して今日のエピソードのように御言葉の確信をもって行動を起こしたのです。

水曜夜の祈祷会で今新約聖書の書簡(手紙)を読んでいるのですが、そこから改めて教えられるのは、クリスチャンであってもなお降りかかってくる悩みや苦しみの中でなお祈り、望み、信じ続けることの重要性です。
私たちは苦難に遭い自分ではどうすることもできない時にも、決して落胆せず共に祈り続けること、共に信じ望み続ける、そのような中で主イエスの救いの奥義を教えられ、十字架と復活の生ける主が共におられることに気づかされます。それは自分の力が尽き、もうどうすることもできないお手上げになったところから、生ける御言葉と、そこに働いておられる主の御手の業を知らされるのですね。主はすべてをご存じのお方ですが、私たちがそこで主に応答しなければ、生きた関係性をもたなければ何も始まりませんし、何も起こりません。クリスチャンであっても自分の状態が安定し順調な時というのは、なかなか主と必死に向き合うということをしないものです。ある意味自分が追い込まれなければ主に必死に向き合うようなことはいたしません。とてもこの心は頑な者です。自分の世界に自信をもち、自分の力で何もかもできるかのように考えている間は、せっかく主がお語りになっていてもそれをキャッチできないし、御言葉の命を組み出すことができません。むしろ苦難の中でこそ、御言葉がほんとうに人を生かす力の源であることを知って、エレミヤがむさぼり食べたように、聖書の言葉を読み、主に聞き従っていく中で、私たちも主の御業を体験し、何にも代えがたい恵みに与ることができるのです。私たちの神さまは生きておられ、私たちといつも対話してくださるお方です。神さまは祈り求める者に生きた御言葉をお与えになり、御言葉に聞き従い行く者に、その事実を仰がせて下さるお方であります。

② 「主の言葉を行う」こと。
さて、「いとこのハナムエルの来訪と畑の買い取りの要請」を受けたエレミヤは、「わたしは、これが主の言葉によることを知っていた。わたしはいとこのハナムエルからアナトトにある畑を買い取り、銀十七シュケルを量って支払った」とあります。
先にも言いましたように、一般常識から見れば、いくら親戚から頼まれたとしても、エレサレムが陥落寸前でユダの国の存続さえ危ういその状況下で、なかばバビロンに差し押さえられたも同然の土地を買い取るような人などいません。この危機的状況に及んで土地の売買などして何の意味があるでしょう。周りの人たちもどうしてそんな無駄なことをするのか、とけげんに思ったのではないでしょうか。お人よしにも程があると笑う者もいたかも知れません。
一方、危機に直面して畑を売ろうとしているハナムエルの行動の方が人々にはむしろ賢明に映ったのではないでしょうか。
しかし、エレミヤはそれが主のご計画のうちにあることを確信していました。御言葉に従うことが後々ユダの人々の希望となり、主の救いの証しに変えられていくことと信じ、望み、行動を起こすのです。彼は獄舎に拘留されている身であるにも拘わらず、なおかつそれが自分にとって不利益なものとなっても主のご計画に信頼して行動を起こすのです。このように御言葉への信頼は具体的行動に結びつくことで証明されます。

そこで、エレミヤはいとこのハナムエルと土地の売買契約をわざわざ当時の法的手続きに則って行います。古代のパレスチナにおいて土地の売買の際には2通の契約書を作成し、原本となる購入証書は封印され、永久に保存するためかめに入れて、土の中に保存した。写しの証書は封印されず購入者が所持したということで、ここではエレミヤの購入証書の写しは彼の友人であり書記官であったバルクに保存させたようですが。その売買過程で契約が成立するためには、3人の証人が必要とされたそうです。まあ、そのようにこの土地売買の契約は当時の法的手続きに則って行われ、さらにその場には獄舎にいたユダの人々全員もおりそれを見ていたとありますことから、それがある意味公的に行われたということですね。
そしてその人々が見ている前でエレミヤはバルクにこう命じます。
14節、15節「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。これらの証書、すなわち、封印した購入証書と、その写しを取り、素焼きの器に納めて長く保存せよ。イエスラエルの神、万軍の主が、『この国で家、畑、ぶどう畑を再び買い取る時が来る』と言われるからだ」。
 この御言葉によってそこに集められたユダの人々のうちに神さまの約束の言葉、希望の言葉が植えつけられるのです。それは艱難の暗い時代のともしびとなり、来るべき解放の日には神さまの約束の実現として祝われることとなっていくのです。
37‐42節にはエレミヤに臨んだ主の御言葉が次のように語られています。
「かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを集め、この場所に帰られ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。わたしは彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない、またわたしに従う心を与え、わたしから離れることのないようにする。わたしは彼らに恵みを与えることを喜びとし、心と思いを込めて確かに彼らをこの土地に植える。まことに、主はこう言われる。かつて、この民にこの大きな災いを下したが、今や、彼らに約束したとおり、あらゆる恵みを与える」。
今日のお話は、土地の売買という現実の生活と密着したものが題材になっております。
先程子どもメッセージで話されていたように、戦争という事態で「すべてが無駄になりそうな時代の中にあっても、エレミヤは国が平和だった時と同じように、神さまの律法に定められたとおりのことを行った人であった」のですね。

