日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

力の秘密

2018-09-30 15:21:34 | メッセージ

宣教 士師記16章15章-31節 青年主催賛美礼拝

 

台風24号の影響を大変案じていますが、午前中の礼拝をこうして主に集められた方々と共に捧げることが許され感謝です。今日は安全を期してご自宅という方々も、祈りつつ心を合わせていらっしゃることと思います。

本日は賛美礼拝ということで、青年たちのリードで多くの賛美が捧げささげられていますが。又、先ほどはニューヨーク在住のKさんのオリジナル賛美がささげられました。

様々な不安や困難の中にあったとしても、生きて働かれる主、救い主に日々守られ、導かれる。そのような何ものにも代え難い幸いを、私たちはほめ歌うほかございません。

 

先週24日午後、関西エヴァンジェリカルハーモニー「賛美の祝宴」コンサートがOCCホールで開催されました。大阪教会の方々も何人か出席されていましたが。私が特に感銘を受けたのは、合唱隊とアンサンブルの賛美の多くが、隊員やその関係者オリジナルのものであり、それが生き生きとした救いの証しとして響いてきたことです。日常の生活の身近なところにある主の助けや計り知れない恵みに目を向けさせてくれる福音の調べでありました。私たちも日々の生活の中でこそ、主を賛美し続けるそんな一日一日を生きたいものです。

また、レーナ・マリアさんが来阪されるということで、1度はその素敵な歌声を生で聞きたいと願っておりましたので、行ってきました。共生と私は何と最前列のほぼ真ん中の席、レーナさんのお姿が一番よく見えるところに幸い座れ、その主を賛美する歌声に時に涙し心が熱くされました。生まれつき両腕がなく片足は半分の長さというレーナさんでありますが、福音に満たされたその歌声とユーモアをも交えたそのお話に、心がほぐされ、いやされていく、約100分でした。

そのコンサートの中で、これを主催した宝塚のゴスペルミニストリー代表の山本真一郎さんが作られた曲が2曲レーナさんによって唄われたのですが。その曲の1つは「いのち」がテーマだそうで、何でも山本さんが大阪のミッションスクールの職員として勤務されていた折、学校のリトリートである講師から聴いたお話に衝撃を受け、それをもとに歌詞を書き曲を作られたそうです。

それは戦後の国策として「優生保護法」が制定され、いのちに優劣をつけられ、強制的に胎児の命を奪っていく政策が近年までとられてきたという事実です。山本さんは聖書と福音に立つ者として、それに抗う思いから、ゴスペルミニストリーを立ちあげ、「いのち」というテーマで歌を作られた。それを今回のコンサートで初めてレーナさんが唄われたのですが。圧巻でした。

それはあのイザヤ書434節「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という神さまからすべての人に語りかけられているメッセージそのものでありました。

また、私が一番期待していた「一羽の雀さえ」の賛美も聴くことができ、主の愛の深さを覚えて、喜びと力を頂きました。

正に、ネヘミヤ記812節「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」ですね。

 

先ほど士師記16章のところが読まれ、こどもメッセージも語られました。今日の題を「力の秘密」とさせていただきました。

愛する女性デリラから「力の秘密を打ち明けて欲しい」と何度もしつこく迫られたサムソンは、「耐え切れず死にそうになり、遂に心の中の一切を打ち明けた」とあります。

デリラはペリシテ人たちが格別に雇った今でいうところの女スパイであったわけですが。サムソンは彼女を慕うあまりその「力の秘密」とうとう打ち明けてしまうのですね。

それは「もし髪の毛をそられたら、サムソンの力は抜けて、弱くなり、並みの人間のようになってしまう」ということでした。

さてそれを知ったデリラはサムソンが寝ている間にペリシテ人らを呼び、サムソンの髪の毛7房をそらせ、こうしてサムソンの力は抜けてしまいます。まあ生まれてこのかた、ずっと伸びるままにしていたのですから随分長いのを7房に束ねていたのを想像すると、何だかプロレスラーのようで如何にも強そうな感じがしますが。

まあここを読みますと、サムソンの「力の秘密」はその髪の毛自体にあったと思う方もおられるかも知れません。髪の毛があれば力があり、髪の毛がなければ力もない。

けれど、そういうことではないのですね。

それは20節のところに、「主が彼を離れられたことに彼は気づいていなかった」とありますように、サムソンの力の源は、「主が彼と共におられた」ということにあったのです。主が共におられたからこそ彼は怪力が出せたんですね。

サムソンが髪を切ったことがないのは、母の胎内にいる時からナジル人として神にささげられていたからであり、そのことを大事にしていたからこそサムソンはその「力の秘密」を、それまで人に言うことはなかったのです。

けれども、彼はその怪力を発揮する中で、その力の源であられる主により頼んで生きることを軽んじてしまったのです。神さまにとの信頼関係を自ら破ってしまったので、その力の源は失せてしまったということです。

そうして、力が抜けたサムソンは捕らえられ、目をえぐりとられ、牢獄に入れられて粉をひくみじめな日々を送ることとなるのです。

もう万事休す。みじめで絶望しかないような状態の中、そこに一筋の光が差し込んできます。

それは「彼の髪の毛はそられた後、また伸び始めていた」ということであります。まあ私のことを例にするのもなんですが、二日に一回は顔と頭をかみそりでそらないと、そってもそってもまた伸びてくるものです。サムソンは若い盛りでしたから伸びるのも早かったんでしょうが。まあそれは生命力が強いといえばそうなんでしょうが。

しかしここで聖書がほんとうに伝えようとしているのは、主はサムソンから離れていかれたけれども、完全に彼を見捨てられたということではなかった、ということであります。

主はサムソンがご自身に向き直って、主との関係を自ら回復するのを忍耐強く待っておられた。そのことを示しているんですね。

 

サムソンは耐え難いような悲惨なめに.あわされ、人々から見世物にされるみじめな日々の中で、28節「わたしの神なる主よ。わたしを思い起してください。神よ、今一度だけわたしに力を与えてください・・・」と主に祈ります。

そうしてサムソンは、おそらく生まれて初めて「主に立ち返る」悔い改めの祈りをしたのです。

サムソンの「力の秘密」。それは「神なる主」であり、この「主が共におられる」ことでした。

彼は、ここで自分の力に依り頼み、主との関係を軽んじてそれを損なってしまったことが、自分から力が失せた原因であったと、ようやく気づき神との和解を求め祈ったのですね。

 

