日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

2023/7/2 主日礼拝式 お知らせ

2023-06-28 12:49:54 | お知らせ

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よき知らせをあまねく世界に

2023-06-25 16:26:55 | メッセージ
礼拝宣教 ローマ15章14~33節 神学校週間

今日は特に神学校週間を覚えつつ礼拝をお捧げしています。私は20代の時に聖書を学びたいとの一心で北九州小倉から全く知り合いのいなかったこの大阪に向かい、当時の大阪キリスト教短大神学科で学ばせて頂きました。入学金等の資金は3年間会社務めをしたわずかの貯金と車を売って工面し、生活費は大阪教会の駐車場のアルバイトで賄い、又授業料は当時大阪キリスト教短大神学科対象の大変ありがたい奨学金制度があり、その貴いご支援を受け、何とか神学科を卒業することができました。その後、さらに献身の思いが与えられ、大阪教会の推薦を頂いて福岡の西南学院大神学部に編入学し、4年間の学びと研修後、卒業。 
初任地は福岡地方連合の糟屋バプテスト教会篠栗伝道所、後に教会組織した篠栗キリスト教会の牧師となり篠栗伝道所からを含めますと14年間かの地で務めさせて頂きました。その後、不思議な神さまのお導きによって、大変お世話になりましたこの大阪教会の牧師として2005年に招聘を受け、早今年で18年が経ちました。
ところで私が西南学院大神学部で学ぶ際も、その授業料と生活の一部を日本バプテスト連盟の奨学金(これが神学校献金にて充当されているものですが)を利用させていただきました。この連盟の奨学金制度がなかったら私はおそらく神学校で学ぶことができなかったと思います。その他にもこの大阪教会からのご支援が卒業するまで送られ、又出席し奉仕させていただく教会からのご支援もいただき、たいへんありがたかったです。神学生時代の4年間、私自身もキリスト教の幼稚園の御厚意で園児たちに聖話を語るお手伝いをさせて頂き、又、大学の御厚意で神学部の自然ゆたかな庭とその周辺の草刈りと剪定のアルバイトもさせていただきました。そういった様々な形でのご支援とお祈り、その背後に主の大いなるお働きがあったことを覚えますと、感謝の念に堪えません。

本日はローマ15章のところが読まれました。
今日は神学校週間を覚えてというテーマのもとで、ここからまず示されましたことは、パウロがここで自分の伝道、福音宣教の働きに携わって来たなかで大切にしてきたことを、次のように語るのです。
「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、敢えて何も申しません。」
自分がどれだけ立派な成果をあげたとか、自分の働きについてではなく、恵みの神が自分をとおして働かれたこと以外は語らないというのです。福音宣教、伝道の業は、神の絶大な恵みからの感謝と喜び、聖霊の満たしによってなされるのであります。                             
すべてが神の恵みであることがわからなければ、パウロも傲慢になっていたかも知れません。 
しかし自分がどのようなところから救われたのか。どのようにして神との和解を得られたのか。朽ちることのない命の希望がどのようにしてもたらされているのか。その驚くばかりの恵みを知るパウロでありました。だからこそ「キリストの僕」と言って、自分をとことんキリストに従わせるように努めたのです。
それは又、幾多の困難な折にも、又自分の力ではどうすることも出来ない状況に直面した折も、神のしるしや奇跡の力、神の霊の力によるお働きに与りながらエルサレムからイリリコン州(マケドニア州)まで巡り、キリストの福音をあまねく宣べ伝えた、というのです。それは又、当時のローマ帝国の支配にあって行くところができるすべての地域を回ったということを表していました。
パウロはこの長く遠い伝道の旅において、様々な問題も起こり、命の危険にさらされるような事も生じますが。自分の力ではどうすることもできないような時に唯主に信頼し、依り頼んで行く中で聖霊のゆたかなお働きと、不思議なる神のお取りはからいを経験してきたのです。
私自身、そして教会も又、大変困難と思える状況の中で、まさに弱さの中でこそ神の力、神が先立ち導かれる経験を幾度となく与えられてきました。「唯恵みの神が私たちを通して働かれてきたこと」を賛美する以外ありません。
このコロナ禍もそうでありました。生きている限り様々な問題や課題は尽きません。神への感謝と喜びが希薄になり、自分に不都合なこと、嫌なことが生じようとも、自分の思いや判断、又感情の赴くままに動こうとするのではなく、何が神の御心であるのか、何を神が喜ばれ良しとされるのか、それを切に求めていきたいと思います。主が栄光を顕してくださるように主に依り頼み、祈り求めていく時、主は不思議なる御力をもって臨まれ、祝福して下さるでしょう。「主は生きておられます」。救いの感謝と喜びをもって、日々新たに主に聴き従っていく毎日を主はゆたかにお働きくださるのです。

