日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

第20回BWA(バプテスト世界大会)に参加して

2010-08-30 14:15:09 | 巻頭言
                        
アロ(愛を)・ハ(息)・オエ(あなたに) 記念すべき第20回世界大会は
7月28日~8月3日米国ハワイ州ホノルル・Convention Centerに於いて
主題“Hear The Spirit”のもとでオリィベット教会渡辺牧師夫人を舞台の中央に日系二世婦人のフラの祈りによって開催されました。日本からの参加者は田口理事長以下31名でした。世界105ヵ国3500人の兄弟姉妹の祈りと讃美は、平和と和解の願いをこめて会場に響きわたり、中でもBWAの信徒総数3710万人の20%(756万人)を擁するアフリカからの多数の参加者の猛烈な熱気には圧倒されてしまいました。12年振のオリィベット教会訪問でしたが、再会したジョージ・渡辺師(1952年名古屋教会宣教師)は車でホノルルが一望できるパンチ・ボールの丘に案内してくれました。
二つの祖国、日本と米国の狭間でヨーロッパ戦線に散った若い幾千もの日系二世の墓標が並んでいるのを見て思わず涙してしまいました。太平洋戦争の発端となったパール・ハーバー先制攻撃を、戦中派の私達もリメンバー・パール・ハーバーを覚え、日本国民としての悔い改め、不戦の誓いと共に、これらのことを隠さず、後の世代に語り継いで行くことを詩編78編は私たちに求めているのです。メルボルン、バーミンガム、ホノルルのBWA大会に三回続けて参加できたことを主に感謝する者でございます。
(T・S)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

罪を告白する希望

2010-08-22 06:38:28 | メッセージ
宣教 詩編51編3~14節

51編は悔い改めと共に神との個人的な関係の回復を切に求める祈りが基軸になっていますが。15節以降を読みますと、「わたしはあなたの道を教えます。あなたにそむいている者に、
罪人が御もとに立ち返るように」と15節にありますように、神の御慈しみとみ救いをイスラエルの民に伝えていく、という側面を読み取ることができます。ダビデ王の後にイスラエルは南ユダと北イスラエル王国に二分し、後にイスラエルの民は神の教えに背き、大国と戦争をして都エルサレムは崩壊し、遠い大国の地に捕囚として連れていかれ、その後捕囚の身から解き放たれてエルサレムに帰還するのであります。そのイスラエルの民としての罪責の歴史がここに踏まえられているように思えます。
神に対する深い悔い改めの中、20節の「御旨のままシオンを恵み、エルサレムの城壁を築いてください」との神の民たちの切なる願い、祈りがあったのです。
神の民としてのイスラエルが、二度と罪を犯すことがないように、罪を繰り返すことがないように。今日読んでまいりましたダビデの切なる訴えを継承して生きること、そこに決意と希望とを信仰の民たちは抱いていったということではないでしょうか。

本日は「罪を告白する希望」との題をつけました。。
今日は平和・命の尊さを心に留めて、二度と戦争が繰り返されないために祈り求め、歩んでいくそのような日として主に礼拝を捧げています。
戦争という国家的な罪は権力や利害による構造的な問題はありますが。詩編51編から改めて教えられることは、ダビデもいわばその構造に捕われておぞましい罪を犯しますが、そこで彼は活ける真の神こそが、この世界のすべてを治め、すべてのことどもをお裁きになられることを思い知らされるのです。ダビデがそのように心砕かれ、悔いる心を神のみ前に注ぎ出したとき、まさに「暗闇の中に輝く光」を見るのですね。そして「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」と謙虚に祈り、生きるものへと変えられていくのですね。「悪かった、ごめんなさい」で終わらない。新しく確かな霊を戴いて、み心に歩む者としてください、と祈りつつ生きる。そうなんです、クリスチャンは日本の総人口の1パーセントほどですが、そういうクリスチャン一人ひとりが、その教会一つひとつが、個人のことにせよ、国家のことにせよ、過去の過ちから目をそらさず、無関心になることなく、二度と同じ過ちを犯すことのないように祈り、求め、生きていくことが如何に大事かということをこの詩は示しているのです。
悔い改めと赦しで終わらず、二度と罪を犯すことがないように、と祈り求めていくクリスチャンの生に神さまの希望があります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

