日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

神の試みと養い

2011-09-25 07:47:37 | メッセージ
宣教 出エジプト記16:1-32

大いなる主の御業によって葦の海を渡りエジプト軍から逃れた民は、荒れ野を三日の間進みますが、水を得ることができません。ようやく湖に辿り着いたものの、その水は苦くて飲むことができず、民はモーセに向かって不平を言うのでありますが。主から与えられた一本の木をモーセが湖に投げ込むと、水が甘くなり民はそれを飲むことができたのであります。
この個所はその出来事から2カ月以上は経っていたようですが、民はここにきて食べ物が底をつき、空腹のあまりまたまた指導者のモーセとアロンに3節、「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と、不平不満を述べたてるのです。先週の個所の背水の陣に追い込まれた時と同じことを言うんですね。

民はここで、指導者のモーセとアロンに向かって不平を言うのでありますが、それは実は主に対して不平を言っているのであります。不平不満だらけの民の心からは、もはやあの2つに分かれた海を渡り奇跡を目の当たりにした高揚感も、主への感謝も消え去っていました。日々の思うようにいかぬ生活の苦しさと飢え渇きに不満が爆発し、「こんなことなら従って来なければよかった」と、振り出しに戻ってしまうような不信仰の言葉を口にするのです。

過酷な荒れ野での旅路は本当に厳しく大変なことだったでしょう。現代のように自動車に乗ってある程度整備された荒れ野を横断でき、途中で飲食物を販売している売店があるというような状況とは全く違います。お年寄りや乳飲み子、小さな子どもたちも抱えていたことでしょう。病人や体の身体の不自由な人たちもいたでしょう。又家畜を率いながらの大移動です。日中は炎天下、深夜や早朝は冷え込みの厳しい荒れ野で野宿生活をし、わずかな水や食料で飢え渇きをしのぎながら、来る日も来る日も旅を続ける。私どもには想像もつかない過酷な道のりであったことでしょう。ある意味、イスラエルの民が不平を言い出すその気持ちも分かる気がいたします。

ただ、ここで不平を言ったとは書かれているのですが、彼らが「主に向かって祈った。切に願った」などとは、一言も書かれていないんですね。もちろん彼らは祈りもしたでしょうが、その信仰の思いよりも、肉の弱さ、不平不満の方が大きくまさっていたということでしょう。
にも拘らず主はそのような救いのみ業を忘れ、感謝と喜びを失い、不平を言い続ける民の不平を退けたりなさらず、お聞きになるのです。それはモーセが、「主は不平を聞かれた」と、何度も繰り返し語っているとおりです。

その主は単に民の不平を聞かれるだけでなく、その民の必要を満たすと約束してくだいます。4節「見よ、わたしはあなたのために、天からパンを降らせる。」5節「六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている」 12節「あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。」
そして13節以降にあるとおり、民の飢え渇きを私が満たすとおっしゃられた主のみ約束は、そのとおり現実のものとなります。

この天からのパン、マナについて、神学校の授業でならいました前西南学院大学神学部で聖書考古学がご専門であられた関谷定夫先生はご著書の中で、「シナイ山から車で2時間ほど北西に行ったところに砂漠の平地一面にマナギョウリュウと呼ばれる一種のタマリスクの植物林があり、5月頃にこの木の小枝の先に貝殻虫が寄生し、新陳代謝のバランスのために栄養となる樹液を吸い、取り過ぎた過剰炭水化物が排泄され、それが夜中の冷気に触れて固形化し、朝早く地に落ちる。これがマナの正体で、甘くておいしいもので、遊牧民の貴重な食料とされている」と解説されていました。聖書にはマナを粉にしてパン菓子のように焼いたり、煮たりしたとありますが、一度食べてみたいですね。マナは荒唐無稽なものではなく、天地万物の造り主なる神からの贈りものといえます。

さて、民の不平を聞かれ、天からウズラとマナを与えられた主は、民に次のように命じます。16節「あなたたちはそれぞれに必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。」

その主のみ言葉に対して民はどうだったでしょうか?
民は主の命じられたとおりにするのですが、その中の何人かは、「翌朝まで残しておいてはならない」という主の言葉に従わず、翌朝まで残しておいたところ虫がついて臭くなってしてしまったというのです。
つまり主のおっしゃった必要以上の分をとって蓄えたがゆえに、それは翌日腐ってしまったんですね。それで、彼らは朝毎にそれぞれ必要な分を集めたとあります。又、「六日目になると、彼らは二倍の量を集めた。」とあります。七日目は安息日だから野には何もないから、二日分を集めて蓄えることができるということですね。しかし何人かはその主の言葉に反して7日目の安息日に野に出て行くのですが、何も見つからなかったとあります。
ここを読みますと、彼らの生活の糧については「主がすべての主権をもっておられる」ということであります。そして、それが日毎彼らにとって丁度必要な分であったということがわかります。それは私どもにとりましても同様であります。まず私どもが主を第一としていく時に、私どものすべての必要は満たされていくということであります。私どもの命、健康、経済、日々の糧も、すべて主が治められ、私どもを養ってくださいます。

主は、4節で「彼らがわたしの指示どおりにするかどうか試す」。又12節で「こうして、わたしがあなたたちの神、主であるということを知るようになる」とおっしゃっています。

しかし民の中の幾人かは、主に聞き従わず、自分の判断でマナを取っておいたり、安息日に集めに行ったりするんですね。
先の見えない不安と恐れ、思い煩いによって、主の言葉に信頼し、従う事ができなかったのです。主が必ずあなたに必要な分を与え、養うというみ約束を信じることができなかったのであります。

主イエスは、マタイ6:33―34で「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」と、おっしゃいました。

人間は物や食べ物がないと生きられませんが。しかしそれがあれば思い煩いがなくなるというものではありません。確かに現代世界の南北問題や格差社会において、貧しい者にとっては本当に食糧が不足し、富裕層においては物がありあまり無駄にされているという矛盾が生じています。私どもは少なくとも今日明日飢え死にするような状態とは言えません。けれども今日の不安な時代にあって、備えや将来への計画は必要でありましょう。
しかしその多くは、今日一日に必要な分だけでなく、明日、明後日、その先、老後のこと、はたまた遺産についてまで、安心や保証を得ようと、より多くの安心材料を人は求め、そして思い煩うのです。そういった蓄えが人の思い煩いを解消してくれるかといえば、決してそうではないのです。
箴言に次のような言葉があります。30:7-9「二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。むなしいもの、偽りの言葉をわたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず わたしのために定められたパンで わたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り 主など何ものか、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き わたしの神の御名を汚しかねません。」
今日は、主の試みと養いについてみ言葉を戴きました。このみ言葉に従っていきましょう。

最後に、本日の「主が民の不平を聞かれた」ということについて、もう一言述べて終わります。人は厳しい状況に置かれたり、思いがけず突如としてこの身に襲ってくるような出来事に、不平や不満、つぶやきをこぼさない人がいるでしょうか。こぼさなくとも心に持たない人などいるでしょうか。それは人間の弱さゆえの性質といえます。それは主を信じる私どもであっても、その苦難の意味、主の御心を計り知ることができず苦悩することがございます。そのような時、それを打ち明けられる場所というのでしょうか。それに耳を傾け、聞いてくれる場がないというのは本当にしんどく、不幸なことであります。

聖書教育誌の青年成人科のところに、「教会には行けないけども、聖書を読み、祈りを大切にしている方は少なくないと思います。そのような方も心のどこかでは教会生活に復帰したいと願っているのではないでしょうか。健全な教会生活を続けて行くためには共同体性が大切です」と書かれていました。
この健全な共同体性という事ですが、その内実がとても大事だと思うのです。
主にあって共に聞き合い、祈り執り成し合うことが私どもには必要です。独りよがりの考え方に陥っていかないためにもそれは必要なのです。教会は、互いに、共に信仰によって培われ、形成される主の共同体なのです。教会に集う一人ひとりは聖人ではありません。決してきれいごとばかりとは言えないでしょう。みな罪深く、弱い者であり、人間関係に疲れる事もあります。けれども、主が備え与えられた教会、主の共同体をあきらめ、投げ出すのは、「エジプトにいた方がましだった」と不平を言った人々と同様であります。
私どもは主が導かれたこの教会で喜びを共に見出し、時には忍耐強く共に信仰の旅を続けることで、主の民として養われてゆくのです。この私たちの交わりの中心に、主がおられ、試みの中で、私どもを養い、豊かに成長させてくださると、信じます。

ヨハネ福音書6章35節を読んで本日の宣教を閉じます。
イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
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神の共鳴

2011-09-18 08:18:13 | メッセージ
宣教 出エジプト記14:5-31

皆さんは「十戒」という映画をご覧になられたでしょうか?二つに分かれた海、これは紅海であったと言われていますが、正確には対岸の見えるスエズ運河のことで、イスラエルの人々は水が左右に分かれ壁のようにそそり立つその中を通っていき、今度はエジプト軍の騎兵や戦車がそこを通ろうとすると海が元の様に押し寄せて、全滅するという、まあそのような場面などは、壮大なスケールで描かれていて、印象に残っている方もおられるでしょう。しかし、これは単なる物語ではなく、考古学的にもそのような事が実際起こったであろうことが、近年明らかになってきております。ともあれ、私どもはこの出来事から神の業とその御心を聞き、神にある民の歩み、又教訓としてゆきたいと願っております。

さて、今日の聖書の個所を読んで、まず気にかかりましたのは、イスラエルの人たちの心境の変化であります。彼らは民数記33・3に記されているように、「過越の翌日、すべてのエジプト人を目の前に意気揚々と出て行った」のです。ところが、エジプト軍がその後を追っかけてきて、まさに間近に迫ってくる現実を知った時、イスラエルの人々はたちまち意気消沈し、非常に恐れて主に叫ぶのです。前方は混沌とした葦の海が行く手を阻み、後方一帯にはエジプト軍の騎兵と戦車が攻め上ってきたのですから、それは慌てふためき、怖じ惑うのも無理はありません。

彼らはそこで手のひらを返したように主に向かって叫び、指導者モーセに対して「我々を連れだしたのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。云々」と不平不満をぶつけるのです。
順風満帆で踏み出したはよいが、予期せぬこと、アクシデントが突如起こると、瞬く間に最初の主の恵みやみ業を見失ってしまうのです。

彼らは叫びモーセに訴えますが、しかしこの不平不満の出所が「恐れ」と「不安」から来ていることを押さえておく必要があります。これは何もイスラエルの人々に限ったことではありません。突如として襲ってきた出来事にイスラエルの人々が怖じ惑い、恐れたように、私たちも又突如として起こる出来事に恐れ、怖じ惑うことがあります。頼りになると信頼していたものが、いざという時、全く頼りにならないことに気づき、慌てふためくのであります。

自分にとって順調に物事がうまく運んでいる時は、喜び、感謝することができても、自分の身に何か嫌な事や都合の悪い事が生じたり、思いもよらぬ事が起こったりいたしますと、その神への信仰まで縮こまり、せっかくの救いの御恵みを見失うようなことが起こり得るのです。
あんなに救いの喜びに輝いていた人が、、、あんなに熱心に奉仕していた人が、、、気がつけばどこへ行ってしまったのか。主の救いから遠く離れ、神の愛を拒むように、以前の生活へと舞い戻ってしまうのです。ある人たちはそれを人のせいにします。あの人がこう言ったから、、、牧師がちゃんとしてくれないから、、。しかし人のせいにして何になるのでしょう。それで神の御救いと恵みを見失ってはもともこもない事です。

苦難の時に、不調やアクシデントが起きた時、真の意味で私どもの信仰が試され、問われるのです。逆にいえば、むしろそのような時にこそ主は、共におられ、私どもの一挙一動
を見守っておられるのです。私どもが主の御救いの希望を見出し、主が真に生きておられる方であることを体験できるのは、まさにそのような時なのであります。

私どもキリストにある信仰者は、苦しみや痛みの中に十字架の主イエスが共におられるから、そこで終わらない。その道の先には復活の道、希望があると信じます。だから苦しい時も、しんどい時も、人間関係で疲れる時も、主を仰ぎ見、主に倣い礼拝する者なのです。
恐れや不安はクリスチャンであっても当然起こる感情でありますが。しかしその感情に呑みこまれて救いの希望と主にある確信を失わないようにしたい。そのため日々備えるのは大切なことです。

さて、不満をぶつけ意気消沈するイスラエルの人々に指導者モーセは、「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行なわれる主の救いを見なさい。・・・・・主があなたたちのために戦われる」と答えるのでありますが。
しかしそのすぐ後で、主はモーセに「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい」と命じます。モーセの民への言葉は本当に素晴らしいもののように思えますが。これは一体どういう事でしょうか。
置かれた状況に混乱をきたしている人々に対して、「恐れてはならない。落ち着きなさい。主の救いを見なさい」と、信仰を持つように促すモーセであります。が、しかし、モーセ自身も又、神への信頼を持っているとはいえ、民の指導者としての重責から、「ほんとうに神さま何とかしてください」と、切実なる神への叫びがその心にあったことでしょう。

主はそのようなモーセに対して、「わたしが戦っている時に、モーセよ、あなたはただ私に叫ぶだけ、傍観しているだけではいけない」といっているのであります。そして主はモーセに、「イスラエルの人々に命じて出発させなさい」と、お命じになります。つまり「モーセよ、あなたには、イスラエルの人々がどうつぶやこうとも、この人々を恐れず、彼らを進みゆかせる務めがある」とおっしゃっているんですね。モーセにはイスラエルの人々を主の目的に沿って進みゆかせる働きが託されていたのです。それはまさにモーセ自身が「主と共に働く」ことでなされるのであります。
この個所を読みながら、神の召しに答えて生きるとはどういうことなのか、深く考えさせられます。何万人もの同胞からつぶやきや非難を受け、一人孤独であっても「主のみ声に聞き従う道」を民に示し続けようと努めるモーセの心境、それは計り難いものがあります。
しかし、その中で主は、「わたしがあなたと共にいる」。あなたはその「わたしと共に働きなさい」と、促されるんですね。
今日の聖書の中心メッセージは、ここにあります。本日は「神の共鳴」という題をつけさせて頂きましたが。神はその民として祈り、歩む私たちと共にいると言われ、又私たちもこの主と共に働く。その響き合う中で、主のみ業と栄光、そして民の救いが実現されていく。この神の共鳴を心に留めながら「主と共に働く」ことが大切なのです。

19節以降を読みますと、「イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった」とあります。

主なる神は、雲の柱として臨み、モーセらイスラエルの民たちとエジプト軍との間に入って民を守り導いてゆかれるのであります。「イスラエルの人々とエジプト軍は、一晩中、互いに近づくことがなかった」とありますように、神は夜も一睡もすることなくイスラエルの人々をみ守り続けたということですね。
聖書の神さまは、ただ天から見下ろして傍観しているのではなく、主のみ声に一足一足その歩みを進める人々と共にあって、寝ずの番をして、見守り、戦ってくださるお方なのであります。

モーセは海辺に着くと、主がお命じになったとおり「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べ」ます。
21節「モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返えされたので、海は乾いた地に変わり。水は分かれた」。
神はモーセと共にお働きになり、民の前でその栄光を現されるのです。その後も、モーセは主の言葉どおり「海に向かって手を指し述べる」と、「水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。・・・・主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた」(28-30)のであります。そのようにして31節にありますように、「民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じるに至った」というのです。

今日壮大でドラマチックな物語を私どもは読みました。が、それをただ読んで「ああ神のみ業は素晴らしい」で終わるのであれば何の力にもなりません。又これは牧師などの特定のリーダーだけに語られているのでもありません。
13節でモーセは「今日、あなたたちのために行なわれる主の救いを見なさい。主があなたたちのために戦われる」とイスラエルの人々に向けて語ります。それは、今ここにいる私どもにとっても生きたみ言葉となるのであります。
私どもは肉においてはイスラエルの民とは異なりますが、霊においてイエス・キリストの十字架のみ救いにより、この聖書のエジプトに象徴される世のさまざまの力から救い出された者、出エジプトした者なのです。

最後になりますが。このイエス・キリストのみ救である十字架のみ業は、世の究極の苦難、理不尽、人の罪を神がその身に負われたしるしであります。その主イエスはよみがえら、今も生きて私たちと共にいてくださる。それが聖書に示される約束であります。私どもはこの救いの主、復活の主を信じている者であります。

3・11東日本大震災、さらにそれに伴って起こった原発の事故。先週は台風と長雨により奈良、和歌山、三重で多くの人が亡くなられ、行方不明であります。世には様々な苦しみがあり、不条理といえるような理解できない出来事も起こります。しかし神さまは人の苦しみや、痛みをきっとご存じであられ、共鳴なさって、共なる歩みをなしてくださるお方であると信じます。今日も、私どもの一挙手一投足に目を向け、共に働いてくださる主がおられることを、忘れないように、日々のあゆみを大切にしていきましょう。
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天の故郷めざして

2011-09-11 07:38:18 | メッセージ
召天者記念礼拝宣教 ヘブライ11:1-16

本日は先に天に召された兄弟姉妹を偲びつつ、召天者記念礼拝を主に捧げています。先ほど、先に天に召された方々のお名前が呼ばれ、献花をいたしました。私たちの信じる神は、天地万物をお造りになられ、今もすべ治め、生ける命も、又召された命も司っておられます。それゆえ私たちは故人を偲びます時、その魂の神の御前における平安と、ご遺族の方々の守り導きを神に執り成し祈ります。この生ける神さまにある望みを、今日ご出席くださった召天者のご家族、近親の方々、そして大阪教会に連なる主にある兄弟姉妹と共に戴きましょう。

まずここの、冒頭で、信仰の定義がなされています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。そして更に、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」と説かれています。神は、天地万物をお造りになるその業の初めに、「み言葉」によって何もないところ、闇のようなところに「光あれ」とおっしゃると、そのとおり「光があった」と、創世記にあります。目に見えるところでなく、たとえそれが目には見えなくとも、「神の言」によって成る。この神の創造の業を信じて生きること、それが信仰であります。「この信仰のゆえに、昔の人々は神に認められました」。

4節から、アベル、エノク、ノア、アブラハムという4人の「信仰のゆえに、神に認められた人々」が紹介されていますが。それは信仰の先達のリストであります。
それらの人々はみな、神の約束が実現するという目に見える保証を何らもっていませんでした。けれども、神は約束なさったことを必ず実現なさる、と確信していたのです。
彼らは神の約束が現在進行中であると信じ、祈り行動したのです。まだ見ていない、しかし神は必ず約束を実現なさる。それが彼らの信仰です。
そこに「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」信仰があったのです。

まずアベルについてですが。彼は神へのささげものをめぐり、兄カインに逆恨みされて殺害されるという悲惨な最期を遂げました。しかし彼は「カインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました」(4節)とあります。この優れたいけにえ」とはどういう事でしょうか?それは献げもの自体にではなく、その状況の中で「如何に神に喜ばれるようにささげた」かという意味であります。彼は大切にしていた羊の群の中から、最もふさわしいと思える肥えた初子を選び、神に献げました。アベルは神のみ前に犠牲や痛みを払いつつ、「信仰によって」彼は最も善きものを神に献げるのです。

次はエノクという人物ですが。「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました」とあります。創世記5章21節以降に、「エノクは65歳になったとき、メトシュラをもうけた。エノクは、メトシュラが生まれた後、300年「神と共に歩み」、息子や娘をもうけた。エノクは365年生きた。エノクは「神と共に歩み」、神が取られたのでいなくなった」と記されています。ここで強調されていますのは、エノクは絶えず「神と共に歩んだ」ということです。そこにエノクが神に喜ばれていたあかしの日々がありました。

3番目はノアについて次のように述べられています。
7節「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神にお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造った」のです。
ノアは、「大洪水が地の表を覆う」との神からのお告げを受けたとき、人間的な思いとしていろいろな疑念や戸惑いがあったのではないでしょうか?なぜなら、十分な雨も降らないような所で地を覆う大洪水が起こるとは、想像を遥かに上回ることであったし、ましてや示されたような大きな舟を川からも海からも離れた自分の家の前で作るなど常識では考えられないことです。 

しかしノアは、「まだ見ていない事柄、想像も及ばないような事柄について神のお告げを受けたとき」、信仰によってそのお告げを受けとり、行動に移しました。そこには心の内なる葛藤や外との闘いがあったと思うのです。内陸で舟を造るなんて、当然世間の人びとにとってみれば馬鹿げた行為に思えたに違いありません。神のときが訪れる迄の永い歳月、ノアはずっとそういった人々からの冷たい視線や中傷にさらされ続けたことでしょう。
それこそ想像を絶するほどにノアの信仰がそこで試されたことでしょう。しかしノアは信仰によって、まだ見ていない事柄を受けとめ、自らを神に従わせてその生涯を歩んだのです。

最後はアブラハムについてでありますが。彼については2つの記述があります。
まず、8節「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」とあります。
創世記12章のアブラハムの召命と移住の記事を読みますと、自分が土地や財産を受けることになるから出ていったというのではなく、アブラハムは、ただ主の言葉、「わたしが示す地に行きなさい。あなたを祝福する」とのみ言葉に聞き従ったのであります。つまり、先の目に見える保証がないだけでなく、行き先も知らされずに、アブラハムはただ主の「わたしが示す地に行きなさい」とのお言葉に自分を従わせたのであります。

彼についてのもう一つの記述9節には、「信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、「神が設計者であり建設者である」堅固な土台を持つ都を待望していたからです」とあります。

神のみ言葉に聞き従って出て行ったアブラハムは、示されたカナンの地に実際に入ると、そこでは移動しながらの天幕を張り生活したのです。そこで遊牧民としての生活を送る中、定住者となることはなかったのです。それは、カナンという目に見える土地を仮の住まいとしながら、「神の建てたもう堅固な土台を持つ都を待ち望んでいたからからです」。

アブラハムが待望していた神の建てたもう都とは一体どういうものであったのでしょう?それはこの世の建物、この世の時間や規範の中に制限を受けるようものではないのでしょう。彼はそれとはまったく異にする神による霊的建てもの、神のすべ治めたもう都を待ち望んでいたのではないでしょうか。

アベル、エノク、ノア、アブラハムのそれぞれの信仰について少し丁寧に読んでまいりましたが。見落としてならないのは、13節に、「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」という言葉です。殊にアブラハムやその連れ合いのサラなど、「海辺の数えきれない砂のように、彼らに多くの子孫が生まれる」という神の約束の出来事を、彼らはこの地上においては見る事ができませんでした。さらに、彼らは約束の都をも見ずして死んだのです。

しかし同じ13節に、「約束されたものを手に入れませんでしたが、遥かにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分の故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです」とあります。16節、「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」。
神は、そのような彼らを誇りとし、彼らのために天の故郷、天の都を準備していてくださるのです。

今私たちは、旧約聖書のこの信仰を、まことの幸いなことにイエス・キリストを通して受け継ぐ者とされています。イエス・キリストによって「天の故郷」への道が開かれているのです。今日は先に天に召された方々の地上でのご生涯を偲びつつ、死より復活されたイエス・キリストを仰ぎ見て、天の故郷をめざす私たちの希望とさせて頂きたいと願います。  

信仰の模範者として列挙されたアベル、エノク、ノア、アブラハムと私どもの信仰は比べられるものではありませんが。「主への信仰」が有るか、無いかとでは雲泥の違いです。からし種一粒ほどの微々たるちっぽけな信仰であっても、その信仰を保ち続けて生きる中で、神さまはきっとあなたの道を整え、天の故郷へと通じる道を備えてくださいます。「天の故郷をめざして」。私たちの真の希望はそこにございます。

最後にヘブライ12章1~2節を読んで本日の宣教を閉じます。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようなおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」
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特別集会ご案内

2011-09-07 18:24:14 | お知らせ
日本バプテスト大阪教会
特別集会ご案内
~今年で創立60周年となる天王寺の町にあるキリスト教会です~

日時 2011年9月25日(日)午前10:30~12:20
   お話 「わたしの手を見なさい」
   講師  安藤 榮雄 先生
西南学院大学神学部専攻科卒業。和歌山バプテスト教会牧師。
後に恵泉バプテスト教会協力牧師、日本消費者連盟事務局長
福岡城西教会牧師を歴任。現在、福岡城西教会名誉牧師。
ふくおか自由学校代表(2011/5迄)、九州バプテスト神学校校長。

講師より招きの言葉
 聖書の中では、「神の手」についてしばしば書かれています。しかし、私たちは、「神の手」と聞いても、たとえば、母親の柔らかい愛情豊かな手を想像したり、あるいは、父親の多少ごつごつした不器用だが温かい手を想像して、その延長で「神の手」を考えるのではないでしょうか。しかし、愛情豊かな母親の手も時には子どもに食事を与えず餓死させてしまうような恐ろしい手に変わり、父親の温かい手も時には「家庭内暴力」により子殺しをするような冷酷・無残な手に変化するのです。
 3月11日の東日本大震災以後、多くの被害者の悲嘆の声が聞こえてきます。中でも胸が痛むのは、「神様、どうして、この私に、私の子の愛する者に、このような残酷な悲劇をもたらしたのですか?」という悲痛な叫びに似た問いです。「神の手」は残酷な手なのでしょうか。聖書よりその答えを探ってみたいと思います。ご来会を心よりお待ちしております。

お問い合わせ
日本バプテスト大阪教会
大阪市天王寺区茶臼山町1-17
電話 06(6771)3865
教会ブログ
http://blog/goo.ne.jp./bap-oosaka-ch/  ☆はじめての方でもお気軽にお越しください。












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あなたを遣わす神

2011-09-04 07:34:59 | メッセージ
宣教 出エジプト3章1~12節 ②

神は柴の間からモーセにお語りになります。
「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。
ここで神は、「わたしはあなたの先祖の神である」という彼のルーツについて証言をなさり、又何よりも二人称で「わたしはあなたの神である」と、おっしゃるのです。これはどんなにモーセにとって驚きであり、畏れ多いことであったでしょうか。モーセが「神の顔を見ることを恐れて顔を覆った」という言葉から、その思いが伝わってきます。

そして神は、そのモーセを出エジプトのご計画を遂行されるために召し出されるのです。7~10節「わたしは。エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地・・・・・へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」それは主がイスラエルの人々の苦しみや痛みをご自身の身に引き受けてくださるという約束のもと、モーセを遣わされるというのであります。

この神の召しに対して、モーセは「はい、わたしがまいります」とは言いませんで、「わたしは何ものでしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さなければならないのですか」と否定的に答えるのであります。

先にも申しましたが、モーセはミデアンの地で身も心も、新たにされたとはいえ、わが子につけた「ゲルショム」という名前が示すように、「自分たちは異国にいる寄留者」であるという自己認識の中にありました。エジプトにいる時も、ミデアンで家庭を築いてからも、
モーセにとってここが自分の故郷、ホームだ」と言える場はなかったのです。
いまだ彼の奥深い所には、エジプトでの殺害事件や同胞であるはずのヘブライ人から罵られた事がずっとひっかかっていました。「わたしは何ものなのでしょうか?」「自分のような者がどうしてそのようなことができましょうか?」
同胞からも信用されず、罵られるような自分がどうして同胞を救い出す大任を果たし得るのか?モーセは自信を失っていたのです。彼は神への畏れと、ヘブライ人としての負い目をもちながらも、どうすることもできない無力さをおぼえていたのではないでしょうか。

では神さまはそのようなモーセに対して何とおっしゃたでしょうか?
モーセ、「あなたこそ適任だから」「あなたにその能力があるから」と、そんなことはおっしゃらないのですね。神さまはモーセがどうであるかという事には一つも触れず、ただ「わたしは必ずあなたと共にいる」。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」とおっしゃるのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」。それが、あなたを遣わす根拠だと言うのです。

私たちは能力、血筋、又社会的地位などありとあらゆるもので自分という存在の根拠を形作ろうとするものです。どこの生まれか、どんな学歴や業績があるかなど。逆に自分にはそれらのものがない、と自分の存在を卑下する人もいますし、拠り所としてきたものを失って、自らの価値が損なわれたかのように嘆く人もいます。人は自分の中に、その存在の根拠を見出すことは出来ないのです。それでは人生は本当に的外れなものになってしまいます。聖書はそのような的外れな生き方を罪と申します。

「わたしは必ずあなたと共にいる」という生ける神のお約束、それをしっかりと受け取っていくところに、その人本来の生きる意義が見出されていくのです。

さて、モーセは何よりもこの神によって「罪の解決」を頂くことが必要でした。人を殺めたことへの恐れとその負い目にさいなまれ、同胞からの罵りや排斥の言葉にとどまり続けたところで、何も解決はありません。それは罪の中に埋没してしまうような人生です。

モーセとってこの神との出会いがなかったのなら、彼はおそらく自分の存在の根拠を見出すことなく、「自分の罪のうちに死んでいった」のではないでしょうか。彼を救い出し、生きる意味を与え、立たしめたのは、「わたしは必ずあなたと共にいる」と言われる神さまなのです。
14節のところで、神はご自分の名前について、「わたしはある」わたしはあるという者だ」とモーセに自己紹介しておられますが。この「わたしはある」とは、「わたしは必ずあなたと共にいる」というお方である、ということです。

この「わたしは必ずあなたと共にいる」というみ言葉から思い起こすのは、「神我らと共にいます」、「インマヌエル」という名をもってお生まれくださった救い主イエス・キリストであります。イエス・キリストのご生涯はまさに、「わたしはあなたと共にいる」というものでした。地上での病人のいやし、世にあって小さくされている人たちとの出会いと交わり、そして十字架の最期、罪の贖いを成し遂げられるその時に至るまで。イエスさまはご自分の告別説教で(ヨハネ福音書8章24節)、「わたしはある(あなたと共にいる)ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とおっしゃいました。
私たちはこの、「わたしは必ずあなたと共にいる」神さまによって真の命を与えられ、この人生を生かされているということを、今日のみ言葉から受け取っていきましょう。
出エジプト3章1~12節におけるメッセージのキーワードは、「道をそれて」と「わたしは必ずあなたと共にいる」です。人生の回り道と思える時、又不測の事態といえるような時、いわば「道をそれて」と思えるような時にあっても、燃え尽きることのない柴をモーセが見たように、主の「あなたに対する愛とそのご計画は尽きることがないということです。主は「あなたと共にいる」と、今日も呼びかけておられます。

最後に、罪からの解放を戴いたモーセは、出エジプトという神の大いなるご計画に参与する者として立てられ、遣わされていきます。それはモーセにはできれば避けたい道であったかもしれません。しかしモーセは主によって信仰を奮い立たされ、その思いを新たにさせられます。
今日、私たちもみ言葉の前に、もう一度、「罪から解放された者であるか」を再確認し、主に立ち返っていく悔い改めをいたしましょう。主は、罪からの解放(罪の赦し)で終わるのではなく、神の救いのご計画に参与する者として「あなたをお遣わしになる」ことを望んでおられます。
教会は、真に罪から解放された一人ひとりが、主の救いと主のお約束を伝え、証しするために建てられています。今、私たちはその為に日々祈り、身近な一人ひとりと接し、関わっているでしょうか?

あなたを遣わす神、「わたしは必ずあなたと共にいる」とおっしゃる主と共に、この週もそれぞれ遣わされてまいりましょう。
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