今日の世界をとりまく状況、この日本もまた、まさに聖書の御言葉に記されてありますとおり、「国々は騒ぎ立ち、地の面は揺さぶられている」事態が生じておりますけれども、エレミヤがたとえ周囲の人々には理解されず、苦難を受けるようなことがあっても、「生ける主の言葉に聞き、それを行って」主の解放と回復の計画を指し示していったように、私たちもまた、希望をもっていのちの御言葉の救いと真理を掲げ続ける者とされてまいりましょう。
祈ります。
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新しい契約

2015-11-15 14:17:03 | メッセージ
宣教 エレミヤ31章

今日はエレミヤ書31章から「新しい契約」と題し、御言葉を聞いていきます。
2年前にもこのところから、同じ宣教題で実はお話していたということを先週の水曜日にある方から知らされ、また同じ題をつけてしまったんですね。その時のお話と今日とは時間的にも経過しており、又御言葉の受けとり方も少し変っています点についてお話できたらと思います。

まず、「新しい契約」ということについてですが、これを一事でいえば「新約聖書」の新約のことを表しています。先日ある方が、旧約聖書と新約聖書の違いについて、カトリック教会が旧約聖書を聖典とし、プロテスタント教会は新約聖書を聖典としているんですか、とお尋ねになられたのです。以前にも同様の質問を受けたことがありますが。「旧約」とは今日の箇所でも記されているとおり、出エジプト以来神とイスラエルの民とが結んだ契約であり、それは「モーセの十戒」を柱とする律法を守り行うことによって与えられる神と人の契約のことですね。新約は旧約聖書に預言されたメシヤ・救世主イエス・キリストによる救いの新しい契約です。私たちプロテスタントも又カトリックもキリスト教会では、その「旧約」と「新約」とが2つ揃って「聖書」なんです。旧約だけでは聖書ではないし、逆に新約だけでも聖書ではありません。神は旧約と新約に一貫して働いておられると、そう信じているのです。

本日のエレミヤ書31章には、その契約による救いを与えたもう「神さまの特性」というべきものを読み取ることができます。
それは第1に「神の愛(憐れみ)」についてであります。
31章3節に、神がイスラエルとユダについてエレミヤに語られた言葉ですがこう記されています。「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し 変ることなく慈しみを注ぐ」。さらに20節には、神がエフライム(これはイスラエルのことですが)、そのエフライムに向けて「エフライムはわたしのかけがえのない息子 喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り わたしは彼を憐れまずにいられないと主は言われる」とおっしゃるのですね。
 ここには、神さまのイスラエルとユダの民に対する熱情ともいえる愛が一貫して語られています。それはそもそも申命記の7章6‐8節のところにあるとおり、神さまがイスラエルの民を「神の宝の民」とされたそこに原点があるのです。何度もこの箇所を礼拝で引用し耳にタコができたという方もおられるかも知れませんが、非常に大事な御言葉ですのでお聞き下さい。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民より数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」。
この「主の愛」とあります「愛」はヘブル語で「ヘセド」;腸(はらわた)がちぎれるほどの思い(断腸の思い)をもってという事です。先のイスラエルとユダの民に向けて語られたとおり、時は流れ人は変り罪が増しても、神さまは3節「わたしはとこしえの愛をもってあなたを愛し 変ることなく慈しみを注ぐ」20節「彼のゆえに、胸は高鳴り(断腸の思い)で、わたしは彼を憐れまずにいられない」と一貫して民を見守っておられるのです。
私たち一人ひとりも又、主イエスにある新しい契約のもと神さまのこのヘセドの愛、腸がちぎれるような熱情ともいえる深い愛と憐れみを受けているのです。それは私たちが何か救われるに十分な能力や資格があったからというのではなく、20節にあるとおり、ただ、その主の愛のゆえに、父がその子を憐れむそのヘセドの愛をもって、救いを必要とする私たち一人ひとりを贖い、導いておられるのです。

神さまの特性というべき第2の点は、神さまが「見張り(見守り)続けられる神である」ということです。この「見張る」の原語は「見守る」とも訳せます。
28節にこう記されています。「かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている、と主は言われる」。
 神さまはその民が預言者を通してなされた警告に聞くことなく、滅びに向かうその姿を断腸の思いもって「立ち返って命を得よ」と切に願いながら、ずっと見守り続けておられたのですね。けれどもそんな神さまの御心とは裏腹に、民は神のご計画を拒み、自ら崩壊への道へ落ちていくのであります。どんなに神さまの心は痛んだことでしょう。それでもなお神さまはイスラエルとユダの民に望みをかけ、その後もなおずっと見守り続けられたのです。
イスラエルとユダの完全な崩壊と確かに人の目では何もかもが終わったように見えました。けれどもそれがすべての終わりではなかったのです。そのような闇のような時代においても、神さまはイスラエルとユダの民を見捨てることなく、見守り続けておられたのです。それは、これらのことを通して後に実現する「新しい契約の日」、その日に向け、すなわち28節にありますように「今、わたしは彼らを建て、また植えようとして見張っている」とおっしゃるんですね。そうなんです、神さまは決して民から目を離されません。彼らがどのような状況にあっても、たとえ悲惨な、打ち捨てられたような状況にあっても、神さまは決して見捨てることなく、見守り続けておられるのです。