こうして神に立ち返ったサムソンに力が与えられます。

聖書にあるように、サムソンの最期はペリシテと共に倒れるという壮絶なものでしたが。

ここで重要なのは、サムソンが主に立ち返って主との関係を取り戻し、自らの本分、イスラエルの民を救うための士師としての生を全うした。そのことにあります。

今日私たちも又、主イエス・キリストによって神との和解へと招かれています。主に立ち返って主と共に生きることは、私たちの「力の源」であり、そこに私たちの本分、神が与えたもう生を全うする力があります。

サムソンではありませんが、もうアカン、もうダメと思える経験をしたとしても、主は私たちをお見捨てになっておられません。先ほどの「賛美」にあったように、「主は立ち返る者を何度でも立ち上がらせてくださる」慈愛の神であられます。何という福音でしょう。

この福音にしっかりと根を張って生きていく者とされ、今日もここから遣わされてまいりましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祈る者の泉

2018-09-23 13:07:43 | メッセージ

礼拝宣教 士師記15章9-20節

 

先週の13章はサムソンの誕生に至るまでの箇所でしたが。14章では、成長し若者となったサムソンの姿が描かれています。

彼がティムナの地に下っていくと、その町の女性に目をひかれます。その人をぜひ妻に迎えたいとの思いを彼は両親に伝えるのですが。両親は「同族のイスラエルの中にも女性はいるではないか、割礼を受けていないペリシテびとのうちから妻を迎えようとするのか」と反対します。

しかし聖書は、この事は「サムソンがペリシテの支配からイスラエルを救われる主のご計画である」、144節と語ります。サムソンの両親にはこれがわからなかったということであります。

それまでサムソンは両親のもとで生涯主にささげられたナジル人として育って来ましたが、その彼は青年になると自分の思いどおりに行動するようになっていきます。まあそれはある意味自分の思いと意思に基づいて行動するということで、青年にもなれば至極当然の事でありましょう。しかし、それがいつの間にか自分の思いや考えを正しさの基準とするようになっていきます。

まあ、両親からの忠告も耳障りなものとなり、自分の考えが一番。野球のあの落合博満さんではありませんが「俺流」の生き方へ舵を切っていくのですね。

 

彼はこれまでナジル人として「ぶどう」に関係するものを避けて来ましたが。この14章では一人でナジル人としてぶどうと関係を断っていたぶどう畑に足を踏み入れます。

その途端、一頭のライオンが彼に襲いかかるのです。が、その時主の霊が彼に激しく下って、彼は手に何も持たなくても、子山羊を裂くようにライオンを裂いて難を逃れることができたのです。サムソンは自分がぶどう畑に行ったことを両親に言いませんでした。神との誓願を破ったからです。

また、その後彼はそのライオンの死骸に蜜があるのを見るや、手でその死骸から蜜をかき集めたのです。これは、ナジル人として「死体に近づいたり、触れたりしてはならない」という誓願を彼が破ったということを示します。だからこの事も彼は父母に言いませんでした。またしても神への誓願を破ったからです。

しかし、ここを読みますと、神さまはそんなサムソンであるにも拘わらず、自分勝手に行ったことで及ぶ危機から逃れさせておられます。神さまは彼に逃れる道を備えておられるということです。しかし、彼はそれが神さまの憐みとお支えであるということに気づきもしないのです。そればかりか、その力は自分にあると誇り高ぶり、わが道を突走るのです。

 

さて、今日の159節でユダにペリシテ人が上って陣を敷き、あご骨の高台(レヒ)の地にまで攻め込んできたのには訳があります。

そもそもそれはサムソンがティムナの女性との婚礼の祝宴の席でペリシテ人たちと「なぞかけ」をしたことに端を発しています。

なぞかけが解けないペリシテ人たちはサムソンの妻となったその人に、「夫サムソンからそのなぞの意味を聞き取って我々に明かすように。さもないと、火を放ってあなたと家族もろとも焼き殺してやる」と脅迫するのですね。そして彼女がサムソンに必死にせがんだので、その謎を彼女に明かし、サムソンはそのかけの責任を負うはめになるのです。

サムソンは1418節で謎を解いたペリシテ人たちに対して、「わたしの雌牛で耕さなかったなら、わたしのなぞは解けなかっただろう」と語ります。つまり彼らが妻を脅して謎を解いたことを彼は知ったのでありますが。

まあ、そうしますと、そこに主の霊が激しく彼に降り、彼はペリシテの一都市アシュタロンに行ってペリシテ人を打って手に入れた亜麻布30着と晴れ着30着をなぞを解いた人たちに渡します。

主の霊が臨んだとはいえ、明らかに頭に血が上り逆上した中でのサムソンの仕打ちともとれますが。サムソンは怒りに燃えて父の家に帰ると、ティムナのサムソンの妻は、サムソンの友のもとに嫁いでいきます。

それからしばらく経って、サムソンが子山羊を携えて妻の家を訪ねると、彼女の父から「あなたが娘を嫌ったものと思い、あなたの友に嫁がせた。妹を妻としてほしい」と言われ、またまたサムソン激高して、「わたしがペリシテ人に害を加えても。わたしには罪はない」と言って出ていき、ペリシテ人のゆたかな農作物をジャッカルに松明を取り付け、それらを焼き払ってしまうのです。

 

この事態を知ったペリシテ人たちは、犯人は「あのティナム人の婿サムソン。義父が彼から妻を取り上げて、その友に与えたからだ」と聞くと、彼女とその父のところに上って来て、火を放ち焼き殺します。

サムソンはその惨状を知るや、ペリシテ人たちに対して「これがお前たちのやり方なら、わたしはお前たちに報復せずにいられない」と言って、彼らを徹底的に打ちのめしたとあります。

 

そこに示されてあるのは、人間はだれも自分を中心に考え、動くものだということであります。

サムソンがペルシテ人を打ち殺したのは、彼らがサムソンの妻と義父を殺したからです。ペリシテ人がサムソンの妻と義父を殺したのは、サムソンがペリシテ人の農作物を焼き払ったからです。それぞれにその原因がありますが、その報復によって益々憎しみが憎しみを生みだす連鎖となって、何の解決にもならず、報復の連鎖がエスカレートするばかりです。現代の紛争、テロ、圧政と迫害が繰り返されている世界の各地においても、このことは何も変わっていません。

確かにサムソンに主の霊が激しく降り、計り知れない力となるのでありますから、これはもはや人の思いや領域を超えた出来事ではあるでしょう。けれど結局サムソンは自分のなしたことに対する責めを負うことになるのです。

