日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

秋季特別集会のご案内

2012-09-26 07:57:33 | イベント
講 師 : 田 口 昭 典 師(金沢キリスト教会牧師)&ケンちゃん

講師の田口氏は腹話術の名手です。笑いと涙、悲喜こもごもの人生を
福音の光に照らしてわかりやすくお話しくださいます

<1日目> 9月29日(土) 午後 2:00~4:00
「ベルフィリア・ハンドベル特別出演」がございます!
お話「神の愛と赦しに応えて」聖書:ルカ福音書15章1~32節

<2日目> 9月30日(日)午前10:30~12:20
お話「神の愛と信頼に応えて」聖書:マルコ福音書10章46~52節
※両日入場無料 自由献金はあります


~講師より~
私は主イエス様を救い主と信じて救われ、どんなときでも希望を持って歩むことができるようになりました。私は一人でも多くの方々にイエス様を紹介したいと願っています。みなさまのご来会を心よりおまちいたしております。

講師の田口昭典師のプロフィール
 1950年 北海道本別町に生まれる。
 1971年、日本アイ・ビー・エムKKに生産技術者として5年間勤務
 1971年、相模伝道所(現相模中央キリスト教会)にて受浸
 1976年、献身し、退職。西南学院神学部および神学専攻科で学ぶ
 1980年、北九州市の若松バプテスト教会に赴任(日本バプテスト連盟最古の教会)
 1991年、日本バプテスト連盟宣教部主事として、国内、国外を担当。
 1996年、国内宣教師として金沢教会に派遣され、牧師として教会復興、金沢めぐみ幼稚園理事長・園長として健全運営の確立に励む。
 2001年、学校法人となり、新園舎建築、教会堂増改築。
 2006年 国内宣教師任期終了し、4月より、金沢教会牧師に就任し、今日に至る。
家族等  家族は、神学校で出会った妻と三女三男。孫3人。
趣味等  趣味は渓流釣り。天然温泉を楽しむこと。
モットー 出来ないと言わず、「やってみよう!」ということ。


ベル・フィリアの紹介
日本ハンドベル連盟主催全国ハンドベル 講習会で研鑽を積む。中島久子氏指導・指揮のもと演奏活動を続けてきた。「フィリア」
はギリシャ語で「愛・友愛」を意味する。天使の音楽といわれるハーモ二―の音楽です。
愛を基盤に心合わせ、神を賛美し、人と人との和を造り出していくハーモニーを奏でたい。と願っている。


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生きる時間

2012-09-23 11:53:10 | メッセージ
宣教 列王記下20章1-11節  

先週は関西地方連合の信徒大会が行われました。講演では震災と原発事故の被災地である福島県の郡山コスモス通り教会の鈴木牧師を通して、御言葉を聴き、又、震災と原発事故の現地報告、教会の被災者支援の活動、仮設住宅での暮らしを余儀なくされている方々の近況が報告されました。放射能汚染被害の重大さと、今にも再び起こり得る可能性のある原発事故の恐ろしさを突きつけられた思いでした。このような結果と不安を招き起こしたのは、人間のおごり、無関心と無責任の罪のゆえであり、今悔い改めなければ、さらに深刻な状況になることもあり得ると本当に考えさせられました。被災者の方々、又被災者でありながらも支援活動されている方々、そして教会のお働きのために祈り、私たちにできる小さな支援を続けてまいりたいと思います

①「祈りの力」
今日のこの箇所は南ユダの王であったヒゼキヤに関するエピソードであります。参考記事として、歴代誌下32章、又イザヤ書38~39章がありますので、読み比べてみるのもよいかと思います。
ヒゼキヤは多くの悪王の中にあって、主を畏れ敬う善王でありました。しかしその彼が大病に罹ってしまうのです。彼はこの時39歳であったと言われています。まだ年若く、忠実な王であり、祈りの人でした。その彼が大病になるのです。
その王のいる宮廷へ、王の顧問であり神の預言者でもあったイザヤが訪ねて来て主の言葉を伝えました。1節「主はこう言われる。『あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言しなさい』」。その言葉にヒゼキヤはどれほど衝撃を受け、驚いた事でしょう。2節「ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主にこう祈った。『ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください』。こう言って、ヒゼキヤは涙を流して大いに泣いた」といいます。
彼は全身全霊をこめてただ神に祈ります。一国の王でありながらも、一人の限りある人間としての姿をさらけ出して神に祈るのです。
すると、イザヤを通して主なる神さまはヒゼキヤにお語りになられます。
5節「わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやし、三日目にあなたは主の神殿に上れるだろう。」わたしはあなたの寿命を15年延ばし、アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す。わたしはわたし自身のために、わが僕ダビデのために、この都を守り抜く」。
ヒゼキヤは自分の手に負えない事に直面するたびに、神に依り頼み、祈りました。ここのところでもヒゼキヤの真心を込め一途に捧げる祈りに、主は即答してくださいます。否、いつも、いつも主を頼みとし、主に訴え続けて国を守り治めるという大変な務めを誠実に果たしてきたからこそ、主は直ちにその祈りと涙に応えて下さったのではないでしょうか。
ここを読む時、「祈りの力」について学ぶことができます。どんなに厳しい状況におかれようとも、真心込めて主に訴える祈りを主はしっかりと聞いていてくださり、その涙を見、その想いを知っていてくださる。祈りを捧げる時、私どもはこの主がご聖霊をとおして生きて働いておられることを知ることができます。私どもにとって何よりも大きな力は、このヒゼキヤのごとく、己の無力さ、弱さを知る時にこそ、その祈りに耳を傾け、その涙と呻きを聞き、力と計画を与えて下さる生ける主が共におられるということであります。
そのところに真の平安と希望があることを知っているということです。

