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教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

「共に集うキリストの教会」

2024-05-05 12:49:52 | メッセージ
礼拝宣教 Ⅰコリント11章17-29節 主の晩餐

黄金週間も後半となっていますが、帰省や旅行中の方々もいらっしゃるかと思います。あるいは今が一番忙しいと励んでおられる方もおられるでしょう。今日こうして主の招きのもと、遠くから近くから、またオンラインを通して共に共に集まり、礼拝を捧げる幸い。お仕事の後ホッと一息つきながら礼拝の音声配信を通して主の平安に与かる幸い。安息日の主に心から感謝をささげます。
先週の29日には関西地方教会連合の定期総会が、当教会を会場に関西地区の30教会から代議員、陪席者が対面とオンラインを通して集まって行われました。8つの議案すべてが承認され、新たな歩みが始りましたが。私たちバプテストの関西地方連合諸教会は、上からの指示ではなく、各教会の主体的あり方が大切にされながらつながり、相互支援を行っています。野球で言えば監督のイエスさまを中心にチームメイトのような存在です。

本日は先ほど読まれました「主の晩餐について」の記事から御言葉を聞いていきたいと思います。
今から40年くらい前でしたが、私は大阪の神学校で学ぶことになり、前教会の牧師のお勧めもあってこの大阪教会に客員として出席する事になりました。そうして初めて主の晩餐が執り行われた時の事です。
大阪教会の会員は皆起立して主の晩餐に与っていたのですが。それ以外の人はたとえクリスチャンであっても、主の晩餐に与ることができなかったのです。私は大変衝撃を受け、「主を信じているのにどうして」という戸惑いと疎外感にかられて、しばらくすっきりしない日々が続きました。
そこで思い切って当時の大阪教会の牧師に、この主の晩餐の持ち方について、私の正直な思いを打ちあけました。すると牧師は、「排除や差別ではない。戦前のキリスト教会は国家の戦争に迎合していったその過ちは、教会という信仰共同体の一致が欠落していたからだ。そうした過ちを繰り返さないために、教会の共同体形成をしていくうえで、教会員のみという仕方にこだわっている。しかしその在り方も絶対的なものではない」と、私に話してくださったことを記憶しています。
この牧師のお話を聞いて、ああそういうかつての歴史的な時代の背景や考え方もあるのか、と思いました。これは良いも悪いも、学びが得られるのではないか、と大阪教会に飛び込んで、主の交わり加えていただく決心を私はしたのです。
それから年月が流れた2005年春、私が再び牧師として大阪教会に戻って来た時には、すでにその主の晩餐の持ち方も大きく変わっていました。大阪教会の教会員以ではないクリスチャンにも主の晩餐は開かれ、招かれるようになっていたのです。しかし、現在の主の晩餐に際しても、主イエスが十字架で裂かれた体と流された血は、私の罪のためのものであり、又その罪をあがなうためのものであり、神に立ち返って生きる救いのためのものである事には変わりありません。ただ今は、その主イエスにあって救いを願うすべての人が、神に招かれているのだという大阪教会の私たちの信仰をもって、パンと杯とを受ける取る人と主なる神との関係性が起されていく大切な宣教の機会としても行われております。

ところで今日の箇所でもひっかかりますのは、27-28節にかけて「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」と記されている点であります。
その「ふさわしくないまま」とは、どういうことを言っているのでしょうか。
みなさまの中で主の晩餐の時に、自分の普段の生活態度を振り返りますと、とても主の晩餐に与る資格など自分にはないと考え、受け取らなかったという経験をお持ちの方もおられるのではないでしょうか。
そこで、自分の内面に気づくこと、神との和解を求め、キリストの救いを信じて、神に向き直った人には立ち返るように努めることが大切です。そこに感謝と賛美が生まれます。
ある方からお聞きした話ですが。以前通っていた教会で、子どもと一緒に主の晩餐に出席したお母さんが、バプテスマを受けていない子どもにパンとブドウジュースを与えたということで大きな問題になったそうです。そのお母さんは非常に辛い思いをしていました。これを聞いたその方は、後で教会の牧師にこの事に関して尋ねると、その牧師は「イエスさまであったらどうなさったでしょうかね」とおっしゃったそうです。すばらしい回答だと私は思いました。自分であれ、他者であれ、主ご自身との関係性が尊いのです。
「ふさわしくないままで」と、新共同訳聖書、又口語訳聖書、新改訳聖書も訳されていますが。原語に忠実に訳すなら、「ふさわしくない仕方で」と訳す方が原意に近いということです。
「ふさわしくないままで」というと、それぞれの資格や何らかの資格が問われている気もします。その資格を自分にあてはめ他者にもあてはめますと、「今自分はふさわしくない」「あなた、それはふさわしくない」と自他ともに裁いてしまうことになりかねません。しかし、「ふさわしくない仕方で」と言うことになると、そもそも主の晩餐の仕方、持ち方に問題があるという事です。
そうしたら、その後の29節で「主の体のことをわきまえずに飲み食いしている」、そういう仕方に問題があるにだということがわかります。
「主の体のことをわきまえず」。この時の主の晩餐はコリントの信徒の家に寄り集まって行われていたようです。いわゆる「家の教会」です。家を開放して礼拝をもつ信徒たちを総称して、コリント教会と言っていたわけですが。
 そうしたことから、21節以降あるように「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末」であったり、又22節「神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせる」ような、裕福な人たちの宴会のようになっていた、というのです。
初めのうちは福音を信じて救いと解放の恵みに与った信徒たちが、共にその喜びを分かち合おうと家に招き合って主の食卓を囲んでいたのでしょう。
ところが次第に信徒間でいろんな分派や確執が生じ、生活環境の違いから腹を満たし酔いつぶれている者がいる一方で、厳しい労働を終えて駆けつけた者や、奴隷であった人、また社会的に弱い立場に立たされている人たちは空腹のまま放置され、無視されるような事があったのです。
主の御体である教会の中でこうした事が起こっていた。パウロは「それでは、主の体と血を犯すことになります。」と、問いただすのです。それは主イエスがすべての人のために十字架の死を通してあがなって下さった、御救いの出来事を台無しにするような事だと、パウロは強く警告したのです。
使徒言行録2章44節以降には、誕生したばかりの初代教会が「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をした」様子が記されておりますが。
主イエスによって救われ、神との和解と救いに与った人たちが喜びと真心から集まり、そのあらゆる立場や違いを超えて一緒に「主の食卓を囲んで」晩餐を分かち合われているその豊かさ。それこそが神からの贈り物、ギフト。福音の顕れです。「キリストに救われている」。唯この一点における信仰の共同体。そこに聖霊によって導かれた私たちの間に、証しは生まれ、神の栄光は顕されていくのです。
主にあってだれもが尊い者とされている恵みを覚え合いながら共に主の食卓が囲めるそのところに、この世の集まりや組織とは異なる神の国、平和(平安)と喜びがあります。

主イエスは言われました。「これはあなたがたのためのわたしの体である」「この杯はわたしの血によって立てられる新しい契約である」。
私たちは神のひとり子、イエス・キリストが私の救いのために、又すべての人のために十字架で血を流し、御体を裂いて死なれたことを記念します。主の晩餐において神の尊い愛と憐みを忘れることがないようにと守り行っています。そうして、神との和解に与って生きるものとされている事を確認するのです。
又同様に、主が兄弟、姉妹のためにも尊い御体を裂き、血を流された事を私たちが忘れないように、隣人愛をもって生きるようにと、この主の晩餐に招いておられるのです。

さて、私たちはこの主の晩餐を礼拝の中で守るようにしています。
教会によっては主の晩餐を、礼拝後に教会員のみが集まって行っているところもあります。
私たちの教会が礼拝の中で主の晩餐を行うのは、バプテスマもそうですが、それが見えるかたちでの主イエスの福音宣教と捉えているからです。
この後に、主の晩餐が行われますが。そこで「主イエスが自分の罪のために十字架にかかって死んでくださった救い主であることを信じ、従っていきたいという決心なさった方にもどうぞ主の晩餐に与ってください。」と招きがなされます。すべての人が主の御救いへと招かれている福音宣教としての主の晩餐が、主イエスの福音を受け入れていく素晴らしい機会となりますようにと、祈ります。
私たちはその主の晩餐において、十字架上での主イエスの御体を象徴するパンを裂きそれを戴きます。
そうして主が私を罪に滅びることから、ご自身の裂かれた肉をもって贖いとって下さったことを思い起こし確認します。
私が福岡の神学生時代に出席していた教会では、パン屋であった教会員の方が朝焼きあげたばかりのふかふかの丸い大きなパンを、牧師が主の晩餐の時に「アーメン、アーメン、アーメン」と唱えるたびに2分割さらに4分割、さらに8分割にして裂いていき、礼拝席の前の方々に渡して、それをさらにお隣の方、後の方に裂いては次の人にという具合に渡されていきました。そこで私たちはひとつのキリストの体であり、その一人ひとりが大切であることを体験的に覚えることができました。そのように主の愛といつくしみを共に分かち共に味わう天の国の豊かさが、主の晩餐には与えられています。
又、主の晩餐のぶどう酒は、主イエスの流された血によって、和解による平和の新しい契約を結んでくださった事を心に留める象徴であります。
コロナ禍以前は「ぶどう酒の入った一つの杯(器)」を共に回しながら飲むという教会もあったようですが。それも皆が同じくキリストの御血によって救いに与っていることの確認となったことでしょう。
一説では、それがお茶を頂く茶道の原型となったとも言われていますが。今は衛生面の問題などから予め杯に注がれたものが用意され、それぞれが取って戴くという教会が多いでしょう。
又ぶどう酒を使っている教会もありますが、私たちの教会では諸般の事情を踏まえ形は多少変わりましても、その信仰の精神は一つであります。
ところで先週の役員会で6月からの主の晩餐についての話し合いがなされました。主の晩餐のパンについて、小麦アレルギーの方もだれもが安心して頂く事ができるものを用意していこうという事になりました。本日は主の晩餐のパンの一部に、米粉から作ったパンを用意して頂きました。感謝です。

主にある兄弟姉妹と共に、「キリストのいのちに与っている」事を記念して思い起こし、味わうその奥深さ。その形式は教会によって様々ありましょうが。大切なことは主の愛と救いの原点を共に確認し、神と人、人と人とのゆるしと和解を共に覚えて生きるのです。それは主の霊、聖霊によってなされる業であります。

今日は「共に集うキリストの教会」と題し、御言葉に聞いていきました。
コロナ禍前は大阪教会ではよく一緒に食事を頂く機会が多く持たれていました。礼拝においては第一主日礼拝に持たれる「主の晩餐」、毎週礼拝後の愛さん昼食、祈祷会後の昼食、さらに月二回行われていた夕べの礼拝の中での食事と主の晩餐、そしてこども食堂と、実に食べる事づくしでしたけれども。コロナ禍以降、その機会も少なくなりましたが。教会の愛さんの食卓は単に食欲を満たすだけのものではありません。私たちは肉の糧を頂くと共に、霊の糧である神の愛と救い、平和を頂く事で豊かに生きることができます。今週もここからあゆみ出しましょう。

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