 

ところで、今日の箇所で、ユダの人々がサムソンに「我々がペリシテ人の支配下にあることを知らないのか」と言った言葉には、彼らユダの人々が、長きに亘るペリシテの圧制に慣れ、神により頼んでいくこと、又神への祈りも無力に思え、ただ敵の要求を呑んで、この場合は「サムソンを引き渡せば当座は安泰できる」という目先のことことしか考えられなかったのでしょう。

一方、ユダの人々から「なんということをしてくれたのだ」と言われたサムソンも、「彼らがわたしにしたように、彼らにしただけだ」と答えます。しかし、それはそのままペリシテ人がサムソンを捕まえようとした理由と同じことなのです。そこに神を求め、その御心を尋ね求める信仰者の言葉は一言も出てまいりません。

結局、サムソンはユダの人々のいうとおり、自分に害を加えないという条件で、新しい縄二本で縛られ、その身柄はペリシテ人に引き渡されていきます。

 

するとその時、また主の霊が激しく彼に降り、腕を縛っていた二本の縄はほどけ、彼は真新しいろばのあご骨で千人を打ち倒したというのです。

サムソンは自慢げに勝利の歌を唄います。「ろばのあご骨で、ひと山、ふた山 云々」と。

彼はろばのあご骨という武器にならないようなもので敵に打ち勝ったことを誇らしげに自我自賛します。彼は勝利をもたらしてくださった主を賛美し、感謝するどころか、すっかり神さまのことを忘れていました。

 

するとその時、彼はひどく渇きを覚えます。

そのひどいのどの渇きに襲われ、いよいよ瀕死の状態になろうとしたその時、やっとサムソンは、自分が得た大いなる勝利(原語は救い)が神によって与えられたものであることを改めて知り、自分を救い生かすことのできる主、神に呼ばわります。

すると、神は「レヒのくぼんだ地を裂き、そこから水が湧き出るようにされ、彼はその水を飲んで元気を取り戻し、生き返った」というのですね。

「それゆえ、その泉はエン・ハコレ(祈る者の泉)と呼ばれる」ようになります。

 

祈りとは何でしょう?何か願い事をしたり、何かの実現のために祈る。確かにそれは祈りですけれども、祈りの本質とは何でしょう?それは「すべてを御手のうちにおさめておられる全能者、主に呼ばわる」ということです。そこからいのちの泉が湧き上がってくるのです。

14章から今日の15章に至りますまでに、サムソンが自分中心に生きる中にも主が共におられたのだということを知らされます。彼はそのことに気がついていないことの方が多かったわけですけれども。

しかしほんとうに彼が渇きをおぼえ、瀕死の状態に向かう、これは霊的枯渇ともいっていいと思いますが。そういうただ中で魂の奥底から「神に呼ばわった」そのときに、彼は気づくのです。これまで自分の力で生きていると思い込んでいたが、決してそうではないということを。

そして、彼にとっての最も大いなる救いが何であるかを彼は思い知るのです。それは自分の命を生かしておられる主。その主の救いを自分は必要とする者であるということを。霊的渇きの中から「主に呼ばわる」ことを通して体験するのです。

17日関西地方連合信徒大会のメイン講師として立たれたゴスペル教室の講師をしておられる神戸教会員の寺田恵子さんから素敵な賛美とお証を伺いました。

その中で私は「神さまは心から祈り求める者の祈りをお聞きくださるお方です。私たちが神さまに心を開いて祈り求めないのなら神さまもお応えになることはない」とおっしゃった言葉が強く心に残りました。

クリスチャン4世として祈りの中で育まれてきた寺田さんですが、60年という人生の中で本当に辛く悲しい出来事を経験なさったことを披歴されながら、悲しみや嘆き、苦しみの中でもがきながら必死で祈り求める者、いわば主に呼ばわっている者を神さまは決して見棄てず、喜びと希望を与えてくださるお方である、という力強い体験からのお証を伺い、大変励まされました。

主は今日も、「祈る者の泉」を備え、主に呼ばわる者に、生ける水を泉のように湧きあがらせてくださいます。

その水を飲んだサムソンが元気を取り戻し、生き返ったように、私たちも疲れ果てたり、落胆して沈みこんだり、失望の底に追いやられるようなことがあるかも知れません。しかし「主に呼ばわる者」は、主の救いによっていつでも、何度でも立ち上がることができるのです。元気を取り戻し、回復できるのです。

今日のサムソンの記事から、自己中心からの思いや感情に振り廻され、ともすれば自己完結してしまうような私たち人間でありますが。主に祈り求め、呼ばわる時、主は私たちをその罪の囚われから解き放ち、救われるお方であります。主に祈り求め、主に呼ばわる中で、主の救いの御業を体験する人、証しする人へと新たにされるべく、今週もここから遣わされてまいりましょう。祈ります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教会堂正面

2018-09-19 09:27:18 | 教会案内

バラ科のアンゲェルス(天使)が毎年2回は開花し、道行く人々を和ましてくれます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先立つ神さまのご計画

2018-09-16 16:50:43 | メッセージ

礼拝宣教 士師記13章 敬老感謝

 

この士師記の時代は、イスラエルの民が罪を犯し、神はお怒りになり、諸外国からの圧政が起こって民が叫び求めると、神が士師を立て、民を守られる。しかし又イスラエルの民が神の恵みを忘れて再び罪を犯して堕落し、諸外国からの圧政に苦しみ、その叫びに神は士師をおこされる。そういうことが繰り返されているということを先週申しました。

 

今日の131節で「イスラエルの人々は、また主の目に悪とされることを行ったので、主は彼らを40年間、ペリシテ人の手に渡された」とございます。

それにしても40年というのは長い年月といえるでしょう。言ってみれば先の見通しがつかない状況で罪が蔓延した暗黒の時代がずっと続いていった中、士師としてのサムソン誕生の予告が主の御使いによってなされるのであります。

今日はそこから聖書が語りかけるメッセージを聞き取っていくことができたらと願います。

 

このサムソン誕生についての主の御使いの顕現とお告げは、イスラエル12部族のダンの氏族に属する夫マノアではなく、名もない妻に臨みました。

彼女は、あのアブラハムの妻サラや新約のエリサベトと同様、不妊で子を産んだことがなかったのであります。それは人間的には不妊という状態であきらめざるを得ないものでしたが、神さまのご計画がまさにそこに起こされていくのです。それはまだ先の見えない中で、主の御使いによる告知でありましたが。