②「いやしと新生」
さて、そのヒゼキヤですが。イザヤの「干しいちじくを取って来るように」との指示に従い、それを患部に当てると、回復したとあります。今も干しいちじくが売られていたり、生いちじくも勿論おいしいですが。いちじくは聖書の一番最初に出て来る植物名で、アダムとエバがその大きな葉で腰巻を作ったとされ、実に70回以上も記されており、古来よりその膏薬は医術に用いられていました。
患部が回復したヒゼキヤは、そこで主が「三日目に神殿に上れるだろうと」約束されたことについてイザヤに尋ねます。「わたしが三日目に主の神殿に上れることを示すしるしは何でしょうか」。この「神殿に上る」というのは、神のいやしの業に感謝をささげるためでありました。神殿に上れるようになるためには体力が回復していないと無理でしたが、もう一つ重要なことがありました。それは彼が完全に主にいやされたことを確信することでした。ヒゼキヤは神にいやされたことを確認したかったのです。
するとイザヤは答えます。「ここに主によって与えられるしるしがあります。それによって主は約束なさったことを実現されることが分かります。日時計の影が十度進むか、十度戻るかです」。何とも不思議なことをイザヤは言います。
それに対しヒゼキヤは答えます。「日時計の影が十度伸びるのは容易なことです。むしろ影を十度後戻りさせてください」。彼は神のいやしを確信するために「日時計の影を十度後戻りさせてください」と願うのです。まあ一日も早く体調がよくなるために日時計の影を先に進めたいと望んでもよさそうですが。しかしヒゼキヤはそれとは逆のことを言います。なぜでしょうか。
その真意についてはイザヤ書38章17節のところにこう書かれています。これは死の病がいやされて命を得たヒゼキヤの神への感謝と賛美の歌の中の一節ですが。お読みします。
「見よ、わたしの受けた苦痛は平和のためにほかならない。あなたはわたしの魂に思いを寄せ、滅びの穴に陥らないようにしてくださった。あなたはわたしの罪をすべて、あなたの後ろに投げ捨ててくださった」。
死を目前にするような大病に罹った時、人は自らの人生と共に、神の御前におけるいかんともし難い罪の問題に直面するものではないでしょうか。この「あなたはわたしの罪をすべて、あなたの後ろに投げ捨ててくださった」というヒゼキヤの言葉から分かりますように、ヒゼキヤは日時計の影を十度後戻りして戴くことによって、「主が自分の罪すべてを、その後ろに投げ捨ててくださった」。すなわち罪の赦しを得させて下さったと告白したのです。ヒゼキヤは身体のいやしだけでなく、罪の赦し、つまり主との交わり、霊的回復を得て、新生させられるのです。
このヒゼキヤの賛歌は、私どもが大事にしている主の晩餐の精神とも相通じます。主の晩餐において、私どもは主イエスの十字架のみ業を思い起こし、その信仰の原点にもう一度引きもどされ、悔い改めを戴き、新生の恵みを感謝をもって確認させて戴くのです。
まさに主イエスは十字架において「私どもの罪すべてを、その後ろに投げ捨ててくださった」。そのことを心に留めて生きる時、いつも新しく生き直すことが与えられている恵みを再確認するのです。

③「生きる時間」
本日の聖書は、主がヒゼキヤの大病をいやし、その魂に恵みを注がれて、新生させられたことにつきるといえますが。しかしそれだけでは終わっていないのです。
聖書はその主の恵みによって死の病から回復され、新生した後に与えられた15年という時間をヒゼキヤは如何に生きたかということをも赤裸々に伝えているのです。
回復の後、彼は見舞いに来たバビロンの国の使者たちにユダの国が所有してある金、銀、香料、上等の油など宝物庫のすべて、武器庫、また、倉庫にある一切のものを見せました。 このような時代において国が大国にその豊かさと軍事力を開示するというのはとても危険なことでした。にも拘らずヒゼキヤは如何に自分に力があるかを誇示するために、それを全部見せて廻ったんですね。同様の記事が記された歴代誌下32章には、バビロンがこのユダの地に起こった奇跡(ユダの小さな国がアッシリアと言う大国の攻撃から守られたことや死の病に罹ったヒゼキヤが回復した出来事)について使節団を送って調べさせた時、「神はヒゼキヤを試み、その心にある事を知り尽くすため彼を捨て置かれた」とあります。そしてヒゼキヤは主ではなく、己とその力を誇示してしまうのです。
そのことによって主は、「王宮にあるもの、あなたの先祖が今日まで蓄えてきたものが、ことごとくバビロンに運び去られ、何も残らなくなる日が来る」と言われました。そして後の時代にその主の言葉は現実のものとなってゆきます。また、ヒゼキヤの後継として息子のマナセが王位を継承しますが、主を畏れることなく主の御目に悪とされることを行います。南ユダ国内は再びアハブ王の時代のように偶像崇拝が栄え、主なる神への背信が進んでいき、やがてユダの国は滅んでしまうのであります。