さて、そのパウロですが。ずっと自分の心のうちにあったことで、自分の力でどうにもできない願いごとがあったのです。パウロはそのために「共に祈ってください」とローマの信徒たちにお願いをします。私たちはどうでしょうか。自分のために祈ってください、とお願いすることがありますか。そこに教会のすばらしさがあります。
パウロの祈りのリクエストの一つは、パウロがローマの信徒たちのもとを訪れ、交流し、さらにヨーロッパの西の端イスパニア(現スペイン)への伝道が叶うことでした。22節以降に、「あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました・・・何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していた」と記されているとおりです。そこから、イスパニア伝道へ向うという計画でした。
二つ目は、パウロはローマ訪問の前に、マケドニアとアカイア州の信徒たちの献金をエルサレムの教会へ届けるので、その旅路の安全と健康のため。そうして無事にエルサレムの教会に献金を届けることができるように。また、その後にエルサレムの働きを無事終えてローマに行くことができるように、という事です。
それは、全く異なる場所、立場にある人たちがキリストの福音によってつながり、共に主から与えられた恵みと喜びを分かち合うおうとする試み、チャレンジでありました。パウロはその橋渡しとして用いて頂けるよう願うのです。

私たちがキリストの福音に触れ、その御救いに与ることができましたのは、主がだれかを、様々な仕方でお遣わしになられ、キリストのもとへと案内してくださったからではないでしょうか。
それは聖霊の降臨によってキリストを信じる一人ひとりが主に結ばれたエクレシア、教会が生まれ、さまざま人々のあかしを介して福音が持ち運ばれ、こうして2000年の時を経て今、なお救いは起こされ続けているのです。
私自身主の御救いに与るまでに、主がどれだけ多くの方を遣わし、その執り成しと祈りが捧げられてきたのかということを思い返しますと、感謝に堪えません。今日こうして神学校週間を覚えて、祈り、捧げていくということもまさにその一環でしょう。

私が神学校を卒業しする時、共に教会の牧会の場へと遣わされたのは10人はいたでしょうか。しかし、今現在牧会の働きを続けておられるのは半数です。様々な状況や事情から牧師を辞された方もいらっしゃれば、一旦去られた方、天に召された方もおられます。又、神学部に共に入学した時の仲間が12名おり神学部全体で40人くらいはいたかと記憶していますが。現在、西南学院大学神学部の1年から専攻科までの神学生が大変少ないことを知り驚きました。確かにこの3年あまりのコロナ危機の影響は大きいでしょう。又、現在日本バプテスト連盟の教会、伝道所のなかで、経済的にも厳しく、少数でなんとか礼拝を守っておられるところもこのコロナ危機によって増えてきているようです。諸教会において様々な課題が生じていることも確かです。
では、神の福音はこの時代の変化によって色あせてしまったのでしょうか。
否、むしろこういう時代だからこそ、福音を必要としている人たちが今、世界の中に確かにおられるように思えます。真理と救いを求める祈りは日増しに強くなっているのではないでしょうか。良き知らせ、福音があまねく世界に届けられていくことは急務です。
キリストにあって新しくされ、感謝と喜びを与えられた私たちです。弱さの中にあっても、そこにゆたかにお働きくださる主に心合わせ、あまねく世に福音が満たされますよう主に仕え、捧げ、主のみ業を仰いでまいりましょう。
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TOTコンサート 感謝!