全国少年少女大会から。

2010-08-19 09:15:00 | 巻頭言
「教会観」

8月上旬の4日間、伊豆の天城山荘で開かれました全国少年少女大会に分団リーダーとして参加してまいりました。関西地方の教会からは18名の少年少女たちが参加しました。2日目夜のジョイフル・プレーズの時間では、関西連合少年少女たちも関ジョイというグループでお揃いの赤のTシャツを着て初デビュー、2曲舞台で主を讃美しました。

特に思いますのは、全国、北は北海道旭川から南は九州・沖縄までの少年少女、韓国の教会の少年少女含め166名の参加者でした。食事時に今年は使っていないテーブルが目立ちました。少年少女たちの参加が減少傾向にあるのです。まあ参加費が高いということもありますが。もう一つは、各教会の少年少女の人数が減少している現実を目の当たりにしました。

やはり、個々の教会でこども、小学生、少年少女、そして青年を育てていくという具体的な課題があるということを知らされました。又、教会の規模が小さくて1人しかいないというような教会であっても、それを連合の諸教会同士の交流や親睦をしながら、そこで知り合うことで、小さな教会にも元気な風を吹き込んでいけるような機会や出来事を作っていくことが、吸収して合同するとか消滅とか教会が言われているときに、ほんとうにそういうことが必要だと思いましたね。自分たちだけの教会がよければいいという自己完結型の教会は今はいいかもしれませんが、必ず行き詰まるときが来ます。そういう意味で、幸い関西は地方連合という協力し、支え合い、祈りあうネットワークがあります。その地方連合の場をこの大阪教会もどんどん利用して、交流や学び合い、あるいはリフレッシュなどの行事もあります。来月9月20-21日には信徒大会が神戸しあわせの村で予定されています。そういった場に出て行き、参加することで、自分自身も元気を戴きますが、教会も風通しがよくなります。

もう一つは、今回私は高校3年生9人と高校2年生1人の計10人の分団リーダーをさせて戴きました。ですから、この高校3年生、そして高校2年生も全国大会が2年に1度の開催になったのでいずれも今回が最後の大会になります。進学や就職という大きな問題を抱えながら、みなそれぞれにこの大会に参加するかどうか悩みに悩んで天城に来た少年少女たちでした。
そういった中、分団を重ねる中で出たのは「私と神さまとの関係」を自分はこの大会で確認できたらいいという話になりました。3日目夜のプログラムの「メッセージの夕べ」の講演で、30代の青年伝道師がこういうことを話されました。「かつて自分はこの大会に少年少女として中学1年から高校3年まで6回フル参加し、盛り上がり、友達もよくできた。けれども、天城で知り合いになった友達の殆どがその後まったく教会に行っていないことを知り、少年少女大会が嫌いになった」と話されたんですね。彼は本当に少年少女大会が嫌になったんじゃなく、つまり逆説的に自分と神さまとの関係をしっかりとこの大会で見出してほしいと訴えられたんですね。その講演の後の分団では、みな神さまに、教会にしっかりとつながっていく決心をしました。中には、音楽を通して献身したいという男子、又、直接的に牧師のように神さまを伝えて生きる働きをしたいと献身の決心をした男子が2人与えられ、分団のみんなで一緒に祈りを合わせました。

自分と神さまとの関係をしっかり築いていく。それは何も少年少女に限った問題ではありません。成人にも言えることでしょう。例えば、教会の雰囲気とか、仲間がいるとか、交わりがあるとか、そういうこともキリストの共同体として教会生活をしていくうえで大きな面だとは思います。けれどもそれは、私と神さまとのつながりよりも優先されるものではありません。まず、私と神さまとのつながり、関係をしっかりと築くことがあって、そこからその神の愛をもって奉仕や兄弟姉妹としての交わりというものが本当の意味で与えられてゆくのです。それは逆では決してありません。それを「教会観」といいますが、そこがしっかりしていないなら、糸の切れた凧のように根無し草の信仰で終わってしまうしかないのです。関りも、み言葉に生きることも希薄な薄っぺらなものになってしまいます。とっても残念なことです。