死の病が主のいやしによって回復され、新生の恵みを受けたヒゼキヤでありましたが。彼のその後のあゆみは、真に残念という他ないものでした。彼がそこで、主の救いの恵みを忘れず、謙虚にすべての栄光を主にお返して生きたなら、己の力を誇示して滅びを招くことはなかったはずです。また、与えられた15年の時間、子どもらに「主を畏れ敬う」という信仰のバトンを渡していたなら、どうでしょうか。このようなユダの結末を避けることができたのではないでしょうか。

信仰を持っているクリスチャンで、ヒゼキヤのように死の病がいやされたという経験を持つ人もおられましょう。また、今まさに病を抱えて祈りと信仰の戦いの最中にある方もいらっしゃいます。一日も早い癒しの回復が与えられますようにと、お祈りいたします。
すべての人は健やかに、そしていつまでも元気で生活していたいと望みます。けれども、すべての人には寿命があり、必ずこの人生を終える時が来ます。如何に強い人、健康な人であっても、財産を所有した人でも、地位や名声を博した人も、どのような人も死に勝つことはできません。死はだれにも平等にやって来るのであります。ヒゼキヤは死の宣告を受けた時、人の生も死も統べ治めておられる生ける主と向き合い、涙を流して祈りました。 
人はいのちの源であるお方を知っているか、知らないかでは、その人生、そしてその終りは大きく違ってきます。「主のみ業を信じ、主を受け入れる」。それこそ、人をほんとうに生かす力なのです。主は生涯において信じる者を豊かに恵み、祝してくださいます。その人の人生を豊かなものとし、確かな道をあゆませてくださる。それこそが大事なのです。
私ども主を信じて生きるクリスチャンは、救い主イエスさまによって新しい命に生きる時間を与えられました。この救いの恵みに喜びと賛美と献身をもって応えて行く時、私どもは生きている、生かされている真の意義を見出すことができるでしょう。

今日私どもは、「祈りの力」について、又「いやしと新生」についての御言葉を戴きました。これらの主が与えて下さった恵みを豊かに受け、又主の恵みの御業がさらに拡がりゆくことに期待をし、進んでまいりましょう。
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秋季特別集会のご案内

2012-09-19 16:54:29 | イベント

講 師 : 田 口 昭 典 師(金沢キリスト教会牧師)&ケンちゃん

講師の田口氏は腹話術の名手です。笑いと涙、悲喜こもごもの人生を
福音の光に照らしてわかりやすくお話しくださいます

<1日目> 9月29日(土) 午後 2:00~4:00
「ベルフィリア・ハンドベル特別出演」がございます!
お話「神の愛と赦しに応えて」聖書:ルカ福音書15章1~32節

<2日目> 9月30日(日)午前10:30~12:20
お話「神の愛と信頼に応えて」聖書:マルコ福音書10章46~52節
※両日入場無料 自由献金はあります


~講師より~
私は主イエス様を救い主と信じて救われ、どんなときでも希望を持って歩むことができるようになりました。私は一人でも多くの方々にイエス様を紹介したいと願っています。みなさまのご来会を心よりおまちいたしております。

講師の田口昭典師のプロフィール
 1950年 北海道本別町に生まれる。
 1971年、日本アイ・ビー・エムKKに生産技術者として5年間勤務
 1971年、相模伝道所(現相模中央キリスト教会)にて受浸
 1976年、献身し、退職。西南学院神学部および神学専攻科で学ぶ
 1980年、北九州市の若松バプテスト教会に赴任(日本バプテスト連盟最古の教会)
 1991年、日本バプテスト連盟宣教部主事として、国内、国外を担当。
 1996年、国内宣教師として金沢教会に派遣され、牧師として教会復興、金沢めぐみ幼稚園理事長・園長として健全運営の確立に励む。
 2001年、学校法人となり、新園舎建築、教会堂増改築。
 2006年 国内宣教師任期終了し、4月より、金沢教会牧師に就任し、今日に至る。
家族等  家族は、神学校で出会った妻と三女三男。孫3人。
趣味等  趣味は渓流釣り。天然温泉を楽しむこと。
モットー 出来ないと言わず、「やってみよう!」ということ。
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安心して行きなさい

2012-09-16 11:33:30 | メッセージ
礼拝宣教 列王記下5章9-19節a  

①「不思議な導き」
本日のこの箇所にはイスラエルの預言者エリシャとアラムの軍司令官ナアマンの物語が記されています。アラム(シリア)の軍司令官ナアマンは重い皮膚病を患っていました。ある時妻に仕えていた召し使いの少女が、「サマリアの預言者のところに行けば、ご主人様のその重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに」と妻に話します。この少女はイスラエルから捕えられてきた捕虜でありました。サマリアの預言者、すなわちエリシャのなした奇跡の数々を知っていたのでしょう。あのエリシャさまならきっとご主人をいやすことができるに違いないと、少女は考えたのであります。
ナアマンがその少女の話をシリアの王に伝えると、王はイスラエルの王に手紙を書きました。ナアマンはアラムの王に重んじられ気に入られていました。それは主がかつてこのナアマンを用いてアラムに勝利を与えられたからだ、と聖書は伝えています。ナアマンはその手紙と贈り物の金や銀、さらに晴れ着をもってイスラエルの王を訪ねるのであります。ところが、その手紙を見たイスラエルの王は、アラムの王の政治的な策略と見て取り、衣を裂くほどに憤慨しました。エリシャはイスラエルの王が衣を裂いたことを聞き、王のもとに人を遣わして、「その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう」と伝えます。イスラエルの王はエリシャの言うとおり、ナアマンがエリシャのもとに向かうことを許します。