ほんとうに移ろいやすく不確かな自分をどこまでも見守り続けてくださる神さまの存在に心から気づいた人は、その神さまに向きを変えて立ち返って生きるようになるでしょう。もはや先祖に罪の責任を問うことなく、自らが神の前にあってどのように生きていくかを考えるようになるでしょう。
29節には「その日には、人々はもはや言わない。『先祖が酸いぶどうを食べれば 子孫の歯が浮く』とあります。
この言葉は昔からの言い伝えのようですが。日本でも自分にふりかかる災は先祖のたたりだからと言われたりいたします。災いに遭い弱気になった人の心に着け入り、お祓いや壺を押しつけて多額の請求をするような財霊感商法が後を絶ちません。
神さまは、先祖が悪いことをしたとしても、それはその人自身の罪であってその罰(ばち)を子孫である者たちに負わせることはない、と言われているのです。それは預言者エゼキエル書も同様、バビロンの捕囚の民に向けて18章3節以降で「お前たちはイスラエルにおいてこのことわざを二度と口にすることはない。すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も同様にわたしのものである。罪を犯した者その人が死ぬ」と、その罪の代償としての審きの責任はその人自身にあることを強調しています。
捕囚の民の中にも、自分たちがこのような目に遭うのは先祖の罪が自分たちにふりかかったのだろうか、とそのように考える人たちもいたようです。
けれども、問題は先祖にあるのではなく、自らが滅びの道から立ち返って生きよ、との警告に反して耳ざわりのよい偽りの平安や平和に身をゆだね、身勝手に歩んでいった末に今の事態を招いた。その事に気づかずにいた、そこに問題があったのです。先祖にではなく神さまと自分自身との関係が問われているのです。

翻って、主によって贖いとられ救われた私ども又、主の見守りの中で、この主との一対一の信頼関係を絶えず築いて生きていくことこそ、新しい契約にあずかる者の生き方なのです。まさに「今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている、と主は(私たちに対して)言われている」のであります。

さて、神さまの特性の3番目は「人の心に働きかけ、人を新しく創造してくださるお方」だということです。31-33節にはこのようにあります。
「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはわたしの契約を破った、と主は言われる。しかし来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」。

エジプトから導き出された時の契約とは、始めに申しあげたとおり十戒の律法に基づくものでした。出エジプト19章5節~6節で、神さまは「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる」とおっしゃっているんですね。しかし、これに反してイスラエルの民は、その神との契約を軽んじ神に逆らい続けたのです。再三にわたる預言者たちの「悔い改めよ、神に立ち返れ」との警告に聞く耳を持たず、罪を犯し続け、契約における祝福は損なわれて遂にユダの国は崩壊し、捕囚の民となってしまうのです。

それにも拘わらず神さまは、そのイスラエルとユダの家に「新しい契約」を結ぶ日が来る、と約束されるのですね。その新しい契約とはどのようなものでしょうか。
それについて神さまは、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」と言われています。
それは「神さま御自身が直接的に人の心に働きかけ、神に信頼し従う愛と意志を人々のうちに起こさせる」というのです。エゼキエル書36章26節にはこのように記されています。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」
この後ユダの捕囚とされた人々はその苦難を通して真に神に立ち返り、やがて神の宝の民としての復興のときを迎えます。
しかしここに記された約束が完全な形で実現されたのはそれからさらに数百年後のことであります。その時、神さま自ら人の心に働きかけ、新しい心を与え、人のうちに新しい霊をおいて、石のようなかたくなさを打ち砕き、柔らかくしなやかな心をお与え下さる。それはまさに私どもにとりまして主イエス・キリストご自身であります。主自ら私たちの心に働きかけ、新しい霊、すなわち聖霊をもって私たちから石の心を取り除き、柔らかな肉の心を授け、神に信頼し従う意志と愛を与えてくださっているのです。

34節「そのとき、人々は隣人どうし。兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる」。
いくら熱心に律法を守り、知識を得たとしても、神さまとの命の交わり、生きた関係が築かれなければ意味はありません。人の名刺を見ても、実際その人を知らなければ関係性が起こらないと同様、どんなに「主よ、主よ」と言っても、実際に生きた神さまとの関わりがないのならそれは死んだ信仰といえます。
大切なのは、神ご自身がイエス・キリストという肉の姿をとってこの地上においでになり、直接働きかけて私たちの心のうちに「主を知る」聖霊をおいてくださっている事実であり、私たちから石の心を取り除き、主に喜び従う愛でいっぱいに満たしてくださっているその恵みであります。
「主を知る」。それはまさに、神さまの側の働きと導き、聖霊のお取り扱いによるものなのであります。そういう「神は生きてお働きになられる」「神はわたしと共におられる」という確信を戴き、その信仰の体験によって私たちは日々新しく創造されていくのですね。
神の霊にとらえられた人は益々謙虚にされ、心が神さまによって開かれているがゆえに、神さまのなさる御業やお働きをしなやかに、又敏感に察知でき、神さまの働きに関わることができるのです。この生きておられる神さまとの関係こそ、「新しい契約」の本質なのであります。

最後の34節で、主は「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」と言われています。この言葉は簡単に読み過ごされそうですが、とても大事なことです。
そもそも、イスラエルの民はシナイの旧い契約を自ら破って滅ぶしかなかったのであります。それにも拘わらず、神さまはその民が滅びゆくことが耐え難かったために、その罪深い民と今度は新しい契約を結ばれたのです。これまで御言葉を辿ってきたとおりですが。それはまさに、神の側が人の側に近づき、人のあるがままを引き受けてくださった、ということであります。そこにこの旧約聖書において新約聖書さながらの神さまのご性質が示されております。
今や完全なかたちで顕わされた「新しい契約」は、まさに神の御子イエス・キリストが人の罪を引き受け担われて、十字架の上で流された血汐によって与えられる罪の贖いと赦しになのです。主の晩餐の折に、いつも「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」とⅠコリント11章25節が読まれますよね。
この新しく結ばれた契約は、以前の契約と違って、人の罪と弱さによって破棄されることはありません。そこに如何なる犠牲と傷みが払われたかを、私たちは決して忘れてはなりません。日々、聖霊が私たちの胸の中に主の愛と恵みを授けてくださっていることを覚えつつ、私たちの心に記された命の御言葉を生き、証しとなる者とされていきましょう。そこに新しい契約に与った私たちの道があります。
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主が遣わされた真の預言者

2015-11-08 15:47:30 | メッセージ
礼拝宣教 エレミヤ28章 

本日はエレミヤ28章から「主が遣わされた真の預言者」と題し、御言葉に聞いていきます。まずその前の27章において、5つの国の使者たちがユダの王ゼデキヤのもとに遣わされエレサレムにやって来たエピソードがでてまいりますが。エレミヤは主に命じられるまま軛を作って自分の首にはめます。軛とは2頭の牛などの家畜をその横木でつなぎ畑仕事などをさせる道具でありますが。大国バビロンに対抗すべく軍事同盟を画策するためにエルサレムに集まっていたエドムの王、モアブの王、アンモンの王、ティルスの王、シドンの王の使者たちそれぞれに、エレミヤはその軛をはめて接見するのです。エレミヤは彼らに対して主の言葉とそのご計画を語ります。「ビロンの王ネブカドネッアルに降伏し、その軛を負うように仕えるなら、滅びを免れる。それに反してバビロンの王に仕えるべきではないと言っている偽預言者らの声に聞き従ってはならない。さもないと滅びに至ると語り、それを自国の王に伝言するよう強く訴えます。
また、ユダの王ゼデキヤにも同様のことを訴えて、こう語りました。
「首を差し出して、バビロンの王の軛を負い、彼らとその民に仕えよ。そうすれば命を保つことができる。どうして、あなたもあなたの民も、剣、飢饉、疫病などで死んでよいであろうか。主がバビロンの王に仕えようとしない国に宣言されたように、バビロンの王に仕えるな、と言っている預言者たちの言葉に従ってはならない。彼らはあなたたちに偽りの預言をしているのだ。主は言われる。わたしは彼らを派遣していないのに、彼らはわたしの名を使って偽りの預言をしている。彼らに従うならば、わたしはあなたたちを追い払い、あなたたちとあなたたちに預言している預言者を滅ぼす。」(27:12-15)
エレミヤはさらにエルサレムの祭司たちと、ユダの民すべてにも次のように主の言葉を語ります。「主はこう言われる。主の神殿の祭具は今すぐにもバビロンから戻って来る、と預言している預言者たちの言葉に聞き従ってはならない。彼らは偽りの預言をしているのだ。彼らに聞き従うな。バビロンの王に仕えよ。そうすれば命を保つことができる。どうしてこの都が廃虚と化してよいだろうか。」(27:16~18)

以上のようにエレミヤは軛を首にはめるというパフォーマンスをもって諸国の使者たち、ユダの王、さらにユダの祭司と民のすべてに、懸命に預った主の言葉を伝え続けるのでありますが。しかし多くの人にとって、それは決して耳触りのよい話ではありませんでした。多くの愛国主義者にとっては国家に対する反逆的思想を持った危険人物か売国奴として目されていたのです。
エレミヤは権力ではなく主を畏れ敬う預言者であり、又、ユダの民が真心から主に立ち返って御心に従うことで、ユダの民の滅びを回避したいと願っていたのです。それはエレミヤが主にあってユダの民を愛してやまなかったという証でもありました。
「愛国心」とは何でしょうか?国家を愛するということが公に教育され強要されていく時、その国に暮らす個々人より、姿なき国家権力、またその存続が優先され多大な犠牲の代償が払われていくのです。人類は幾度同様のことを繰り返せばよいのでしょうか。私はこのエレミヤこそ本当の意味で愛国心を持っていた人であったとそう思えるのです。ユダの民が滅びゆくことを回避すること、過った方向にユダが突き進んで滅びの道を辿らないためにとの一心で、主の言葉を伝え続けた。そこに主の民ユダとその人々を愛してやまない彼の思いが表れているように思います。

さて本日の28章は、このエレミヤの姿を目撃し、その言葉を耳にしたであろう預言者ハナンヤとの対決の場面であります。
このハナンヤについては「国家主義派の預言者」であったと言われ、エルサレムとその神殿は永遠に不滅であるという不滅神話のもと、いかなるものからも侵されるべきものではないというかたくなな信念をもっていました。真の神を畏れ敬うというよりはそういった国粋主義的思想を持つ人物であり、ユダのゼデキヤ王の政策にも影響を与えるいわば従軍預言者であったと言われています。

預言者ハナンヤは、エレミヤとは対照的に、「主はバビロン王のくびきを打ち砕く」と熱弁をふるいます。つまりユダが近隣諸国と軍事同盟を組んでバビロンと戦争をして打ち砕くことこそ平和の道だ、と説いたのです。

エレミヤは2-4節のハナンヤの言葉に対して答えます。
「アーメン、主がそのとおりにしてくださるように。どうか主があなたの預言の言葉を実現し、主の神殿の祭具と捕囚の民すべてをバビロンからこの場所に戻してくださるように。」
ヘブライ語で「ア―メン」とは「そのとおり」「本当に」という感嘆の言葉です。エレミヤはある面ハナンヤの預言を「ああ、本当にそうでありますように」と肯定しているのです。エレミヤもまた遠い将来ではありますが、同様にバビロン王の軛もいずれ打ち砕かれる時が来る。やがて民はバビロンの捕囚から解放されてエルサレムに帰還できることを主から聞き、それを信じていたからです。その主のご計画に「ア―メン」と言ったのですね。            

しかしエレミヤはハナンヤの預言について次のように指摘します。
「あなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、巨大な大国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」(8-9)
つまり、ハナンヤは主の深い御心とそのご計画を信じ仰ぐことより、国家統治を第一として巧みに耳触りのよい言葉でダの祭司やすべての民衆に向けて安易に平和と繁栄を口にするのでありますが、エレミヤは「それが本当に主から遣わされた者かどうかは、実際事が起こった時に明らかに分かる。証明される」というのです。
そうですね。主の預言者たちはいつの時代も真理に逆らい罪を犯し続ける権力者や民衆に向けて警告を発してきました。しかしその預言が受け入れるのはごくまれなことでありました。多くの人々は耳触りのよい巧みな言葉に煽動され、自己正当化して悔い改めることなく、そうして真の預言者は排斥と迫害に遭い、遂には主の審きは現実のものとなっていくのです。6章13-14節にはこのように記されています。「身分の低い者から高い者に至るまで 皆、利をむさぼり 預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らはわが民の破滅を手軽に治療して 平和がないのに、『平和、平和』と言うと。」
ハナンヤが真の預言者であるのなら、主への悔改めもないところで『主がバビロンの軛を打ち砕く』などと軽々しく言えるものではない」ということです。主に遣わされた真の預言者かそうでないか、それは後に起こってくる事実によって証明される。
しかし起こってからでは遅いのですから、今を生きる私たちも様々な安全神話に惑わされることのないよう、主の御前にあって謙虚に耳を傾けていく者でありたいと願います。

さて、ハナンヤは、エレミヤの首から軛をはずして、打ち砕き、すべての民衆を前にして言います。「主はこう言われる。わたしはこのように、二年のうちに、あらゆる国々の首にはめられているバビロンの王の軛を打ち砕く。」
彼は、実に何かショーでも見せるかのように、「神の国ユダがこの軛のようにバビロンを打ち砕く」と豪語するのです。しかしそれは主がお示しになるためにエレミヤに負わせた軛なのですから、それを打ち砕いたとは主に対する挑戦であったのですね。
残念なことにこのハナンヤの劇場型パフォーマンスは民衆のうけが良かったのです。ユダの人たちは彼のその巧みな話術や仕草を見て高揚した気分になり、社会への不安やうっぷんがスッキリ・ハッキリと取り除かれるように感じたのではないでしょうか。
「大丈夫、ユダは守られ、きっとまた繁栄が取り戻される」とそう期待し、そのように言ってくれたハナンヤを称賛したことでしょう。しかしそれは神からの預言ではなく、巧みに民を煽動したに過ぎません。
戦争の前には毎回このようなことが起こっていくのでありましょうが。それは指導者だけでなく民集も惑わされ、それを支持したり、迎合していくところに歯止めの効かない暴走が起こっていくのですね。今の時代に生きる私たちもそのようなことと全く無関係だとはいえません。私たちもユダの民衆のようにならないとは限りません。主イエスは私たちに「目を覚ましていなさい。祈り続けなさい」と、流されることのないように、今日も語りかけておられます。

さて、エレミヤはこのハナンヤの言葉を聞き「立ち去った」とあります。エレミヤは神学論争を交えてハナンヤを論破することも可能であったかも知れません。しかし彼は敢えて売り言葉に買い言葉というような論争をしませんでした。
それは感情的になってハナンヤと対決すれば、相手の思う壺にはまる危険性があったという事かも知れません。周囲にはハナンヤを称賛し、その言葉とパフォーマンスに陶酔していた大衆がいました。エレミヤも言い返したい事の一つや二つはあった事でしょう。けれども彼はそんな自分の考えや感情より、優先させるべき事柄があったのです。そうです、彼は自分の感情にではなく、謙虚に神の御心に聞き従う道を選び取ったということです。預言者として己の行くべき道、その使命は「主の言葉と御心を伝える」その一事にあったからです。エレミヤは一旦その場所から離れることによって、事態を霊的に見つめ直し、さらに主の御心を求めて祈っていたのではないでしょうか。

そうした後、エレミヤに主の言葉が臨みました。
「行ってハナンヤに言え。主はこう言われる。お前は木の軛を打ち砕いたが、その代わりに、鉄の軛を作った。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、これらの国すべての首に鉄の軛をはめて、バビロンの王ネブカドネツェルに仕えさせる。彼らはその奴隷となる。わたしは野の獣まで彼に与えた。」(13-14)

ここには厳格な審きが語られています。それは単なる罰というのではなく「主が命を得させよう」となさっておられるのに、民は悔改めて立ち返ることなく、惑わされ煽動されて滅びの道を自ら選び取ったことによるその結末が語られているのです。

エレミヤはハナンヤに向かって次のように言います。
「ハナンヤよ、よく聞け。主はお前を遣わされていない。お前はこの民を安心させようとしているが、それは偽りだ。それゆえ主はこう言われる。『わたしはお前をこの地から追い払う』と。お前は今年のうちに死ぬ。主に逆らって語ったのだから。」(15-16)

そしてその主の言葉どおりその事が起こるのでありますが、それは偽りの預言をなす者と同様、それに従う者にやがて下される主の審判を暗示する出来事でありました。それでも民は悔改めることをせず、やがて彼らの上にも重い鉄の軛がはめられることになるのであります。

最後に、本日の箇所でエレミヤが首にはめた軛には、バビロンと軛を共にするように、バビロンの王に仕えるように、という意味あいが込められていました。しかしその本来のメッセージは、ユダの王や民が罪を悔い改め、主ご自身と共に軛を負う者となることにあったのです。主イエスは言われました。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:29-30)

本当の平安、真の安息は主と軛を共にすることによって初めて得られるのです。
しかし私たちの生きる現実の場において、世には惑わしが満ちており、主の御心に反する力や働きかけがあふれております。私たちとその周りにはあのハナンヤの言うような魅力的な誘いが満ちています。それらは私たちが主の言葉を聞き、主の御心を求めていくことを妨げるあらゆる働きです。又、私たちを神から遠く引き離そうとさせる働きです。そのような時如何に対処したらいいのかについて、今日の箇所は一つの道筋を示しています。
 それは、エレミヤがハナンヤの巧みな誘いの言葉にのらず対抗せずに、彼がどこまでも謙虚に神の御心に聞き従う道を選びとることを第一としていった。そこに真理の主がエレミヤと共におられたということです。私たちもまた、その真理の主と軛を共にする本当の平安を得る者とされてまいりましょう。

「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:29-30)
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神を知る心

2015-11-02 12:01:43 | メッセージ
礼拝宣教 エレミヤ24章  

今日はいつもの席にパワーポイントのご奉仕をずっと担って下さっていたHさんのお姿をこの目で見ることはできませ。先週の月曜日は病床でバプテスマをお受けになったYさんの告別式でした。私はそのすべてを終え帰宅して夕食でも頂こうとしていた時、玄関のチャイムがなりました。Hさんの訪問ヘルパーの方がその方の訃報を知らせてくださったのです。その前の週の水曜日の夜の祈祷会ではお元気そうでしたし、にわかに信じ難く頭が真っ白になりました。2年前のバプテスマにおいて彼のそのお証しをお聞きになった方は、華やかな元プロカメラマンであった彼がその人生半ばにおいて挫折しどれほど厳しい状況を生きて来られたかご存じでしょう。そのような中でキリストの救いを見出された兄弟ですが、病は重く、加えて闘病中のお母さまへのご心配はいつも兄弟の祈りの課題でした。人には想像もつかないような苦労を抱えつつ、毎週の礼拝とご奉仕、祈り会と賛美の集会に欠かさず出席なさった兄弟。また、まれこれ1年ほど前になるでしょうか。毎週木曜日には我が家の子どもの家庭教師としてお越しになり、ささやかな夕ご飯の食卓を囲みました。
週に4日間ほんとうに神の家族との交わりを中心に、彼の生活はあったのです。その彼が天に召されたことは確かに突然で衝撃的でありましたけれども、神さまは3つの奇跡を起こしてそれを見せてくださったのです。一つは、先程も触れましたが、訪問ヘルパーの方の知らせです。もしこの方の知らせがなかったなら彼がどうなっていたか知らずにいたでしょうし、その後についても想像がつきません。彼は普段からヘルパーさんに自分が教会に自分が行っていること話していたそうで、そのことを知って教会に知らせにきてくださったのです。二つ目は、これも天に召される前の水曜日に、2年近く大阪教会に来られていなかった姉妹がその夜の祈祷会に突然来られたのです。この方はいつもHさんから大阪教会に来るようにいわれていたようですが。耳を傾けることなくすましていたそうですが、何か不思議にその水曜日には行こうと言う思いが起こったそうです。その祈祷会後はバザーの炊き込みご飯をみんなで食べたんですね。これが彼との最後の祈祷会、愛餐となりました。そして三つ目は、私と連れ合いが彼のお葬儀のことでお母さん家を訪問してお話をした時のことです。彼のお母さんは重い病気を抱えておられ歩くのも杖を持ってやっという状態で、お友達の方がいつもお世話をされ、その日もお母さんのそばにそのお友達の方がついておられて、私どもに「お話はありがたいですけど、福祉の方にお葬儀は全部お願いしていますので、お断りします」と再三にわたっていわれたのですね。福祉で葬儀をするというのは仏式で行うということです。それでもあきらめきれず、「お母さん。息子さんはクリスチャンとなって現在教会の礼拝や祈祷会に毎週来られご奉仕をされ、いつもお母さんのご病気がいやされるようにと神さまに祈っておられます。その信じるところに沿うかたちのキリスト教のお葬儀で送ってあげることを、ご本人もきっと望んでおられるのではないでしょうか」と、そういう言葉が私の口から自然に出たんですね。するとお母さんのお隣にいらしたお友達の方が、息子さんのお母さんに向かって「私の思いを言っていいかなあ。私だったら息子が一番願っていることをしてあげたいと思う。お話を聞いて初めて、息子さんが教会によく通い、奉仕をされているその様子が私には分かりました」といわれたんですね。するとお母さんの方も、「そうやね、それならぜひ息子のお葬儀の方お願いします」と私たちに頼まれたんです。その時、神の手が動いたと強く感じました。この3つのお話に共通していたのは、普段からHさんが大阪教会に通っておられることをヘルパーさん、教会に戻ってこられた姉妹、それとお母さんにはっきりと伝え、話をしておられたことです。そこに神の手は確かに動き、豊かに働かれたのです。Hさんは大変寡黙な人でしたが、苦労を知っている人だけが持ち得る深い暖かみかもした人でした。「主は打ち砕かれた魂に近くにおられる」、そのことを実感させてくれる人でした。その最期まで神さまに忠実に聞き、仕え、神の家族の交わりにご自分の魂の居場所を得て、主の救いのうちに日々を過ごしてこられたと、私は信じます。

本日はエレミヤ書24章の「良いいちじくと悪いいちじく」のたとえの預言から、「神を知る心」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。

1節にあるように、バビロンの王ネブカドレツァルが、ユダの王、ヨアキムの子エコンヤ、ユダの高官たち、それに工匠や鍛冶をエルサレムから捕囚としてバビロンに連れて行った後に、神さまはエレミヤに幻を示されました。
それは2つの籠に入れられたいちじくの幻でした。それぞれの籠には、「非常に良いいちじく」と「非常に悪いいちじく」が入っていました。
「エレミヤよ何が見えるか」そう問われたエレミヤは、そのいちじくを見て答えます。「良い方のいちじくは非常に良いものですが、悪い方は非常に悪くて食べられません。」

すると神さまは、バビロンの捕囚となって連行されていった人々を良いいちじくと見なし、一方の、エレサレムに残されたユダの人々を非常に悪くて食べられないいちじくのようにする、とおっしゃるのです。

神さまは捕囚とされた方のユダの人々に向けて5節で、「わたしは彼らをこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう。」そのように宣言されるのですが。
しかし、それは彼らが何か残されたユダの人々より勝っていたからということではないんですね。彼らも又、神の預言に耳を傾けようとはしなかったのです。ですから、ここに「良いいちじくのように見なす」とあります。それは、やがていつの日か本当に彼らが良いいちじくのようになる日が来る、そういう期待が込められているのですね。
神の都、エルサレムからひきはがされるようにバビロンの地へ連行された人々が、みじめで、苦しく、厳しい状況の中で、自分たちの犯した罪、その過ちに気付き、真の神を知る心を、与えられていくのです。エレミヤが見た良いいちじくの実を結ぶ者とされていくのですね。彼らは遠い異国の地、異教の偶像が祀られるその捕囚の地のただ中で、深い悔改めと真心をもってその神のもとに立ち返るように導かれます。
6節に「彼らをこの地に連れ戻す。彼らを建てて、倒さず、植えて、抜くことはない」とあるとおり、そうして建てられた信仰は、70年間といわれる長い捕囚の生活においても、決して打ち倒されることはありませんでした。やがては時が満ち、真心をもって約束の地に帰還する彼らを、主は再びその地に植えつけ、ご自身の民となさるのであります。この捕囚とされた子孫らがイスラエルの国家の再建と神の生きた言葉である旧約聖書の編纂を手掛けていくことになるのですね。こうした長い苦難の日々を通して主を知る心を与えられ、「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神になる」という預言が実現されていくのです。

一方、エルサレムに残されたユダの人々ですが。彼らは「捕囚とされた人々に比べれば自分たちは災いに遭う事なく守られた。自分たちは正しかったから祝福されたのだ。捕囚とされた人たちは罪深かったから災いに遭ったのだ」と、安心しきっていました。悔改めて神に立ち帰るどころか、諸外国の忌むべき行いに倣い、罪を犯し続けたのです。彼らの目に見えるところで判断すれば、災に遭わずにすむというのは、神の祝福のように思います。しかしむしろ悔改める機会を得ることがないというのは非常に危険なことなんですね。エレミヤはエルサレムに残り、なお聞く耳をもたないユダの人々に神の御心を伝え続けましたが。バビロンの軍隊がエルサレムを完全に包囲してエルサレムの神殿は崩壊し、ユダは陥落してしまうのです。エレミヤの預言を最後までかたくなに拒んだゼデキヤ王は大きな傷を負い、捕虜としてバビロンに連行されていきます。

そのように、エレミヤはエルサレムが完全に陥落する時迄、神の御心に対して聞く耳をもたない、悪い、食べられないしなびれたいちじくのようなユダの人々に向かって「神の言葉に立ち帰って生きよ。そうでなければ滅びを招くことになる」と訴え続けたのですね。ここに悲しみの預言者といわれるエレミヤの所以を伺い知ることができますけれども。
今日のこの箇所を読み、考えさせられますのは、エルサレムに残ったゼデキヤ王をはじめ高官、ユダの民は大きな思い違いをしていたということであります。「捕囚とされた同胞は罪があった、落ち度があった、だから災いに遭った、自分たちは正しいから守られている」というおごり高ぶりがあったということです。
そのような彼らの心を神さまはすべて見通しておられました。
もし、この後、ユダに残った民が、悔改め、エレミヤの告げる主の言葉をまっすぐに受け入れ、神を知る心を持つことができたのなら、「主の御手にある」真の揺るがぬ平安を得たことでしょう。
私たちはどうでしょう。先の良いいちじくのたとえのように、苦難の中で神さまを見出し、真の意味で信仰者として建てられ、神の民とされていくのか。あるいはしなびてもはや食べることのできないいちじくのように、立ち返って神の前に生きることに鈍感になってはいないか、本当に問われます。

最後に、今日は「神を知る心」と題して、御言葉を聞いてきました。私たちの人生にも順調に行っているように思える時、又、苦境に立たされる時がございます。それぞれの日常にあっても、お仕事又育児等で、今、日々追われるよう慌ただしくひと日ひと日を過ごしている方もおられるでしょう。又、社会の一線を退かれて、時間を与えられている方もいるでしょう。あるいは病と向きあいながら、しんどい療養の日々を過ごしている方もいるでしょう。ほんとうに様々でありますけれども。大切な事は、私たちが、どのような時も、どんな状況であっても、私の心が神さまと向き合っているかどうかということです。よく汐満姉が特伝講師であられた松村先生でしたか、「心のチャンネル神さまに合わせましょう」ということおっしゃいますが、そうです。そのようにいつも主に向かって祈り求め、信仰の確認をしていくことを怠ってはならないということであります。
私たちは目に見えるところだけで明日の事を判断することはできません。ほんとうにいつ、何が起こるか私たちには分かりません。だからこそ、与えられた出会いと、その時その時を大事に、丁寧に、主の言葉に聞きながら生きて行く。教会の礼拝や祈祷会のみならず、すべての生活の全領域において、神を知る心をもって一日一日を歩む。そこに本物の平安が与えられていくのですね。神の霊が、ご聖霊が、私たちの内に臨み、神を知ることの豊かな実りが与えられますよう、祈り求めながら努めてまいりましょう。
ゆたかな柔らかな心でいられるように、主を喜び、主に祈りながら、また新しい11月と今週を歩んでまいりましょう。
最後に7節をお読みして宣教を閉じます。
「そしてわたしは、わったしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。」
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