2023-06-25 08:54:43 | イベント
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TOT主催・小川幸子&荒玉哲郎 Piano&Bass コンサート 6・24(土)

2023-06-23 07:47:28 | イベント

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2023/6/25 主日礼拝式 おしらせ

2023-06-21 15:08:52 | 教会案内

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ゴスペル音楽会2023

2023-06-21 08:45:44 | イベント
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キリストにつながって生きる

2023-06-18 16:12:23 | メッセージ
礼拝宣教 ローマ12章1節~8節 

先に「命どぅ宝の日を覚える」日としてのあかしの文章が読まれ、お祈りが捧げられました。
私たちは沖縄の抱えている問題を知ることで、それらが実は知らぬうちにも私の問題であり、大変身近な事として自分たちにも起こっている事に気づかされます。創造主より造られた人、あらゆる生き物、自然。その全被造物の「命こそ宝」と覚え、真の平和を求めてまいりましょう。

本日はローマの信徒への手紙12章1~8節より「キリストにつながって生きる」と題し、御言葉に聞いていきます。
先週の礼拝ではバプテスマにちなんだあかしをいただきました。お一人おひとりに救いの日々の初めがあり、今日もこうしてその恵みを覚える礼拝に与っています。教会はそのような個々人の信仰の励ましの場でありますが、同時にキリストのからだとして他者との関係性のなかで生き、生かされ、互いに祈り、とりなす場です。それは良い時ばかりでなく、むしろ問題や課題をも共に御言葉に聴き、祈り合う中でキリストの姿とされてゆくのです。
初代教会であったローマの教会にも様々な問題がありました。
ローマの教会の始まりについては定かではないですが、ローマ在住のユダヤ教徒が初めに福音を受け入れ、当初はユダヤ人クリスチャンがローマの教会の多くを占めていたようです。ところが異邦人にも福音が受け入れられ、パウロがこの手紙を書いた時には異邦人クリスチャンがユダヤ人クリスチャンより多くなっていました。そこでユダヤ人クリスチャンたちを見下したりすることもあったようです。ユダヤ人クリスチャンの中にはユダヤの慣習を重視しした生活を続ける人や、それを異邦人クリスチャンに押し付けようとする者もいたため、信仰による救いに与った異邦人クリスチャンの中にもそんなユダヤ人クリスチャンをさげすむ人もいたようです。パウロはこうした問題が混在するローマの教会の信徒たちに向けて、キリスト者として生、その生き方について勧めの言
葉を書いたのが、この12章なのです。

こうした問題は形を変えて常に教会の中に潜在化してきました。               信仰が強そうに思える、又弱そうに思えるとか。何ができるか、できないかなどで人が重んじられたり軽んじられたりすることは、主イエスが語られ、行われたこととは異なるものでした。    クリスチャン、キリスト者は、唯神の憐みによって神の子、イエス・キリストが流された血により、救われています。そこには何の差別も分け隔てもありません。それは完全に神の賜物です。どのような人も例外なく、この唯神の憐れみ、ご慈愛によって価値ある存在とされているのです。
それは12章1節でパウロが「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます」と述べているとおりです。
イエス・キリストを通して示された救いのゆえに、まず「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして捧げなさい。これこそ、あなたがたがなす(霊的)礼拝です」と、勧めがなされています。
捧げるということは、自分のしたいように、思い通りに生きるのではなく、神さまがどう願い望まれているのか、その御心を思い、自分を差し出すようにすることです。パウロはそれこそ礼拝だと言うのです。それは毎週日曜日に捧げています主日礼拝だけをさすのではなく、キリスト者の生の全領域において自分を捧げることが霊的礼拝なのです。それは私たちの具体的な生き方と結びついているという事です。
週に一度の主日の礼拝は、そういった日常を生きるための信仰の給油所、霊的な油を頂く場いうことができるでしょう。そういう意味で主の日の礼拝と信仰の交わりは義務ではなく、主の恵みに与っている自分自身が神の前にどう生きていくか、という指針を得るうえで大切なのです。

 パウロは2節で次のようにも勧めます。                          「この世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
真の神が神とされ、人が真の人とされるところに幸いがあると聖書は伝えていますが、世にあってはそれに反し、神の御心を思わず、人を損なわせる罪の力が渦巻いています。情報の波に押し流され、一体何が正しいのか、偽りや間違いなのか混乱するようなこの社会で、自分を確かに生きるにはどうしたらいいでしょう。
この手紙を書いたパウロもかつては人一倍学問を積み重ね、熱心に律法を学び実践しました。が、その自負とおごりから、神に仕えるつもりが偏狭で排他的な自分の作り出した正義感で他者を裁き、激しく迫害する者でした。皮肉なことに、正しくあらねばという熱心も、信仰で救われるという知識も、生きておられる神さまとの出会い、心新たに変えていただくのでなければ虚しいのです。 
パウロがキリストと出会い変えられたように、世に倣い、自分の価値観に捕らわれた人生から、キリストのお言葉とそのお姿をとおして心を新たにされ、自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と、パウロは勧めるのです。

 パウロは又、3節で「わたしたちに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大評価してはなりません。むしろ、神が各自に与えてくださった信仰の度合いに応じて(別の訳では尺度とありますが)、慎み深く評価すべきです」と言っています。            まあ計るというと人と比較するようにもとれますが。人を基準とするのではなく、神によるところ、イエス・キリストによるところの基準であります。そこから自らを「慎み深く評価する」ことができるのです。そういう一人ひとりがキリストの教会においては、「キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いにキリストの体の部分なのです」とパウロは言います。それはちょうど人の体が手は手、足は足とそれぞれの機能をもってなしているように「すべての部分が同じ働きをしていない。」そのことが重要なのです。
 パウロはコリントの信徒への手紙12章においても、「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの(教会の)場合も同様である」と述べています。
ローマの教会と同様コリントの教会も問題が起こっていました。いわばキリストの体なる教会が病んでいる状況に陥っていたのです。ある人たちは自分に与えられた賜物や立場を誇り、そのおごりが高じて排他的になり、弱い立場におかれた人は無視され、見下されるような事が生じていたのですから大変です。

以前にもお話しましたが。随分昔に一般教養の生理学の講義で学んだことを拾い書きしたメモ紙を聖書にはさんでいるのですが。
私たち人間の体には表皮細胞(皮膚等)があり、その数は成人で50兆個、新生児でも2兆個。それも2週間に1度の割合でそれらの細胞は死に新しいものが生まれるということが繰り返されているそうです。肉眼では見えない表皮細胞によって私たちの体と命が保たれています。又、私たちの体には運動器系、呼吸器系、神経器系、感覚器系、循環器系、消化器系などの様々な器官が備わっていますが。それが個別にではなく、互いに補い合い連携しながら各々の役割を果たすことで、体の健やかが保たれています。
 様々な病は、体内の1部の器官だけに負担がかかり、偏った働きをしたため、他の器官との連携がうまくできなくなった際に生じると言われます。ですから、それぞれの働きを補い合い、連携していくということが体にとってはすごく大切なことなんですね。
 さらに、私たちの体内には常に1分間に4200CCという新鮮な血液が流動し、20秒間に体内を一周しているということです。考えもおよびませんが、血液もまた細胞や各器官と同様、体を健やかに保つうえで大切な働きをしています。それは、あらゆる感染や悪い菌から体を守り、抵抗力の役割をなします。血液の白血球や赤血球は最も小さな部分といえますが、その小さなところがもし病気になり、機能しなくなると大変です。体のすべての器官との連携がうまくいかなくなり、体全体が崩れていくことにもなりかねません。このように考えると、体の中で最も小さく見えるような細胞や血球が保たれてこそ、他の器官も潤滑に機能し、ひいては私たちが眼で見たり、耳で聞いたり、鼻でにおいをかいだり、手や足をつかって作業や活動することができているということです。

私はこの「一つのからだと多くの部分」のところを読むとき、ひとり一人に違いや個性があるからこそゆたかであり、そこにキリストにある救いの福音の奥深さに気づかされるからであります。ほんとうにそれは私たちの身近なものとして感じ取ることができるわけです。

6節以降では「それぞれに与えられた賜物」について言及されています。
それは預言の賜物、奉仕の賜物。教える人、勧める人、施しをする人、指導する人など記されていますが。他にも様々あるのではないでしょうか。祈りについての賜物、音楽やいやしの賜物もあれば、笑顔一つで神の愛と救いを証しする方もおられます。ご長寿でいらっしゃることも又、賜物であり神の恵みのゆたかさをお教えてくださいます。大事なのはパウロが記しているとおり、互いを尊重し、それぞれの賜物に応じて、それぞれのあり方で内に外に励み務め、惜しまず快く行うことであります。そうした互いを喜び合える、それがキリストのからだなる教会のゆたかさであり、あかしとなっていくのです。