②「柔らかな信仰」
ここからが本日の箇所ですが。
ナアマンはエリシャの家に来て、その入り口に立ってエリシャを待ちますがそこに出て来たのはエリシャ本人ではなく使いのものが家から出て来てこう言うのです。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります」。ナアマンはそれに対してこう言います。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上に手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。イスラエルのどの流の水よりもきれいなダマスコの川で洗って清くなれないというのか」。彼は身をひるがえして憤慨しながら去っていった、とあります。まあナアマンにしてみればわざわざ遙々訪ねて来たというのにあまりに非礼ではないのか、エリシャは自分に会おうともせず、又皮膚を診ようともしない。「何だこの態度は」と、その期待が大きかっただけに落胆も又大きかったのでありましょう。人間的に見ればナアマンの気持ちは分かる気がいたします。

このナアマンが腹を立て帰っていくその途中で、彼の家来たちが近づいて来ていさめます。
「あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか」。
すると家来たちにいさめられたナアマンは再び下って行き、エリシャの言葉どおりヨルダン川に七度身を浸します。するとどうでしょう。「彼の体は元に戻り、皮膚がですね、小さい子供の体のようになり、清くなった」というのです。ヨルダン川に身を浸す。それはバプテスマを受ける者の姿のようであります。そしてまた、小さい子供の体のようにされたナアマン。それは彼が新しい人として生まれ変わったことを象徴しているかのようにも思えます。事実ナアマンは川から上がった時、「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました」という信仰告白を言い表しています。
 ナアマンは初めエリシャを通して示された神の言葉をまともに受け入れることができません。それはヨルダン川に行って七度身を洗いなさいといういとも簡単な指示が、それが逆にあまりにも簡単なことであるために、ナアマンはそんなことで治るものか、人を馬鹿にしている、と思ったんじゃないでしょうか。ナアマンの心の内には神の言葉を素直に受け入れて、その言葉を実行することができない自我、頑固で頑な自分がいたのです。
 それは神がエリシャを通してこのナアマンの信仰を試されたということではないでしょうか。ナアマンの体を元に戻し、清くされるのはエリシャではなく、生ける神、主ご自身であります。その主の言葉を信じ、単純に受け入れて、その通りに行なう。その信仰を主は求められたのではないでしょうか。
一旦は憤慨しつつその場を立ち去り帰ろうとしたナアマンでしたが。家来たちの言葉に耳を傾け、聞き入れる事ができたのは幸いでした。イエスさまは、「だれでも子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイ18:3)とおっしゃいました。  
信仰とは何か難しい事柄でしょうか。特別な知識や教養、学問が必要でしょうか。むろん誤った解釈を避けるためそれもあった方がよいでしょうが。何より大切なこと、それは主の言葉、福音の言葉を「聞いて受け入れ、信じて行なっていく」。そのことに尽きるのであります。

③「ナアマンの信仰告白と不安」
さて、こうして主なる神と出会い、清くされたナアマンはエリシャのもとへ戻り、15節「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました」と信仰を口で言い表し、17節「僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはいたしません」と約束します。彼は主こそ生ける真の神であることを口で告白し、今後この主に従って生きる決意を表明します。
ローマ10章9節10節にはこう記されてあります。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じ義とされ、口で公に言い表して救われるのです」。
この自らの信仰について公に口で告白するということは、主に従って生きるということですから、それは一方で世の様々な神ならざる勢力や偶像崇拝などとの戦があるということです。主を信じて生きる者にとって、この世にある限りそういった戦いは尽きません。それは主の言葉に従う、主への従順の戦いであり、罪との戦い、祈りの戦いであります。もしそういった戦いがないという人がいるなら、それは主を信じて生きているとはいえないのかも知れません。

ナアマンは神の人エリシャにこう言っています。
17節「らばニ頭に負わせることできるほどの土をこの僕にください。ただし、この事については主が僕を赦してくださいますように。わたしの主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すとき、わたしは介添えをさせられます。そのとき、わたしもリモンの神殿でひれ伏さねばなりません。わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように」。
ナアマンの場合、異国のシリアの王に仕える軍司令官でした。一国の王がリモンの神殿(アッシリアの雷を祀った偶像神)にひれ伏すとき、彼は王の介添えをしなければならない立場でした。その際、彼も王と一緒に神ならざるものにひれ伏さなければならなかったのです。そういう信仰的な戦いが今後待ち受けている身の上のことを、神の人エリシャに打ち明け、神の赦しを乞うたのです。
彼は又、イスラエルの土をアラムに持って帰りたいと言っていますが。それはイスラエルでない土地で主なる神を礼拝するために必要だと考えたからです。しかし全地全能なる神は、すべて世界を統治しておられますので、どこにいても主を礼拝できるのでありますが。この時のナアマンの内には不安や心配の思いが強くありました。聖なるイスラエルの地の土を持っていけば、きっと信仰の一助になると考えたのでしょう。

④「安心して行きなさい」
異教の地、神ならざるものを神とあがめ、信奉するような世界に帰ってゆかねばならなかったナアマン。そういう不安を抱えていたナアマンに対して、エリシャは「安心して行きなさい」と彼を送り出します。エリシャはナアマンの願いに対して、その信仰をあるがまま受けとめます。おそらくはらばニ頭にイスラエルの土をも積ませたことでしょう。ナアマンはまだ生まれたばかりの神の民でした。エリシャはアラムの地でナアマンが神の民として今後も信仰をしっかりともって生きることを願い、祈りつつ、生ける主のお導きに委ねたのでした。

私どもも主を信じてその民として生きる時、この世において不安や恐れが襲い、様々な戦いが生じます。けれども、どのような時も、どこにいようとも、私たちは生ける主が共におられ、導いてくださるとの確信を戴いてあゆんでまいりましょう。イエスさまは、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださっています。
(マタイ28:20)
キリストによって新しく生まれ変わった私たちは今一度、「御言葉に聴き従う柔らかな幼子の信仰」を与えていただこうではありませんか。不安や恐れ、戦い多き世において生きる私たち一人ひとりに、「安心して行きなさい」と語りかけてくださる主によって力強くあゆんでいこうではありませんか。
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神を畏れて生きる

2012-09-09 21:22:30 | メッセージ
宣教 列王記上21章1~24節 

本日は列王記上21章に記されています「ナボトのぶどう畑」の物語から、「神を畏れて生きる」と題し、御言葉を聴いていきたいと思います。
この物語には4人の登場人物が出て参ります。農夫のナボト。彼はイズレエルの地におけるぶどう畑の所有者でありました。それから北イスラエルの王であったアハズ。その妻のイゼベル。そして預言者エリヤであります。
アハズ王はイスラエル人であり当然主の掟である律法を知っていました。しかしアハズの妻イゼベルはシドンの国王の娘であったのでイスラエルの神とその掟を知りませんでした。それどころか異教の神バアルを崇拝し、アシュラ像をイスラエルに建て、偶像崇拝を持ち込んだのです。イスラエルの救いと導き、そしてその教えを知らないイゼベルには主なる神への畏れなど毛頭なかったのでした。それは又、イスラエルの人々にまで偶像を崇拝させ、真の神の愛から引き離すような力として働いた、ということは先々週もお話したとおりであります。

①「ナボトのぶどう畑を巡る問題」
さて、アハズ王はサマリヤを夏の都にしていましたが、冬の宮廷をイズレエルに持っていたと言われています。そこでイズレエルに住むナボトのぶどう畑に王は目をつけます。王はナボトに、「お前のぶどう畑を譲ってくれ。その代わり、お前にはもっと良いぶどう畑を与えよう。もし望むなら、それに相当する代金を銀で支払ってもよい」と話を持ちかけます。それに対してナボトは、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」と答えます。
嗣業の土地とは、神の約束として与えられた地であり、神から代々に亘って守り治めるように託された土地のことであります。
神の律法には「嗣業の土地を売り渡すことはできない」と定められていました。それゆえナボトはたとえ王であろうと嗣業の土地を引き渡すことはできないと、はっきりと断るのです。アハブ王はそのナボトの「言葉に機嫌を損ね、腹を立てて宮殿に帰って行った。寝台に横たわった彼は顔を背け、食事も取らなかった」と記されてあります。まあ駄々子のようですが、ここには王ですら神の戒めである律法に従わなければならない、ということが示されています。

②「神の律法を知らなかったイゼベル」
ところが、事態は王女イゼベルの介入によって一変いたします。アハブ王から事情を聴いたその妻イゼベルは、「今イスラエルを支配しているのはあなたです。わたしがイズレエルの人ナボトのぶどう畑を手に入れてあげましょう」と王に言います。イゼベルの郷里シドンでは王の権威は絶対的でしたので、彼女はこの事態に大変憤慨したのでしょう。彼女にしてみればイスラエルの律法など固苦しい決まりに過ぎず、自分には関係のないことでした。ですから、「ナボトからぶどう畑を取り上げること」に対して何の抵抗もなかったのです。神ならざる偶像をすら拝し、物質的繁栄を追い求めていくような国で育ったイゼベルでした。彼女にはすべてを治めたもう生ける神への畏れの念などありません。彼女は王の権力を笠に着て、無実のナボトを罪に陥れ、抹殺して、そのぶどう畑を奪い取るという恐ろしい策略を立て、実行したのです。アハズ王は全面には出てきませんが、しかし彼はイゼベルの策略を後方から支持したという点において、罪を免れ得るものではありません。そうしてアハブはイゼベルによって、自ら直接関与することなくナボトのぶどう畑を手にします。イゼベルもまたアハブに借りを作り、彼の心を手中にしていくのです。
生ける神を知ろうとしない、神を畏れて生きることを学ぼうとしない、というのは本当に恐ろしいことであります。目に見えるものだけを信じ、偶像とし、その欲望は留まることを知りません。

③「罪は裁かれる」
さて、ここでいよいよ預言者エリヤが登場します。
「ナボトが死んだとの知らせを聞いたアハブ王は直ちにイズレエルの人ナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下っていきます。その時、主はエリヤに臨み、アハブ王に主の裁きを告げよ、と命じます。エリヤは主の言葉どおりアハブに、「あなたは人を殺したうえに、その所有物を自分のものにしようとするのか」「犬の群れがナボトの血をなめたその場所で、あなたの血を犬の群れがなめることになる」と、告げるのです。

主はすべてをご存じでした。アハブはイスラエルの主を知り、律法の何たるかを知らされていながら、20節にあるように「自分を売り渡して主の目に悪とされることに身をゆだねた」。そのことが厳しく裁かれます。イゼベルにそそのかされたといえばそうかも知れませんが。彼は主の目に悪とされるその恐ろしい策略が実行されることを知っていながら、それに身をゆだねたのであります。そのことについて主は非常に厳しい裁きでもって臨まれます。なぜならそれはアハブ王のみならず、一国の王の命によってイスラエルの人々はこぞって「偽証」に加担し、罪を犯すことになったからです。律法では偽りの証言をして冤罪を作り出すことに対して、厳格に戒め、それを禁じています。イスラエルの人々も又、それを知っていながら、「自分を売り渡して主の目に悪とされることに身をゆだねてしまった」と言えるでしょう。その罪は大変重いということであります。

④「神を畏れて生きる」
最後にイスラエルの主の掟を知っていたもう一人の人ナボトについて見ていきましょう。
彼のぶどう畑の土地は、先祖から引き継がれたものでありました。そこには彼の先祖たちの眠るお墓があったかも知れません。けれどもそれ以前に、神から約束の地として代々に亘って守り、治めるよう託された土地であったのです。
彼はアハズ王に対して「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」ときっぱりと断りました。
たとえ相手が王であろうとも売り渡すことはできない、ダメなものはダメ。ナボトの信仰はほんとうに骨太なものでした。

しかし、「主にかけてわたしにはできません」と断ったために、彼は嗣業の地だけでなく、自分の命までも失ってしまうのです。その主への信仰の態度はあまりにアハブ王とは対照的です。このナボトの最期は、人の目、又この世的に見れば実に悲惨極まりないものであったといえましょう。彼は神に対して忠実に生きようとしたのに、「イスラエルの王を呪った」という根も葉もない偽証により濡れ衣を着せられ、石で打ち殺されたうえ、嗣業の地まで奪われたのですから。彼は明らかに無実であり、冤罪でした。ナボトがもし、神でなく王を恐れて、「わたしの土地を譲りましょう」と言っていたのなら、彼は平穏無事で、その生活も補償されていたのです。けれどもナボトはそのような生き方になびかず、唯主なる神をこそ主としていったのです。
 王の権力に屈することなく、主の掟に忠実に生きたナボト。神の掟に従い、生きようとするとき、世の力との戦いが生じます。それは時に孤独な戦いです。ナボトはならず者らから不当に訴えられた時、誰からも擁護や弁護もされず、石で打ち殺されたのであります。 
それは、無実のイエス・キリストが十字架につけられて殺された、そのこととも重なります。イエス・キリストはユダヤ社会にあって弱い立場におかれていた人々、差別や偏見を受け苦しんでいた人々、罪人とよばれていた人々、外国人や病人の人々と、日夜出会われ、いやしと解放を携え、神の国を宣べ伝えられました。   
しかしそのことが、いわゆる自分たちこそ正当派だと主張するユダヤ人たちから恨みと妬みを買い、イエスは神を冒涜したという偽りの証言によって不当にも裁きの座に引き出されました。そしてユダヤ民衆までもがこぞって「イエスを十字架につけろ」と叫び出し、遂にイエスさまは十字架につけられて無残な最期を遂げられたのです。しかししれは人の罪が露わになり、神の義と愛、そして御救いが成し遂げられるためでした。そのイエスさまは三日目に復活された、と聖書は語り告げます。
ナボトは神の律法に忠実に生きましたが。私どもにとりましてこの神の律法とは何でしょうか。それはまさにイエス・キリストであります。神を愛し、隣人を自分のように愛することを示されたお方。そのご生涯は律法の真髄を全うするものでありました。私たちキリストを信じて生きる者は、この地上において主イエスが如何に歩まれたかを御言葉から聴きとっていくことこそ、私たちにとっての神の律法であります。今日のように問題が複雑化し、多岐に亘る悩み多き世にあって様々な障壁にぶちあたり、どうしたものかと行き詰るようなことが起こりますが。
そのような時も、イエスさまなら何とおっしゃるだろう、イエスさまならどうなさっただろう、と祈り、御心を尋ねていくことが大事であります。そういった霊想と御言葉と祈りを基に据えていくなら、必ず様々な問題や難題に対処していく知恵と術を得ることができるでしょう。それはまず、箴言1章7節「主を畏れることは知恵の初め」。「神を畏れて生きる」。この御言葉に聴いて生きることから始まります。

⑤「今日的な嗣業の地;教会」
最後になりますが、本日のこの物語の中で「ナボトが最後まで主にあって嗣業の土地を売り渡すことはできないとアハブ王に断った」という場面から、私はある事件のことが思い起こされました。
この事件というのは、去る5月27日の聖日(ペンテコステ)、神奈川県にある某カトリック教会の敷地内にK警察署の署員6名が同教会管理者である主任司祭の制止を無視して教会内に立ち入り、外国籍のカトリック信徒に職務質問を行い、旅券不携帯並びに常時携帯提示義務違反の罪により同人を現行犯逮捕したのです。その際、主任司祭が宗教活動の自由、信教の自由の観点より教会敷地内から立ち退くよう求めたにも拘わらず、警察署員はその制止を無視し、立入行意を継続、職務質問を威圧的にかけ続けました。またその行為に対して抗議した者らも、威圧的な態度で詰め寄られたというのです。
その事件を受けて、カトリックのY司教区と当該教会はK警察署に申し入れ書を提出しました。その内容は次の3点です。①今回の違法な立入行意に強く抗議し、謝罪を要求する。②今後、教会敷地内へ違法な立入及び職務質問を実施して、信教の自由という基本的人権を侵害することがないよう、強く要請する。③今後、教会施設付近において、教会に訪れる人を対象として、非正規滞在を目的とした職務質問は控えるよう要請する。
その後、K警察署長より、その立入行意が「不適切であったと認識」する旨の回答書が出され、警察庁長官も大司教宛に、「警察庁としまして、今後とも信教の自由をはじめとした憲法で保障された基本的人権を尊重した警察活動を全国警察に対して徹底してまいりたいと考えております」との回答があったということです。

教会は心から主を礼拝し、そこに魂の憩いと平安を求めて来ている者には如何なる区別も差別もなく門戸が開かれている聖なる場所です。私たちは、イエス・キリストが世において偏見や差別を受けている人をも招かれ、食卓を共にされた事。イエス・キリストが神の救いを分け隔てせずもたらされたお方であることを知らされました。誰もが神に受け入れられ、共に礼拝に与ることがゆるされ、牧会されるべき場所。それが教会であります。そこにイエスさまが自らお示しになられた神の国とその交わりの場が与えられていると信じます。 
本日は「神を畏れて生きる」というメッセージを聴きました。それは「神を神とし、その言葉に生きる」という事です。それは又、「隣人を自分のように愛し抜かれたイエスさまに倣って生きる」という事です。コヘレト9章10節の言葉をお読みして宣教を閉じます。
「神を畏れることは知恵の初め。聖なる方を知ることは分別の初め。」
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秋季特別集会のご案内

2012-09-05 13:49:14 | イベント


講 師 : 田 口 昭 典 氏(日本バプテスト連盟・金沢キリスト教会牧師)&ケンちゃん

講師の田口氏は腹話術の名手です。笑いと涙、悲喜こもごもの人生を

福音の光に照らしてわかりやすくお話しくださいます

<一日目> 9月29日(土) 午後 2:00~4:00
お話「神の愛と赦しに応えて」聖書:ルカ福音書15章1~32節
「ベルフィリア・ハンドベル特別出演」がございます!

<二日目> 9月30日(日)午前10:30~12:20
お話「神の愛と信頼に応えて」聖書:マルコ福音書10章46~52節

※両日入場無料 自由献金はあります

~講師より~
私は主イエス様を救い主と信じて救われ、どんなときでも希望を持って歩むことができるようになりました。私は一人でも多くの方々にイエス様を紹介したいと願っています。
みなさまのご来会を心よりおまちいたしております

場 所: 日本バプテスト大阪教会
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生涯の日を正しく数えて生きる

2012-09-02 22:19:00 | メッセージ
宣教 詩編90編 

本日は召天者記念礼拝として詩編90編より「生涯の日を正しく数えて生きる」と題し、御言葉を聴いていきたいと思います。この詩編90編はイスラエルを導いてきた偉大な指導者モーセの祈りに思いを馳せつつ、詩編の中の一編として綴られたものです。
詩編はイスラエルの国が捕囚となり、そこから解放された後に編集されました。ですからこの90編も捕囚後のイスラエルの民が、自分たちを襲った苦難を重ね合わせながら、この詩編に綴ったのでしょう。

 主なる神はイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から導き出し、その指導者としてモーセを立てられました。モーセは神の御心に聴き従いつつ、民のリーダーとして40年の荒野を旅しました。しかしモーセはイスラエルの民が罪を犯したために、約束の地に入ることがゆるされず、荒野で死んだのです。
このモーセの生涯は神と民との狭間に立ち、苦労の多い歩みでありました。神の御声を聴き、それを民に伝える使命を負っていました。それは耳障りのよいものというよりは、むしろ神の厳しい裁きの言葉を民に告げなければならない時の方が多かったといえましょう。また時には、民の側に立って自分の存在をかけて神に憐れみとゆるしを執り成し、嘆願することもありました。それにも拘わらず、民の理解を得られずにいわれのない誹謗中傷を受けることもあったのです。まさにモーセの荒野での40年は苦難や苦悩の連続であったといえます。彼はカナンの地に一度も足を踏み入れることができずその生涯は幕を閉じたのです。

①「あなたは代々にわたしたちの宿るところ」
本日の15節に「あなたがわたしたちを苦しめた日々と苦難に遭わされた年月を思って、わたしたちに喜びを返してください」と、強く主に訴えている言葉があります。
「あなたがわたしを苦しめた、苦難に遭わせた」というのは、一見すると不満や怒りを顕わしているようにも思えます。また「喜びを返してください」というのも、その責任を問うような感じがします。
それはたとえば詩編22編にも「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という一節がございます。これは、私どもが救いの主とあがめるイエス・キリストが、十字架上において苦しみの極みに絶叫された言葉でもあります
しかしこれらの神に訴えかける叫びは、決して神に対する不信や恨みを示したものではありません。それは、如何に絶望的な極みにおかれようとも、すべてのことを御手のうちに治めておられる生ける主がおられる。そのギリギリのところにおいても、「主よ」と叫び、訴えることができる、ゆるされている。その主への信頼のもとに訴え得る魂の叫びを記述しているのです。
私どもも、時として「どうしてこんなに苦しまなければならないのか」「なぜこんなに苦難ばかり続くのか」と、思うことがあるのではないでしょうか。
そのような時、この詩編のように「主よ、いつまで捨ておかれるのですか」と、その苦悩や苦難を嘆き、訴える私どもです。しかしながら、そこで訴えることができるお方がいるかいないかでは大違いです。1節に「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」と謳われておりますが。それは主なる神が、私どもの人生のすべてを知り、その運命を司られ、その御手のうちに私どもは生かされている、ということであります。そして何よりも、イエス・キリストはこの世のすべての苦悩、不合理や理解し難い苦難と死を身に負って、罪の贖いを果たされた、と信じ、そこに望みをつなぐことがゆるされています。

②「絶望か救いか」
さて、この90編は私たち人間の存在について深い洞察を与えてくれます。
私どもはどんなに丈夫な人であっても、健康であったとしても、やがては老い、死にゆく有限的な者であります。6節に「朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れていきます」とあるように、人は草花のように人生において美しい花を咲かせても、移ろいゆく者であり、やがては枯れゆくに過ぎない存在だというのです。そのように読みますと、人間の存在や人生ってほんとうに空しく、はかないように思えます。
また10節には、「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません」とあります。まあ現代の世界の最たる長寿国である日本では人生の平均的年月はさらに10年以上伸びているようですが。
けれども3節では次のように謳われています。「あなたは人(正確には人間・エノシュ)を塵に返し、『人(アダム)の子よ、帰れ』と仰せになります。」実はこの3節の御言葉があるかないかで、この詩編90編は「絶望か救いか」が決まるのです。
なぜなら、ここで人間を塵に返すのは神さまであり、「人の子よ、帰れ」とおっしゃるのも神さまであられるのですね。言うならば、人の生も死も実に神さまが与えられたものであり、そして何よりも心に留めたいのは、人は造り主のみもとにやがて「帰る」存在だということであります。「人間が塵に返る」ことは、確かに肉体が朽ち果てる死を表すものですが、それはまた、朽ち果てる(砕かれる)ことを通して「人の子よ、帰れ」と言ってくださるお方のもとへ行くことができる、ということであります。 ここで大切なことは、人の生と死は神さまが与えられたものであるということです。そして、人の究極のゴールは死ではないということです。死がゴールだとしたらそれは絶望でしかありません。すべての人は神から造られ、又御もとに帰ってゆく存在なのです。

7節を見てみましょう。「あなたの怒りにわたしたちは絶え入り、あなたの憤りに恐れます。あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。」
すべての人の業を神はご存じであり、人はみなその人生の歩みを問われる日が必ずやってまいります。
12節には、「生涯の日を正しく数えるように教えてください」と謳われています。
これは先ほど言いましたように、私ども人間はもろく、弱い存在でありますが。それだからこそ、そこで何を基とし、何に聴いてゆくかということが本当に大事であります。
私どもが、すべての命の源であられる主なる神さまに日々立ち返って生きるところに、まさに永遠の神さまが私どもの住まいとなっていてくださるのであります。そのように神の御前で生きる者とされるために、私どもクリスチャンは罪のゆるしを得させるキリストの救いのバプテスマに与った者です。私ども一人ひとりが本当に、生涯の日を正しく数え、知恵ある心を得ることができますよう、祈り求めてまいりたいと願います。そのことがきっと、先に天に召された信仰の先達の遺志を受け継ぐことになると、そう信じております。

最後に16節、17節を読んで終わります。「あなたの僕らが御業を仰ぎ、子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。わたしたちの神、主の喜びが、あたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きを、わたしたちのために確かなものとし、わたしたちの手の働きを、どうか確かなものとしてください。」
私どもはもろく、弱い存在でありますが、しかしその土くれのような器が主イエスの救いの御業によって聖よめられて、真に価値ある器とされたのです。私どもはもはや虚しい生涯を送るのではなく、神の作品として生きる、変わりゆくことのない主とその栄光を指し示して生きるように新しく創られた人であるのです。そこに「主よ、あなたは永遠にわたしたちの住まいであられる」との希望があるのです。
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