その彼女に臨んだ主の御使いの言葉を詳しく見ますと、この女性に対する2つの命令、それは「今後、ぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物も一切食べないように気をつけよ」というものでした。まあ一般的にも妊婦さんがアルコールや刺激の強いものを飲みますと胎児にも悪影響を及ぼしかねないですが。

又、主の御使は、生まれる男の子に関してもう1つ、「その子の頭にかみそりを当ててはならない」とも命じています。

それはマノアの妻に宿る「その子は胎内にいるときから、ナジル人として神にささげられている」からだと、その主の御使いが命じたことの理由が語られます。

このナジル人についての詳細は民数記6章にありますが。神にささげられたものとして特別な誓願をある一定の期間立てた者のことで、ぶどう酒も濃い酒も飲まない。頭にかみそりを当てない。又死体に触れない等が挙げられています。

サムソンの場合は、母親の胎内にいる時から死ぬ日までナジル人としてささげられていると、その期間については、その子の命ある限りと、マノアの妻の言葉から読み取れます。

 

このサムソンは生まれる前から、主が「ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者として」聖別されたということでありますが。母親の胎内にあるときから、どんなに胎児は小さくとも尊いいのちであり、それは人間が好き勝手に扱うことは許されない、神さまの領域のものであるということを知らされる思いです。現代にあってもそういった小さな命が大人の身勝手と欲望によって失われています。それ天地創造の神さまが何より悲しまれている事であります。

 

さて、サムソン誕生と召しについて妻から聞かされた夫マノアは、主に向かって祈りました。

その祈りの内容は、「妻に現れた神の人をもう一度私たちのところに来させ、生まれる子をどうすればよいのか教えてください」というものでした。

おそらく彼は、その子に対しての自分の役割が何かないのか、自分としても生まれる子に何かお役立つことがしたいという願いが、彼の言葉に込められているようですが。

 

神はそんなマノアの声を聞き入れられますが、しかしそれは彼の祈りのとおりではありませんでした。主の御使いは再び現れますが、そこには妻だけがおり夫マノアはいませんでした。

彼女は夫の祈りを聞いて知っていたのでしょうか。急いで夫に主の御使いが来たことを知らせに走って行き、マノアは主の御使いと会うことができたのです。

しかしマノアが一番聞きたかった、「わたしがその子のためになすべき決まりは何でしょうか」と主の御使いに尋ねますと、主の御使いは「わたしがこの女に言ったことをすべて守りなさい」と述べるのみでした。

マノアは子どものために「自分が何すればよいか」を知りたかったのですが、主の御使いは、妻に告げたことを繰り返して語るだけでした。生まれる子のために妻が守るべきことだけが語られるのです。

ここを読んで、どうして主の御使いはマノアに対して愛想のない答え方しかなさらなかったんだろうか。子のために役立ちたいというマノアの思いにも答えられてもいいのではないかと思えたりしますが。

まあ俗に「天使のようにやさしい」と言ったりされますが。天使は神の使いでありますから、その務めは神の御心のみ忠実に遂行し、守り行うことにあります。

このマノアの、生まれる子のため、それはひいては神の業のために役立ちたいという願いは、神さまの喜ばれるものに違いないでしょう。けれど、士師となるサムソンの出産という一大事を成し遂げることができるのは妻であって、夫ではありません。

この事において神はダン族のマノアを通してではなく、名もない一人の女性をイスラエルの救いのご計画のためにお用いになられるのです。妻の出産に対して、ただ見守り、祈り支えるのみでしたが。それこそが神さまがマノアに期待されていることだったんですね。

神さまへの感謝と愛から「私も何かできれば」という願いが起こされるのは聖霊のお働きですし、それ自体は尊いものです。ただ、このマノアのように自分の思う形とは異なることもあります。主のみ業は聖霊のゆたかなお働きと介入によってほんとうに様々なかたちで起こされていきます。それは人が思うようなあり方、理想的な形とは異なります。「あの人なら」「あの人なんて」などという世間の評価はあてはまりません。主のお働きは実にゆたかです。人の思いを超えて主は御業を起こされます。主はそうしてご自身の栄光を顕され、そこに驚きと賛美が起こります。

 

今日は敬老感謝の礼拝を共に捧げていますが。高齢化が進んでいく社会を何か暗いかのように思わせる風潮がありますが、それはおかしいことです。

私たちの教会もご高齢の方が多くなってきていますが。80代、90代でこの礼拝に来られている方お一人を通してどんなに大きな神さまの恵みが証されていることでしょうか。又、私たちはご高齢の方々のその姿に、10年後20年後の自分の姿を重ねながら、かくありたいと励ましを頂いております。

何か直接的な奉仕をするのが難しくなったとしても、それにも勝る、「神さまが大好き」という思いが、愛がいっぱいに溢れているということを感じ、主はどれほどいつくしみ深い方であられることかと本当に感謝です。お健やかで福音の証人としてお用いなされますようお祈り申しあげます。

 

さて、聖書に戻りますが。

15節以降で、主の御使の答えが自分の願ったとおりではなかったので、彼は別のことをしようと試みます。

彼は、主の御使いのために、子山羊をごちそうしてもてなしたい、と申しでます。

すると主の御使いはマノアのこの申し出を断ります。その理由については16節の「マノアがその人を主の御使いであることを知らなかった」ということでした。

6節のところで、妻がマノアに「その姿は神の御使いのようで」といっていたのです。そのことをマノアは聞いていても、まあ預言者ぐらいだと思っていたのでしょう。

ですから、彼はこの畏れ多い主の御使いに対して、「お食事でもしていってください」「お名前は何とおっしゃいますか」と尋ねているんですね。

そのマノアと対照的だったのは名も記されない妻でした。彼女は「主の御使いのようで、非常に恐ろしく、どこからおいでになったのかと尋ねることもできず」とその心境を吐露しました。

 

主の御使いに対するこのマノアの的外れな「お名前は」の問いかけに、主の御使いは「不思議と言う」と答えます。それは主の御使いの名前が「不思議」という意味ではありません。それは、マノアあなたの「理解を超えること」だと答えているのです。

この世にあって、私たち人間の見えるところはほんの一部分でしかありません。それで神さまのなさることが理解できず、不安になったり、不満をもったりいたします。しかし主なる神さまは人の思いを遥かに超えた仕方で御心を実現に至らせるお方なのです。

 

さて、主の御使いの言葉に従って、マノアは子山羊と穀物の献げ物を取り、岩の上で主にささげます。マノアと妻は祭壇から炎が天に上るとき、主の御使いも、その祭壇から共に上って行くのを目の当たりにするのです。二人はそれを見て、ひれ伏して顔を地につけ、本当にこの方は神であったと畏れをもって礼拝を捧げるのです。

そうしてマノアは自分に現れ、そして天に上っていかれたのが主の御使いであることをようやく知り、「私たちは神を見てしまったから、死なねばなるまい」と言って非常に恐れをもつのですね。

その夫マノアの言葉を聞いて妻はこう言います。

「もし主がわたしたちを死なせようとお望みなら、わたしたちの手から焼き尽くす献げものをお受け取りにならなかったはずです。このようなことを一切お見せにならず、今こうした事をお告げにもならなかったはずです。」

動転する夫マノアに対してこの名もないマノアの妻の霊的洞察に富んだ言葉は、普段の生ける主、神さまとの対話、日常の中での祈りから出てきたものであったのでしょう。

 

彼女は知っていました。

神は罪深い者に対しても、裁きと滅びを決してお望みになっておられるのではなく、神に立ち返って悪から離れ、御心に従って生きていこうとする者にゆるしと幸いを用意していて下さるお方である。彼女はこの「主の救い」を確信していたからこそ、マノアに「大丈夫ですよ、主は恵み深いお方です。信頼しましょう」と言いえたのですね。

 

人は自分の中に罪や咎をもつとき、神さまの御前に出ていくことを恐れます。自分の中に神さまに従えない、従いたくない思いがある時、祈ることも聖書を開くことも、教会さえいやになることもあるかも知れません。

しかし神さまはそれでもなお私たちが御前に出てくることを願っておられます。そこに必要なのはマノアの妻に見られるような「主の救いに対する期待と信頼」であります。

私たちにとりまして、それは主イエス・キリストの贖いの業にある救いです。私のこの罪の性質、数えきれない咎、これらの責めと負い目から解放するために、神の御子イエス・キリストがその身代わりとなって十字架に磔にされた。この神の御子にある救い、主イエス・キリストの十字架の御業によって罪ある私たちは義とされ、その尊い一方的恩寵の恵みによって神さまの御前に立つことができるようにされている。これが私たちの礼拝であります。

この先立つ神さまの御恵みによって、私たちは主の御前に出でる礼拝からいつでも新しい出発を切ることがゆるされているのです。

 

2425節、この女は男の子を産み、その名をサムソンと名付けた。子は成長し、主はその子を祝福された。そして「主の霊が彼を奮い立たせ始めた」とあります。

今日私たちも主イエスの救いとお約束によってご聖霊が臨み続けて下さいます。そこに平安がございます。

マノアの妻のように名もなきような者と世はみなそうとも、神さまの御心とそのお導きに従って生きる者をご聖霊の証印をもって神の子として召していてくださるのです。言い方を変えればご聖霊は救われた者であることの証印であられます。それは同時に神さまの御心を実現する力の源であられます。

 

使徒パウロは御霊の実は「愛」と言っていますが。ご聖霊のお働きは、神と隣人への愛のゆたかな実りをもたらそうとなさるものです。

そのようなご聖霊のお導きとお計らいに期待し、共に与りつつ歩むことができるというのは、何よりも大きな恵みであります。

 

今日の宣教題を「先立つ神さまのご計画」とつけました。神さまの御救いのご計画は実は今も、私たちひとり一人の存在を通して日常的に起こされ続けています。

私たちひとり一人は、主の救いの福音の生ける証であります。

今日もここから、喜びと感謝と祈りを携えて生きるものとして遣わされてまいりましょう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教会堂2階ルーム

2018-09-14 07:52:44 | 教会案内

教会堂2階ルーム

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第6回「おいでやこども食堂」報告

2018-09-13 10:01:57 | イベント

 

9月12日(水)午後4時~7時

今回は、親子連れのみなさんが12名が来られ、

ボランティアさん10名を含め、22名の会となった。

メニューは、台湾風・水餃子(餃子の皮から手作り)とスープ

たいへんジューシーなおいしさにみな舌鼓。

「いただきます」の感謝の祈りから会食、自己紹介、歌、

その後、こどもたちは、畳のお部屋で、おもちゃ遊び等々、楽しんでいた。


今回2回目となる親子で参加されたお母さんは、夫が毎日お仕事で帰りが遅くなり、

「私とこどもたちで一日中過ごしていると、煮詰まってしまっている状態、

 こうしたこども食堂の集まりがあるとほんとに助かる」とおっしゃっていました。

今回、お友達親子2組を誘って来られました。「前々回のメニュー『にら饅頭』が美味しかった」とのことでした。


まあ、こうして地域の方々に、このこども食堂が開かれている意義はあったということを知らされ、

また元気をいただいた。

次回10月10日(水)午後4時~7時、次回もスタッフ一同、希望をもってがんばろうと思います。

みなさん「おいでや」


感謝しつつ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神さまを信じきれずに・・・

2018-09-09 15:17:48 | メッセージ

礼拝宣教 士師記11章29-40節

台風21号、北海道地震と想像を超えた災害が続きましたが、私も初めて経験した瞬間最大風速47メートルの突風とそのすさまじさにさすがに怖い思いをしました。私は教会の皆さんも心配ですし、この教会堂と駐車場を管理する責任もありますので、その間何事もなく暴風が早く過ぎ去りますようにと祈りつつ屋内から見守るばかりでありました。テレビをつけると住之江区の駐車場に駐車していた車が突風でおもちゃのように転がりぐちゃぐちゃになった有様が報道されているのを観て唖然としました。又、天王寺の道路沿いや公園の樹木が次々と根こそぎなぎ倒されていたりと、屋外は酷い状態でありました。

駐車場は、大きな物置が倒れ、ごみ箱や板が吹き飛んではいきましたが。幸い、お預りしているお客さんの車に当たることもなく、こちらも被害なく、主の守りに感謝でした。遠くは九州の友人や教会の方々からお見舞いのお電話を頂いたことも、ありがたかったです。

その2日後北海道で震度7というとてつもない地震が起こりました。多くの死傷者と行方不明者が出ており、家屋や病院、商業施設の倒壊や道路の陥没、交通のマヒが生じ、大変な悲しみと不安の中にいらっしゃる方々がおられます。

札幌の教会や帯広の教会からは、停電していた電気や断水していた水が復旧し、地震の被害に遭われた方々に教会のトイレや会堂やお部屋を提供されているという、報告も伝えられています。一日も早い負傷者の方々の快復と生活の復旧がなされますよう、お祈りします。

 

さて、本日より今月30日までは旧約聖書の士師記から御言葉を聞いていきます。

イスラエルの民は奴隷であったエジプトから導き出され、40年の荒野の旅路を経て約束のカナンの地に入ります。カナンの地での指導者ヨシュアのその死後、この士師記の時代のイスラエルの特徴について、聖書は「イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた」(士師記17:6,21:25)と記しています。

イスラエルの民は、導きたもう生ける神さまが真の王、すべてを統治したもうお方であることを認めようとせず、約束の地カナンに定住せずに、神ならざるものを崇拝する偶像礼拝を繰り返すのです。

神さまは、そのような罪深い民であるにも拘わらず、その民を宝の民として憐まれ、神さまの救いの恵みがどのように民に臨むのかを、士師たちをお用いになって示されるのです。

 

士師というのは、その都度神に選ばれ立てられた者たちであったわけですが。

イスラエルの民が罪を犯すと・・・神はお怒りになり・・・異邦諸国による攻撃と圧制に苦しみ・・・イスラエルの民が助けを叫び求めると・・・神がその士師をもちいて救われる。そしてすぐにまた、イスラエルの民はその救いの恵みを忘れ、罪を繰り返し、異邦諸国からの攻撃と圧制、民の祈り、士師による救い、そして性懲りもなく背神の罪と、この一連のパターンが士師記には終始繰り返されているのです。

「真の神である主を認めず、それぞれが自分の目に正しいことを行って」いる限り、イスラエルの民だけでなく、私たち人間の世には何度も何度も罪が繰り返されていく、ということをそれは示しているんですね。

その神の救いの御用に用いられた士師たちは、その当時のイスラエルの民を先導していた指導者、救助者とも言われますが。

士師といえば、女性の士師デボラやギデオンの名が思い浮かんでくるという方もおられるでしょう。ギデオンや今日登場するエフタなどは、神さまから選ばれたのだから、さぞかし立派な人格者、完全無欠の聖人かと思いきや。否むしろ人間としての弱さや欠けたる点をもっていた人たちであったようです。

 

先に、エフタの記事が読まれましたが。

11章のはじめには、父ギレアドと遊女との間に産まれたエフタが、本妻の子である兄弟たちから、「あなたは、よその女の産んだ子だから、わたしたちの父の家にはあなたが受け継ぐものはない」と追い出されてしまったということが記されています。

彼が追い出された理由には、単に彼の出自だけの問題ではなく、兄弟たちが1節にあるように、エフタの勇者ぶりを妬んでいたということでもあったのか、と想像もできます。

まあそういう形でエフタは一度同胞から町を追い出されるのですが。

しばらく経ってから、アンモン人らがイスラエルの民に戦争を仕掛けることになると、町の人々そして長老たちはエフタの勇者ぶりに期待をかけ、彼を連れ戻そうとやって来て、「アンモン人と戦ってくれるなら、あなたにわたしたちギレアド全住民の、頭になっていただきます」と、エフタに懇願するのですね。懇願する方もどういう顔をしてエフタに頼んだのでしょう。しかしエフタはこの約束の条件を受け入れます。

 

まあ、ここを読みますと、ギレアドの町の人々や長老の心の変り様というものが見えますね。自分たちにとって都合が良くないときはエフタを町から追い出したのに、今度は自分たちに身の危険が及ぶと、もうエフタにかつてなした事はまるでなかったように、一切わびもなく、ただ戻ってきてアンモン人と戦ってくれたら町全体の頭になっていただきます、と申し出るのです。

それが人間の弱さというものだなあと思うわけですが。

でも、ここでのエフタと長老たちのやりとりは、両者ともに主を中心において、主の御前でなされたものであった。いわば主なる神さまがご介在される中でこの事が始められていくのです。こうして勇者エフタはアンモン人の王とも交渉をしていくことになるのです。           エフタはアンモンの王に対して、「イスラエルの民に戦争を仕掛ける理由などないではないか」と、その根拠を懇切丁寧に説明しますが、アンモン人の王の態度は頑なで、その交渉は破綻してしまい、アンモン人の軍勢はいよいよ近くまで攻め上ってくることになるのです。

ここまでが今日の箇所に至るまでの前段であります。

 

さて、こうして29節にあるように、主の霊がエフタに臨み、彼はアンモン人に向かって兵を進めるのであります。彼には確かに主の霊が先立っていたのであります。

ここで、エフタは主に誓いを立てます。それは「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモン人との戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします」との誓いでした。

主の霊の先立ちのもと、エフタは主のお導きを信じていたはずなのに、彼にどういう心境の変化があったのかはわかりませんが、彼は神が勝利をもたらされることをより強く欲し、極端な誓願を立てるのですね。

その背後には、神を信じて従っていくこととは別に、ここで自分がうまくことを進められるかどうか。民の頭、指導者としての地位や権力を掌握することができるかどうかという思いが先走って起こり、心が2つに割れてしまっていたのではないでしょうか。そのことのために、「もし神さまあなたがこのようになしてくださるなら、わたしはこれを献げます」というような条件をつけ、神さまを試みることとなってしまったように思えます。

 

29節で「主の霊がエフタに臨んだ」とあるように、主は御自らイスラエルの民を救うためにエフタを立てられたのですから、3031節のエフタが誓願などしなくても、救いの御業をエフタを通してお導きになられたのだと思います。

ここが今日の一番の重要点だと思います。主なる神さまがすべてを統治なさっておられるのです。その神さまをエフタは信じきれなかったのです。

主の霊が臨んでいたにも拘わらず彼は神さまに交換条件をつけて誓いを立て、主を試みたのですね。

エフタが神さまを信じて歩み通していたら、彼はこの勝利を神さまの賜物として感謝して受け取ることができたはずです。神さまは勝利の代償など決して求められるお方ではありません。

サムエル記上1522節には「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」と記されているとおりです。

 

しかし神の霊に逆らうかのようにささげた誓願のために、エフタのその勝利は神さまの恵みの賜物ではなく、代償を払って得たものとなったのです。

エフタが家に帰ったときに彼を出迎えたのは、彼の一人娘でした。

エフタはその娘を見て、衣を引き裂いて言います。

「ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを打ちのめし、お前がわたしを苦しめる者になるとは」。

まあエフタはそれが自分の娘であったことを嘆いているわけですが。

しかしそれはまた、「わたしを苦しめる者」の「「苦しめる」はヘブル語でアハルという言葉ですが。それは「家を滅ぼす」行為を表す動詞であることから、彼は娘のことよりも、むしろ娘の死後に自分の家系が途絶えてしまうことを嘆いた。彼にとってはそのことが娘より重要な事柄であったとも読めます。

9節にあるように、その勝利によって民の頭となることにこだわったエフタでした。神さまとそのお働きを信じきれない不信仰と、自らの願望とその執着のために誓願を立てたことが、このような事態を招く事になったということをエフタ自身気づいていなかったのではないでしょうか。

エフタがその自分の不信仰のためにこのことが生じたと知ったなら、本当に深く主なる神さまに悔い改めの祈りをささげ、一人娘に対しては、ちゃんと向き合って、本当に取り返しのつかないことをしてしまったという思いを告げたのではないだろうか。そのように思えます。

 

その一方で、エフタの娘は事を察し、神への畏れの思いをもって行動します。まるで自分のことだけを考える父エフタとは正反対です。

彼女は、「父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、その口でおっしゃったとおりにしてください。主はあなたに、あなたの敵アンモン人に対して復讐させてくださったのですから」と気丈に言うのでありますが。死への恐怖心と深い嘆き悲しみがきっとあったでしょう。まだまだ彼女には将来があるはずでした。

しかし、彼女は2か月の自由を与えられた間に逃げることなく、父エフタとの約束どおり父のもとに帰ってきます。そしてエフタは立てた誓いどおり娘をささげたのです。

 

何という結末かと思いますが。

イスラエルでは年に4日間このギレアドの人エフタの娘の死を悼むために、家を出るというしきたりができて代々守られている、ということです。

それはエフタの娘の行為とその死を美化するのではなく、イスラエルの民が神さまにいつも立ち返って生きていくということを忘れないという意思表示であります。

新約の時代に至って主イエスはこのようにおっしゃいました。

マタイ533-37節。「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。」

 

今や私たちの罪のため贖いのささげものとなられた主イエス・キリストによって、旧約の時代よりはるかに勝って、私たちはもはや自分の力や思いに頼って誓いを立てたり、願をかけたりする必要はありません。唯救いの主に、信頼することこそ、私の命の力、と主を賛美し、宣言することが恵みとして与えられているのです。救いの主、神さまを信じて。

 

今日のエフタの誓願は、神さまの御心に対する無知から生じたものです。

何をするにも、いつも主なる神さまに信頼し、御言葉と祈りの中で、主の御心が何であるのかを求め続けていくそのことが、主を信じて生きる者の最も大切なことです。主は生きておられます。必ず先立ち導いてくださいます。

 

ローマ122節をお読みして、今日の宣教を閉じます。

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる

ようになりなさい。」今週もここからそれぞれの生活の場へと遣わされてまいりましょう。祈り。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神さまとの約束の関係

2018-09-02 22:02:51 | メッセージ

召天者記念礼拝 宣教 創世記23章1-2節、19節、25章7-9節前半、へブライ11章1-2節、8-12節  

本日の召天者記念礼拝にご列席くださいましたご遺族の皆様のうちには、故人は会でクリスチャンであられても、ご自身はクリスチャンでない方、あるいは他の宗教をもっておられる方もおいででしょう。私は特に今日、故人の信仰を寛容に尊重してくださったそのような皆さまが、この場に集って頂けたことに心から感謝と敬意を表したいと思います。
本日の礼拝の中で献花がございます。又、丘の上にある「希望の家」へもご遺族の皆さまご自由にお入りくださり、お祈りの時をおもちいただければ幸いです。

ヘブライ人への手紙11章1-2節には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」と、信仰の定義がなされております。

その後に続く4節以降には、アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラという5人の「信仰のゆえに、神に認められた人々」の紹介がなされています。それは「信仰の先達のリスト」であるといえます。
先ほど私たちも大阪教会の召天会員会友の名簿に従って、そのお一人おひとりのお名前を読みあげさせていただきました。

お一人お一人の地上でのあゆみとご生涯はみなそれぞれ異なるものであったことでしょうが。
ただ、天地万物を創造し、生と死を司り治めたもう主なる神さま、救い主イエス・キリストによってつながるものとされた。そこに天の国の確かさがございます。

今年6月29日にYさんが主の御もとに旅立って行かれ、大阪教会の召天会員会友者の名簿に加えられました。

ご遺族、そして教会にとりましては寂しい別れとなりましたけれども、今は天の神の御手に抱かれその魂は憩いを得ておられることと、信じ、復活の主の御名を心から賛美いたします。

本日はその信仰の先達のリスト、信仰の父祖とよばれたアブラハムとその妻サラの死と埋葬の記事から、「神さまとの約束の関係」と題し、ご一緒に御言葉に聞いていきたいと思います。

これまで礼拝では創世記よりアブラハムの生涯と死に至るまでの記事を読んできました。

アブラハムは12章にありますように、主なる神さまからの「あなたは生まれ故郷を 父の家をはなれてわたしが示す地に行きなさい」とのお言葉に聞き従って旅立ったのです。

このアブラハムの召命と移住の記事を読んでみますと、彼が土地や財産を受けるために出ていったなどとは書かれていません。むしろ彼は「父の家とのこの世の保証を離れて」旅立ったのです。目に見える父の家の財産や土地をおいて神に従っていったのです。
 聖書のイザヤ書40章8節に「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」とあります。

人が財をなし、享受し、束の間花開いたように見えても、やがてはしぼみ朽ち果ててゆきます。

しかし、朽ちることのない神の約束。

アブラハムは、ただ「わたしが示す地に行きなさい。あなたを祝福する」との神の約束の言葉に聞き従ったがゆえに、神さまはアブラハムのその信仰を彼の義と認められたのですね。

クリスチャンも又、イエス・キリストによる救いの約束に聞き従って生きる者であります。そうして神の御前に歩む幸いの人生を得るものとされているのです。

 

さて、先にサラとアブラハムの死と埋葬の記事が読まれました。

サラが127歳(アブラハム137歳の時)で死ぬと、アブラハムは「サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ」と記されています。

アブラハムの生涯にとってサラは大切な存在でありました。彼らは夫婦であり、互いが神さまによって祝福を受けた、よきパートナーであったのです。一つの同じ主を見上げ、仰ぎ見て共に人生を歩んできた彼らでした。

それだけにアブラハムにとってサラを失った悲しみと嘆きは尽きなかったことでしょう。そういう大きな喪失感を抱えながら、「アブラハムはヘト人から買い取ったマクペラの洞窟に妻サラを葬った」と記されています。

 

それから38年程後でありますが、アブラハムも遂にその最期を迎え時がくるのです。

25章7-8節には、「アブラハムの生涯は175年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」と記されていますが。別の訳である口語訳聖書には次のように訳されています。

「アブラハムは高齢に達し、老人となり、年が満ちて息絶え、死んでその民に加えられた」。

なんだかこっちはドライといいますか、人のいのちのはかなさを感じませんか。

私は新共同訳の「長寿を全うし、満ち足りて」という言葉に信仰者の救いを見る思いがいたしますが。

まあどう思うかはさておき、ただ主の御言葉に聞き従っていったその生涯において、神さまの祝福は見える形でアブラハムに与えられていきます。約束のカナンの地に住み、約束の子であり、神の祝福を受け継ぐこととなるイサクが与えられます。一つの大きな国民となるイシュマエルもアブラハムの子であり、さらに後妻ケトラの間に6人の子や子孫を与えられます。彼はまた財をなし、族長として多くの人を率いて、はたから見ても祝福され、当時としてまさに「満ち足りた人生」のように思えますが。その一方で、相続者・後継者について問題は尽きず、アブラハムは心を痛める日々を送ります。

又、二度の大きな飢饉を経験し、さらに神からの耐え難いような試みにあうなど、一人の人間として多くの苦悩や悲しみをもその身に受けます。

そうして、口語訳にあるように「アブラハムは老人となり、息絶え、死ぬ」のです。

創世記3章19節には、「お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取り去られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」と記されています。又、ヨブ記10章9節でヨブは「心に留めてください/土くれとしてわたしを造り/塵に戻されるのだということを」と言い。さらにヨブは14章14-15節で「もし神が御自分にのみ、御心を留め/その霊と息吹を御自分に集められるなら/生きとし生けるものは直ちに息絶え/人間も塵に返る」と人の人生のはかなさを物語ります。

この地上において、いかに人が繁栄を究めようとも。また、どんなに人がうらやむような幸運な人生に思われたとしても。それは永続するものではありません。なぜなら人には必ずこの地上の歩みを終える日が訪れるからです。

その限りある人生、生涯であるからこそ、アブラハムがそうであったように、すべてのいのちの源となるお方が、すべての時を司り、人の人生を真に価値あるものとして導くことのできる大いなる存在を信じて歩み続けるその先に、「満ち足りて死ぬ」ということが与えられるのだと思います。

 

さて、地上の歩みを終えたアブラハムは、妻のサラと同じ墓に埋葬されることとなります。ここで心に留まるのは、それが二人の息子たちがいる中でなされたということであります。

生前アブラハムは母の異なる息子イサクとイシュマエルのことについて相当な心を遣い、悩みながら、それぞれ離れた場所に生きることが彼らにとってよいと苦慮をしたうえで、イサクからイシュマエルを引き離しました。

しかし、アブラハムは、まさにその2人の息子によって葬られることとなるのです。なんとそれは主の祝福を感じさせる出来事ではないでしょうか。それこそまさに主の御もとにある者に与えられた幸いではないでしょうか。

 

今日も毎年9月のこの第一主日において、先に天に召され、神さまの御もとに凱旋された信仰の先達、主にある兄弟姉妹を偲びつつ、記念礼拝を主にお捧げしておりますが。

今年も、その故人のご家族と共々主の御前を会して、その記念の礼拝を捧げられる幸いを得ております。このことは故人にとりましても、神に祝された生涯の証しでありましょう。

 

Yさんが今年6月29日に天に召されました。今もこの教会の厨房やどこかで彼女の声が響き、掃除や食事の奉仕をなさっている姿が目に浮かんでくるようです。彼女が病気であることが分かったのは昨年の初秋でしたから、それからまだ1年もたたないうちに逝ってしまいました。あまりに早すぎとしか思えません。身近におられた幸恵さんがそのことを一番お感じになられたのではないでしょうか。闘病生活のしんどさをご長女にもできるかぎり人に見せずに、牧師にもそうでしたが、ご家族であってもそうであられたようです。けれどそれがYさんの生き方であられたんだと、今はそのように思わされていますが。そういう厳しくしんどいお体の状態であったにも拘わらず、Yさんのうちにはいつも、主を愛し、大阪教会のことを愛してやまない信仰とその思いがあったのです。自分が主イエスの家族の一員としてなすべきことが何かを祈り、考えながら最期まで歩み通された、ということを私どもは教えられました。

自分の生涯を何を信じて生き、何をもって幸いとするか。

最期まで神の御前にあって歩み通した人を、聖書は、「満ち足りた」者であった、と言うのですね。

 

主イエス・キリストはこのように約束されています。
ヨハネ14章1-3節。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しにいくと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」。

ハレルヤ。感謝すべきかな。今やすべての人に、十字架と復活の救い主イエス・キリストによって、主の用意された約束の地に至る道が開かれています。

本日は特に、先に天に召された私たちの信仰の先達を偲びつつ、主イエス・キリストにある「希望」を、確認させて頂いておりますが。 
信仰の模範者として列挙されたアベル、エノク、ノア、アブラハム、サラは、その人生の歩みを通して神の祝福の中を生きる生涯とはどういうものかを指し示します。

私どもも又、小さい者ながら十字架と復活の主イエス・キリストを見上げながら、救いの道を歩み続けることができるのは、何と幸いで確かな希望でしょうか。

 

本日の宣教題を、「神さまとの約束の関係」といたしましたが。

信仰によって神に認められたアブラハムが祝福された者としてこの地上の生涯を歩みぬいたごとく、私たちも又、救い主イエス・キリストを信じ抜き、神に認められ、祝福された者として希望の人生を歩みとおしてまいりたい、と願うものです。

たとえからし種一粒ほどの微々たるちっぽけな信仰であっても、その信仰を保ち続けて生きる者に、神さまは「天の故郷」に通じる人生の道を整え導いて下さいます。そこに虚しき人生に終らない私どもの希望がございます。

最後に、ヘブライ12章1~2節をお読みして宣教を閉じます。
「こういうわけで、わたしたちもまた、このようなおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。

永久に変わることのないいのちの御言葉、神さまとの約束の関係に生きるべく、今日もここから遣わされてまいりましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする