日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

進んで心からささげる

2015-09-27 12:30:32 | メッセージ
礼拝宣教 出エジプト記35・4-29  

「モーセの誕生から始まりました出エジプト記も3ヶ月が経ち、一応最終回となります。本日はさきほど読まれました35章より、「進んで心からささげる」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。

この箇所は「幕屋の建設」について記されております。
幕屋は、荒野を旅するイスラエルの人々にとって移動できる聖所でありました。それは神さまが現れる場所であり、イスラエルの人々の間に住まわれることを示すものであったのです。今日的にはそれを教会堂や神の神殿と考えることができるでしょう。
一人だけで信仰を保ち生きていくことは到底できることではありません。共に礼拝を捧げ、祈りとりなし合う中に主は臨在を示して下さるのです。
主イエスは言われました。「二人または三人がわたしに名によって集まるところにはわたしもその中にいるのである」。ですから、教会堂は単なる建物ではなく、主が臨在下さる場であり、主にある一人ひとり、私たちの間に生ける主が聖霊としてお働き下さっていることを確認する場なんですね。
2013年11月に私たちはこの教会堂を献堂することができたわけですけれども、その会堂建築に至る過程において実に様々な難題がありました。しかしそのところ、そのところでほんとうに私たちの思いや考えを遥かに超えた神さまのお導きとしか言いようのない出来事を経験いたしました。そしてそこには必ず、「すべて進んで心から捧げられる」祈りと奉仕と献げものがあったのです。そのことを経験させていただいたうえで、本日の幕屋の建設の記事を読みますと、ああそうだ、そうだったと改めて思い起こされます。

本日の箇所の「幕屋の建設」の指示の前に、安息日の厳守という神さまの命令が記されているのですが。これは、幕屋の建設と無関係のことではなく、結びついていることなんですね。1節~3節に記されていますように、これほどまでに厳格に安息日を守りなさい、とモーセは主の言葉をとり継いでいるのです。
現代においても、正統派のユダヤ教徒たちはこの安息日の規定、火を起こしてはならないということも含め細かに戒めを守っているため、電気の使用、自動車も燃料を燃やすものですら乗れません。イスラエルのホテルではエレベーターも止まるんですね。その他にも生産的な活動はできません。中には電話をかけたり受けたりしないという場合もあるそうです。まあ、しかしそうなるといろんな問題が生じてきます。ユダヤ教の会堂では安息日にロウソクをつける必要があります。緊急の病人や怪我人がでたとき電話で救急車を呼ぶ必要があります。でもそれらをすることは安息日違反ではないかということですね。ところが、そういう時のために、ユダヤではシャバテ・コイ(安息日の異邦人)がいてユダヤ教徒に代わって会堂のロウソクに火をつけたり、電話で救急車を呼んでくれるというのですから、まったく驚きです。しかし、それはユダヤ教の人たちが、この日は神の安息の日として聖別して捧げるのだという信仰と決意の表れでしょう。
この「安息の日」として休みなさいという戒めの中に、神の愛と恵みを見出しているからこそ、それを幾世代にも亘り行われているのでしょう。私たちもそこは非常に教えられる点があるのではないかと思うのであります。

まあ、私たちキリスト者は主イエスが「ご自身をして安息日の主である」とおっしゃったのですから、主が共におられる限り何曜日にどこで何をしていても主の安息に与っていると言えるでしょうから、ユダヤ教徒のような安息日規定はありませんけれども。
しかしこの週の初めの日曜日、私たち一人ひとりの罪のために死なれ、その罪のすべてを贖いとってくださった主イエスさまがその死から勝利され、よみがえられた記念の日として感謝をもって、共に喜び祝うために礼拝をささげています。
ネヘミヤやエズラはこのように言いました。「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」  (ネヘミヤ8:10)
私たちにとって、主の日はすべての闇、悪、罪にイエス・キリストが勝利された日です。ヨハネ福音書16章で主イエスが「あなたがたには世に苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と言われたこの勝利に与って生きる希望を「喜び祝う」。そこに私たちの力の源があるのです。

聖書に戻りますが。幕屋の建設、教会もそうですが、その主体は「安息の主」であられます。そのうえで、幕屋の建設に用いられる献納物に関して、モーセはイスラエルの人々に主が命じられたことを正確に告げ、イスラエルの人々はその主の言葉どおりに聞き従ったとあります。それは強いられてそうしたというのではありません。
21節以後、何度も出てきますように、「心動かされ、進んで心からする者は皆、臨在の幕屋の仕事とすべての作業、および祭服などに用いるために、主への献納物を携えて来た」のです。モーセが「すべて進んで心からささげようとする者は」と語ったことに応えて、「心動かされ、進んで心からそうした」のです。

ところで、この捧げものについて考えさせられますのは、それらイスラエルの人々が主にささげた献納物は、彼らが自分たちの力や業で得た物ではなかったということです。神さまは民をエジプトから連れ出されるとき、こう約束されました。
「わたしは、この民にエジプト人の好意を得させるようにしよう。出国に際して、あなたたちは何も持たずに出ることはない。女は皆、隣近所や同居の女たちに金銀の装身具や外套を求め、それを自分の息子、娘の身に着けさせ、エジプトからの分捕り物としなさい」(出エジプト記3章21節以下)。
分捕り物というと、どうかとお思いになられるかも知れませんが。それはいわば強制労働を強いられてきたエジプトから、その分を報酬として受け取ったと言ってもいいでしょう。ともあれ、実にそれらはもとは神さまのお計らいによって与えられた物であったのですね。

ところが前々回読みましたようにモーセ不在のおり、イスラエルの人々は出エジプトという解放を神さまから与えられたにも拘わらず、その時の装身具の金を集めて、金の子牛を造り、これが自分たちの神だと祀りあげて像崇拝の罪を犯すのです。神さまはこのことに対して非情にお怒りになられ、彼らを滅ぼすと宣告なさるのですが。それに対してモーセは全存在をかけて神さまにイスラエルの人々を滅ぼさないでください、と執り成し訴えます。すると神さまはそのモーセの訴えをお聞きになり、思い直してくださるのですが、神さまはイスラエルの人々と共にもう行かないといわれます。
先々週読んだところですが。それは神であるわたしが一緒に行けば彼らの罪深さに目をつぶることができず彼らを滅ぼすことになるからだ、とモーセにおっしゃるのです。それに対してモーセは一歩も譲らず、「あなたが私たちと一緒に行ってくださるのでなければ、私たちは荒れ野に留まります。あなたが私たちと共に行ってくださることによって、私たちはあなたのご好意(慈しみ)を知ることができるのです」と訴えます。
神さまはそのモーセの訴えをお聞きになられ、再びモーセを介して深く悔いるイスラエルの民と契約を結ばれるのですね。

まあそのように、神さまのお計らいでせっかく与えられた金銀を神ならざる偶像に捧げ、あわや滅びを招くことになりかねなかったイスラエルの民でしたが。本日のところでは、その同じ金や銀、様々な装飾品を幕屋の建設ための献納物として携えてくるのですよね。それはまさに、この臨在の幕屋の建設のために神さまがずっと前から備えてくださっていたものだったということです。そして今度は、民全体の祝福となるために、それが本来の用い方をされていくのです。翻って、私たちも、自分に与えられている時間、知恵、技術、賜物、財産を何に用い、使うかということが本当に大切なことですよね。教会で、又家庭でも職場でもあらゆる場においても、私たちの「安息の主」に栄光を帰すことを祈り願いつつ、与えられているものを用いていきたいものです。

本日の箇所には、21節、22節、26節、29節に記されていますように、「心動かされて」、又「進んで心から」彼らはそれらすべてを行った、と記されています。
始めの「心動かされて」は、岩波訳聖書によれば、「彼の霊に駆られたすべての者たち」と直訳されるともございます。これはまさに人の業ではなく、神の霊による促し、聖霊のお働きを指しているのです。31節にも「彼に神の霊を満たし」とあり、又35節には「知恵の心を満たし」と、そのようにイスラエルの人々のうちに神の霊が臨み、神の霊に駆られたすべての人たちに喜びと感謝が溢れ出た。そうして各々が主の臨在の幕屋の建設に、「進んで心から」ささげ、携わっていったということであります。
イスラエルの人々はモーセの呼びかけに応えて、喜びをもってささげます。もう目に見えない神さまへの不安から、金の子牛を造り崇めた時とは全く違っていました。不安からではなく、共におられる神さまへの喜びからそうしたのですね。

私はお話の始めに、主の日は「主を喜び祝う日」、そこに「あなたたちの力の源がある」というネヘミヤ8章10節の御言葉を申しあげました。
今や、イエス・キリスト御自身が臨在の幕屋となって私たち主を信じて生きる者たちの間にお住みくださり、安息の主として共にいてくださいます。
私たちを取り巻く現実はそれぞれに不安や問題があるかも知れません。けれども、イエス・キリストによって見出された魂の喜びは、何ものにも代えがたい恵みですよね。
世のものはすべて移り変り、必ず終わりが来ます。変わらない主とその救いの御業をいつも仰ぎみていく者とされていきましょう。そしてさらに、主の臨在の幕屋として献堂されたこの大阪教会に、一人でも多くの方が足を運ばれ、そのかけがえのない一人の魂が主イエスとその福音によって救われるようにと、祈り求めてまいりましょう。その力となる霊の油をまず礼拝と祈祷会から頂いてまいりましょう。
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秋季特別集会

2015-09-20 07:35:40 | イベント


講 師  工藤 信夫(くどうのぶお)先生 

日 時  2015年9月20日(日)

①特別礼拝 宣教「人間の強さと弱さ」
午前10:30-12:00  ※自由献金があります。

②特別講演 演題「人生の秋」
 午後2:00-(3:30) ※東日本被災地支援募金有。

①②いずれも入場・聴講(ちょうこう)無料。
ご講演は著書「心で見る世界」(聖文舎)「人生の秋を生きる」(いのちのことば社)参考図書。

【講師プロフィール】
1945年、秋田県に生まれる。弘前大学、大阪大学において精神医学を学ぶ。
米国南メソジスト大学及びベイラ―大学医学部に留学。淀川キリスト教病院精神科医長、ルーテル学院大学社会福祉学科教授を経て、現在、平安女学院大学名誉教授。医学博士。
著書「人を知り人を生かす」「魂のカルテ」「よりよい人間関係をめざして」「生きること学ぶこと」「人生を支え導くもの」(以上、いのちのことば社)他多数

この度、医学博士で精神科医でもいらっしゃる工藤信夫先生をお迎えし、多数の著書の中から 「心で見る世界」(聖文舎)、「人生の秋」(いのちのことば社)を参考図書としてご講演をいただく運びとなりました。
この貴重な機会に、地域の皆さまと福音的気づきや励ましを分ち合う事が出来ますなら幸いです。    

  
主催・会場 日本バプテスト大阪教会

大阪市天王寺区茶臼山町1番17号 電話06(6771)3865

(J   R)天王寺駅、公園口より徒歩5分。
(地 下 鉄)御堂筋線、谷町線6番出口から徒歩5分 

 駐車場はございませんので公共の交通機関でお越し下さい。
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顔と顔を合わせて

2015-09-13 15:19:26 | メッセージ
礼拝宣教 出エジプト記33・7-17 敬老感謝 

先週は北関東地方、東北地方に記録的な大雨が降り、河川が決壊し多くの住宅が濁流に呑みこまれるという事態が生じました。とにかく今年は台風・地震・火山の噴火活動と災害の多い年です。防災の備えは必要でありますが、想定し得ないことまで起こっているというのが実情であります。この災害による犠牲者や行方不明者、家を失った方も多くおられ、心痛みます。一日も早い行方不明者の発見、又被災者の方々の体調、生活の回復がなされていきますようにお祈りいたします。

さて、本日は敬老感謝をおぼえて、主に礼拝をお捧げしています。
私たちの教会では一応70歳以上の方を敬老感謝の対象としていますが、高齢化が進む日本では今や「70歳から」と年齢だけで敬老と括ることも何か違和感を覚える方もおられるかもしれません。しかし、本日、人生の先輩、信仰の先輩としてそのお一人おひとりに心からの敬意と感謝を表したいと思います。そして何よりも、たとえ外なる人は衰えても、内なる人を日々新たにしてくださる主、いのちを司り、平安を与え、導いておられる主の御名を、心からほめたたえます。

今日は先程読まれました出エジプト記33章の箇所より「顔と顔を合わせて」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
先週は召天者記念礼拝でしたのでその出エジプト記32章を読みませんでしたが、イスラエルの民はシナイ山へと導かれ、モーセは神と民との間にかわされる契約とその戒めを受けとるため山上に向かいます。神さまはモーセに「イスラエルの人々に告げなさい。今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる」と告知し、この契約を結ばれたのです。
モーセは神とお会いするためイスラエルの民に「待っていなさい」と言ってシナイ山に登って行ったのですが、イスラエルの民はモーセが戻ってくるのを待ち切れず、リーダーのアロンに「さあ、我々に先立って進む神々を造って下さい。モーセがどうなってしまったか分からないからです」と詰め寄ります。モーセという強い指導者の不在に民の間から不安や不満、様々な問題が噴出し、もはや統率がとれなくなっていきました。そしてアロンもその人々の声と状況に流され、「金の牛の像」を造り、民はそれを自分たちの頼りとする神に祀(まつ)りあげたのでした。
主はそのことに非情に怒りを燃やされ、「彼らを滅ぼし尽くし、モーセ、あなたを大いなる民とする」とそのようにお告げになるのです。(32:10)
しかし、モーセはそこで懸命に主をなだめ、「どうしてエジプト人に『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思いなおしてください」と、民のために主に切々と訴え執りなします。そしてそのモーセの訴えによって、「主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された」(32:14)というのですね。「同胞の滅びのうえに、自分だけが大いなる民」となることなどモーセにはできませんでした。神を愛し民を愛し、義を尽くそうとするのです。

さて、33章で、主は金の子牛を造り神として拝んだ罪のゆえに、約束の地カナンに「わたしはあなたと共に上らない、わたしの代わりに使いを遣わす」「わたしが共に行くと民の罪のゆえにモーセも含め民を滅ぼしてしまうことになる」とモーセにお告げになり、それをモーセはイスラエルの民に伝えます。
すると民は、「この悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾りを身に着けなかった」とあります。さらに主が、「わたしがひとときでも、あなたの間にあって上るならば、あなたを滅ぼしてしまうかもしれない。直ちに、身に着けている飾りを取り去りなさい。そうすれば、わたしがあなたをどのようにするか考えよう」と言われたので、民は、ホレブの山をたって後、飾りをはずした、とあります。
人々は、それらの「飾り」によって神がいとわれる偶像を造ってしまったので、2度とそのような過ちを犯さないため、又その悔改めのしるしとして、自分の生活の中にある偶像崇拝につながると思われる者を避け、それを手放す決意をし、そのとおりにしたのですね。私たちの身のまわりにおいても偶像崇拝につながるような者、神でないものを神のように崇めているものがないでしょうか。あるいはこのような飾りを身におびることで、身の安心、安全、社会的保証がなされるかのように、それら偶像に支配されてはいないでしょうか。深く問われるところであります。

さて、モーセは、そこで宿営の外に臨在の幕屋を張ります。それは罪を犯した民のうちに神はお住まいにならないということで、宿営から遠く離れたところに幕屋を建て、そこで神に伺いを立てたのです。モーセは幾日もその臨在の幕屋に通い、民とともに約束の地カナンに上ってほしいと主に伺いを立てたのでしょう。民も、「モーセが幕屋に入ってしまうまで見送った」とありますように、モーセに望みを託していたのでしょう。

そのある日のこと。モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、「主はモーセと語られた」というのであります。その光景を目の当たりにした民は、「おのおの自分の天幕の入り口で礼拝した」というのですね。
雲の柱、それは荒れ野の険しい旅路においていつも導き守ってくださった、主の臨在を表します。そこで主はモーセと出会われます。聖書はその時の光景について、「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」と伝えています。
そこに主のモーセに対する深い信頼感、親蜜度が読み取れます。
しかしそれはまた、主との真剣な抜き差しならぬ、まさに直談判の懇願、嘆願のときでもありました。モーセは主に、「あなたはわたしに『この民を率いて上れ』と言われました。しかし、わたしと共に遣わされる者をお示しになりません」と訴えます。これは「到底私一人ではどうすることもできません」と訴えているのです。
けれども、誰かリーダーとなる人が与えられたとしても、それではダメなんですよね。15節に、「もし、あなた御自身自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください」とモーセは、主が共にいて下さるのでなければ意味がない、と言うのです。
モーセは主に、「ご好意示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道を示して下さい」とも訴えます。普通なら神さまにそんな厚かましいこと言ってもいいのかと思ったりもします。けれどもここで大事なのは、神の約束の言葉にモーセが立っていた。その一対一の信頼ゆえに、情熱的に訴える事ができたのではないでしょうか。このように神を信頼し、神に信頼される関係ってほんとうにすごいなあ。少しでもそのような関係性をに近づきたいものだなあと願うばかりでありましが。ここに神さまと自分とが一対一で、顔と顔を合わせるこの礼拝の基盤があります。
さらに、モーセは主に「どうか、この国民があなたの民であることも目にお留めください」と訴えます。実はこのことをモーセは主に強く願っていたのですが。

これらのモーセの訴えに対して、主は「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」とお答えになられます。「あなたに」、つまり、主はモーセ個人に対して与えられる約束や祝福についてはお答えになられるのですが、モーセが「この国民(イスラエルの民)があなたの民であることも目に留めてください」と訴えたことについては、主は何らお答えにならないのです。
そこでモーセは「一体何によって、わたしとあなたの民にご好意を示してくださることが分かるのでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか」と再度主に訴えるんですね。神さまはモーセあなたに安息を与えよう、とおっしゃるんですが、モーセは「わたしたちと行ってください」なんです。モーセはイスラエルの民と彼らに対する神さまの初めからのご計画こそ、自らの安らぎや身の保全より願っていたからです。神さまが自分とだけでなく、罪に染まりやすく弱い民であるけれども、信仰の父祖らとの契約と慈しみのゆえに選ばれた民と一緒に、約束の地カナンに上ってください。それはいわば、神さまのイスラエルの民に対する愛と慈しみの回復をモーセは強く願っていた、ということではないでしょうか。

そのモーセの訴えに対して、17節、主はモーセに言われた。「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである」。神さまはこのモーセのゆえに遂にその民を見放すことなく、共に行かれることを決意して下さるのです。
 今日このところを読みながら、どうでしょうか。このモーセの「どうか、この国民があなたの民であることも目をお留めください」と、どこまでも執り成し訴えたその中に、罪深い私たち人間のため十字架にかけられつつ、執り成し続けてくださった主イエス。十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください」と執り成された、いや今も執り成し続けておられる主イエスのお言葉が聞こえてくるのではないでしょうか。
私たちは今日もこの主イエスさまの執り成しのゆえに罪赦され、神の子として新しいいのちに戴いているのであります。主の御恵みの深さを思い知らされるばかりです。

最後に先日、安全保障関連法案に対して、学生たちが各々立ちあがって反対の意志表明をし、それが東京からそして関西にも、又日本の各地にも拡がっていますが。そのシールズ関西を取材した番組の中で、「学生たちが街頭に立ち、自分たちの思いを訴えていくには、彼らは自分の名前、所属大学を明らかにし、また将来に対しても就職などもありますことから、実に多くのリスクを抱えながら行動している」ということを知らされハッとさせられました。彼らの多くは、主体的な思いから、自分たちの世代よりも、将来若い子どもたちの世代が戦争に行き、殺し殺されるようなことにならないためにこうして訴えている、ということでした。ああ、ここにも「モーセ」がいた、とそう思わされましたね。そのような彼らの思いは多くの様々なこれまでデモなんか参加したことないという人たちに共感を与え、この安保法案は平和やいのちに直結するという理解が確実に拡がっています。
いずれにしろ、今日本は大きな別れ道に立たされています。政府は「安全保障関連法案は国民のいのちと平和を守るもの」と首相や閣僚等は何度も説明されますが、国民の実に7割近くが分からない、武力行使をエスカレートさせていくものとして危惧の念を抱いているというのが実情であります。
ひとり一人の尊い命と平和は、武力行使による安全保障という「金の子牛」を身につけない、手放すことによって、いのちは保たれ、平和は築かれていくのではないでしょうか。真のいのちと平和の主にとりなし、これからの情勢に注視しつつ、祈りを合わせてまいりましょう。

最後に詩編92編13節-16節をお読みして宣教を閉じます。
「神に従う人はなつめやしのように茂り レバノンの杉のようにそびえます。
 主の家に植えられ わたしたちは神の庭に茂ります。
 白髪になってもなお実を結び 命に溢れ、いきいきとし 述べ伝えるでしょう。
 わたしの岩と頼む主は正しい方 御もとには不正がない、と。
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ひたすら主に喜ばれるものでありたい

2015-09-06 13:16:58 | メッセージ
礼拝宣教 コリント二5・1-10

本日は召天者記念礼拝として先に主の御もとに召された会員会友を偲びつつ、御遺族又、教会の兄弟姉妹と共に、復活の主に礼拝を捧げています。先程召天会員会友のお名前が読み上げられました。昨年の9月以降、新たに2名の姉妹が主の御もとに旅立って行かれました。ご遺族、そして教会にとりましてそれは寂しい別れとなりましたけれども、今は天の神の御手に抱かれその魂は憩いを得ておられることと、信じます。

本日の召天者記念礼拝にご列席くださいましたご遺族の皆様のうちには、故人は教会員でクリスチャンであられても、ご遺族の皆様のうちにはクリスチャンでない方、あるいは他の宗教をもっておられる方もおられるでしょう。私は特に今日、故人の信仰を寛容に尊重してくださったそのような皆さまが、この場に集って頂けたことに心から感謝と敬意を表したいと思います。
以前にもお話したことですが、私がクリスチャンになる決心をしたのは高校1年生でした。その時、悩んだのは家が仏教であるということでした。長男であった私がクリスチャンになると親のことも含め位牌のこと、法事や祭儀はどうしたものかといった心配がありました。
それについて当時バプテスマ(洗礼)の準備クラスでお世話くださった牧師はご自分の体験を通じてこのようにアドヴァイスをしてくださったのです。「きみの信仰は神さまとの関係として大事にすることが一番。ただし親の信仰も尊重してあげることは十分できる。例えば私の場合は亡くなった母のための仏壇はおかないけど、母の信じていた信仰に基づき、母の小さな位牌は家において大事にしているよ。」私はその言葉でクリスチャンになることに対してのわだかまりが解けました。そうして高校1年の春のイースター礼拝で、主イエスを救い主と信じてバプテスマを受けたのです。「自分の信仰、神さまとの関係を大事にするという信念は保ち、故人の信仰は尊重する」。とっても大切なことをバプテスマクラスで教えて頂いたと思っております。

話は変わりますが、先日インターネットを見ていたら、「バスの車内で泣き始めた乳児をあやせず困った母親に、運転手が車内アナウンスで語りかけた言葉がネット上で話題になった」という記事に目が留まりほのぼのとさせられました。少しご紹介させて頂くと、「15人ほどが乗った路線バスで母親の腕に抱かれた赤ちゃんがぐずり始めた。母親と友人の女性が2人であやしていたが、赤ちゃんは手足をばたつかせ泣き声は大きくなるばかり。友人は途中で下車し、母親は立ち上がりあの手この手であやすも泣きやむ気配はなかった。10分ほど経った時、車内アナウンスが流れた。『お母さん、大丈夫ですよ。赤ちゃんですから気になさらないでください。きっと眠いか、おなかすいているか、おむつが気持ち悪いか、暑いかといったところでしょうか』
 明るい口調でミラー越しに語りかけたのは、乗車歴20年のベテラン運転手Sさん。
『迷惑をかけないよう何とかしたい、というお母さんの焦りをひしひしと感じた。今後バスや電車を使うのをためらうんじゃないかと心配になって』と振り返る。このやりとりがネットに投稿されるとツイッターなどで拡散され、「感動。まさにプロ」「運転手さん素晴らしい」などの投稿が相次いだ」ということでした。
人間味あふれる配慮によってバスの中の空気を一瞬で和やかなものに変えられ、それを伝え聞いた人たちまでも「この世の中もまんざら捨てたものではない」と、心爽やかにされたのではないでしょうか。先週読みましたイエスさまの「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」というお言葉は、この複雑化し、人間の関係が希薄になったようにも思える現代社会にありましても、普遍の黄金律でありましょう。
ほんとうに日々目を覆いたくなるような紛争、テロ、事件、事故が国内外において起こっていますが、そのような終末的時代にありましても、地上に神の愛、キリストの香りが放たれ、福音がこの地上を包んでいくように、と祈り願うものであります。

さて本日は、先程読んで戴いたコリント二5章から「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。

今日のこの箇所をお読みになられ皆さんはどのような感想を持たれたでしょうか。難解と思われた方もおられるでしょう。ただこの箇所は単に死後の世界のことがらについて語られているものではなく、この地上における今という時を如何に生きるか、ということが語られているのです。
聖書はそれについて、まず4章18節で語られていますように「見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ」ことの必要性を説きます。「見える者は過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するのだから」というのです。

使徒パウロは5章1節で「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」と述べます。

幕屋とは、遊牧民などが家畜を牧すために移動するその旅の先々で用いるテントのようなもので、彼らはその幕屋を建てては、そこを仮住まいとしてゆくのでありますが。

私たちは元気なうちは地上での営みがいつまでも変わらず、続くもののように錯覚してしまいがちです。しかし誰もが人生の旅路を終える時、地上の生活はやがて住む者のいなくなった幕屋のようにたたまれる時が必ずくるのです。これに対して使徒パウロは、たとえそのような地上の住みかである幕屋が滅びても、神による建物が備えられている。そのことを私たちは知っている、というのですね。

目に見えるもの、世の力、自我を頼りにするのであれば死は恐れでしかありません。
わたしたちはみな肉のままではただ廃れ、罪に滅びるほかない身なのです。

しかし神は、その肉なる者、はやがては廃れ、罪に滅びるほかない者に、神の建物、天にある永遠の住みかを与えてくださったのです。私たちは何かそれを受けるに相応しいからそのような祝福に与っているのではありません。
5節にもあるとおり「わたしたちを、このようになるにふさわしい者としてくださったの『神』です。神は、その保証として霊を与えてくださったのです」。ここが重要なのであります。

ヨハネ3章16節にはこのようにあります、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。  
この独り子なるイエス・キリストが、罪に滅びるほかない私たちを十字架の御業によってあがない出し、その保証として霊(聖霊)を与えて下さった。そのことによって主イエスを救い主と信じる者、クリスチャンは「永遠の住みかに与る」希望を頂いているのですね。
聖霊は私たちのうちに住まわれ、肉の働きを制し、愛で満たし、喜びと平安を常に与えようとしていてくださいます。それは目には見えませんが生きて確かにお働きになられ、私たちがこの地上にありながらも永遠の命に生かされていることを教えて下さるのです。
 
さてパウロは、「わたしたちは、天から与えられる住みかをうえに着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」と言っています。

救いの約束に与ったとはいえ、この地上にある限り葛藤すべきものがあります。「救いを得たのだからもう地上の生活はどうでもいい、わずらわしさは脱ぎ捨てて天国之だけが楽しみよ」というのではないのです。天の住いに相応しくない自分の罪の性質や弱さ、はたまた重荷を負ってうめくような事ごとにも、信仰をもって真摯に生きてゆく。それがパウロのいう「天から与えられる住みかを上に着る」ということではないでしょうか。神はそのことを私たちに期待しておられるのではないでしょうか。
今日、召天記念礼拝として、主にあってこの地上でのご生涯を閉じられた会員会友の兄弟姉妹をしのびつつ、ご遺族の方々と共に礼拝をささげておりますが。先に天に召された兄弟姉妹お一人おひとりの地上でのあゆみすべてを、主はご存じであられ、それぞれが天の御国にあって主の御顧みを得ていることと信じます。

パウロは9節でこう述べています。「体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」。

いつの日か、神の裁きの座の前に立ち、体を住みかとしていた時に行ったことに応じて、報いを受けるべき時がまいります。私たちも又、天にある永遠の住みかをめあてとして、
「ひたすら神さまに喜ばれる者でありたい」との思いを持って、希望の道を歩んでまいりたいものです。

最後に聖書を読んで今日の宣教を閉じます。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。
見えるものは過ぎ去りますが、見えない者は永遠に存続するからです。」
コリント二4章18節 
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