先回も申し上げましたように、聖書の神さまは、ここに40人いるとしたら、1対40という関係で、高い所から見渡しておられるのではありません。1対1のわたしとあなたという100パーセント、マックスで向き合ってくださるお方なのです。その神さまと私の関係、つながりをしっかりと築くこと、教会観を持つことが大事だと強く思わされました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いら立つな

2010-08-15 07:31:48 | メッセージ
宣教 詩編37編1~6節  

この詩編37編には「いら立つ」という言葉が3回も使われています。それは「腸:はらわた」が煮えくりかえるような憤りや怒りの感情を強く表した言葉であり、その不当な仕打ち、不条理ともいえる現状の中で、なお詩人は主にまかせよ、主にゆだねよと、御神にどこまでも信頼していくのであります。
「いら立つ」ということについては、まあ様々なレベルといいますか次元の「いら立ち」というものがあると思います。私たちも日常の生活において、いろんな「いら立ち」を感じることがあります。それは自分の置かれた立場においてであったり、あるいは人との関係においてであったり、又、自分自身に対してであったりとほんと様々であります。いら立ちを持たない、いら立たないという人が果たしているでしょうか。
私たちはそういったいら立ちと、どう向き合い、対処しているでしょうか。いら立ちは人間であるがゆえに持っている感情であるともいえましょう。
特に今日のところで詩人は「悪事を謀る者のことでいら立つな」「あなたの道を主にまかせよ」と呼びかけます。

むろん詩人は「悪事を謀る者」の不正や悪をそのまま見過ごしなさい、放っておきなさいと言っているのではありません。今も世界のさまざまな地で繰り返される戦争や民族紛争、搾取や命が不当に扱われる事々。又、一瞬にして命を奪う核兵器をはじめ殺戮の兵器が今この時も作られているという現状に対し、「いら立ち」を覚えるのは当然のことです。そういう意味での「いら立ち」を抱かないことは逆に怖いことだと思います。
しかし、この「いら立ち」という感情は、といもすれば憎しみや恨みを燃え上がらせます。
だんだんそのことに固執し、そういう思いが溜まってきますとどうなるでしょう。たとえ正当な怒りであったとしても、冷静な判断が損なわれてくるでしょう。相手を責めることばかり思いがいき、自分のことが見えなくなるでしょう。とどのつまり悪事を謀る者に心動かされ、悪に振り回されるかたちで自らも罪を犯してしまうことになる。それでは憎しみの連鎖となり、悲劇が繰り返されるばかりです。その事を詩人はよくわきまえ知っていた、経験していたのかも知れません。

話が変わりますが。先週私は火曜日から金曜日までの4日間、伊豆の天城山荘で開かれました全国少年少女大会に分団リーダーとして参加してまいりました。今年の全国の少年少女大会は「出会い(マンナ)」というテーマでした。韓国語で「出会い」を「マンナ」というそうです。今回は初めて韓国のチャム・ジョウン・バプテスト教会からユン牧師と少年少女たち十数名を大会にお招きし、一緒に交流の時が持たれました。これは、昨年日本のバプテスト教会の少年少女有志が「隣人に出会う旅・韓国」に参加して、交流を持ったことが経緯にありました。日本が今から丁度100年前に韓国を併合し、植民地化において、人権、文化、言語を奪ってきたことを心に刻みつけつつ、韓国の教会を訪ね、平和学習や文化的な交流を深めていくそういったプロジェクトの旅が持たれています。
今回このチャム・ジョウン教会のユン牧師のお話やメッセージをお聞きする機会があり大変恵まれましが。何よりも心に残りましたのは、ユン先生が日本が過去に韓国に行なった侵略戦争は悪だとしつつ、しかし私たち日本人のことが大好で、日本の救いのために祈っておられるということを知らされたことでした。そのユン先生の言葉には、いら立ちという感情を一片も感じることはありませんでした。むろん、最初からそうではなかったでしょう。キリストの十字架とその赦しの福音と、今日の詩編のようなみ言葉による信仰がユン先生と私たちを和解の恵みへと導くのです。
先生の暖かく包み込むような信仰のまなざしでもって、神さまはほんとうに「出会い」の豊かさを教えてくださいました。韓国人、日本人の立場の違いは確かにありますし、その歴史をきちんと知り、心に刻んで二度と同じ過ちを繰り返してはなりません。その上で、神さまは韓国人も日本人も、どの国の人も、かけがえのない「命」として造られていることを覚え、これからの未来を切り拓く若い人たちには特に、まず一人の人として友達になること、身近な文化やスポーツをとおして親しくなることから始まり、そこから韓国や日本のことについて深く学び合い、共に生きていくほんとうの交流ができるといいなと思わされました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主はわたしの羊飼い

2010-08-08 07:30:47 | メッセージ
宣教 詩編23編  

この詩編23編は旧約聖書の中でも最もよく知られている詩ではないでしょうか。
それはまた、新約聖書の中の「主の祈り」のように、よく暗誦されている詩ではないでしょうか。つまりそれは、この詩によって世々の人びとが如何に励まされ、力づけられ、勇気を与えられてきたかというあかしであります。

冒頭の1節に「賛歌。ダビデの詩」と記されています。ダビデはユダ部族ベツレヘムびとのエッサイの子で、イスラエル第二代の王となりました。彼は8人兄弟の末っ子として生まれ、姿の美しい少年で、父の羊を飼っていました。そういう中で、獅子や熊といった猛獣から羊を守るという経験を幾多もしたことでしょう。

羊という動物の習性については、ご存じの方もおられるでしょうが、羊は群れをなして生きる動物です。一匹で生きられない弱い存在でもあります。又、こう言っては何ですが、決して賢い動物とはいえず、すぐに道に迷ってしまうような生きものであります。
ですから、遊牧された羊にとって羊飼は絶対になくてはならないものであります。羊飼がいなければ牧草地に行くことも、水のあるところにも行くことができません。そればかりかちりちりばらばらになって猛獣の餌食になってしまいます。一方、羊飼は羊との信頼関係を築きます。羊との信頼関係がなければ羊は言うことを聞かず、牧することは出来ません。羊飼いはこの詩にもあるように鞭や杖を用いますが、それは罰を与えるためのものではなく、羊を外敵から守るために鞭は羊を襲う野獣を威嚇するために使われるものです。杖はその曲がったところを、迷い出ようとする羊の首にひっかけて連れ戻すために使われるものです。そのように羊飼いは羊の生存を保証してくれる力ある存在であります。ダビデはそんな羊と羊飼いの関係に自らを重ね合わせます。
ダビデは父の羊を飼うものから、文字通りイスラエルの王になるのでありますが、そのダビデ王が、「主はわたしの羊飼」と賛美したのです。それは今日まで通ってきたその破れある生涯を彼が顧みるとき、この主に導かれていればこそ、「何一つ欠けることはなかった」。そのようなさまざまな体験から紡がれた言葉なのでありましょう。

さて、礼拝で用いている新共同訳聖書は「主は羊飼い」と訳していますが、よい訳ではありません。原語は「わたしの」という言葉がありますので、前に大阪教会で使用していた口語訳聖書や新改訳聖書のように「主はわたしの羊飼い」と訳す方がよいのです。
単に羊飼いなのではなく、「わたしの」羊飼いなのであります。主と相対する関係がそこに込められています。

今回、この詩編を一人で、又祈祷会などで何度も読み返し、黙想する中で改めて気づかされたことがあります。
それは、ダビデが始めの3節まで、「主はわたしの羊飼い、わたしには欠けることがない」「主はわたしを青草の原に休ませ、魂を生き返らせてくださる」「主は御名にふさわしく、、、わたしを正しい道に導かれる」とあるように、「主は」(正確には神:ヤハウエ)と三人称で呼びかけているのに対し、4節、5節では「あなたは」という2人称の呼びかけに変わっているのです。ダビデは主に対して、「あなた」と直接的に呼びかけてゆくのです。
ダビデがここにあるように「主」から「あなた」へと呼びかけが変わったそれはどういう時でしょうか。それは、4節の「死の陰の谷をゆくときであり、5節の「わたしを苦しめる者を前にしたとき」であります。これは、具体的にダビデがどういう状況におかれたときか分かりませんが、例えば、サウル王に命を狙われたときであったでしょうし、息子アブサロムの反逆に遭い命を狙われたそのときかも知れません。王としての栄光と共に多くの闘いと苦難を身に負つという経験をしたダビデでした。ダビデにとって心身ともに疲れ果て、屈辱的な中に置かれたとき、彼は本当の意味で、主と1対1で向き合うところへと導かれるのです。

もう一つ、この詩から思い浮かんできた2つのみ言葉がございます。
一つは、新約聖書のヨハネ福音書10章の「イエスは良い羊飼い」として記されているみ言葉です(聖書を開けてみましょう)。ヨハネ10:10-11。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。
この「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とのみ言葉は、お分かりのように、主イエスが罪深い人間を救うために自らの命を十字架に引き渡され、その犠牲をもって罪の贖い成し遂げてくださったことがそこに示されています。わたしの羊飼いなる主はわたしのために命を捨てるほどにわたしを愛してくださる。そのような偉大な羊飼いであられるのです。

又、もう一つは、ルカ福音書15章の「見失った羊のたとえ」に記されているみ言葉であります。そこもお読みします。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った羊を見つけ出すまで探し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人びとを集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うであろう」(4-6)。

この「見失った羊のたとえ」にも、主イエスが罪にさまよい続ける一人の魂のために、
どこまでも全身全霊をかけて、その魂を救い出されるお方であるということが示されていますが。この100匹の中の迷い出た1匹に注がれる主なる神さまのご愛は、決して100分の1ではないということを覚えたいと思います。羊飼いの羊への愛は100分の1ではなく、1対1として100パーセント・マックスの愛が注がれているのであります。

先にお話したように、羊のように弱く迷えるこの「わたし」が必要とする主、あなたという関係であり、そんなわたしのために命をも捨てるほどに愛される羊飼い、主であられるお方との関係であります。キリストの教会は実に、そのような一人ひとりの共同体であるのです。
今日は「主はわたしの羊飼い」という題のもと、詩編23編からみ言葉をひも解いてまいりましたが、羊飼いであられる主は、一対一という関係でもって、すなわち100パーセントの愛をもって羊である私たちを養い、導いてくださるお方であられるということをしっかり心にとめたいと思います。

「主はわたしの羊飼い。わたしには何も欠けることがない」。アーメン。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神との対話・祈り

2010-08-01 08:03:58 | メッセージ
宣教  詩編22編2-6節 

冒頭の「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という言葉は、私たちの救い主イエス・キリストが十字架上で叫ばれたお言葉と同じであります。主イエスは想像を絶するようなその苦しみの中で、このダビデの歌を思い起こし、ご自身の姿をそこに重ねておられたのかも知れません。実にこの詩の中には8,9節にあるように人々が「あざ笑い」「頭を振りつつ」「主に依り頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう」と嘲笑する、そんな有様がよまれていますが。
それも福音書に記されたユダヤの民と同様でありますし、19節の「着物を分け、衣をとろうとしてくじを引く」などは、ローマ兵が、鞭打たれたイエス様の体から衣を取り、それをくじで分けたという十字架の場面同様のことばが記されてあります。そういったことから、この歌はイエスさまの受難の出来事を預言したものであるともいわれるゆえんです。

このところを今回じっくり何度も読みながら考えさせられたのは、「本当に神は詩人の祈りに対して応答しておられないのか」ということです。確かにこの詩の中に神さまの直接的な答えは見出せません。私どもも祈りがすぐに聞かれた、御言の示しを受けた、そういったことも時に与えられますが。押しても引いても大岩のように動かない問題を前にした時、「なぜ神よ、沈黙しておられるのか」と余計に苦悩するものです。神はどんなことでもお出来になる、神に出来ないことなど何一つない、では何故こんなに祈っても聞かれないのか、、、沈黙しておられるのか。

私はこれまで牧師として幾人かの兄姉の終末期を見守り、祈りを共にし、天に送る務めに与らせて戴きました。そしてその都度、本当に自分は何もできない者だと無力さを覚えます。ご本人やご家族に対して慰めや励ましの言葉さえ持ちえず、ただ沈黙するしかない。
ただ自分には見守ることしかできない、おじゃまにならないように寄り添って主に執り成し祈ることしかできないのですね。そういう中でただ一つ与えられることは、そのところに十字架の苦悩を御存じであられる主がその方と共におられるという信仰であります。
世の人はそんな時に信仰など何になるのかというかも知れません。しかし、私が言葉を失うそれ以上に、「深い沈黙」をもって主がその方に寄り添っておられる。それは理屈ではなく、そのような体験に与らせて戴くのであります。

神は「うめきも言葉も聞いてくださらないのか」。神は「呼び求めても答えてくださらないのか」と、この詩人は激しく神に訴えておりますが。神はそのうめきも言葉もご自身のものとして受け止めてくださっている。そのような沈黙であるということを、この詩人も、又、私どもも信じるのであります。私たちの神は、「インマヌエルの神」「共におられる神」なのであります。

さらに、この詩編を読む中で心に留まったことがあります。
4節以降で「だがあなたは、聖所にいまし、イエスエルの讃美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない」とうたっています。そこに「あなた(わたしの神)に依り頼んで」という言葉が3度も繰り返されているのです。

ある方が、自分は教会に来るようになって祈りの中でクリスチャンの人が神さまに向かって、「あなた」と呼びかけるのを聞いて驚いた、とおっしゃっていました。神に「あなた」など親しげに呼びかけるとはどういう宗教なのだろうと思ったそうです。同時に、そのように個人的に親しげに神に祈れるクリスチャンをうらやましく思ったそうです。これはこの3節にあります「わたしの神よ」という関係であります。

殊に、私がここで教えられましたのは、この詩人が小さい子どもの頃から共同体や親たちによって、集会や家庭で神とその救いのみ業についてずっと語り伝えられ、教えられてきたという信仰のバックボーンがあったということです。
けれども、私なども教会学校に行っていましたが、どうでしょう。小さい頃というのは信仰の学びなどもなかなか自分のこととして考えたりいたしませんよね。けれども実際に自分が苦難や逆境に遭いますと、祖先や親たちの物語と単に思えたものが、今、苦しみの中にある自分を支える「信仰の言葉」としてその心に呼び覚まされ、響いてくる。そういうものなのではないでしょうか。
それは、子どもの頃から神の救いのみ業について集会や家で教えられてきたことが、目覚めるというのでしょうか、その人の人生の中に生きてくるのであります。一度まかれたみ言葉や信仰の種が本当に必要とされる時に芽を吹くということです。ですから、神の救いのみ業をことあるごとに何度も何度も語り伝え、あかしし続けていくことが、大事なことであります。私たちにはそれがどこでどのように芽を吹くのか分からないのですから。

最後に、冒頭で申し上げましたように、十字架上のイエスさまの叫びは、この詩人をはじめ、世に生きるすべての人の理不尽、不条理ともいえるとこから来るうめきや嘆きを、イエスさまがご自分の叫びとなさったということであります。
神の子、いわば神ご自身が人としての苦しみの極み、不条理といえる状況に投げ込まれ叫ばれた。神は沈黙しておられるのではありません。ご一緒に叫ばれているのであります。
私どもにとりまして、ほんとうにそれは畏れ多いことであり、感謝に堪え得ません。

私たちが世に生きるうえで悩みや苦しみはあります。「あなたがたは世では苦難がある、しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)と主イエスは言われました。
聖書は主イエスの十字架を仰いで生きることが、如何に恵み深い生き方であるかということを、私どもに語りかけます。主イエスの十字架のもとにあって、生ける主を共に仰ぎ、証ししつつ、互いに支え合いながら、福音宣教の業に、又、信仰の成長のために進んでまいりましょう。

9月に伝道開始60周年。この天王寺の地にギレスピー宣教師が開拓伝道なさって60年を迎えます。その記念すべき時をおぼえての特別伝道集会が9月25-26日に計画されています。
主からこの地で福音宣教するよう託された尊い務めに一層応えて参りましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする