宣教 士師記16章15章-31節 青年主催賛美礼拝
台風24号の影響を大変案じていますが、午前中の礼拝をこうして主に集められた方々と共に捧げることが許され感謝です。今日は安全を期してご自宅という方々も、祈りつつ心を合わせていらっしゃることと思います。
本日は賛美礼拝ということで、青年たちのリードで多くの賛美が捧げささげられていますが。又、先ほどはニューヨーク在住のKさんのオリジナル賛美がささげられました。
様々な不安や困難の中にあったとしても、生きて働かれる主、救い主に日々守られ、導かれる。そのような何ものにも代え難い幸いを、私たちはほめ歌うほかございません。
先週24日午後、関西エヴァンジェリカルハーモニー「賛美の祝宴」コンサートがOCCホールで開催されました。大阪教会の方々も何人か出席されていましたが。私が特に感銘を受けたのは、合唱隊とアンサンブルの賛美の多くが、隊員やその関係者オリジナルのものであり、それが生き生きとした救いの証しとして響いてきたことです。日常の生活の身近なところにある主の助けや計り知れない恵みに目を向けさせてくれる福音の調べでありました。私たちも日々の生活の中でこそ、主を賛美し続けるそんな一日一日を生きたいものです。
また、レーナ・マリアさんが来阪されるということで、1度はその素敵な歌声を生で聞きたいと願っておりましたので、行ってきました。共生と私は何と最前列のほぼ真ん中の席、レーナさんのお姿が一番よく見えるところに幸い座れ、その主を賛美する歌声に時に涙し心が熱くされました。生まれつき両腕がなく片足は半分の長さというレーナさんでありますが、福音に満たされたその歌声とユーモアをも交えたそのお話に、心がほぐされ、いやされていく、約100分でした。
そのコンサートの中で、これを主催した宝塚のゴスペルミニストリー代表の山本真一郎さんが作られた曲が2曲レーナさんによって唄われたのですが。その曲の1つは「いのち」がテーマだそうで、何でも山本さんが大阪のミッションスクールの職員として勤務されていた折、学校のリトリートである講師から聴いたお話に衝撃を受け、それをもとに歌詞を書き曲を作られたそうです。
それは戦後の国策として「優生保護法」が制定され、いのちに優劣をつけられ、強制的に胎児の命を奪っていく政策が近年までとられてきたという事実です。山本さんは聖書と福音に立つ者として、それに抗う思いから、ゴスペルミニストリーを立ちあげ、「いのち」というテーマで歌を作られた。それを今回のコンサートで初めてレーナさんが唄われたのですが。圧巻でした。
それはあのイザヤ書43章4節「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という神さまからすべての人に語りかけられているメッセージそのものでありました。
また、私が一番期待していた「一羽の雀さえ」の賛美も聴くことができ、主の愛の深さを覚えて、喜びと力を頂きました。
正に、ネヘミヤ記8章12節「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」ですね。
先ほど士師記16章のところが読まれ、こどもメッセージも語られました。今日の題を「力の秘密」とさせていただきました。
愛する女性デリラから「力の秘密を打ち明けて欲しい」と何度もしつこく迫られたサムソンは、「耐え切れず死にそうになり、遂に心の中の一切を打ち明けた」とあります。
デリラはペリシテ人たちが格別に雇った今でいうところの女スパイであったわけですが。サムソンは彼女を慕うあまりその「力の秘密」とうとう打ち明けてしまうのですね。
それは「もし髪の毛をそられたら、サムソンの力は抜けて、弱くなり、並みの人間のようになってしまう」ということでした。
さてそれを知ったデリラはサムソンが寝ている間にペリシテ人らを呼び、サムソンの髪の毛7房をそらせ、こうしてサムソンの力は抜けてしまいます。まあ生まれてこのかた、ずっと伸びるままにしていたのですから随分長いのを7房に束ねていたのを想像すると、何だかプロレスラーのようで如何にも強そうな感じがしますが。
まあここを読みますと、サムソンの「力の秘密」はその髪の毛自体にあったと思う方もおられるかも知れません。髪の毛があれば力があり、髪の毛がなければ力もない。
けれど、そういうことではないのですね。
それは20節のところに、「主が彼を離れられたことに彼は気づいていなかった」とありますように、サムソンの力の源は、「主が彼と共におられた」ということにあったのです。主が共におられたからこそ彼は怪力が出せたんですね。
サムソンが髪を切ったことがないのは、母の胎内にいる時からナジル人として神にささげられていたからであり、そのことを大事にしていたからこそサムソンはその「力の秘密」を、それまで人に言うことはなかったのです。
けれども、彼はその怪力を発揮する中で、その力の源であられる主により頼んで生きることを軽んじてしまったのです。神さまにとの信頼関係を自ら破ってしまったので、その力の源は失せてしまったということです。
そうして、力が抜けたサムソンは捕らえられ、目をえぐりとられ、牢獄に入れられて粉をひくみじめな日々を送ることとなるのです。
もう万事休す。みじめで絶望しかないような状態の中、そこに一筋の光が差し込んできます。
それは「彼の髪の毛はそられた後、また伸び始めていた」ということであります。まあ私のことを例にするのもなんですが、二日に一回は顔と頭をかみそりでそらないと、そってもそってもまた伸びてくるものです。サムソンは若い盛りでしたから伸びるのも早かったんでしょうが。まあそれは生命力が強いといえばそうなんでしょうが。
しかしここで聖書がほんとうに伝えようとしているのは、主はサムソンから離れていかれたけれども、完全に彼を見捨てられたということではなかった、ということであります。
主はサムソンがご自身に向き直って、主との関係を自ら回復するのを忍耐強く待っておられた。そのことを示しているんですね。
サムソンは耐え難いような悲惨なめに.あわされ、人々から見世物にされるみじめな日々の中で、28節「わたしの神なる主よ。わたしを思い起してください。神よ、今一度だけわたしに力を与えてください・・・」と主に祈ります。
そうしてサムソンは、おそらく生まれて初めて「主に立ち返る」悔い改めの祈りをしたのです。
サムソンの「力の秘密」。それは「神なる主」であり、この「主が共におられる」ことでした。
彼は、ここで自分の力に依り頼み、主との関係を軽んじてそれを損なってしまったことが、自分から力が失せた原因であったと、ようやく気づき神との和解を求め祈ったのですね。
こうして神に立ち返ったサムソンに力が与えられます。
聖書にあるように、サムソンの最期はペリシテと共に倒れるという壮絶なものでしたが。
ここで重要なのは、サムソンが主に立ち返って主との関係を取り戻し、自らの本分、イスラエルの民を救うための士師としての生を全うした。そのことにあります。
今日私たちも又、主イエス・キリストによって神との和解へと招かれています。主に立ち返って主と共に生きることは、私たちの「力の源」であり、そこに私たちの本分、神が与えたもう生を全うする力があります。
サムソンではありませんが、もうアカン、もうダメと思える経験をしたとしても、主は私たちをお見捨てになっておられません。先ほどの「賛美」にあったように、「主は立ち返る者を何度でも立ち上がらせてくださる」慈愛の神であられます。何という福音でしょう。
この福音にしっかりと根を張って生きていく者とされ、今日もここから遣わされてまいりましょう。