教会といえども人による集まりでありますから、そこには問題やいろんな意見の相違や対立も時には起こり得ます。そこでキリストにつながる私たちはどう生きるか。神の憐みによって、唯イエス・キリストにあがなわれ、罪赦されて神の救いに生かされている私たち一人ひとりであり、共にキリストにつながって一つの体なる教会とされている私たちです。キリストの教えとみ言葉に聴き、共に聴き、語り合い、さらに祈り合いながら常に主のみ心が何であるかを求めて歩んでいくことが、神の望まれる礼拝であることを今日の聖書から聴いてまいりました。
キリストにつながって日々を生きるその人生には、共にキリストのからだである貴重なお一人おひとりが賜物として与えられているその恵みを感謝します。キリストのからだなる教会が立てあげていくよう祈り求め、歩んでいきましょう。
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2023/6/18 主日礼拝式 おしらせ

2023-06-14 13:37:31 | 教会案内

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ヒーリングJAZZサプリ

2023-06-07 16:10:35 | イベント
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すべての人の救い

2023-06-04 14:27:12 | メッセージ
礼拝宣教  ローマ10章1-13節  
 
 パウロはユダヤ人以外の人たち(異邦人)に神の救いを伝える使徒でした。しかし一方で「兄弟たち、わたしは彼ら(ユダヤ人)が救われることを、心から願い、彼らのために祈っています」と述べているように、同胞の民であるユダヤ人たちが救われることを切に願っていました。
パウロはそのユダヤ人たちに対して「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではなりません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」と述べます。
「自分の義」を立てようと律法を守ることは熱心でしたが、「神の義」、キリスト、神が与えて下さる義が認識できない、それを受け損ねていると言うのです。
ただ「熱心」であれば神に喜ばれるということではなく、何に基づいて熱心であるか。又、何を熱心に求めていくか。正しい認識に基づくか。そのことが大切なのです。「正しい認識」とは、まさにイエス・キリストの十字架の贖いを通してもたらされた「神の義」、神の愛と恵みなのです。

 ユダヤ人の多くは律法の掟を守ることに対して確かに熱心でありましたが、自分たちは特別に神から律法を与えられた選民だという強い意識や他とは違うといった優越性をもっていました。ただ熱心に細かな規定までも守り、行えば義人となって救われるという認識があったのです。彼らは「自分の義」を立てようと熱心でしたが、一方で律法を持たないかった人、律法を知らない人をみくだし、裁くようなことをしていたのです。旧約聖書の箴言16章18-19節に「高ぶりは滅びに先だち、誇る心は倒れにさきだつ。へりくだって貧しい人々と共におるのは、高ぶる者と共にいて、獲物を分けるにまさる」(口語訳)とあるように、「高ぶり」は神の忌み嫌われることです。
パウロも以前は熱心なユダヤ教徒としてそのように生きた人でした。
パウロはその自分の姿を顧みつつ、彼らユダヤ人も「神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わない」、どうか「神の義」、神の救いを受け取ってほしいと願うのです。
この熱心はどこからくるのか。人より立派になって、偉くなって自分の正しさを示すためではなかろうか。又、自分の正しさの基準で人を裁いたり、みくだしたりして自分は神の側に近いように思っていないか。「正しい認識」が必要です。又、逆に自分は人より劣っている、足りない。人一倍努力して励まねばならない、と不安や心配で頑張っているなら、それは正しい認識とは言えません。「神の義」、その憐みと愛を受け取り、平安、感謝、喜びからあふれてなされていく、それが正しい認識であります。
礼拝も、祈りも、捧げものもそうです。礼拝を守らねば救われないというのではなく、礼拝は救いの確認、救いの神への感謝と賛美、応答、それは平安と喜びであるからです。私の祈りも、私の人生も私がではなく、神がこうしてくださった、という神のお取り扱いを信じることから、実に私たちの信仰は始まっていくのです。自分の精進や苦行が神を動かすということではなく、神が働かれ、導いてくださる。これが私たちの信仰の認識であります。実はそこに律法本来の「神への愛」「隣人愛」が実りとしてもたらされてくるでしょう。

 パウロは4節で次のように述べます。これは、新共同訳改訂版でお読みします。
「キリストは律法の終りであり、信じる者すべてに義をもたらしてくださるのです」。
今使用している聖書では「キリストは律法の目標であり」となっていますが、これよい訳でありません。「律法の終り」「集大成」。それがイエス・キリスト、なのです。
なぜなら、律法を付与されたユダヤ人をはじめ、人間の行いによって救われないすべての人に代わって、神の御独り子・イエス・キリストが唯一、律法を完成されたお方であるからです。それは、比類のない愛によって完成されています。律法の精神は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神を愛しなさい」。又「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」の2本柱によってなっているといわれていますが。この律法本来の精神をイエス・キリストは体現し完成なさったのです。
律法の遵守と行いによって救われる時代は終り、イエス・キリストの信じる者は義とされ、救われる神の義が成った。完成した。こうして福音の時代が始まり今日にまで至っているのです。

 この「信仰による義」について、パウロは6節以降旧約聖書の言葉を引用しながら次のように述べます。
「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことになりかねません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります」。
だれが天国に入るのか?だれが地獄に行くか?主イエスが十字架にかけられた時、右と左に2人の罪人が同じように十字架にかけられていました。一方の罪人は主イエスを罵り続けました。もう一方の罪人はその人に向けて「自分たちが十字架にかけられるのは当然だ、だがこの方は何も悪いことはしていない」と諫めました。そして十字架のイエスに向けて「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願ったのです。確かに主イエスはその人に「今日あなたはわたしと共にパラダイスにいる」とおっしゃいました。では、彼は天の国に入り、もう一人の人はそのまま地獄に落ちたのか?それは私たちにはわかりません。なぜなら裁きは人ではなく神のものであるからです。ただ一つはっきりしていることは、キリストがすべての人の救いのため、とりなし、祈られつつ、その身をもってあがないの業を成し遂げられたという、その事実です。

 ヨハネ福音書3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と記されています。
キリストによってすべての人に、万人に神の救いは向けられているのです。
「だれが天に上るか」、天国に入るか。「だれが底なしの淵に下るか」、地獄に行くかなどと自分も、又人に対しても裁くようなことは、キリストを通して実現された「神の義」その救いを台無にしてしまうことになりかねないのです。

 さて、そこでパウロは、この「神の救い」について8節以降で次のように述べます。
「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」。
これも旧約聖書にある言葉ですが。それをパウロは「口でイエスは主であると公に言い表わし、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたがたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表わして救われるのです」と、それがキリストにおける新たな時代の正しい認識であるというのです。                       
救いは何か遠いところにあるのではなく、キリストを信じた今、それを口で言い表わした、この時に、救われている。その自覚的信仰と表明が、キリストの救いにある生活とそのあかしの人生につながっていくのです。
確かに口と申しましても、様々な事情でそれが困難な方もいらっしゃるでしょう。先日水野源三さんの動画を家族で観てとても心が熱くされました。水野源三さんについて今日の巻頭言に掲載させていただきました。目と口以外は動かせなくなり、死にたい、死にたいと繰り返すばかりの毎日に、聖書との出会いが与えられ、徐々に心が開かれて、イエスさまの救いを信じます。その救いの喜びと希望に満たされるその思いを、彼は詩(うた)に表すのですが。口はきけないため母親と50音をまばたきで1文字1文字ひろいながら詩にしました。それはやがて詩集、まさに神のみ名をほめたたえる賛歌となって多くの人に知られることになるのです。水野源三さんは9歳の発病以来47歳で天に召されるまで家の奥の6畳間から1度も外へ出ることは叶わなかったそうです。けれどキリストの御救いは泉となって湧きあふれ、世界の至るところでそのあかしが多くの人にキリストとの出会いをもたらし続けているのです。                 
今日の聖書にも、「『主を信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります。ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、すべての同じ主がおられ、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者は誰でも救われる』のです。」アーメン。
ユダヤ人だけが聞いていたみ言葉は、今や万民にとっての祝福のみ言葉となりました。
 それは、「すべての人に同じ主がおられ」るからです。主は十字架の死をもって罪を贖い、復活のいのちをお与えになることができるお方です。すべての人に神との和解、真の平安(平和)をもたらされるイエス・キリスト。このお方にある信仰によって私たちは分け隔てなく、神の祝福のうちに救いの道を歩むことができるのです。
まさに「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Ⅱコリント2章2節)なのです。キリストの救いをあかしし、福音を伝えていく事が困難な時代と言えるかも知れません。しかしどうでしょうか。
2000年前に十字架の死と復活を経て、天に昇られ、聖霊のお働きによって今も変ることなく、主は救いを起こし、福音は確かに私たちのもとに届き、世界の至るところに持ち運ばれています。として降臨くださった主は、今も生き、お働きくださっておられます。
すべての人に、この素晴しい神の救いが届けられますように。この希望の福音をたずさえ、主の救いのあかし人とされてまいりましょう。
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